中国の共産党っていつのまに国民党に勝ったの???気づいたら勝負がついた感じなんだが。
本当に何だがわからないうちに勝負はついてしまった。
あれだけ広いところで何年も戦争していたのだから「○○の戦い」
とか「××海戦」などあってもいいはずなのにそういうのもまるで
聞かない。両軍がどんな進軍ルートで戦ったのかすらわからない。
とりあえず情報を集めながら、国共内戦の展開を解明しましょう。
日本軍が敗走の後で、満州の重工業基地は国民党に統制されていた。
でも、国民党の経営能力はとてもまずいな。
国民党が営む工場は全て崩壊した。
国共内戦が始まってから約1年間は、アメリカの支援を受けた国民党軍が圧倒的
に優勢で、1947年3月には共産党の根拠地である延安をも占領した。
この間、蒋介石は、1947年1月に国民政府の新憲法を公布し、翌1948年4月には
総統に就任した。しかし、国民党内では腐敗や汚職が目立ち、法幣の乱発による
インフレが進んだので、国民政府に対する国民の不満が高まった。
これに対して共産党は、毛沢東の指導のもとで内戦を戦う一方、農村で地主の土
地を奪い取って貧しい農民に分け与える土地改革を実施して農民の支持を得、
1947年半ば頃から反攻に出た。
948年に入ると、人民解放軍(中国共産党の指導する一切の軍隊を1947年3月に改称)
は東北・華北・北西の
各戦場で勝利を重ね、4月には延安を奪回した。さらに9月から12月にかけて、遼瀋戦役
(東北地方での戦い)・淮海戦役(徐州一帯での戦い)・平津戦役(北京・天津方面で
の戦い)の三大戦役に勝利し、11月初めまでに全東北地方を占領し、翌1949年1月末には北京に入城した。
蒋介石は、1949年1月についに総統を辞任し、4月には北京で和平会談が開かれた。しかし、
国民党が共産党の要求を拒否したので、人民解放軍は総攻撃を開始し(4月21日)、南京(4月)・
武漢(5月)・上海(5月)を占領し、敗走する国民党軍を追って南下を続け、1949年12月までに
台湾を除く中国全土を解放した。
こうした状況の中で、国民党政府は1949年5月以降台湾移転を開始し、蒋介石は1949年12月に50
万の軍とともに台湾に亡命した。
■探したら其れっぽい情報が得られた。
国民党が勝ってたら今頃中国は・・・
●西側資本が流入して下請け的工場が乱立
●工場では大勢の若者が低賃金で酷使される
●工場の乱立によるエネルギーの供給不足と環境破壊・水不足は深刻化
●エネルギー不足を解消するため強引なダム建設
●下流は水を絶たれ砂漠化が進む
●環境が悪化すると人の精神状態も悪化する
●万事カネカネの拝金社会、かって魯迅先生が喝破した「食人社会」となっていく
●格差がどんどん拡大し低流国民の不満は高まる、不満をそらすため反日政策を取る
ていうか、今の中国と大差ないように見えるのは気のせいか?
そう、気のせいに過ぎない
だってさ、三反五反運動、大躍進政策、文化大革命の大成功で
低賃金労働も農民搾取も汚職もない理想社会が出来つつあるからね
(棒読み)
公式には4のように言われているが
実際には、この時期のアメリカの動きは怪しいんだよね
国民党が勝ってたら今頃中国は・・・
そりゃ五輪大体育大会を開催するくらい発展するでしょ
一方裏手を覗けば、そこにあるのは
環境破壊 人心荒廃 格差増大 犯罪多発
汚職蔓延 人身売買 風俗退廃 疫病流行
泡沫経済 物価高騰 投機奔走 結末崩壊
ソ連が共産党が満州を押さえられるように尽力したから。
あと国民党内部の反蒋介石派の取り込みに成功したのが大きい。
西太后⇒王朝末期に宦官や幼帝とセットで、かなりの高確率で登場するオババ
袁世凱⇒エリート軍人。三国志でいえば袁紹。先人の真似をして皇帝を名乗る。
宋教仁⇒中国人には理解不可能な民主主義に目覚めてしまった哀れな青年。
孫文⇒革命家気取りのちんぴら「滅満興漢」という物騒なスローガンを掲げる。
蒋介石⇒ゴットファーザー。所詮、孫文の手先なので中華ファシストでしかない。
毛沢東⇒カルト教団の親玉。ただし教祖自身が経典を理解できていない。
鄧小平⇒カルト教団国家を伝統的な中華王朝に再編した人。
江沢民⇒共産風中華王朝を中華ファシズムに昇華した人物。国民党と変わらない。
辛亥革命⇒やくざ、軍人の暴動。王朝末期になるとよくあるいつものパターン。
日本の侵入⇒侵入経路がやたらと女真と似ているが、これもいつものパターンだからだろう。
中共内戦⇒マフィアと新興宗教の縄張り争い。人民をうまく洗脳したほうが勝った。
中共成立⇒ソ連の指令を聞かない共産国がまた1つ増えた。(もう一つはユーゴ)
毛沢東というのは、要はゲリラ戦に天才であり、伝統的な農民反乱指導者だね。
>>13にも書いてあるが、コミンテルン派遣の党幹部に批判的で、
マルクス主義に染まっていないのもよかった。
それにしても蒋介石の無能ぶりは凄まじい。
台湾の人が、どれだけ蒋父子に苦しめられたかということもまた忘れてはならない。
ことないかな~?北朝鮮の体制崩壊でも朝鮮半島赤化統一でもいいからなんかネタ
をつくってくんないかな~?プーチンの終身大統領宣言でもいいや。
●社会主義市場経済のシステム
新興資本家
↓要職を独占
中国共産党
↓搾取
中国人民 ← 中国国家安全保障局
監視
国民党の集中攻撃をかわすために日本軍と国民党をかみ合わせて時間稼ぎ
をしたんじゃないか。
トリビア1
日本軍は終戦後、八路軍に武装解除を命じられたがそれを断って、一戦交え
大戦果をあげた部隊がありました。
トリビア2
国共内戦には日本兵も参加していた。むろん戦傷者も大勢いる。
トリビア2を題材にした映画『蟻の兵隊』が去年公開されたこと
国民党が勝ってたら少なくとも文革はなかった。
しかし中国は資本主義も共産主義も駄目だろう。
皇帝制で良かったのに。
孫文が即位していいよ
>>20
しかし文革のおかげで、カルト党員が一掃され、マトモな鄧小平が政権を抑える
ことが出来たというもの。
>>21
袁世凱があと10歳若ければ、中国は正しい道(袁家帝政)を進んでいたと思う。
今もカルト党員ばっかじゃん
「政党」てなもんでなく「結社」だよあれは。
袁氏王朝が誕生して、今に至るまで続いていたとして、
どれぐらい中国の伝統的な皇帝の制度が残っただろうね。
現在の中共支配下の中国-文革とか大躍進とかの諸々=国民党の中国
袁世凱こそ中華皇帝に相応しい漢!
逸仙なんてダメダメ
スーパージャンプの漫画
「青幇~ブルーフッド~」
はオススメ
あれは結構面白かった。
>>30
結局戦争やってる時は実務的な人物がいたから戦争に勝てたけど
戦後は官僚が仕切るようになって中国伝統の官僚腐敗が起こって駄目になったというとこなのかな?
果てさて、現在の中華人民共和国はいつまで持つことやら。
経済が豊かになればそれだけ市民は共産党にとって不都合な情報が手に入りやすくなる。
当然だ。情報化社会の昨今、情報なくして経済は有り得ない。
22世紀まで持たないんじゃない?いや、形骸化するのはもっと早いかも試練
>24
「流砂の塔」っていう小説が面白いよ
光人社NF文庫の「僕は八路軍の少年兵だった」が面白い。
人民解放軍が、モンゴル軍の様な身軽さを持っていた軍隊なのが分かる。
また、教条的な所はあるが、基本的に風通しの良い軍隊だったようだ。
一般兵士が命を大事にして、戦闘を恐れているのも面白いし、
司令員が正確な状況判断能力と戦略を持っていたのも興味深い。
中国が安定すると、教条主義が台頭して、現実的判断は軽んじられるようになった。
その中で解放を指導した優れた軍人達、彭徳懐など、が影響力を失い
残りの元帥も文革で批判され、迫害されたのは必然だったのかもしれない。
多くの老八路兵はこんな中国を作るために革命を起こした訳では無い、と思ったことだろう。
結果からいうなれば政治センスのない人に任せたのが悪いとしか
国民党残党が最後まで抗戦したのは新疆と広西と雲南だよな?特に雲南は1987年まで…
蒋介石の最後の逃亡経路が分からん…
臨時首都の重慶から台北遷都するのに従って、重慶から飛行機でというのもあれば、
臨時首都の成都からというのもあるしなぁ。
上海のバンド[外灘]に杜月笙の手を借りて大艦隊をまわし、上海銀行の金塊を貨物船に積み込んで自信は軍艦に乗り込んだというのもある。
国民党軍と中華民国政府って一時期広州にもあったよな?
昆明に蒋介石が移ったことなかったか?
確か大陸脱出の前に、蒋一族の廟に参ってるぞ
「マオ」に写真あったな
人民解放軍の基本戦略は、正面対決せず、分断し、各個撃破というもの。
東北においても装備、兵力は国府軍の方が勝っていた。
日本の工場や兵器はソ連が略奪していたし、国府軍の装備はアメリカ製だった。
当初、国府軍は一気に東北へ侵攻し、主要都市を占領した。
これに対する林彪の考えは、都市を持っていれば動きが鈍くなる、
農村を基盤とし、しだいに包囲し、分断し、一つずつ都市を取り返すというものだった。
解放軍は大都市に対する攻勢を何度も行ったが、
たとえ占領できても援軍が来る前にすぐに退却した。
解放軍の真の目的は大都市ではなかった。
大都市を攻めれば周辺の小都市から援軍がくる。
援軍を出した小都市は防備が手薄になるので、さらに周辺の都市から軍を集める。
機動力に勝る解放軍は、これら小都市への軍の移動を捕捉し、各個撃破していった。
上記の様な各個撃破を繰り返すうちに、兵力を逆転させ、解放軍は国府軍を圧倒した。
捕虜となった国府軍の兵士は、少しの教育の後解放軍に編入された。
内戦であるし、捕虜を味方にすることは容易かった。
大地主の多い東北では共産党と親和性があったというのも大きいだろう。
江南の都市まで侵攻していくと、反共的な人民も多かったようだ。
結局、国共内戦は内戦であり、殲滅戦ではなかった。
敵味方に分かれているが、大量○戮するよりは捕虜にする戦いだった。
解放軍が真に殲滅戦の辛酸を舐めるのは朝鮮戦争でのことだ。
解放軍の幹部はみんな朝鮮戦争には反対だったが、
戦略的判断によって参加することになってしまった。
解放軍は、そこで初めて物量による大量○戮と正面対峙し、
多くの犠牲を出すことになった。
また、朝鮮人民軍は他人であり、互いに侮蔑しあい、兵士の仲はあまり良くなかったようだ。
多くの解放軍兵士の血によって守ったのがあんな国とは、浮かばれ無い話だ。
2005年7月3日、支那のTV局北京電視台の午後4時からの番組「社会透視」内で、
支那事変の発端となった1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件は、
北京守備隊支那国民党軍第29軍に潜入していた共産党地下党員
『吉星文』『張克侠』『何基?』らが引き起こし、
まんまと抗日戦争へと発展させる事に成功したと報道した。
ちなみに人民解放軍総政治部発行ポケット版『戦士政治課本』には、
「七七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決タヒ的行動を以って
党中央の指令を実行したもの」との記述があったとされるが、
この『戦士政治課本』の存在は確認されたものの上記の内容は確認されていない。
また、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、
当時共産党副主席だった劉少奇が「七・七事件の仕掛人は中国共産党で、
現地責任者はこの俺だった」と連合国側の記者団に語ったとされるが、
その証拠やそれに関する報道は未だ発見されていない。
しかしながら自慢したくてしょうがない気質の支那人の事。
『政治課本』や劉少奇が自信満々に語ったとしてもちっとも不思議はない。
この盧溝橋事件共産党陰謀説をまたも支那自身である北京電視台が自慢げに語り裏付けた形だ。
盧溝橋事件は、国際法や慣習に則ってちっとも侵略しようとしない日本に対し、
痺れを切らした支那共産党による謀略だったとはっきりした。
またその後(同年7月29日)に起こった人類史上稀に見る日本人居留民(朝鮮人含む)
への未曾有の大虐○通州事件も、廬溝橋事件で引っ掛けても尚、支那不拡大方針を表明し、
国民党軍と停戦協定を結んでしまった日本に対し、
先の盧溝橋事件謀略をまんまと成功させた国民党軍に潜入していた
共産党地下党員によるものだと容易に想像できよう。
毛沢東
統率:100
武勇:65
知略:75
政治:30
蒋介石
統率:75
武勇:75
知略:55
政治:40
>>47
対共産党のために温存!温存!温存!!
いい加減に使いどころを見極めろっての(苦笑)
>共産党は国民党にどうやって勝ったのか?
この映画を観たら判るw
http://global.yesasia.com/b5/PrdDept.aspx/code-c/section-videos/pid-1002148848/
人民解放軍もいざ官軍になったらベトナムに雑魚扱いされるしな。
中国の歴史じゃ、流賊はたいてい最後に確固とした政権を樹立できないまま亡ぶんだけど、
中共は初めて長期政権を築いた例?
伝統的な士大夫層は基本的に国民党側だよね。
http://www.epochtimes.com/b5/2/7/24/n204102.htm
毛沢東が教えたのは
逃げ回れ、だろ
国民党は中国を統制する能力がない。今まで国民党の内部闘争が激しく。
その原因は、国民党が誕生した頃から、ただ色んな反清革命組織の集まりだった。
清朝の最期に中国で革命団体が生まれた。
彼らは無計画の反乱を起こした。
しかし、こんな無駄なことは清政府に簡単に鎮圧された。
後で、孫中山などの革命主義者はこの色んな組織を集めて同盟会を組んだ
その同盟会は現在の国民党の全身であった。
反清革命組織の同盟からといって、この同盟の基礎はとても弱かった。
孫中山は同盟会を全体的にコントロールしなかった。
実は彼はこんな能力があまりなかった。
同盟会所属の組織は自分の利益しか考えなかった。
だから、同盟会、そして後の国民党は内部闘争が上手だったが、外戦がまずかった。
今でも相変わらず。
清朝を滅ぼす人は袁世凱で孫中山じゃない。
太平天国反乱を鎮圧されてから、中国の地方勢力は中央より強かった。
20世紀に入って清政府はもう南部地方が管理できなくなかった。
後で、武昌起義に導かれ、各省は独立だと告げた。
これは全て地方勢力が強くなった結局だった。
袁世凱は真剣に武昌の反乱軍を鎮圧したら、必ず反乱軍をすぐに倒した。
でも、当時清朝は腐敗しすぎ、各地の反対者が多すぎるから、
滅ぼされるのは時間の問題しかなかった。
一方、当時中国の一番戦闘力の北洋軍は袁世凱に支配されていた。
軍事的な力で清朝を迫り、溥儀に退位させた。これ以外、この力を使って同盟会と談判した。
袁世凱の軍力に怖がる同盟会は譲れなければならない。
中華民国が成立した。宋教仁は同盟会という名を改めた。
あの時から、この組織は国民党だと言われていた。
おかしいのは宋教仁が前からマフィアのリーダであって、
彼が組んだ国民党もまるで青幇のようなマフィア組織だった。
こんな性質は蒋介石時期まで変わらず。
ところが、宋教仁はこの分が全然判らなかった。
っていうは当時中国の中央政府としての北洋政府は軍人政府だから、
議会とか、競選とか。全部無駄だった。結局、宋教仁は○された。
しかし、彼がタヒななければ、議会力で袁世凱の政府を制約するかわは不可能だと思う
宋教仁がタヒんでから、孫中山は二次革命を発動した。
でも、国民党は例のままに内闘して、北洋軍にたやすく倒された。
袁世凱の間違いは一つだった。彼は皇帝になりたい。
でも、袁世凱はそういうことを考えない
民国時期に入る中国人は皇帝というものが大嫌いだったから、誰か皇帝となれば、すぐに軍閥と人民の共同の敵になった
袁世凱は皇帝になってから、後のことは思うとおりに発生して、彼は退位しなければならない。
袁世凱のタヒんで彼の政府が崩れたにもかかわらず、中国は何も変化しない。
軍閥が割拠し、国も混乱し、孫中山の国民党も何もできなかった。
護法戦争だの、広州国民政府だの、国民党自身の激しくの内部闘争と彼の無能なところで、全部失敗してしまった。
第一世界大戦後、ロジア革命を起こした。
当時共産主義は新興の力として中国人に憧れられた。
中国共産党は1921年に成立した。
共産党が誕生した頃、色んな派閥もあった。
主な派閥は本土派と海外派(フランスで留学していた留学生たち)であった。
だって、国民党を比べれば、新興の共産党は団結のチームみたい。
派閥争いは国民党より弱くて思想が統一だった。
いろいろの失敗経ての国民党は共産党に学ぶと決定した。
それはソ連と連合し、共産党と連合した。
ソ連からの援助を使って黄埔軍校を建てて、自分の軍隊を訓練した。
それにもかかわらず、国民党の中で共産党を敵視する奴は多かった。
蒋介石を抜きにして西山会議派はもっと共産党が嫌いだった。
しかし、あの時、国民党の力が弱いから、共産党からの手伝いは必要だった。
孫中山がタヒぬ後で、北伐戦争が始まった。
でも、北伐軍は上海に到着してから、軍心は不安定になった。
あの時から、国民党と共産党の関係が急速に悪化した。
蒋介石は南京国民政府を建てた。
そして、彼は「工人と農民運動はこのまま続いたら、国民党はついに共産党に呑み込まれる」と言って、
清党運動をやって始めた。大勢の共産党と国民党の党員は○された。
清党運動が終わってから、国民党の基層は全部腐った。
蒋介石は中国を統一しない。新たな軍閥混戦が始まった。
北洋時代より、蒋介石時代の内戦は遥かに激しいんだ。
だって、南京国民政府が百戦百勝だけど、統制地域は全然大きくならなかった。
一方、共産党は派閥争いが弱いものの、蒋介石のような同じことをやった。
王明、博古などソ連で共産主義理論を習っていたソ連からの留学生はこの関係で
共産党のリーダになった。彼らは自分の統制力を固めるために、大勢の共産党員を打圧した。
しかし、あいつらの教条的なやり方と下手糞の能力のせいで、共産党はもう少しで全滅しそうになった。
結局、長征をしなければならない。名義では長征けど、実は逃げるのだ。
遵義会議後、毛澤東は共産党の実のリーダになった。
新興の共産党はあの時から本当の統一的な政党になった。
また、国民党は変わらず、砂みたいな組織であった。
国民党は主義主張が無く、言ってしまえば今の日本の自民党民主党のような権力欲だけで
つながってる集団だった。だから団結心も無く、内部腐敗がひどかった。
陣地を作るにしても、将校が作業員の給料から資材まで横領して売り飛ばす有様だった。
(売り飛ばした資材は共産党が購入して国民党攻撃に使われる)
一方で共産党は、共産党員が「共産主義」という主義主張のもとで一糸乱れず高い意識で
行動し、汚職腐敗も無く、すべての党員が「中華民族を解放してみせる」という意気込みで
国民党と戦った。だから一糸乱れぬ行動が可能となり、さしたる装備が無くても高い攻撃力が
確保できた。
また共産党は捕虜となった国民党兵士や将校を寛大に扱った。
元と言えば国民党兵士は小作農で経済的に困窮して兵士になったものが多く、
共産党の「耕すものに土地を与えよ」のスローガンが魅力的だった。
自分が耕す土地が自分の土地になれば地主による収奪も無いからだ。
よって国民党兵士は続々と捕虜となり、共産党軍に加わった。
また国民党将校も寛大に扱い、部隊ごと投降させることに成功した。
共産党は「捕虜は寛大に扱う、決して○さない」と宣伝したわけだ。
結果、モチベーションの圧倒的に高い共産党が勝利を収め、国民党はアメリカ軍の支援が
あったにもかかわらず敗北に敗北、内部分裂に内部分裂を重ね、台湾に逃亡した。
結論:結果を分けたのは軍事力ではなくて、構成員の精神、世論の問題である。
一号作戦の頃から、国民党はもう全然ダメだった。
日本軍の精鋭部隊は太平洋の島でアメリカ軍に消滅されたから、1944に至って戦闘力がある部隊は少なかった。
殊に一号作戦を発動したとき、日本軍の食糧や弾も足りなかった。
しかし、アメリカの空軍に協力されていたにもかかわらず、国民党軍はこの程度の日本軍と戦ってもすぐに崩れ、河南、湖南、広西、貴州を捨てた。
ローズヴェルト大統領はこの失敗の情報を聞いてから、怒って蒋介石に完全に失望だった。
一方、ソ連とイギリスは中国に冷やかしていた。
ローズヴェルト大統領はヤルタ会談でソ連軍が満州の日本軍に攻撃するために、中国を背を向けて満州の利益をソ連にあげる。
だが、こんなことは全部国民党の下手糞の能力のせいで。
あの時から、ローズヴェルト大統領は共産党を注目して始めた。
当時、アメリカの官僚は「蒋介石の国民党は必ず暴力革命で滅ぼされて共産党は未来の中国のリーダになる」と思っている。
結局、ああいう思いは事実になった。
日本語でおk
多分、外国人、それも台湾の人じゃないかなあ
嫌味はよせ
映画「戦場のレクイエム」(原題・集結号)
年明けに公開予定。
http://requiem-movie.jp/
中華人民共和国建国前夜、中国共産党と中国国民党との間に勃発した“国共内戦”の悲劇を描く。
47名の部下を失いただひとり生き残った主人公が、戦タヒした仲間の名誉を取り戻すため、
その後の人生を捧げる様子を描き、中国では歴代2位の興行成績を記録。
中国のアカデミー賞といわれる金鶏賞では最優秀作品賞ほか主要4部門を独占する成功を収めた。
1948年、新中国建設をめぐり、毛沢東率いる共産党の人民解放軍と蒋介石率いる国民党軍が激しい戦闘を繰り広げていた。
この国共内戦でもっとも熾烈とされたのが、 淮海戦役だ。人民解放軍の弟9連隊長グー・ズーティは、
47人の部下とともに、 淮海戦役の最前線に送られた。
激戦の中でたった一人生き残ったグーは、仲間のタヒは自分が撤退命令(集合ラッパ=集結号)を聞き逃したためだったとの
自責の念にとらわれる。
混乱の中で47人の遺体は行方不明となり、弟9連隊は忘れ去られるが、グーは仲間の名誉を取り戻そうと長く困難な闘いへと身を投じる。
米軍のスティウェルは「国民党は腐敗と権力闘争にまみれており
規律も国民の支持も失っている」と言っていた
孫文の頃には強固な思想を持った士官がいたが
世代交代に失敗してゴロツキばかりになっていたようだ
いや、そういう単純な話ではないはず
まだまだこれから調べられるべきテーマだ
そもそも最初の頃は毛たちの共産党軍のことは一般人から「朱毛」と呼ばれてたらしい
共産党の勝因?
日本軍が蒋介石の国民党の軍隊を、
ギタンギタンのメタメタにやっつけたからだろ。
これほど大きな勝因って他にあるか?
国民党負けたんじゃなかったっけ?
あんな快進撃は歴史上どこにもない
実際従軍したジイチャンは国民党は殆ど戦わないうちにすぐ逃げたといってた。
その国民党軍に連戦連敗の八路軍の弱さは想像を絶する
ただ末期になってからの八路軍のゲリラはなかなか強かったというか怖かったと言ってたな
実際国民党があんまり弱いんでジイチャンそれで調子こいてたら、
アメリカ軍と当たった時にアメリカ兵の勇敢さに参ったらしい
関東軍ってことは、満州事変のこと? 張学良の軍は確かに弱そう。
第二次上海事変の中国軍兵士はそこそこ勇敢だったらしいけど。
左派は共産党に合流、右派はイスラム教徒とくっついて
偏った状態になってたから
脅したりして、要するに庶民を味方につけたということがあったらしい。
共産党が最初に満州を得て、一気に強くなったとか読んだことある。
学研M文庫「現代紛争史」に国民党対共産党が載ってる。
国民党が実質自爆したから
それこそ国民党は最初から無差別強○、虐○をやらかし、兵隊は兵糧盗んで逃げ出す糞だった
ところが1936年に勝利できる可能性があった。
けどゴミだから裏切りでナシになった。
そして1938年の天津ダム爆○(これは各国に膨大に目撃された。またこのダム爆破を日本軍犯行とするプロパガンダをこくみんとうながながしたが
国民党はろくに人民救済もなく、各国メディアが嘘つき、世界最大のダム爆破テロリストと批判した
人類史最大のテロ、厄災、ノアの洪水であると
尚実はこの一回の攻撃などでもっとも人民を虐○したのはこの天津ダム爆破が史上最大の虐○テロだった)
でこれが最大の虐○事件だったが、これクオリティを全国でやったから、国民党の歩くところは略奪、虐○街道となった
そしてその虐○街道を正当化するため、なんでも難癖つけるために難癖日本軍犯行プロパガンダを流すクズだった
けど、この国民党のスケープゴートプロパガンダわ無論中国国民じたいが信じてなくて(そもそも天津プロパガンダとダム爆○がいい例)
これで国民の信用はなかった
あと戦後国民党はいちお勝者ってことだけど、既に国民信用最悪、政権運用物価調整力ゴミ、軍隊はボロボロで形式的な兵力しかなく実は20-30万しか兵力がない
そのボロクソ+米軍のソ連の満州入りに対抗して北京や天津を制圧しようしたわけだが米軍の作戦は失敗
これで穀倉帯を取られてたこと
そもそも当時中原の農業は天津ダム爆破で壊滅してて、ダム爆破以前の状況の90%も生産力を維持できなかった
だから穀倉物価が狂いまくっていた。でこれを満州開拓で満州が余剰な穀倉を放出することで農業経済を維持できてた
けど満州制圧された瞬間国民党の経済は狂って貨幣が崩壊した。
実は日本が満州開発したこと
日本が金を融通してぎりぎり天津ダム厄災の飢饉をやりくりしてた。けど穀倉と日本のし金がないから経済ぶっ壊れた
で逆に共産党は形式的に穀倉帯を抑えて農業回復させてるパフォーマンスを見せてる
だから兵力なんか無限にあつまる+養えた
たいして国民党は物価調整できなくて、略奪のための兵数すらいない。兵力すら養えない。これで詰んだので
兵力獲得競争の入り口で失敗した。結果公証300万VS400万の戦いだけど、国民党の内実は
ww2で雇った兵力の残存兵力20-30万
台湾兵10-15万
緊急動員戦力50万
も集めれなかった、究極的に扶養も略奪も物価安定化=市場からかうのも失敗した
逆に共産党は武器なくても300万以上の人員で行政制圧するだけだったから、クソ簡単に全土掌握した
あとは正規軍レベルでも共産党は日本軍おおくいて万超える兵力があった。日本軍だけでね
たいして国民党は米軍があんま加担しなくて、日本軍は後半まで雇わなかった結果
雑魚国民党兵しかいない。そもそも士官以上の戦力は日本とたたかって8-9割タヒんだ。
だから正規戦も勝負にならなくて負けた。アメリカからの武器供与も少なかったし、最悪国民党のもってる日本軍の武器より少なかった
でクソみたいに勝負以前に負けた
そもそも国民党の悪名は序盤からやばかったが
悪名と馬○さを最大限にお仕上げたのは例の天津爆発であれで完全に国民を敵にした
そしてあの時期日本軍の統治がクソうまく行って、馬賊と共産党、国民党系200万しか反乱しなかった
理由は日本軍が天津ダムの罹災救済を行った。
満州開拓でダム罹災で農業市場が崩壊する中国を救った。そもそも満州開発がなんで大増産で成功したかって言ったら
1938年以降莫大な天津罹災民が満州に1000-2000万単位で流れ着いたから
だから満州の人口+農業生産はごく短期で激増した。満州事変以前人口1000万いなかったのに1945年には人口3000-4000万になった
これ天津罹災民が爆発的に流れてきたからだ
また南京政府も国民党が農業ぶっ壊した結果、日本なしで経済が成り立たなくなった
だから反乱なく臣従的で、国民党が人畜ってみんなしってたから中元制圧は極めて成功した
もう基金と難民で反日どころじゃなくて、日本の保護化じゃないと生存できなかった。だから日本支配域では統治は暫定成功した
辺境の共産党、満州の匪賊、国民党は別だが、あの当時一番厄介だったのが多すぎて5000万以上いたであろう罹災民で
反乱勢力は公証200万というが、実は国民党、共産党、匪賊含んで100万もいなかったと思う
理由はむしろ日本軍に寄生しないとみんな生きていけなかったからね
だから匪賊といっても味方の馬賊も多数いた感じ。もっとも終戦期の満州レ○プは味方の裏切りものの馬賊がやった可能性も十分存在するが
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1171879029/
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