大政奉還があっても江戸幕府が存続してたらどういう社会になっていたか考えてみよう
>>1
江戸が懐かしレトロ扱いになって江戸検定ができることもなかった
今月4日に受験したんだけど受かってるのかどうか心配で吐きそう
自己採点は合格基準より若干上だけどたいてい少し取りこぼしがある物だから
それとも小栗上野介の構想みたいに諸侯を廃止して徳川主導で中央集権化してるとか?
今よりは東京一極集中が進んでなかっただろう
鎖国だとオランダ(オランダより良い貿易国ありそうだが)と中国とかだろ?
江戸が上方の生活水準に追い付いたのは化政期以降
無能な藩主による搾取が続き飢餓が数年ごとに起きて
一揆も多かった
上方や江戸や雄藩と言われるところは良かったが
うちの地方にとっては江戸時代は最悪としか言いようがない
半独立国が乱立してたようなもんだから
優秀な地方と無能な地方の差が今より激しくなってたと思う
すべて百姓町人などの豪富家は、黄金の番人に異ならず。
世間饑飢に苦しむとも格別の施しもいたさず、執拗して人の誹りを得、英雄豪傑の世となりては、
あへなく奪ひ取らるも知らで、いたづらに番をいたすの愚痴なるものばかり多し。
(清河八郎)
「清」は”眠れる獅子”と畏敬されていたが、日清戦争で日本に敗れ、時代遅れの前近代的実態が
暴露された。
日本は明治維新によって近代国民国家に脱皮したのがその後の国家発展の礎となった。
そら江戸幕府だってその前の時代の蓄積の賜物
朝廷を邪険にしたところで武家社会自体、公家社会の模倣品
江戸時代の蓄積は否定してないだろ無能が多かったから取ってかわられただけだ
「清」は”眠れる獅子”と畏敬されていたが、日清戦争で日本に敗れ、国全体の前近代的実態が
暴露された。
日本は明治維新によって近代国民国家に脱皮したのがその後の国家発展の礎となった。
日清、日露、第二次世界大戦でも一般庶民からの徴兵はなかったってことだよね
>>52
武士の数が足りない。
百姓からは通称「足軽徴兵」があった。
>>53
非常に分かりやすい例えだね。
もし江戸幕府が存続していたら、軍隊の実態は、日本幕府軍 = 帝政ロシア軍 = 清軍
現実の歴史では、大日本帝国陸海軍が戦った清軍も帝政ロシア軍も当時の最新式の兵器を
装備していながら、徴兵された兵卒たちの士気は決して高くなく、戦況が不利になると士官・
将校の叱咤激励にも拘わらず、勝手に戦線を離脱して逃げ出した。
結局、日清・日露の両戦争における日本軍の勝利は敵が前近代的軍隊だったためにもたら
されたものだった。欧米列強の近代的軍隊と戦っての勝利ではなかった。
この点を理解せず、慢心してしまったのは日本人として痛恨の極みだ。
この慢心と驕りの”つけ”は40年後の悲惨極まりない敗北を以って支払うことになった。
いいかげんなこと書くなよ。
清軍は兵士の士気については確かに色々疑問もあったが、
ロシア軍は開戦当初の士気は極めて高い。
士気が低下するようになったのは連戦連敗を重ねてから。
天子様より大政を預かり、国防軍最高司令官も兼ねて、太政大臣大将軍がトップである
天皇は新宿御苑に転居
公家と上級武士の合体で華族制度が始まるだろう
下級士族や財閥は貢献次第で一代限りの騎士に格上げ
徳川が立憲君主で天皇は法皇
政教一致の初等教育が始まり、教室には日章旗を挟んで徳川王と明治法皇の写真が飾られる
嘉永年間の黒船来航以来、尊王攘夷を唱える草莽の志士が勢いを増す
慶応年間、討幕の声まで出てくる
時の将軍徳川慶喜は、天朝をないがしろにはし難し、ここに至りては大政奉還も考へ居り候
これを聞いた公家は大慌て、行政一般我らに投げ出されても困惑あるのみ‥
大政奉還の大芝居で徳川はヘゲモニーを奪取
諸侯参与会議を興し、最大大名として議長に収まる
こうして明治の世の徳川主導による文明開化は始まったのである
薩長と云う目の上のたんこぶが居たからしぶしぶ近代化の方向も見せただけで
居なければ参勤交代も復活させたいというのが本音だし大政奉還も反対だ
>>59
>そもそも幕府が自分で近代化するという前提がおかしい
べつにおかしくはない。安政、文久、慶応と改革してるわけだし
人材で言えば幕臣は全国の有識者を吸い上げてたから一番揃ってたわけだし。
追い詰められて大政奉還により幕府をやめて討幕の対象を降りた
しかし、これは方便であって新たな政体で主導権を握るという構想は実際に慶喜が考えていたことだ
慶喜が大政奉還した時点で江戸幕府は終わりだよ
それ以降も慶喜が主導権を握る工作活動があったから
大政奉還しても江戸幕府は続く可能性があったじゃなくて
大政奉還した時点で明治天皇と公家たちに政治を返したんだからさ
慶喜の工作を潰すために、西郷、大久保らの意を受けた岩倉具視が小御所会議において、新しい政体は天皇自身が中心であるとの主張を持ち出して酔っぱらった山之内容堂らを論破した
徳川の出る幕は御座いません、政治はちゃんとこちらでやりますからと、徳川慶喜の辞官納地まで決議された
王政復古のクーデタと名付けられていることである
討幕派のこうした工作がなければ徳川は最大の大名のままであり、予断を許さなかったものである
(議論の最中、西郷は隣室で短刀を握りしめたまま、徳川潰しのためならいざとなったら刃を振るってでもと覚悟していた)
>>68
小御所会議のメンツを見てみなよ
明治天皇別格、会議を主催する総裁は皇族
議定は皇族&公家5名、元藩主5名
参与は公家5名、薩土などの藩士11名
終始発言の主導権を握ったのは明治天皇を擁する公家たちであり
山内容堂の要求はこの会議に徳川慶喜を呼ぶか呼ばないかであった
慶喜は呼ばれていない時点で新政府のメンバーなどではない
西郷は会議の出席メンバーであり隣室で短刀など握りしめていないw
もっとも西郷はこの会議において終始発言はしていない
ただ、幕府は陸軍も近代化していたし、海軍も持っていた
西洋化しなければ諸外国に伍してゆけないとは思っていた
幕藩体制を維持したいなら慶喜が台頭する前に手を打たないと無理
しかし同時代史料には見えない
短刀一本で片付くも浅野長勲自叙伝
徳川幕府がそれを出来たか?と言えばまず無理であったろう
下っ端は車夫になったり、底辺の生活が多かったという
大身の旗本なんてのはどうなったんだろう
立派な屋敷は新政府の官舎になって追い出されたとかいうし
そのせいで征韓論だの西南戦争だの起こるんだからな
>>78
明治維新(1868年)は世界で最もうまくソフトランディングに成功した革命又は市民戦争と評価され
ているよ!
同時期に他の国で起こった革命又は市民戦争と比べて見れば分かる。
例えば、アメリカの「南北戦争(American Civil War)」(1861~1865)は農業を産業基盤とする
南部州と工業を基盤とする北部州の争いだったが、参戦兵士数は400万人で、戦タヒ者は62万人、
うち北軍が36万人、南軍が26万人に達した。
一方、明治維新では戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い→江戸城開城→上野彰義隊戦争→会津戦争
→五稜郭の戦い、1868~1869)での全戦タヒ者数は1万人以下だ。
今の平和な日本の善悪の基準、価値判断に基づいて150年前の革命、市民戦争を裁断すると、
評価が偏ることになるよ。
三千石でも無役、のんびりし過ぎて学問もしてなかったんだろう
IR推進法趣旨説明
担当老中 水野北海道守
賭場を含めましたるよろづ遊び場を整ふるをめぐり、平成二十二年発足致しましたる参与連盟が種々工夫を凝らし来りて、平成二十八年師走にはよろづ遊山区画を整ふる御定書も発布致し居り候間‥
御味方を背後より斬りつけんとするこれまでの所業を覚えたる幕臣多しとは聞くが如何なる仕儀とならんや
大奥の年寄野田と共に我が身を嘆き、他日を期して歌舞伎芝居もかくやと思はす睨みを利かすか
志士を希望される江戸町民の皆さんは
奉行所HPまでメールをお送りください
列侯会議と庶民会議の二院制になっていた。
皇室と公卿は京都に在住して、官位の授与・文化政策を担っていただろう。
江戸幕府は譜代大名しか政治参加できなかったんだよ
大老も老中も譜代だった
容堂や春嶽が目指した新体制ではこれを見直し
天皇を国家元首とし、徳川慶喜を議長とする議会を開いて
外様大名を含む全藩主を議員とするという案だった
譜代の特権をなくした時点で江戸幕府とは異なるものだった
>>91
そんなことはない。
和親条約の時には大名どころか藩士、一般町民にまで意見具申を許してるし、
現に吉原の幇間何がしという町人の意見書まで残っている
通商条約の時点でも一定の石高以上の藩にもれなく意見させている。
2回諮問して、2回目に薩摩も土佐も賛成に転じて反対したのは水戸尾張のみ
慶喜が将軍位につく慶応2年頃になると、全国の諸大名の推戴を受けて就任という形に
こだわるようになるから、薩摩藩あたりより政治参加を許容する範囲ははるかに広くなってる
大名・幕臣・町人への諮問は、時の老中・阿部正弘の個人的見識と政治手腕によるもので、
江戸幕府の組織的体質から発したものではなかった。
その証拠に、阿部の急タヒ(多分、過労による)直後に大老になった井伊直弼は強権政治を
行ない、反対派を弾圧している(安政の大獄)。
>>99
阿部が卒去してからもやってるよ
2回目の諮問は井伊直弼の時代だし
あと「井伊直弼の強権政治」と言われてるものはやや誤解を含む
強権政治の実態を覆い隠すために、諮問の形だけ真似て阿部の政治を引き継ぐふりをしただけ
だろう。
2回目の諮問から何か新しい具体的な政策が出て来たの?
それはあなたの妄想にすぎません。
事実、雄藩は全て諮問に応じ、しかも1回目の諮問では多くの反対意見が出ています。
それが薩摩、土佐藩などが次第に賛成に転じたことで2回目には水戸、尾張のみになった。
民主化しろーとアメリカさまにぶっ叩かれて、民主化
元禄の後からは人口横ばい
その前は寒冷期で寛永元禄飢饉があっても1世紀で人口1.5倍増
僻地でも無理に米作って、沼地荒地を農地転用し続けて、有史以降最も身長が低くなり、150年以上経った維新前でようやく1割増
トンでもねーと思ったが、産業革命が遅れる分だけ可住面積当たり人口密度は低く収まり、人口ピラミッドも今よりは幾分健全になっているだろうな
そう言う勇ましいものだったそうだ
合議制で評議重視。積み上げ型。
上に政策あれば下に対策ありとの中国人一般ピープルと同じく、規制を受ける側のしたたかさを示しては居ようが
アメリカと戦争してなくても戦後は国連指導のもと世界的に民主化の動き
世襲の軍事政権はどこも潰れている
財政、統治という点では優れた政治組織だったと思う。
そうでないと約270年も続かないよね。
問題は封建制や身分社会だったということ。
>>125
近代国家を作るとなると、今まで民間に任せてた部分(司法、町村行政、徴税)
は国家負担になるし、軍事費も増大するから租税率はどのみち上がった
明治国家だろうが江戸幕府近代だろうがあまり変わりはない
ただ、政権の志向性はだいぶ違いそうだが
中国も共産党が山賊、国民党が腐敗というのはやっぱりDNA的なものがある
明治政府の滅茶苦茶な富国強兵やらなければ税金は安くすむからな
江戸幕府が続いていたら外征もせず、貧富の差も広がらないから第二次世界対戦も
東アジアは無関係で好景気を謳歌していたかもしれない
廃藩置県と産業革命により武家のブラック化が進む
外様への普請強制から幕府負担になって、出費抑制のため武家の大規模リストラが始まる
出勤日は1勤1休から4勤1休→半ドン+週休に、労働時間/日は4~6時間から8時間以上へ
下級武家の副業は内職から工場労働になり過労タヒ続出
町人商人の上司オーナーにブチ切れて無礼打ち→切腹者続出
お家断絶で娘は吉原、奥方は夜鷹
女衒に二束三文で買い叩かれる箱入り娘と奥方の悲劇は瓦版と浄瑠璃の定番となる
実際文化露寇では戦闘が起こってるし(約一世紀後の日露戦争とは異なり一方的にボコられて終わりだったけど)
江戸へ流れて無宿人、餓タヒしてたろうな
江戸幕府の存続の条件をどうするかによっても変わってくるだろうな
将軍は誰なのか、雄藩との折衝はどうするのか、列強との交渉にはどうあたるのか等々
https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/47/0000262847/76/imgad175344zik8zj.png
彼らの大義名分が薄まる組織表でなければダメだね
独立を保つために満州あたりや朝鮮を併せ持つ必要がある
将来は盟主の元、国々が同盟をすることになろう‥
先ずは、将軍継嗣に一番賢そうな一橋慶喜を持ってくる事を画策、障碍となる大老井伊直弼の失脚を目指したらバレてしまって斬首されてしまった
>>142
>障碍となる大老井伊直弼の失脚を目指したらバレてしまって斬首されてしまった
福澤諭吉が明治維新後も政府に入ろうとせず、生涯民間で活動し続けたのは、
適塾同門の左内のこの悲劇を目の当たりにしたからかな?
下手に政治に関わると碌なことがないと考えた?
共に大阪の適塾で学び、英才と讃えられた同い年の福澤諭吉と橋本左内
福澤諭吉(1834~1901)
橋本左内(1834~1859)
左内は1859年に井伊直弼の安政の大獄に連座して斬首されたが、片や、諭吉はその前年(1858)
に江戸に出て、慶応義塾の前身の洋学塾を開き、以後40年あまりにわたって近代日本のために
数多くの人材を育成し、著述や新聞発行等によって国民を啓蒙し、指導し、日本社会の進むべき
道筋を照らし続けた。
対照的な人生だったね。
素晴らしい才能を持ちながら、若くして非業のタヒを遂げた左内が本当にかわいそうだ!
江戸時代は九州と四国と本州と北海道が
橋やトンネルで繋がってなかっただろうから
九州から本州、四国から本州、北海道から本州に行ける者がかなり少なくなっていたと思う
そもそも江戸時代に生きていた人間は
九州、四国、本州、北海道に日本が分かれていた事を知っていた者はかなり少なそう
皇室典範的な皇族制度とか旧来の家格を無視した華族(爵位)制度とか
ただ名目上は帝国となりそうだから親王は大臣の上座になりそうだし
被差別民も名目上ながらも平民化しそう
陪臣や庶民からの役職取り立ては激化するだろう
ただし新華族の取り立てはかなり厳しくなりそう(閣僚級になってやっと男爵とか)
明治維新がなく、江戸幕府が存続していたら、日本は「清」のようになっていたと思う。
日本幕府軍は、士官や将校は武士出身で兵卒は百姓や町人という帝政ロシア軍みたいな
編成の軍隊にになっていただろう。
そして、極東に進出してきた西洋列強の近代的軍隊と戦って敗れ、植民地にされるか、少なくとも
国土の一部をもぎ取られていただろう。ちょうど清国のように。
史実では、 「清」は”眠れる獅子”と畏敬されていたが、日清戦争で近代国民国家日本に敗れ、
国全体の前近代的実態が暴露された。
日本は明治維新によって近代国民国家に脱皮したのがその後の国家発展の礎となった。
(誤)近代化国民国家 ➡ (正)近代国民国家
幕府直臣以外は活躍できない
幕末の幕府ほど身分を超えて有能な人材を登用したところは当時他にない
その点諸藩の方がむしろ因循
元々小禄の旗本や御家人層(惣領・伜や厄介も含む)から勘定・代官・右筆職域を経由した布衣以上の高官への登用は珍しくないし
そもそも養子や御家人株の取得による幕臣身分の獲得がそれほど難しくないことは周知
幕末になると外国方や海陸軍での登用がドラスティックに増加している
寛政年間で5200家ほどの旗本がそこから50年程で6000家にまで増加
御家人だと1万数千家から2万にまで増えている
人物を挙げれば小禄旗本からだと勝海舟
御家人からだと川路聖謨、井上清直、榎本武揚
幕臣以外からだと緒方洪庵、大村益次郎、福沢諭吉、西周、津田真道、加藤弘之、渋沢栄一、大鳥圭介、前島密などが登用されている
>>171
幕府による人材登用の例として挙げてよいのは、幕府の方針に賛同して幕府のために、又は
日本のために歴史的功績を上げたり、歴史に残る貢献をした人物だけだろう。
この基準に照らしてみると、大阪の適塾関係者(緒方洪庵、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介)
、特に緒方、大村、福沢の3人は日本史に残る不朽の功績を残した人たちだが、幕府との関係
で見ると、ほんの一時期、幕府の組織に身を置いただけで、すぐに幕府から離れている。
この偉人たちを幕府による人材登用の例として挙げるのはふさわしくないと思う。
>>171で名前の上がっている他の偉人たちも同様にその生涯をきちんと調べる必要がある。
また、幕府にも優秀な人材は数多く、外国情報の分析や条約交渉なんかでも活躍してた
(岩瀬忠震とか)
ただ、旗本は役立たずになってしまったということで、伝習隊というフランス仕込みの幕府歩兵を養成した
天領での徳川幕府の年貢=租税は安い
つまり安い税金では列強諸国と対抗出来る軍事力は整備出来なかったということ
幕府が国で藩が県か市町村か。
侍は公務員。
今と一緒だわ。
実は単なるヤジに過ぎない
何だかんだでやっていけてるし革命を起こしてまで生活を壊す気はない
一方で政治家(幕府)と役人と商売人(巨大企業)は民衆がなんとか納得してくれる道を模索する
要するに今と同じ
幕府を潰すのが慶喜か薩長かの違いに過ぎない。
江戸幕府から明治政府の移行で決定的重大なことは大政奉還よりも版籍奉還、廃藩置県だと思う。
今、假に幕政を脱して版図と人別の籍とを天朝へ奉還致し奉り、藩を廃し縣を置かば如何
侍は藩君に仕ふるに替りて天朝の政府に仕へて國縣の官吏とならん
是、武家社會に変はらずあらん哉
亜米利加合衆國、独逸連邦共和國、共に各州の権限強くして郡縣制度と違ふ者也
仮に徳川中心で郡県制が実施されたとしても華族のような身分制度は設けられただろう
ただ華族のようにそれまでの家格を無視して現米高で格付けするのではなく江戸時代の伝統的な格付けに準拠したはず
当の幕府の当事者である慶喜や小栗自身が幕府の旧来の体制を解体し、郡県制と中央集権を志向していた。
大阪商人が政治を支配し
天皇が仲介する
そんな世界
土民が政治に苦しみ
経団連が政治を支配し
天皇は飾り物
そんな世界よりは美しい国
さもなくば外国の植民地になるかで、江戸幕府がそのまま存続、という仮定ができない。
日本でも革命が起き、今頃大統領制になっていた。
第二次世界大戦も日本は深くかかわっていない。
当時のドイツ諸邦や大昔のイギリスみたいに大名がそれぞれ軍隊を持ってたかも知れない
実際幕末には新軍役として構想されていたし
維新後の諸藩にも1万石につき1小隊60名、2小隊で1中隊、5中隊で1大隊(端数は3中隊で1大隊編成可)、2大隊につき1砲隊という基準があった(人員はともかく編成は幕府陸軍と同じ)
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531713308/
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