最古級、導水施設が出土 日本書紀の記述裏付け 京都
約1700年前の古墳時代に浄化した水を使って祭祀(さいし)を行ったとみられる国内最古級の遺構や大規模な溝跡が京都府城陽市の小樋尻(こひじり)遺跡から出土し、12日に府埋蔵文化財調査研究センターが発表した。
川から離れたこの地域に、水の安定供給のため溝を設けたとする記述が登場する日本書紀を裏付ける資料という。
新名神高速道路整備事業などに伴い、約2200平方メートルを調査した結果、南東から北西向きの自然流路(幅約25メートル、深さ2・7メートル)に、水流調整用に一部木材などを使った水路跡が出土。
この西岸からは祭祀遺構も見つかった。
出土した木材などから、木板(幅1・7メートル、高さ0・6メートル)で水路を仕切り、水をためた上で、木板の上部にV字の切れ込みを入れ、祭祀遺構側に木製の樋(とい)を通して浄化水を流していたとみられる。
周辺から祭祀に使われた漆が塗られた木琴や桃の種も出土した。
(以下略、続きはソースでご確認下さい)
産経WEST 2020.11.12 22:19
https://www.sankei.com/west/news/201112/wst2011120044-n1.html
口伝できちっと伝承されてたんだね
酒船石的なやつ?
やはり硬い石に刻むって重要だな
日本書紀、古事記を持ち出しただけで
非科学的、ナンセンス、軍国主義者、回顧主義者、右翼!
と左翼は罵倒していた
今でも識字率最高の日本。
それこそ古代の謎だ。
>>2
簡単に何文字か書くぐらいなら弥生時代から出土してる
意味を持った長い文章としては、
さきたま(埼玉の語源)古墳群の稲荷山古墳鉄剣(西暦471年)が有名。
熊本県からも同時期の太刀に書かれた金石文が発見されている。
いずれも雄略天皇(ワカタケル大王)に仕えたという意味の内容が書かれている
稲荷山の追加調査はまだかねえ
鉄剣が出土した石棺は側近のもの
さらに奥に主人の石棺があるのはほぼ確実視されているのに
所有の概念がよほど希薄だったのか
あるいは呪術的な禁忌なのか
文字どころか記号様の印すら見つからない
ヒトは住みやすいところに住んでる
皇居の真下とか掘り返せないじゃん
古いお寺の跡とかこの遺跡とか京都府南部って平安京時代以降も結構古い遺跡が出土するのは
>>3
の指摘する秦氏関連の遺跡なのだろうか?
ところで、今回の場所でも桃の種が発見されている。桃の種というと奈良時代の遺跡から
良く出土するイメージがあるが、この場所で発掘された桃は舶来品種なのだろうかそれとも
国産品種なのだろうか?
流石に、中国から持ってきた桃が腐らないということはないだろうから、種だけを添えたのか
それとも、舶来品種を植えてそれが実ったものを収穫して奉げたのか既に国産品種が確立
しているのかが判らない。
稲だと品種すら判る場合があるし麦や大豆も研究が進んでいるが桃ってそういう品種や生育地
についてDNAレベルで研究されているのだろうか?
>>6
自己レスだが下記HPが目立つくらいで意外と古代桃の研究って無いな。
http://www.frc.a.u-tokyo.ac.jp/information/news/151001_report.html
上記HPだと時期がこの遺跡と近いだろう纏向遺跡での桃の種の出土例が
比較例になるのか?
わりと最近じゃね?
日本書紀を裏付ける資料
内容が史実であると証明されるのは良いね。
信憑性がどんどん高くなる。
たった一人で30年、手作業で村の為に水路を作った男性
http://karapaia.com/archives/52295139.html
> 30年にもわたる長い年月をかけ、たった一人でこつこつと、手作業だけで全長3キロ
信用できないと言っていたなあ。
日本はあまりそういうのしない感じだよな
中国に残る新唐書の日本条は日本記の写しのはずだが内容が違ってる
今残ってる日本書紀は後世で改ざんされてる可能性大だよ
富本銭とか亀石(の天皇の時代)とか日本書紀の記述の正しさが考古学で証明される
ようになってから日本書紀(の記述)全てを否定することは無くなったのは良かった。
皇位継承関連の記述については流石にアレだが
日本書紀の神武東征の記述通りの大阪湾の地形が存在したのは約2700年前だと地理学、土木学で証明済み。
神武天皇の橿原宮跡地とされる橿原神宮の地下から出土した縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木をC14年代測定した結果、約2700年前のものだと考古学で証明済み。
明治時代に設定された宮内省による陵・古墳の比定が間違えているという落ち。
鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
鹿児島県の上野原遺跡では、弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかっており、
これは弥生土器を齎した渡来系弥生人の原郷とされるシニ・ガイ文化よりも古いものとなっている。
稲作も弥生土器も鹿児島が大元ということが考古学的に証明済み。
さらに言うなら、古代の日向は現在の鹿児島県と宮崎県を併せた領域だった。
つまり、約2700年前に神武東征によって南九州から稲作と弥生土器などの弥生文化が日本中に普及したことになる。
邪馬台国=大和国 (三国志において台=ト)
卑弥呼=神功皇后
台与=豊姫(神功皇后の妹) (三国志において台=ト)
興台産霊=コゴトムスビ (日本書紀において台=ト)
倭国大乱=三韓征伐
終わり
>出土した木材などから、木板(幅1・7メートル、高さ0・6メートル)で水路を仕切り、水をためた上で、
木板の上部にV字の切れ込みを入れ、祭祀遺構側に木製の樋(とい)を通して浄化水を流していたとみられる。
周辺から祭祀に使われた漆が塗られた木琴や桃の種も出土した。
いずれも一緒に出土した土器から4世紀前半に設けられ、同様の施設としては最古とされる纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)とほぼ同時期の遺構とみられるという。
また、古墳時代後期の6世紀代に新しい水路が規模を縮小しながら設けられ、改修をしながら約200年にわたり使われていたことも判明した。
・・纏向遺跡に続いて桃の種を含む祭祀遺構が出土。
邪馬臺国近畿説がまたしても確定に一歩近づいたわけですね。
>>20さん
稲作はともかく、弥生文化には製鐵技術や漢字など大陸起源の要素があるはず。
それらがあるからこそ西日本一円に弥生文化が広まったのでは?
大化の改新も100年後じゃないか
そんなんは関係あらへん
こいつらただのカルト教徒
まぁ倭国大乱が終わってから100年以上経ってるからね
北部九州に有った国内最大の勢力を平定して、大和朝廷の支配がすでに始まっている頃
奈良は710年以降の支配者で日本と称した (教科書に記載)
古墳時代には北部九州自体が衰退してたから有り得ないよ
外交の要所として大宰府(当時はもっと海側の伊都国=現糸島市)が重要だったのは確かだが
九州が畿内より栄えてたのは2世紀までだな。。。
銅器時代も同じ構造 鉄器時代になり半島での鉄獲得の為南方海洋民族の天孫族が請け負うが いち早く鉄を獲得し強力な武力海洋集団となった天孫族は博多を強奪し 支配地を広め倭国を形成した 紀元頃神武は糸島を発ち奈良へ侵出し倭国の分流の祖となる 倭国ではヒミカ 五王 磐井 タリシホコなどを輩出する 魏の末裔が滅び隋へ代わるが隋の琉球侵略などで関係は悪化し 唐になり白村江で戦うが敗戦し倭国は滅亡する 一方分流奈良は出雲族の後ろ盾の呉の滅亡で崇神が近畿圏へ侵出する 出雲族の末裔継体の時 奈良で後継者争いが発生し其の混乱に乗じた継体が権力を握る 其の勢いで倭国へ応援軍として進入し突如磐井を暗○するが 息子カツコにより追い払われその後○される この後白村江の戦いまで面従腹背を続け 唐と内通し 倭国滅亡を待ち 日本と称して倭国を併合する
品質的にはウエツフミやカムカタナなどと変わらない
偽書記紀を裏付ける祭祀あとが発見されたと喜ぶこと自体が記紀の偽書ぶりの証明とも言える
何だその句は
崇神の都は福岡の水巻町とでも言いたいのかね?
九州ミマキは良いとして
出雲がつきニギハヤヒがこねし、はどうなのかね
ニギハヤヒの御霊代はどこにあるのだろう
近畿から追い出された伊勢のあれやろ
どう考えても天皇の祖じゃないし
あとニギハヤヒは山陽と関西に向かってるので出雲本体には関係ない
島根広島県境には吾妻(!)がありそこの神社に祀られている神は…
吾妻が関東なら大国をいくつも飛ばしてる ア○
神武東征は広島から北に向かった話で神武本隊は東に行っていない
騎馬民族征服王朝説とか邪馬台国九州説とか
ほとんどの場合、根拠の無い変な空想を混ぜてくるからな
で「考古学は捏造」とか意味不明なことを言い出す
ゴッドハンドじゃねーんだから出土したものを捏造扱いするなよっていうw
歴史学考古学からもっとも遠いところにいる人々
だからこそこういうネタがあると狂喜乱舞する
じつにわかりやすい構図といえる
異論を徹底弾圧する大和一元原理主義の歴史/考古学会
学問から最も遠いところにいる人々
バ○が妄想ベースで王朝奈良起源説を生み出して混乱を招くばかり
同年代の大規模遺構が出てくるだろう
もっとも学会は薄々知っているだろうからタヒんでもやらないだろうが
引用元: https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1605423939/
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