仁徳天皇の墓とされる大山古墳、しかし出土品や没年などから仁徳天皇の墓ではないと論争・・・いったい誰の墓なのか???
https://www.mbs.jp/4chantv/news/kodawari/article/2022/02/087794.shtml
世界遺産にも登録された大阪府堺市にある「大山古墳」は、「仁徳天皇陵」として仁徳天皇の墓だと学校でも教えられています。しかし、専門家の間では「仁徳天皇の墓ではないのではないか」と論争が起きています。では、一体誰があの巨大な前方後円墳に眠っているのでしょうか。
■“仁徳天皇の墓”とされる日本最大の前方後円墳『大山古墳』
去年11月、普段は立ち入り禁止の場所にカメラが入りました。日本最大の前方後円墳である大阪府堺市の「大山古墳(仁徳天皇陵)」です。
天皇の墓として管理する宮内庁が「古墳の保全工事に向けて堤の遺物を調べるため」として堺市と発掘調査を行ったのです。
その結果、前方後円墳を囲む堤の内側から今回、初めて「円筒埴輪列」が見つかりました。築造時は堤の両側に埴輪列が並ぶ壮大な姿であった可能性があり、埋葬されている人物の権力の大きさがうかがえます。
(宮内庁書陵部 徳田誠志陵墓調査官)
「今回は第1堤の一番幅の広い所にトレンチを設定して、内側の埴輪列があることを確認いたしました。荘厳化だとか、より装飾をするということは考えられます」
宮内庁によりますと、仁徳天皇が埋葬されたのは4世紀末ごろ。今から300年ほど前には仁徳天皇の墓とされ、今は宮内庁が『仁徳天皇陵』として管理しています。
仁徳天皇とは、今から1600年ほど前に実在したとされ、民家から炊飯の煙が立ち昇らないのを見て生活の厳しさに気づき、3年間税を免除したという伝説の天皇です。
■『大山古墳』が仁徳天皇の墓ではない?研究者の間で論争
静かに眠る仁徳天皇の巨大な墓。しかし『仁徳天皇陵』が仁徳天皇の墓ではないのではないかという、思わぬ論争が巻き起こっています。
大山古墳の復元模型を展示する大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、古い文献の記述などから「大山古墳は仁徳天皇の墓」だと主張する1人です。
(大阪府立近つ飛鳥博物館 白石太一郎名誉館長)
「宮内庁が仁徳天皇陵として祭祀を行い、管理を行っておられますが、おそらくそれは正しいのではないかと。古事記や日本書紀にも、仁徳天皇陵は和泉の国の百舌鳥にあって、『百舌鳥耳原中陵』と。百舌鳥古墳群には中陵・南陵・北陵などがあるのですけれども、その相対的な位置が大体分かるわけで。そういうものから考証して、これは仁徳天皇陵に間違いないだろうと」
8世紀に編纂された日本書紀などに「大山古墳が仁徳天皇の墓」と書かれているというのです。
一方でこれに異を唱える研究者がいます。大阪市立大学の岸本直文教授は「大山古墳は別の天皇の墓」だと主張します。
(大阪市立大学文学研究科 岸本直文教授)
「大山古墳は5世紀中ごろ(の完成)だろうと。年代的に見合うのは允恭天皇と考えていいだろうというのが私の考えです」
允恭天皇は、仁徳天皇の子で、5世紀中ごろに亡くなったとされています。岸本教授によりますと、古墳から出土する土器や馬具の研究から、大山古墳が完成したのは5世紀中ごろであり、没年が一致するのは仁徳天皇ではなく允恭天皇だというのです。
(大阪市立大学文学研究科 岸本直文教授)
「仁徳天皇というのは、民が苦しんでいるから3年間税金を免除したという、徳のある王として描かれているんですね。そういう人物を一番大きい古墳に当てるとか、特別なものについては伝えられたものとは別に少し操作をしているということはあるのではないかと。(Q素晴らしい天皇だから一番大きい古墳に眠っているというストーリーのもと、当時日本書紀などで決められた可能性がある?)はい、その可能性はあると思っています」
大山古墳は誰の墓なのか。研究者によって見解が分かれる中、宮内庁は『仁徳天皇の墓』という考えを変えるつもりはありません。
(宮内庁書陵部 徳田誠志陵墓調査官)
「被葬者についていろんな学術的な見解・学説があるのは承知しております。それはそれぞれの学者の先生方のご見解ですので、学説は承知しておりますが、それで今すぐ宮内庁が治定をどうするという問題ではないと思っております」
■過去には「継体天皇の墓」として管理していた古墳が“違う天皇の墓”だったケースも
しかし実際に“天皇の墓が違った”とされるケースもあります。6世紀前半に実在した「継体天皇の墓」として宮内庁が管理する古墳です。しかし1.5km東にある「今城塚古墳」では…。
(以下略。リンク先に動画あり。)
>(大阪市立大学文学研究科 岸本直文教授)
>「大山古墳は5世紀中ごろ(の完成)だろうと。年代的に見合うのは允恭天皇と考えていいだろうというのが私の考えです」
日本書紀はもってるんだよ。古くから天皇がいたようにもってる。
考古学者ってそれなんだよな
年代とか推定するとそれに合わせて割と無批判に記紀引っ張ってくる
初期前方後円墳の年代推定でも記紀の天皇系譜と並べて
だいたいあってるとか普通に書くからな
多岐にわたる資料を探し、科学的史料とも当てはめていくから、あくまで説なんだよ
蓋然性を高める仕事、警察のように証拠集めするから
古代文書としてはむしろ正確な方だよ
AD1000年以前で間違いや嘘のない100%正確な文書があるなら教えてくれよ
メディーナ労働者の二日酔いサボり自供文書
うーん、急に「そういや文章の形で歴史記録してないわー!」ってある時代に色んな伝承かき集めて編集しただけだからな
なんか話の内容微妙に違う伝承がものすごい数あって大変だったようだ
ユダヤ人のバイブルもあるときにそういや口伝だけで文章の形にしてねえなって思ったときには元々の原初の内容が分からないし複数バリエーションの口伝があるのを整合性つけるのに苦労した上で整合性取れてない
大仙でも大山でもどっちの表記でもいいことになっている
全部が天皇の墓というのもおかしくない?
本当に天皇の墓なのが判明してから宮内庁の管轄にするべきじゃないの?
藤原氏とか安倍聖帝とかみたいに
そしたらそのような人の墓が大きいとか無いのか?
バ○みたいにでかい墓を2つ連続で作ったから、国が疲弊して、そこを継体天皇率いる近江・北陸連合に攻め滅ぼされたんだよ。
古墳から出土する土器や馬具でピンポイントに5世紀中ごろとかわかるんかいなw
しかも、允恭天皇は徳天皇の子なんだから、タヒ亡時期はせいぜい、数十年の幅だろ
やはり食い扶持をもたらした米作集団に対する感謝の労働と理解するのが妥当と吾思ふ
違うよ、応仁、仁徳とでかい墓を2つも作ったから国が疲弊して、継体天皇に攻め滅ぼされたんだよ。
なら天皇の系譜はそういうことなのか
そ そんなバ○な!
そんなバ○なじゃないよ。
継体天皇の即位は、今で言ってみれば、孝明天皇の五代孫を名乗る人物が、秋篠宮ではダメだと皇位についた感じ
そんなトンデモはあるわけなく、単純に王朝交代しただけ。
孝明帝の五代孫ってちょうど上皇がそうだからそんな離れてなくね?
五代孫は今の天皇な、だから、五代孫を自称する50過ぎの人物が、秋篠宮から皇位を奪った。それが歴史における継体天皇の即位。
世襲親王家とかいう5代どころの話じゃない皇位継承予備
記紀の書き方からすると大王側近が無理くり引っ張り出して
大王女系の子供ができたら用済みとばかりに処理された感が
どうせなら、仁徳の次代で、第3位の大規模古墳の主とされる履中天皇も挙げておこう。
カマドから立ち上る煙の少なさから民の困窮を察して数年間徴税を見合わせる慈悲深い君主が、自分の冥福のためにあんなデカい墓つくるのはおかしいよな
冥福は仏教概念
仁徳天皇の時代にはない
陵墓は魂の住居
これガチな
仁徳天皇かが微妙になってきたからね(笑)
なんにせよ世界最大のお墓にはかわりはない。
誰かも分からん墓がバ○デカいって
なんとも言えんな
そこがミステリーなんだよ。
あと中身も不可解。
まじでなんなんだろうね。
履中天皇反正天皇允恭天皇
のうちの誰かの陵だと思うが
延喜式にはすでに一番デカいのは仁徳陵とされてたらしい
有難がるのは皆の望みなんかなぁ
なら日本らしいと言うのはこういう事なんかな
実在していないことは明らかなんだよな。
倭の5王との対比も、無理やり当てはまている感じだし
当時は半年で1年だった説があって
55歳ならギリいるかもしれない
これが神功皇后(仁徳天皇の祖母)の三韓征伐の話だとしたら
時期的に仁徳天皇の墓が5世紀半ばというのはそうおかしな話でもない
そもそもそうやって記紀の人物や出来事をあれこれ当てはめて考えるのがナンセンスなんだよ
神功皇后の孫が仁徳天皇という系譜も三韓征伐も
そもそもこの二人の実在性すらもあやふやなんだから
雄略が471年だから400年の頃に仁徳がいたとすると
反正、履中、允恭、安康の4人の誰かしら歴史の中に埋まらなくなるわな
下手したら3人ぐらい消える
明かさずになくなったなぁ
豪族の墓である
が本当なら、色々と掘り下げる話が出てくるので
にんとくさんはあっちって
別の古墳指さすんだろ
河内で聞いた話だけど
大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市の辺りは
仲哀、応神、仁徳、履中、反正、允恭、雄略、淸寧、履中
とか天皇陵とされてるところが多いな。
大阪府南河内郡太子町の方は敏達、用明、推古、孝徳の陵と聖徳太子の墓があるな。
越から畿内に来て樟葉宮で即位した継体の陵は大阪府の北部にあるが
後から造営した可能性もあるからね
でもだいたい西暦400年あたりだよね
解説超人・テリーマンが、そう言ってた。
天皇 「ようし、パパ、古墳作っちゃうぞ」
昔の人はなんではっきり分かるように記録残さなかったんだよ
これはむしろはっきりしてるほうで、古事記に百舌鳥野陵に仁徳天皇とその息子の天皇2人を葬ったって書かれてあるんで
古事記が間違ってるというのならしょうがないけど
始皇陵の地下が実はスゴいと書かれているらしいな
ぜひ発掘してもらいたいもんだが
曹操の墓発掘してなかったけ?
およそ真実とは誰も思ってないよなあ
その体制にとって都合の良いように編纂してあるだろうし
案外、大王家とは別の豪族
あるいは天皇以前の日本の支配者のものだったりして
とはいえ中国みたいに易姓革命的な主張がされないのは
自分達も取って代わられる事を恐れたとかだろうか
記紀読むとそんなに都合よくないぞ
反乱だの内通だの不祥事も実に書いてあるし
仁徳の父ちゃんからの別系統
ということになってるからね。
纏向周辺→佐紀地域→河内と移ってまた奈良に戻る。
有力豪族間で王権が移ってた時代かな。
初期大和王権を軍事的に全国規模にした軍事カリスマ雄略
天皇と国家神道を創造した天武
そして明治天皇あたりかな。
桓武天皇じゃね
約1億人の人口に世界で1,2を争うくらいの豊かさを実現した昭和天皇は入れんのかね?
比較的恵まれた生活を送って来た民族だとは思うけど
世界比でここまで繁栄した時期は過去にはなかったんじゃないかな思うかな。
後醍醐は
完成と同時に入るわけじゃないだろ
普通タヒんだ後に建造を始める
これくらい大きな古墳だと埋葬はすぐにしなくても造営は存命中に開始するのかと思ってた
それかなり失礼じゃない?
いや昔の常識とかはわからないけど
現代の価値観だと天皇が生きてるうちから墓を掘るとかないし
大規模古墳は権力の象徴(誇示)
または、京城や新田造成の残土の再利用って俺は思ってる
とてつもない権力者の墓であるのは間違いないわな。
その正体が誰であれものすごくロマンがある。
そして履中陵と仁徳陵は百舌鳥原だとされて、履中陵と仁徳陵は百舌鳥原にある。
世代は応神天皇→仁徳天皇→履中天皇です。
さてどの陵に誰が葬られたのでしょか?
古代は各地に有力な王国が有った
それが天皇家には嫌だから、全て天皇の墓という事にした愚かさよ
大仙大王だの仁徳天皇だの言われてるけど、結局のところ土着の人がどこから来て何故ここに住み着いたのか未だに分かってない
大和川が洪水起こしまくるから元々、水龍信仰があったから洪水伝説が関わるとこから来た民族が元だろう
前例があるのが痛いな。。。
なんでそんなことになったのやら。
日本書記 古事記くらいしか書のデータがないっていうのが致命的だよな古代は。
包括的に見てくにはたかが2つの書物じゃ少なすぎる。
平安時代まで墓守が置かれていたのだが
それが絶えると、どこが誰の墓か
次第に忘れ去られたようだ
天皇陵であれば、どこに誰の墓が立てられたかは記録はあるけど
正確な地図まで添付されているわけではないので、おおまかな場所しかわからないし
明治の初めに適当に仁徳天皇陵に指定したというだけだから
あの辺の近所だと、田出井山(伝・反正陵)とかも含めて
何チャラ天皇陵は全部別の人の墓みたいな説もあるね
この雄略が実在が確認された最初の天皇と言われてるんだよね
なら神武天皇は無理でも、応神天皇あたりからは
わりと信じても良さそうな気がするんだが
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1645430526/
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