そうだね、この二人にそんな力や信用はないよ。
いきなり終わっとる
いや、鎌倉倒した時の武士連中を冷遇してたっていう話だから、遅かれ早かれ武士階級が何らかの行動起こして、どっちにしても親政が長続きしたとは思えんけど。
御意!
尊氏が反旗翻したのと同じ理由で武家が立ち上がる
但し家柄の点で北条や新田はクソ、源氏名門じゃないと旗印にならないから、足利傍流や甲斐源氏、さもなきゃ武闘派公家出身の畠山辺りが「担がれる」、但しあくまで旗印代わりで実権なく、足利幕府より早く戦乱に
新田義貞は足利家と並ぶ源氏の名門やから、
どこの馬の骨かも分からん、
南河内の土豪上がりの楠木正成を下に見てたらしい。
楠木正成は新田義貞を切って足利尊氏と和睦するように後醍醐天皇に上奏したけど却下されたんだよ
源氏だから
執権北条氏だって平氏だろうが
だから将軍にはなれないんだよ
そもそも執権で形の上ではトップではないからな
ちょっとは勉強しろよ
北条氏は平家
確かに公家もなってるんだけど、なんか、源平交代思想が生まれたとか言われてる。
多分、北条があえて将軍職につかなかったからではなかろか?
源氏でないと幕府開けないっていう括り(実際はそれまでそうだったから前例に従って)というものがあったからね。
だから家康はまず源氏長者という名を手に入れて、それから朝廷の要請に従う体で征夷大将軍になった。
ワイが歴史に疎い人用にAKBに例えよう
後醍醐天皇 渡辺麻友
足利尊氏 指原
新田義貞 横山
楠木正成 小林マリナ
佐々木道誉 柏木
一旦足利を九州に追い払うも勢力を盛り返した足利が20万の大軍で湊川
に上陸し楠木は全滅 京を奪われ吉野に逃げ込む京の都は足利のもの
勝つ方に味方の日和見の佐々木氏
数年前のAKBに似てるやろ
指原は足利尊氏みたいに逆転してみせたってとこは共通してる。
楠木は島崎
北畠顕家は川栄で
戦前の皇国史観では、足利尊氏は天皇に弓を引いた逆賊・悪人ってことで、
当時の教科書でもメディアでも否定的に扱われてきたんやね。
ある大臣が”尊氏はそんな悪人じゃなかった”って発言して世間で大炎上、
辞任した事件があったらしい。
大河ドラマで「太平記」って決まった時は、これ右の人達から文句出ない?とか言われてたな。
源氏(足利)の次は平氏でしょ?ってことで。
だから秀吉は最初源氏長者になりたかったけど工作に失敗して、じゃあ公家の頂点なら文句あるまいってんで関白になったとか。
少なくとも鎌倉初期に源平交代思想があったって資料はないでしょ
無いよ。
たまたま平氏→源氏→北条(平氏。実権的に頂点)だから次は源氏って雰囲気だっただけだと思うよ。
そのときに負けてたら新田が武家のトップになってたやろ。
ただし後醍醐天皇は新田に征夷大将軍はやらせないだろう。
教科書的には後醍醐天皇が公家びいきするから武家の不満が溜まって
親政は長続きしないみたいな解釈が一般なので、最終的には新田対北畠の
争いになってたやろな。
(´・ω・`)
歴史にたられば言ってもしゃーないけど足利尊氏が敗れたら一時的には南朝の政権が復活したんだろうな。でもすぐに政権内部で抗争が勃発して短期間で瓦解しただろうことは火を見るよりも明らか。
万一足利家が勢力落としたら関東九州北部丸々新田が切り取れのでは?
本来、様々な種類がある将軍のひとつが「征夷大将軍」で
幕府を開くことは他の将軍にも可能だった。
奥州藤原氏や木曽義仲も大将軍に任じられているから
これを回顧的に「幕府を開いた」と表現することも可能だと思う
ただ誰もそう呼ばないのは、東国に基盤を置く「鎌倉殿」(いま言われるところの鎌倉幕府、初期室町幕府)のような
半独立的な政権の実質を備えていないから。
新田や楠が鎌倉殿になれた可能性は
家格的にも実力的にもかなり低いのでは
(職は特定の家柄に限られるのが当然だから)
楠がいずれかの将軍に任じられて「河内殿」として西国政権を立てる可能性は平氏政権、後の三好政権を見るとあり得たかも
そもそも征夷大将軍みたいなポジションの優位性に気づいていた可能性がな
絵を描いたのは大江広元じゃねえのかな
どんなに切羽詰まってもブレずに節を曲げずに、頑固一徹を地で行く生き方はカッコ良い
源家の棟梁、鎌倉御家人の安堵者鎌倉殿、全国総地頭、全国総追捕使を兼ねれるのは
新田だったろうが、それを全て兼ね備えるものが日本国王であると見抜いていたのは
尊氏だけだったろう。
足利尊氏は源氏の名門で官位が高いから、武士らが従ったが、新田義貞は無位無官。
尊氏が会社の重役なら、義貞は一般職みたいな差があった。
義貞が鎌倉幕府に攻め込めたのは、尊氏の幼い子供=後の義詮が軍に合流してから。
義貞では武士は集まらなかった。
重役尊氏のご子息がいるから集まった。
後醍醐がバックで官位を高めてやらないと、義貞や正成には全国の武士は従わない。
だから、尊氏がいなくても、後醍醐の下で働くしかなかった。
そもそも幕府を開くって概念自体が江戸時代後期にできたものだからな
幕府なんて当時は呼んでなかったし
結局有力武士が天皇なのか家柄いい武士なのかわからんが誰かをかついで実質的な支配者になるだけ
その政権が長く続けば江戸時代後期に○○幕府と呼ばれるw
後醍醐生きてるうちは後醍醐親政なんだろうね
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