茨城県大洗町磯浜町の宮田遺跡で、弥生から平安までの各時代の竪穴建物跡が見つかった。
千年近くにわたり、同じ場所で建て替えを繰り返しながら集落が存続していたことがうかがえ、いにしえの「優良住宅地」だったようだ。18日に現地説明会がある。
道路整備工事に伴い、町教育委員会が2022年8月から今年3月まで、約6千平方メートルの範囲で発掘調査を進めている。
確認された竪穴建物跡は約80基。最終的に100基に達する見込みだ。
小高い丘の上に、異なる時代の遺構が密集して見つかった。
このうち出土品をもとに時代が判明したものは、弥生時代後期が4基、古墳時代の前期3基、中期4基、後期10基、奈良・平安時代が14基で、
1世紀半ばから10世紀ごろに及んでいる。
また、古墳時代前期の方形周溝墓の一部が確認された。
同中期の建物跡から出土した滑石製品は剣や鏡をかたどってあり、祭祀(さいし)に用いたとみられる。
漁で使った土錘(どすい)や浮子(うき)とみられる同後期の出土品もある。
町教委の蓼沼香未由さんは
「日当たり良好で水辺も近い『山の手の優良住宅地』が時代を超えて連綿と続いたようです。漁をなりわいとし、祭祀もしていた。
いにしえの暮らしと精神世界の一端がうかがえる」と言う。
現地説明会は18日午後2時から。無料。事前申し込み不要。汚れてもよい靴や服装で。車で来る人は町防災ふれあい公園南駐車場を使う。
>町教委の蓼沼香未由さんは
たでぬま?カミュ?
香未由が男の名前で何で悪いんだ!
縄文土器や貝塚がある辺りの高台は優良住宅地
海の真ん前だからたまたま来なかったのと
来たから廃れたんやろ
平安までしか建物跡が残ってないとの記事
ちょうど平安時代の貞観地震で壊滅して
その上に津波の堆積物がのったから
遺跡になったんだろうね
ポメラニアンですかね?
かわいいつす
犬とおじいちゃんが入れ替わるのですね分かります
良い写真だね
ワンコがみごとなくらいカメラ目線
ワロタw
大洗磯前神社だね。
ちなみに平安時代の本来の正式名称は「大洗薬師菩薩明神社」
国史に載ってる名前でこんなのはかなり珍しい
なるほど勉強になった。
魚食いたくなってきた
平安大海進のセイかも
いい場所なのに廃れた原因があるんだろ
源平合戦の余波とか
権力に見つからずに暮らしてたとか
そうなの?
昔から筑波山が修験道の聖地ってのと関係あるのかな
たぶん津波で壊滅したな
放棄した理由があるはず
また観光資源増えたのか
富山はこういうとこ見習うべきだと思うわ
じゃない?その南の鹿島神宮の神様は大地震を起こすナマズの頭を踏みつけてるんだし
津波に大きく洗われて消滅して歴史の闇に消えた幻の「優良住宅地」なのだろう
常陸国はとても豊かな土地でね
朝廷に侵略されたんだ
そして徹底的に収奪された
それを先導してたのが鹿島(香島)神宮、香取神宮、息栖神社に祀られている武甕槌命、経津主命、猿田彦
そしてそれにあらがっていた地元の豪族が天香香背男
天アマノ=海の、ワダツミの、香島と香取に背く男
彼は○されて甕棺墓で葬られた、だから天津甕星とも呼ばれるようになった
そして征服を果たした武甕槌命、経津主命、猿田彦も用が済んだので常陸で○された
そして神社で祀られた
大洗磯前神社は鬼洗明神と呼ばれた
常陸の鬼達を○して洗ったのか、武甕槌命=安曇磯良を○して洗ったのか
カガセオの仲間の時代じゃないか?
平安時代からは
風土記の先の歴史もあると思うよ
おそらく津波被害受けたはずだけど、10世紀の住居跡が残ってるということは、
地震の後数十年くらいは集落が存続出来ていたということか。
10世紀に入ると、十和田湖の噴火の影響による不作だとか、
平将門の乱なんかも関わってくるか?
受けていたら痕跡の発表もありそうだけどな
かなり有力な集落だったら史書やそれ含む神社で痕跡探せそうだが
平将門が乱を起こしていた頃って、とんでもなく災害頻発期だよな。
全然平安じゃないぞ。
そして、十和田湖の破局噴火に続き、将門がタヒんだ頃に、朝鮮半島の白頭山も破局的噴火を起こす。
850年11月23日(11月27日)(嘉祥3年10月16日) -出羽地震、M7
863年7月6日(貞観5年6月17日) – 越中越後地震
864年7月 – 富士山の貞観大噴火(2年間)
864年11月 – 阿蘇山噴火
867年3月(貞観9年1月) – 鶴見岳(大分県)噴火
867年6月 – 阿蘇山噴火
868年7月30日(8月3日)(貞観10年7月8日) – 播磨・山城地震、M7、山崎断層か。
869年1月(貞観10年閏12月) – 摂津地震(7月30日の余震が続いていた)
869年7月13日(貞観11年5月26日) – 貞観地震
869年8月29日(貞観11年7月14日) – 肥後台風高潮被害(潮水漲溢、漂没六郡、…其間田園数百里、陥而為海)。12月14日の伊勢神宮への奉幣告文中に「肥後国に地震風水の災」とあり、津波が襲った可能性もあり。
871年5月(貞観13年4月) – 鳥海山(山形県・秋田県)噴火
874年3月25日(貞観16年3月4日)、仁和元年(885年)7月、同8月 – 開聞岳(鹿児島県)が大噴火。
878年10月28日(11月1日)(元慶2年9月29日) – 相模・武蔵地震、M7.4
880年11月19日(11月23日)(元慶4年10月14日) – 出雲で地震、M7
887年8月26日(仁和3年7月30日)- 仁和地震(南海トラフ巨大地震?)、M8.0 – 8.5
915年 十和田火山噴火。火山灰(To-a)が東北地方全域に及ぶ。(『扶桑略記』裏書による)。
940年ころ – 朝鮮半島の白頭山噴火。
自然災害か、武士の台頭で治安が悪化したのか、はたまた何だろう。
東日本は平和で安定してて1か所に長く村が発展したが
西日本は戦いが多く不安定な地域だったのがわかる
場所によるんじゃないか
旧石器時代以降ずっと人々が暮らしていた跡が見られる地域も結構あるけど
普通に考えたら台風だろ
生存のために放棄するしかなかったんだ
を繰り返してる
今でも路線価が高いハズなんだよなぁ
なら地形が変わって価値が下がったか
権力側が土地を奪って皆○しにして封鎖したか
平安末期まで集落があったんなら要するに茨城は常盤国で平家側の源氏の佐竹氏、頼朝の敵だ
皆○しの一つや二つはあってもおかしくない
好立地を封鎖してそのままにするわけないだろ
平安ころからそのまんまに放置か何かされたんだから、出てくる遺跡が平安どまりなんでしょ
だから放棄された理由も重要なワケだ
好立地なら今も人が住んでるんで、ほじくり返すことができない、だから遺跡は出ない
遺跡がワンサカ掘れるところは、だーーーれも住んでないところに限るからね
要するに、平安どまりの理由は何だ、ってことになる
海が遠くなったのさ
「何にとって好立地か」なんて時代によって変わるだろ
昔は近くで漁ができるところが好立地だったわけだ
それこそ昭和初期までそうだったんだから
高度成長期の後にそういうところは衰退していった
まあイバラキならあり得るかw
まあ、1000年前だと、強いて言えば霞ヶ浦(裏の海)は今よりも、少し大きかったかもな。
6000年前の縄文海進時は、周辺の湿地帯も含めて海になっていたから。
まあ、今ですら霞ヶ浦の周辺って、沼と湿地帯、蓮根畑の境界はかなり曖昧なとこあるからなあ。
霞ヶ浦から続く、霞ヶ浦と一続きの広大な沼地に蓮根を植えて、蓮根畑にしているからね。霞ヶ浦の周りは。
蓮根畑のとこも、湖(海)と定義して良ければ、霞ヶ浦の面積は今でももっと広くなるね。
継続して利用されていたのなら、よほど特殊な立地の大規模居住地(窪地を埋め立てながら発展したローマ市街のような)でもない限り、古い痕跡は開発で破壊消滅する
何を根拠に継続利用されてきたと断定したのだろう?
https://www.youtube.com/watch?v=KaCrwj8iJEA
蓼沼香未由 Kamiyu Tatenuma(@ibakoukoya)さん / Twitter
https://twitter.com/ibakoukoya
何らかのtwitter用ペンネームかと思ったら実在するらしいな
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
縄文時代から墓地だったそうな。
いまでも一部の墓は現役
すげえ、年代ごとにDNA抽出して変遷を解析したら面白そうやなあ
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1676821032/
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