【京都府】清水寺、足利尊氏や織田信長、豊臣秀吉らの書状の原本など194点の古文書を発見したと発表
清水寺に尊氏、信長らの書状原本
応仁の乱後の天皇綸旨も
清水寺(京都市東山区)は7日、境内にある成就院の書庫から足利尊氏や織田信長、豊臣秀吉らの書状の原本など194点の古文書を発見したと発表した。このうち53点は新発見。尊氏らの文書は写しがあり、内容は知られていたが、原本は所在が分かっていなかった。歴代天皇の書状も見つかり、清水寺と歴代権力者との関係をひもとく貴重な手掛かりになるという。
(リンク先に続きあり)
2021/7/7 20:52 (JST)
c一般社団法人共同通信社
有名な場所は調べ尽くしてると思ってたけど有るもんだねぇ
まだありそうやなw
調査させてくれるだけでもありがたいな
拝観料はこのためにある
清水寺から出たなら信憑性は高い
>>1
いままで誰が隠してたんだ?
そいつをまず晒せよ
403 名前:ニューノーマルの名無しさん [sage] :2021/07/08(木) 18:44:54.09 ID:eD14X9GA0
>>267
そいつが亡くなったから出てきたらしいね
独占欲は歴史をも隠蔽する
同じようなケースはまだまだあると思うよ
知られている文書か知られていない文書化は専門家じゃないとわからない。専門家以外にとってはただの古い文書でしかない。
だが京都には腐るほど古い文書が存在しているので有象無象の古い文書をいちいち専門家に見せて確認するだけの余裕はない。
お前には読めないだろ?
この手の史料はテキスト化されて公開されてる。
これもそうなる。
実際訓読みの寺は珍しい
これマメな
逆に音読みの神社も歴史の長い所だとほとんど無い
めっちゃ暇なのか細かいことですぐ注意に来るようになった
そういやこの前は、扁額の裏から何か出てきたって言ってたような気がするな
暇つぶしに天井裏やら床下やら探検してるのかもね
>>34
要人からの文書はそれだけで機密のようなものだから、代替わりした時に存在自体知る人がいなくなってしまったのだろう
写本が残ってるものもあるとはいえ、原本発見は大きい
専門家がきちんと時間かけて探せばまだまだ出てくるかも
京都は太平洋戦争中でも空襲なかったし
書状の発見なんて毎年ある
こういう大名、朝廷のよりむしろ紙背文書とか結願の胎内文書とかの方が歴史研究者は欲しがるだろ
なんちゃって
信長
いいね
僕は北条家の分家なので平家だけど、源氏の神社の清水寺に奉納するから
源氏名乗ってもいいよね。
延暦寺焼き討ちしたけど、味方してくれないと
次は清水寺を襲うからby 信長
みたいなことを信長の手紙に書いてたら怖いね
隠し部屋だった訳でもないんだろ
押し入れの奥に入れちゃうと、面倒くさくて見るのも嫌になるだろ。数年後に見つかる方が面白いじゃないか。
古文書や考古資料って弄くるだけ、どころか開くだけで劣化するから
環境整えて調査するまでは現状維持するのが吉
まあでも古い寺なんてそんなもんじゃんw だから毎年新発見がある
何かのきっかで開けたり、調査が入った時
我が家の近くにある世界遺産寺院なんか、俺が子どもの頃はお堂の床下に仏像がバラバラ状態で散乱してたんだぞ
お寺の金回りが良くなった今はそれらが綺麗に修復され、平安鎌倉時代の重要文化財として宝物館に恭しく展示されてる
手間暇金の条件が余程揃わない限り、文化財調査なんてできないんだよ
それ廃仏毀釈で隠してたんじゃね?
元々神仏習合のお寺じゃないし、隣接する神社も名前変えただけで現存しているから、それはないと思う
単にお金が無かっただけだろうw
京都の寺舐めすぎ。どんだけ膨大な量の書物あるか知らんだろ。
当時こんなもんいくらでもあるわでふすまの下張りにでもされちゃって
しばらく時代が下って修繕の時になんか見たことある名前だな
価値が有りそう とっとこう でも読んで整理までは面倒だな
いそがしいしで放置 山積みとか
屋根裏
こらwwwww
『境内にある成就院の書庫』って書いてるお
普通に寺領安堵の書状だろ
右筆が書いたただの公文書
やっぱり私人に宛てた直筆の書状が見つかってほしい
ねねにあてた信長の書状以上のはなかなか見つからんやろね
公式な文書は、大体、祐筆が書いてるもんな
あれは本物なんですか 最高ですよね
ねねに宛てた書状は本物なのかってのはありますよね
信長が自分のことを「のぶ」と言ったのは本当かとか、なんか分からないですよね
真贋で言ったら100%本物だよ
問題は信長の自筆かどうかだけど、例えばもう亡くなってるけど信長文書研究の第一人者・奥野高広氏は信長自筆かどうかは不明としてる
徳川美術館の見解だと信長自筆書状としてるね
この書状の最後に
藤きちらう
をんなとも のふ
(藤吉郎
女共 のぶ)
と書いてるから自らを「のふ」と言ってるのは本当だよ
ちなみに伊達政宗も娘の牟宇姫宛の自筆書状では「まさ」って書いてる
忌み名を自分で言うのはありなの?
自分で言うのは少ないかな
でも全く例が無いわけではない
例えば北条征伐直後の伊達政宗書状に自ら諱呼びしてるものがあるな
「関白当会津江御下向候而、奥州・出羽仕置之義、政宗ニ可有御意見之由、御内意候」
関白(秀吉)は会津へ御下りになられて、奥州・出羽の仕置きについて
政宗に意見があるとの御内意だそうだ
第三者からの書状で相手から諱呼びされるのはそれこそ数え切れないくらい例がある
特に政宗は相手から諱呼びされてる書状が多いな
史料や通史みてても清水寺の寺領や荘園てみないもんね
>>317
書状の署名が諱なのは珍しくない
相手との上下関係で名字・仮名・官職が右肩についたり、諱が書かれなかったり、花押だけだったりする
起請文だと本文に諱・法名が書かれてることもわりとある(ほかに拙者・当方・我等・余など)
戦国武将の一人称は仮名・官職じゃないようだ
というか信長は当時から信長と呼ばれていたからね。
秀吉の手紙にも信長の時の如くうんぬんと諱で書かれていたし
長秀などの手紙にも信長とそのまま書かれている。
信長と書いてたのは織田家中以外の他国の人に宛てて出す場合だな
家中内での書状のやり取りなら秀吉だろうと丹羽だろうと柴田だろうと全て上様呼び
秀吉が信長と呼び捨てにして話題になった書状は本能寺の変から3年後に脇坂安治に宛てて出されたもので、
時期的には秀吉の関白就任から1ヶ月後に書かれた文書だな
あと信長呼び捨ての秀吉書状はこの一通のみで以降はあまり書状で信長に関して触れることもなくなるけど、
北条征伐の前に氏政に宛てた宣戦布告文では「信長公」と呼んでる
上様呼びになったのは義昭を追放後じゃなかったか?
信長公記でもこの辺りで信長から上様にかわっていたはず
さっきレスでは殿様呼びについて触れるのを忘れてたわ
義昭追放が元亀4年(1573年)7月20日
天正改元が元亀4年(1573年)7月28日
秀吉発給文書に拠ると義昭追放後の天正2年(1574年)8月17日付や同年8月18日付の書状では「殿様」呼び
秀吉書状で「上様」呼びの初見文書は天正3年(1575年)8月12日付のもの
義昭追放後もしばらくは殿様呼びをしていて、家中内で上様と呼ばれるようになったのは義昭追放から2年後だな
義昭追放後に上様呼びになったのは間違いないが、追放後すぐに上様呼びに変わったわけではなく少し経ってからってことだね
秀吉の文書に関しては今回原本が再発見されたってことだな
文書の内容自体は写しが伝わってて前から知られてる
大政所殿立願之八木之事、重而被仰出渡被遣訖、早々相請取、造営急可相調之、
於由断者、追而渡被下間敷候也、
三月十日 (秀吉朱印)
清水寺
大意は
大政所が願掛けのため用意した米の件は、重ねて清水寺に渡すよう(秀吉が)命じられた。
早々に受け取り、急ぎ寺の造営に取りかかるように。
油断するようなことがあれば、米を与えることはない。
伊達政宗はそういうのが見つかってる
相手は男だけど
紙がボロボロだからそう簡単に出入りできないしペラペラ捲れないんだよな。
特殊なフィルムに加工したり前に古い書物を保存する技術をテレビでやってた。かなり気を使うし気が遠くなる地道な作業だった記憶
興福寺も燃えまくってんのになぜ史料焼けまくる
あったら国宝だ~
阿弖流為の読みは定まるのかなぁ
分からないままでもそれはそれで良いけれども
そのかわり右筆が山のような書状を出している
延暦寺高野山何かもかなり古くの物もあるだろうな
権力と近い
前者は焼かれて残ってないのでは
鳥獣戯画の幻の最終話が眠っているとの噂
断簡~コロッケ取って~
位財産土地武力権威まで持ってるので大名より羽振りが良かった時代もある
後は学問もかな
基本は手紙とかはどうでも良いことが書いてある。
日常の話とか、この前頼まれたことはなんとかしてやるとか、そんな話。
でもそこに書いてあるその人にとっては当たり前のことが、他の史料と突き合わせることで新しい発見になる。
へー
なんか壮大でいいね
うん。
歴史やってる人は本当にジグソーパズルみたいなことを粘り強く解いていく。
奈良平安のもっと古い時代だと紙が貴重なもんで
使いさしの紙を使ったとかそんなんで裏の内容の方が資料価値高いとかもあるそうな
花押は本人が書いたと思われるが。
京都や奈良の古社寺には調査すれば、貴重な古文書が
出て来るので、驚きはしない。
天皇の宸翰なら国宝級の物もあるだろう。
信玄が高坂さんに出した浮気の弁明みたいなのないんかな
そんなもんなら右筆通さないかも
それこそスマホアプリAIの出番だと思うわ
愚痴っぽくて面白いんだよな。
大津長浜で見た浅井長政、秀吉の書状は分からん
長政が信長との戦いに勝てば褒賞を与えますと言う書状は物悲しい
http://www.samac.jp/search/source/img/about/fuda/100.jpg
まだ一般化されてないけど
一発で今の活字に変換してしまうアプリが開発されているから
5年後くらいには誰もがスマホでくずし文字を読める時代がくるで
ただそこからの読解は古文の素養が必要だが
社寺へ奉納された無名氏の起請文なんて
字に気迫が乗り移ってたりする
そうなったら未解読の史料をどんどんネットに挙げてくれたら、みんなで解けるな
研究が凄い進むよ。学者の手柄争いがあるからそんなの無理なんかなw
変体仮名使ってるしね
これは順徳院で上の句だけだから百人一首の歌だなとわかるけど
そういうとっかかりないとまずよう読まんわ…
一目で読める
「ももしきや ふるきのきばの しのぶにも」
読人は順徳院
この歌には続きがある
そりゃ千年以上の歴史があるからなあ。
探せばまだまだ国宝級のお宝が出てくるだろうな。
あの鳥獣戯画でさえ京都のあまり大きくない寺の倉庫で
長い年月をひっそりと眠ってたんだし。
まだまだ腐るほど残っている状態
漢民族も文章で歴史を残す民族だけど、たまに燃やすからなぁw
中国人はカタログマニアだから書名の一覧表みたいなのに名前だけ残って
本そのものは失われてるのが結構あるしね。
道長の日記とか、その他山のような藤原家に伝わる文書っって
全部読んだのかしら
清水寺がわざわざ市井の学者に由緒書捏造を依頼する理由が無いから、その点は大丈夫だろう
どういう管理してるんだよ
花押や朱印、筆跡で判断する
信成はこの前テレビで見た
磯田は腰の低い感じで今やってるけど、古文書新選組を結成し寺社に打ち入って文章解読した方が早いな
平安遷都前からあった
元は法相宗の寺だから古い
京都の禅寺とは違う
(´・ω・`)
東福寺とか南禅寺にもいっぱい出てきそう
掘ったら絶対貴重な発見があるけど今まで発見したヤツの分析が進まないうちに
むやみやたらと発掘しても劣化(酸化?)するだけだから埋めたままにしてあるそうだ。
平城京1300年イベントで文化財担当の方におなじようなお話聞いたな
まだ整理出来てないのにちょっとこんもりしたところ掘れば出ちゃうから迂闊に掘れないと
知りたいわ
https://blog-imgs-122-origin.fc2.com/n/a/n/nanbokuchounikki/201809171446331cd.jpg
近世近代の古文書は膨大な量があるけど
まとめて段ボールに入って倉庫に眠ってるみたいな状態がほとんど
それを分類整理して保存する為の人、金、時間がまったく足りない
さらに地方の図書館とか博物館なんて縮小していくだろうし
政府の方針も学術はイラネってなってるからまあ絶望ですな
保管マニアなくせに目録作らないこと多いよね。
日本人は今も昔も筆まめで収集癖だなw
昔の人は筆まめみたいだな
戦国時代まで武士で江戸時代に帰農して大庄屋をやってた家があるんだけど、細かい事まで記録してたみたい
だからか、今の当主もすぐ写真撮ったりマメ
この家は重文指定されているので、教育委員会や文化財指定された当時に旧文部省が調査してるから記録が明らかになってる
古い文書は専門家じゃないと読めないから、一般の家で埋もれてる文書は多いと思う
商家だった家は特に多いね
主に商売の記録だろうけど、中には珍しい記録が混じってる事もあるんじゃないかな
代理人が書いてるんじゃね?信長本人は描かないだろ。
大名クラスになると公式の書状や命令、所領安堵のような書類は祐筆という書記役の人が書札礼という書式のルールに基づいて文を作成清書し、偉い人はそれに花押(サイン代わりの書き判)を書くだけなのが普通
花押も公式の文書に書くけど、出す相手によっては判子で朱印、黒印とランクが違ってくる
大名が自筆で手紙を書くのは奥さんとか家族とかよほど親しい家臣ぐらい
京都の先の大戦は応仁の乱だから、600年分の古文書が燃えずに残ってそう
どんどん焼けとかどんぐり焼けとか
京都って結構大火で焼けてるよ
書いたほうもわかってんなかよと
古文書文字の辞書があるから
OCR使えばポップ書体にでも変換できるんじゃないか
地域おこしというスポンサーが貧乏学者に予算つけてくれるから
本物なんだろうか?
寺の坊さんなんて日本史の学者じゃないし、古文書は読み方知らないと何が書いてあるかもわからない
数百年分あるから量が膨大で時間かけて調べないとどれだけ重要な文書があるかもわからない
研究者がお願いして所有者や寺社がOK出さないとそもそも調べようがない
坊主の資格と文学史学の研究員としての資格を同時に取得できる大学作れば研究進みそうだと思ったけど
若手に業績集中させるような枠組みを研究者自身が許さないだろうから結局無理そう
古い土地や寺社ならあり得る
俺の住んでる町で町史作ろうと古文書募ったら、戦国期の所領安堵状から太閤検地に関する文書までが大量に持ち込まれて保管場所確保に大わらわ、しばらくは町史編纂どころじゃなかったw
少なくとも中世後期以降の古文書は、我々が想像するより遥かに多く眠っている可能性がある
他の地方じゃないだろ。
カーチスルメイにことごとく焼かれましたからね
んなわけねーだろ
空襲なんて受けたのはごく一部でしかない。日本の大半は空襲されてないし、東京大空襲ですら東京の大半は無事だった
そもそも江戸時代より前の資料なんてほとんどないだろ。
大化の改新の時に日本史上最大の焚書があったのが痛いよな
古代の本当の歴史は葬られた
住んでる人の先祖が残したもの
歴史は現実離れした世界で個人的には歴史に興味無いが、そういう家に行くと現実の世界という感じはする
そうそう。素封家って言われる家で文化財指定されてる家とか。
テーマAで有名と思ったら、テーマBの有名人もいたとか聞かせてくれる
維持しながら住んでる人は大変だから
行政で助けてあげてほしいw
文化財指定されてたら修繕費の補助は出るのでマシだけど、人知れず続いてる家は大変そうだね
将来的には、調査もされずに処分される運命だと思う
お墓も調べると新たな事がわかる事があるらしい
でもお墓は江戸時代中期以前だと風化して読めないけど
古くからある有力者の家には現存していそうだよね
郷土史は地元の名主や庄屋の蔵にある帳簿や文書類が研究や編纂の上で重要な史料になってる
地元の郷土史読んでたら江戸時代の記述で「祭りの晩に酔っ払った村の若衆が隣村の若者に喧嘩売ってボコボコにしたので隣村に詫び入れて賠償金支払いました」なんて書類が残っていて、昔からイキってやんちゃやってたバ○がいたんだなってクスッとなった
ただこうした地道な郷土史の研究は地元の中学や高校の歴史教師が担っているけど、教師の業務がどんどん過重になってそうした研究をやる時間もなくなってるなんて話もある
本気で残したいならデータを16進数におこして紙に数列として印刷したほうがいい
デジタルじゃあかんのですよ
裏に貼ってあったり手間かかるから
それに見合う人員とお金が無限にあれば可能だけど
奥底で眠ってるんだろうけどいつか発見されないかな
薬師寺って天皇が建てた寺だから
全国に二つしかないんじゃないの?
この前訪ねてきてくれて嬉しかったよ
お土産もありがとう。素晴らしすぎてお返し思いつかないから
今度またきてくれた時に返すね。
この前会った時、さらに美人になっていたね。驚いたよ。
あのハゲ秀吉が浮気してるだって?言語道断なんだね。
でも、あなたほどの素晴らしい女性、あいつにはもうもらえないだろうから
あなたは自信持って正室として、嫉妬せず堂々としてるんだよ。
何か思うところあっても、全部言わずに、半分くらいいうのが喧嘩のコツだよ
後この手紙は、あのハゲ秀吉にも見せてやってね。
天下布武( 公文書 )
信長
これが史実という
信長の字は癖の強い字で好きだな
あと謎とされる濃姫に関する新事実があったら大発見だ
こういう文書から女性たちの本名がわかったりするからそれも楽しみ
当時の女性は○○(実家の姓や住んでる城)殿とか北の方とか言われていたので有名人なのに本名がわからない女性が多い
茶々は秀吉の文書に何度も登場してるけど実はねねは「ねね」「ねい」「おね」と諸説あっていまだに不明
人気ある戦国時代でこれだものw
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1625658963/
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