【飛鳥時代】聖徳太子の正体、それは押坂彦人大兄皇子だ!!!!!!!!
>>1
聖徳太子の正体は、押坂彦人大兄皇子だった。
それなら何故、彦人大兄皇子の子孫である舎人親王が編纂事業のトップであった
「日本書紀」に、そう書かずに厩戸皇子を聖徳太子として記述したのか意味不明です
舎人親王にとって厩戸皇子は何の繋がりもないよ
上宮王家は643年に族滅されたから厩戸皇子の血統は途絶えました
卑弥呼、台与、アマタラシヒコ(第33代天皇、聖徳太子のモデル)など
日本の歴史から消されたんだからどうしようもないよ
舎人親王が天武天皇など意向に逆らえるほど偉いわけない
結論を先に言うと
「聖徳太子=押坂彦人大兄皇子」で間違いない。
推古天皇が即位したことになっているが、日本に来た中国の皇帝の使者は
日本側の女帝の存在を認識すらしていない。つまり、推古天皇は実在ぜず
「聖徳太子=押坂彦人大兄皇子」が実際の第33代天皇である
第33代推古天皇は架空の人物で
押坂彦人大兄皇子が実際の第33代天皇である。
第34代舒明天皇は、押坂彦人大兄皇子の息子である。
第35代皇極天皇は、押坂彦人大兄皇子の孫である。
天智天皇と天武天皇は、押坂彦人大兄皇子の曾孫である。
そもそも名前に「太子」が入る人物である。
これは聖徳太子が押坂彦人大兄皇子と同一人物だからである。
おおむね賛意ですが
>>4
これはどこから出展なのでしょう?初めて聞きました。
押坂彦人大兄皇子は、天智天皇よりも大物である。
『延喜式』には押坂彦人大兄皇子の墓についての記載があるが
その墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
これは『延喜式』では最大の大きさである。
父の敏達天皇が東西3町、南北3町、
天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。
『隋書』
開皇20年(西暦600年)、俀王あり、姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)、阿輩雞弥(オオキミ)と号す。
王の妻は雞弥(キミ)と号す。後宮に女六七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす。
大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ』
阿毎多利思北孤
・姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)
・阿輩雞弥(オオキミ)と号す
・太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす
押坂彦人大兄皇子
・太子彦(タイシヒコ)と呼ばれる。
・大兄君(オオエキミ)と呼ばれる。
・子供(ワカ)の名前は田村(タフリ)である。
※日本書紀では「村」を「フリ」と読む
倭王・阿毎多利思北孤と押坂彦人大兄皇子が同一人物であることが『隋書』の記述からわかる。
押坂彦人大兄皇子が「皇祖大兄」と呼ばれていることにも注目したい。
天皇の祖である。
押坂彦人大兄皇子は、日本の歴史書では天皇の祖と呼ばれているのである。
※聖徳太子(押坂彦人大兄皇子)が日本で初めて「天子」を名乗ったで、まさに天皇の祖である。
天照大神と押坂彦人大兄皇子の二人だけに使われている。
日本書紀は藤原氏による完全な捏造。
皇族は倭人。
そもそも聖徳太子の自称は「天子」。
「天子」とは、中国の皇帝と同じ身分の人のこと。
後世に書かれた『日本書紀』が太子扱いしてるだけで
聖徳太子の自称は「天子(皇帝)」
おまえがそう思うんならそうなんだろう。 おまえの頭の中ではな。
だが、日本の歴史は人臣の乱から始まるんだ。つまりそれ以前はすべてが創作なんだよ。
すべては天武天皇ー大海人皇子の計画の通りに歴史は進んでいる。
鎌倉幕府も明治維新も日本の敗戦 戦後復興。すべて天武天皇の想定の範囲内なんだな。
壬申の乱だな。 記紀をどこまで信用するかだが、 一部の史実を含みながらも
大半をバッサリ切り捨てることが肝要なんだ。 天武以前は「史実」として扱ってはいけない。
そういう歴史観の中では聖徳太子が誰だったか? 大化の改新は本当にあったのか?
という疑問は意味をなさない。
天武朝は自滅したんじゃないかな
倭国の他にも周辺に日本国だの蝦夷だのあった時代のものです
皇統譜も正しい訳がない
記紀カルトの方々は、神武から信じておられるので
いまだに日本の歴史は解明されない
西暦607年
倭王から隋の皇帝・煬帝に宛てた国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書き出されていた。
これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と命じたという。
こちらは日出ずる処の天子(皇帝)、そちらは日没する処の天子(皇帝)
倭王と隋の皇帝を同格扱いしてるわけだから隋の皇帝が激怒するのは当然
『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。
(まとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので
中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
>>58
ほんとに3つの説明したなら、どういう意味があるんだろうな
その頃すでに、倭から日本に変えた理由がわからなくなっていたって事か?
>>60
「倭国」っていう漢字は中国が考えたものだからだろうね。
中国が考えた「倭国」は雅じゃない!
だから「日本」にしたよ!
こんな真実を伝えたら○されそうだろ?
だからビビった日本の使者の説明が二転三転してる。
>>58
A,B,Cは並立するだろ
日本国と倭国は別の国で
日本国は東側の小国だったが倭国を併合したため
倭国の領域が日本国に改名された
>>357
それが日本神話の国譲りか
倭国はワタツミが作った国だし
使者の態度が不遜というのは遣唐使の意味を考えるとおかしい
敗軍の将の態度が不遜の方が自然ですしね
即位していないのにのちの皇統の祖先となっているからだろ
聖徳太子は用明天皇の皇子で押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の皇子で
2人は従兄弟だ 推古天皇は敏達天皇の後妻で聖徳太子の叔母&義母であり
押坂彦人大兄皇子の継母&義母である
わけのわからんこじつけで架空だの同一だのとのたまうでない
不明
推古天皇のお墓が存在しないことがあげられる。
遺言で不作が続いているので自分の陵はいらない。竹田皇子の墓に合祀してくれって言ってるからなくて当たり前。
太子信仰を加えて誕生したのが聖徳太子
推古天皇はヤマト王権の大王
そして、この時代のヤマト王権は飛鳥の地に宮を置いている
それはお前の願望だろ
第三者の目のほうが信憑性は高いとみるのが一般論
隋書「自竹斯國以東,皆附庸於倭。」
「附庸」とは、古代においては大きな国に接続されている小さな国を指す。
http://www.baike.com/wiki/%E9%84%E5%BA%B8&prd=button_doc_entry
押坂彦人大兄王子が聖徳太子ならそのように
「日本書紀」で記述すれば良いだけのお話し
編纂者の総裁が彦人大兄皇子の子孫である舎人親王なのだから
では、聖徳太子以前は日本は仏教以外何の宗教があったんですか?
今更このレス見て閃いたんだが、仏教を広めたのは曽我氏だろうな。
中大兄皇子を唆し、大化のクーデターで曽我を○し逆賊に仕立てた挙句権力の美味しいところに食い込んだのは藤原(鎌足)。
壬申のクーデターで甥(弘文天皇)を○して政権を奪い、国号を日本と定め、日本書紀編纂を命じた天武天皇。
日本書紀は天武天皇家を祭り上げるための道具なわけだが、曽我の手柄を記すわけにもいかず
曽我系の皇子キャラ聖徳太子を創り出して曽我の功績を封じ込めることになったんだろうな。
当時はほとんど水路で行けたっていう
四天王寺を建てた時は27歳、法隆寺を建てたときは34歳
摂政や皇太子は違うと言われているが
四天王寺や法隆寺を建てた仏教かぶれ皇族の厩戸皇子は実在しただろ
聖徳太子の正体は、押坂彦人大兄皇子だった。 ???
聖徳太子が実在天皇の摂政影武者であって、そんな必要は無いだろ?
隋書の 阿毎多利思北孤 は、記紀では天皇として存在し得ないから
推古天皇は押坂彦人大兄皇子だった。 が、本筋じゃないのかな?
幼名なので押坂彦人大兄皇子の諡号が推古天皇でも良いが、曽我氏系女帝は記紀の嘘。
聖徳太子は即位した押坂彦人大兄皇子=推古天皇を摂政のように補佐した。
蘇我氏=馬子と聖徳太子の関係は、ちょっと無くせないと思うよ。
記紀の歴史から消されたのは、押坂彦人大兄皇子なわけで、この理由は何?
太子-馬子の国記、天皇記には、書かれていたはずだが、消したのは藤原氏―天智~天武。
仏教の導入、憲法、冠位、斑鳩宮法隆寺四天王寺他、
推古朝の事績である聖徳太子の仕事は実在して太子が信奉された。
記紀の嘘は白村江海戦に起因する場合は多いが、
太子-馬子が開国派だったのに対し、天智-鎌足は攘夷、開戦征伐派だろう。
斑鳩系皇室失脚~蘇我蝦夷・入鹿○害で、押坂彦人大兄皇子を残せない何かがある?
日本書記では607年が初めての遣隋使
それに対して隋書ではその前に600年の遣隋使があったとしている
男王の名前である多利思北孤や後宮話が出てくるのはこの600年の遣隋使
「新唐書」によれば多利思北孤は用明天皇だとかいているのだから
その通り用明天皇でよい
推古天皇男王説を取る必要も蘇我馬子や押坂彦人大兄皇子を宛がう必要もない
隋書の成立は650年辺り。
新唐書の成立は1050年辺り。
裴世清と阿毎多利思北孤の謁見記録で
用明天皇などと言う記紀以降の諡号が出てくること自体信用に値しない。
記紀は白村江の後、開戦に至った唐への忖度、南朝外交等を消す歴史改竄の書。
新唐書が、記紀を読んで歴史修正された史書、ってのが立証される。
隋書は、隋王が派遣した裴世清の現地ライブリポートであってwww
記紀の嘘、聖徳太子や推古天皇と言う漢風諡号は有っちゃ困る。
新唐書は何らかの根拠をもとにそう書いたのだろうし
出典もないのに推古天皇は男だっただの
聖徳太子だの蘇我馬子や押坂彦人大兄皇子だの
いうより余程まともなわけだが
>>269
新唐書はちょう然が宋に持ち込んだ王年代記を出典に書いたと言われてる。
ちょう然は983年に宋に渡った僧侶で、淡海三船が歴代の天皇に漢風諡号を一括諡号した後の時代の出来事。
淡海三船が一括諡号したのが770年代文書博士に就任してからと言われている。
この時点で、少なくとも王年代記自体は770年以降の漢風諡号を知っている人間が770年代以降に書いたことが確定する。
そこからポイントになるのは、日本書紀の編纂ルール。
日本書紀は本文以外に、一書曰くから始まる公式見解以外の他の出典の内容を併記する構成になってる。
一書曰くもひとつの出来事に複数個併記されることすら普通にあるのが日本書紀のスタイル。
もし仮に王年代記の元となった記録が、記紀編纂時点で存在していたなら、日本書紀の一書として多少なりとも併記されているはず。
しかし新唐書の記録と合うような日本書紀の一書の記載も見当たらない。
以上から、いま現時点では新たな物証が出ない限り、王年代記はちょう然の創作物と見たほうが良い。
聖徳太子の正体じゃなくて
607年斑鳩宮で裴世清と謁見したのが 阿毎多利思北孤=押坂彦人大兄皇子 ってことだと
斑鳩宮は天皇で聖徳太子は法隆寺に住んだ、とかか?
隋書の
俀王 以天為兄 以日為弟 天未明時 出聽政 跏趺坐 日出 便 停理務 云 委我弟
ってのは高祖が知らない、なにがしかの帝王学を引いたようにも思うが、太子は弟?
曽我氏系の聖徳太子が引いて摂政、皇統系図は記紀以前の女帝は全部嘘で
敏達天皇-押坂彦人-舒明天皇-天智天皇 ってのが、すっきりかな?
漢名名乗った倭の五王の系図も、古墳時代になって豪族の競合で
兄弟継承が多くなってるけど、聖徳太子はこれを改革したかったのではないだろうか。
日本史上で最悪の皇室紛争起の、物部-曽我-藤原 戦争で
押坂彦人を女帝推古天皇に粉飾した理由ってのは、とても面白そうだね。
今でも、記紀にたてつく大河ドラマは無理だろうけどwww
聖徳太子の天皇記・・・ 出てこ~~い。
タリシヒコは押坂彦人大兄皇子である。
聖徳太子は実は竹田王子でもOKだが。 事実関係は兄弟だし。
蘇我と物部の戦争も知っている。 そして、天皇制を作りたかった。
俀王 以 天為兄 以 日為弟 天未明時 出聽政 跏趺坐 日出 便停 理務 云 委我弟
天皇たるものの帝王学は、執政とは無縁。 施政は大臣、身内や豪族に任せる。
これを、隋王は理解できなかった。
中国王は、なりあがり、だからである。
6~700人の皇室後室は、いわゆる女帝の母推古天皇が仕切ったw
タリシヒコは いわゆる皇祖、押坂彦人大兄皇子である。
日本の王が、中国に王政を学び、それを越えた瞬間である。
まあ、聖徳太子って、スゴイよね。
でも良い。
「聖徳太子=押坂彦人大兄皇子」
これは、遣隋使が語った通り兄弟で、聖徳が摂政で良いんじゃないかな?
兄弟と言うより、双方とも後宮で生まれた皇太子だろ?
この7~800人の後宮の女帝が、
記紀の言う推古天皇。
押坂太子彦=天の宮、太子彦 敏達ー石姫、嫡子
聖徳太子=上宮、厩戸 用明?ー穴穂部間人、嫡子
推古宮の後宮人事に、各豪族王の直接介入を避け、王朝の一系確立を目指した。
藤原-天智がこれに水を差して大化の改新、蘇我氏衰退。
~記紀捏造。記紀では、この実在人物を混ぜ繰り返した。
倭の五王時代の、物部軍事政権は倒して後、
源氏物語の様子がこの頃の王宮政治の背景だろ。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1526609272/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません