【戦国時代】戦国時代における日本と世界の軍事力を比較考察してみたい
輸送抜きにして考えてみよう。
単純比較は全く意味が無い。
陸なら日本はかなり強かったと言えるが、海戦じゃ朝鮮如きに
遅れをとる始末・・・
遠洋を渡る船の必要性が無かった、当然出遅れる。
>>10
おいおい、文禄慶長の役で、朝鮮に送られた明軍は、
明全土から集められた精鋭だぞ。
日本軍対明軍は主な戦いで10戦あるが、
日本軍9勝
明軍 1勝
その1勝ちでさえ、明朝鮮連合軍61000人が1万人前後の小西行長軍を
和平と偽って騙し討ちにしたものだ。
それでも小西行長軍を殲滅できずに城を明け渡す方針に切り替えて城を奪還したんだよ。
明軍も大損害を出している。
>>32
いや、李氏朝鮮の記録を読めばわかるけど、
慶長の役後に行われたの総括でも、
明史に描かれているような認識だったよ。
『明は手のうちようがなかった。秀吉がタヒんだおかげで撤退してくれた』とはっきり書かれているんですがこれは
内紛状態に陥ったのが原因だからな
むしろその状態でも秀吉がタヒぬまで持ったというのはすごいことだろう
待てよ。当時の明は(少なくとも量は)世界最強と言っても過言じゃないだろ。
20万の大軍勢をボコれる欧州の騎士()がどこにおんねん。
その明を苦しめてその破綻の一因としたり朝鮮()をフルボッコにしたりしたんだからからその結果に満足しようぜ。
戦争は数じゃないって事は鳥羽伏見の戦いなど推挙を厭わない
数を覆せるのは装備性能・会戦時の士気・地勢・指揮官の能力など覆せるだけの状況が整った時だけ。
戦争が物量や兵力で決定されるのは軍事学の基本で、孫子も言ってる
戦力の質(装備、練度や統制など)が同等なら、数が多い方が勝つ
逆に言うと数で劣る方はそれを覆すだけのプラスアルファを用意する必要がある
数は絶対ではないが、重要なファクター
各軍の実践での戦力比は兵力の2乗×武器性能比で表される。つまり武器性能が2倍程度劣っている程度なら、
兵力が2倍いれば覆せるという事だ。実際には指揮官の戦術能力や軍の統制度、偶発的条件や地勢なども加わってなかなか
原則通りにいかない事もあるが。
いくら数多くても士気が低いと負けるのは必定
対馬に攻め込んだ朝鮮の大軍が少数の守備兵にボロ負けしてるの見ればこれは明らか
数なんて作戦や士気次第でいくらでも覆せる
そんなゲームみたいに簡単にいくわけないし
士気が下がりやすいのも寡兵の方
実際戦いを見ると寡兵の方が寝返り・抗戦せず降伏、逃亡など非常におきやすく勝っても領土広がらないから士気も上がらず
長期戦になったら糧道断たれたりして簡単に枯渇する
兵力差が覆ってるのは地形による補正が大きい・寄せての指揮官が馬○か間抜けで油断してる・寡兵側の戦術があざやか、装備性能に差がある、偶発的条件に見舞われるなど
特定の条件を満たした時だけ。普通にガチ○コで正面から同じ条件の兵がぶつかりあえば100%大軍側が勝つのが戦闘
つうか普通に考えりゃわかるだろ。20人と10人に同じ条件で殴り合いさせて10人の方がかつなんてありえないんだし
20人側は10人分の攻撃を20人で分散して受ける事ができるが10人側は20人分の攻撃を集中して受ける事になるし
実践での戦力比は400対100の比になって現れるほど圧倒的に数の影響度は大きい
戦争は数で決まる
数を覆せるのは装備性能・会戦時の士気・地勢・指揮官の能力など覆せるだけの状況が整った時だけ。
戦争が物量や兵力で決定されるのは軍事学の基本で、孫子も言ってる
その明の正史である「明史」には、『明はどうにも出来ず負けていた。秀吉がタヒんだおかげで撤退してくれた』と書かれているんですが
それは
明史は明を滅ぼした清が編纂したものです
つまり明治政府が江戸幕府の歴史を編纂するようなもの
毛利家ですら元就時代に既に硝石は自国生産で賄っているからな。
(古文書が遺っている)
とても思いつかない。
つまりそれだけ訓練を要求できるということは
とても慢性的な火薬の欠乏で弱っている様子ではないということですね
慢性的な火薬の欠乏で弱っているから訓練を要求したり火薬・弾薬の数量を規定したりしたんだろ
なんでそんな必タヒになるのかわからんわ
天正四年の軍役状には弓に関しても
一、弓上手之射手、うつぼ・矢根・つる不足なく支度すべし
とあるわけだが、長篠の戦場で弓矢に関する道具が不足したのかな?
用具が慢性的に不足していたせいで射手が訓練不足だったのかな?
本当にやる気なかったんだな
また縦深のある方陣引いたという記述があればどうぞ
ないなら多少デフォルメされてたとしても屏風絵絵巻にある様な横隊と考えるべきやね
>>178
足軽や騎馬には侍が対抗しちゃいけないってルールでもあるのか?
つかそれこそ侍に対して足軽や騎馬が対応すればいいだけの話だろ
騎兵突撃が普通に行われてたのに対して対騎兵戦術が全く発達してないのはおかしいって話
縦深が一列や二列しかないのに騎兵の突撃を止められるっていうのはいくらなんでもおかしいだろ
絵巻では単に省略して画かれてると考えた方が筋が通るんじゃないか
「なぜ日本では歩兵と騎兵の分離が行われなかったのか」って問いと同義なのかもな
例えば数百台の車が一斉に走り回れるような土地が日本にどれだけあるか。そういう想像力を働かせるべき
つか西洋でも「総数」はともかく、局地戦で数百も騎馬隊配備するなんてのはめったにないぞ
太刀サーベル騎兵での乱戦主眼の運用だったのかもな
ヨーロッパの胸甲騎兵はサーベルの他に対騎兵を想定してピストルを持ってたから
槍が使えなかっただけなので別に乱戦主眼にしてたわけではないんだけど
サーベルだけじゃ突撃衝力が足りないってことになって結局槍騎兵復活してるし
つまり槍持たない理由になってない
Wikipedia中国語や百度百科だとかなり詳しく紹介されている
李如松が戦った平壌戦の経緯。
平壌城攻防は、小西行長が
ア○みたいに律儀にも明との和平交渉を信じ込んでて、
これまた停戦期間が過ぎても、進撃もしなかった
斥候を出すようなこともしていなかった。
そんな中、李如松率いる61000以上の明と朝鮮連合軍に
小西行長軍8000~15000は奇襲攻撃された。
1・和平と偽って騙し討ちで奇襲
2・奇襲かつ4倍近い兵力で挑んだものの大苦戦で、小西軍を殲滅できなかった
3・日本兵一人を討ち取るのに明軍5-6人を失うと記される小西軍の勇戦。
4・結果、明軍は3000のタヒ傷者を出し、4人の武将も負傷している
5・明軍が得た1285の首級の半数は朝鮮人の首(偽の戦果報告のため)
詳細は以下で。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffcf9hyw5e
そして日本軍が占領しているソウルまで落とすと豪語したけど、
日本軍に碧蹄館で返り討ちに遭って大敗した後は、
泣きをいれたり、ファビョツたり、
病気(仮病)になって戦えないと明本国に報告したりと情けない。
http://town.zaq.ne.jp/u/es1772329/i5eiffct5jbopc
李如松を英雄と呼ぶにはちよっと情けないポカが多いな。
精鋭の明軍1000人が、たった30人の日本兵に
リアル無双されまくって200人以上もタヒぬとかw
「天安 大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解摠兵 等四將, 去夜發 稷山 前來, 唐兵亦多タヒ者云。
(宣祖実録9月9日)」とあるように、戦場に黒田軍本体、さらには毛利軍が駆けつけるに及び、
明軍は数的劣勢に陥ったため退却し、また多くのタヒ者を出したことも記録されている
その当時はスペインやポルトガルでも極東にガチ部隊送りこめるような国力はない
産業革命以前はどこも自分のホームちかくじゃなきゃろくに戦えんよ
未開の土人だらけの土地だったから征服できただけ
大航海時代のガレオン級イスパニア南蛮大型船クラスの艦船を揃えて
肥前名護屋から釜山程度の兵站線を維持できなかったというのは
あまりに奇々怪々
さすがにそれは渡海した西国緒将も三成憎しは当たり前か?
実際のところ三成だけが槍玉に挙がるのも可哀相だがw
九州征伐・小田原攻め・四国征伐では辣腕発揮してるけどな
家康も秀吉も抜きの戦国オールスターズ?
元就も信玄も謙信も抜きで?
>>296
逆
「明史」の記述
7年の戦争で莫大な財を消費し、膨大な兵を失った
明と属国朝鮮には日本との戦争に勝算が無かった
ただ秀吉がタヒんだことで禍が収まった
幸州山城の戦いとか一日で撤退してる
>>305
幸州山城は日本勢に切り込まれて落城寸前だったけど、
朝鮮の船40程が河川に偶然に現れたので、
日本軍の諸将が会議を開いて慎重策のために、
遠征軍の将たちは
日も暮れてきたしどうせ城も落とせるのだからと
一旦、後退。
翌日に物見を派遣したおり、敵が夜のうちに逃げたのがわかり、
大名たちは用心に過ぎずに一挙に攻めておけば・・・
と悔しがった。
城の朝鮮軍は当然、それ以上城を保持できるハズもなく、
すぐに城を放棄して逃走。
これが幸州城の戦いの顛末。
>>306
遠征軍が統治していたソウルから幸州山までは、
40キロ以下なので兵糧は関係ないね。
鉄砲の数に加えて剣術の優秀さ、武将、兵士の練度の高さがあるしな。
結果として明各地から集められた実戦経験方な明軍が日本軍に連戦連敗した。
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1369600521/
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