【滋賀】栗東の霊仙寺・綣遺跡、土器に「廣津」 物部系氏族か?「物部氏の所領を経営するため、配下の渡来氏族が多く投入された」
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「廣津」と書かれた須恵器が出土した井戸跡=2020年12月19日午後2時21分、滋賀県栗東市北中小路
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主に縄文~室町期の集落跡とされる滋賀県栗東市北中小路(きたなかこうじ)の霊仙寺(りょうせんじ)・綣(へそ)遺跡で、「廣津(ひろきつ)」と書かれた奈良時代(8世紀)の土器が見つかった。市教育委員会が発表した。「廣津」は古代の有力豪族・物部(もののべ)氏ゆかりの渡来氏族で、栗太郡(くりたぐん、栗東市など)の一部を領地とした物部氏との関連が注目される。
宅地造成に伴い、6月から約7千平方メートルを発掘調査。奈良時代の掘っ立て柱建物跡2棟と井戸跡(直径2・6メートル、深さ1・6メートル)を1基確認し、井戸跡からは墨書きのある須恵器3点が出土した。
須恵器は直径13センチ、高さ4センチほどの杯(つき、茶わん)。このうち2点の底の裏側に「廣津」と書かれていた。
栗太郡の一部は飛鳥時代に物部氏が支配し、古代に「物部郷(もののべごう)」と呼ばれた。物部氏は、仏教の受け入れをめぐって蘇我氏と争い、敗れたことで知られる。
成安造形大の大橋信弥・非常勤講師(古代史)によると、平安初期の古代氏族の名鑑「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」などの史料から、廣津は物部氏と関係の深かった渡来人の名とみられるという。「物部氏の所領を経営するため、配下の渡来氏族が多く投入された。その後も廣津という氏族が居住していたのではないか」と推測する。
調査地からは、弥生時代後期(2世紀)の竪穴住居跡1棟▽平安時代(9~10世紀)の建物跡6棟▽平安末~鎌倉初期(12世紀後半~13世紀前半)の建物跡14棟なども確認した。
平安時代(11世紀以前)の水田跡(120平方メートル)も見つかり、足跡とみられるくぼみが約400カ所あった。水田の遺構は市内では初めての発見という。
遺跡はJR栗東駅の北西約1キロ。現地説明会は20日午前11時、午後1時、2時の計3回開かれる。問い合わせは市出土文化財センター。(筒井次郎)
朝日新聞デジタル 2020年12月20日 10時00分
https://www.asahi.com/articles/ASNDM76QSNDLPTJB01K.html
あと調査現場の人物も「命」のポーズが見事だ
日本最小の銅鐸が発見されたのも野洲市
これマメな
この黒曜石だって石器体験施設で客が作ったモノだし
https://youtu.be/wXBlGGccI-w
綣
浮気
膳所
晴嵐
苗鹿
馬上
岩熊
毛枚
嶬峨
柞原
賀
口分田町
間田
藺生
斧磨
雲洞谷
栃生
東沼波町
男鬼
大君ヶ畑
川相
仏ヶ後
鎌掛
安土城跡のある下豊浦のほうが難しい。隣の上豊浦はふつうに「かみとようら」だけど。
物部小学校ってのがあるよ
彦根駅も近江八幡駅も草津駅も実は元々微妙に外れたよその村にあった。
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1608545536/
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