鎌倉時代の元寇で有名な文永の役って神風は吹かなかったのが今の定説って知ってた?
季節風頼みだから期限切れ
二回とも相手壊滅させて撃退したとかは誇張というだけで
1281年→こっちは神風で間違いない
台風のおかげで助かった=左翼思想
リアルに実力で殲滅したのが事実
最近左翼史観のそれ感じる
日露戦争もロシア革命で日本は不戦勝のようなもの説も覆されている
ノモンハンも言うほど日本がぼろ負けしたわけじゃなかったっていうよね
ソ連側も損害受けてたっていう
2回目は日本が磐石な対策してたから攻められなくて逃げようとしたら台風が来た
天候が良くて沈む可能性低いから台風か時化はあった
上陸出来ても食料資材を確保でき無ければ兵站を維持できない
その辺を甘く見たのがモンゴルの敗因
補給を軽んじれば敗れるのは
ナポレオンヒトラー大日本帝国皆同じだな
ベトナムでもわかる通りゲリラ戦には5倍ぐらいの戦力差が必要
第二次でアメリカ相手にゲリラ戦したけど10倍以上の火力差だったからな
西新の真ん中辺りまで来てたよ
一般兵は沈んだけど上層部は乗り切ったとかいって
文永の役ではちょっと強い雨風があった、くらいで
ヤバいから逃げ出すか、になったというのが真相
あと、文永の役は脅しあるいは威力偵察の意味合いが強く
本気で日本を征服する心算ではなかったらしい
弘安の役は本物ね
あの手この手で意外な仮説を立ててくるよね
「聖徳太子はいなかった」とかな
そのあと直ぐに発生する倭寇の誕生への呼び水になった
歴史って関連性を読み取って語るべき
モンゴル兵は用船戦闘には長けてなかったので海戦は徴用した外人部隊頼み
文化は成熟してたが武力はほとんどない南宋を征服するのに2代60年ぐらいかかったのは
大河を挟んでたからなんだよな
ただの強風だから神風ではないって勝手に神風の定義を作って否定してる糞仮説
元寇時の鎌倉武士打線(最新の研究)
1(遊)モンゴル襲来の6年前に大陸にヤベーのがいるのを察知して情報収集してた
2(三)壱岐・対馬は見○しにしたのは敵情を研究したのではなく単に対馬守護少弐氏への嫌がらせ
3(一)最初の蒙古襲来で人質を盾にしてたモンゴル軍に人質無視して射○してた
4(指)博多を略奪したのではなく物資と人員と銅銭を徴発してただけ(太宰府天満宮に「徴発やめてよー」という願文と請願が残ってる)
5(右)蒙古襲来4年前に非御家人の動員の権限を幕府が接収、北九州に西国の武士を集中させてた
6(左)使者をぶっ○した時に書状を見ずに○したために三度目の使者の書状が和睦(休戦)の使者なのを知らなかった
7(中)二度目の南路軍来るのを半年前に察知して海賊が襲いまくって南路軍が博多に来たときはボッロボロだった
8(二)鷹島掃討戦で高麗人、モンゴル人は皆○しにしたけど女と宋人は助命してそのまんま戦利品として6千人ほど御家人で山分けしてた
9(捕)実は元寇の後にに来た高麗と元の和平の使者を話を聞かず6回ほど博多で○してる
挨拶に来いって言いにきただけ
道案内を買って出た馬○どもがやる気満々だったけど
ボコボコにされて逃げ帰った
そのうち台風来るのはわかってたわけだし
今で言う修羅の国だぞ
その頃は関東の侍がバンカラで日本一強いと言われていたんだよ
2回目14万でリベンジしに来たどまたボコられて沿岸退避
すれど船上でもボコられまた暴風雨で殲滅
そのあたりの向こう側の記録て何もないの?
聖徳太子は後戻り出来ない権益者かつ気の毒な連中が今も多いからな
元寇
モンゴルが南宋攻略して高麗を支配して天下の数が14~15万
数ヶ月洋上で九州に陣地すら築けず
六波羅幕府本隊が来る前に地元民だけで壊滅
文禄・慶長の役
中国四国九州らだけの西国の諸大名で15万
肥後半国の小西行長ら15000で漢城を20日で陥落
もう一つの肥後半国の加藤清正軍はオランカイ到達
秀吉タヒ後疲弊消耗したとされる西国軍は下野やら関ヶ原まででて戦で活躍している
それで大陸の軍は日本より弱いとバレて日本の倭寇が荒らし回るようになった
でも明治維新で日本は神に守られた国という説を流布させるために歴史が書き換えられた
戦前の教科書でも武士が頑張って勝ったことになってたよ
戦後GHQが作らせてた教科書で武士が苦戦したのに嵐で助かったことにされた
日本は神国だからいざとなったら神風が吹くと宣伝した
実際は鬼畜の鎌倉武士が大陸のモンゴル軍に損害を与えておい散らかした
何しろ元軍が威嚇しようと日本側の大将首を持ち上げると
その首を取り上げようと武者どもが一斉に襲いかかる
人質を盾にしようとすると人質ごと射○そうと矢を放ってくる
博多の街は前もって略奪して灰にしておく
夜襲では船の上に人や馬のタヒ臭漲るタヒ体を放り投げる
海に落としても古流泳法で甲冑を付けたまま泳いでいく
他大陸の流儀が通じない
ちなみにやあやあ遠からんものは音にも聞け
という一騎討ち戦法はやっていない
対馬や五島列島を捨て石に敵の戦法は研究していた
モンゴル軍の鬼畜さ知らんのか
そのモンゴル軍をドン引きさせた鎌倉武士とかいう鬼畜
当時の絵が残ってるよ
騎馬民族には効いただろうな
https://pbs.twimg.com/media/DoORbF4U4AEHYL4.jpg
主力は弓らしいけど
また当時の戦闘は地の利を知ったものが有利に戦略を維持できる
いかに元の部隊だとしても奴らは陸戦部隊
海上じゃど素人の烏合の衆
海上戦じゃ倭寇て恐れられていた負け知らずの水軍
水軍に力入れていたのは本拠地鎌倉幕府がどこにあったか考えりゃよくわかることw
旅順艦隊も二百三高地奪取以前から壊滅していたらしいが
日本海軍はその確証が持てなかった
日本侵攻は慣れない水軍の運用ミス
南越侵攻はマラリアと撤退すべき明確な理由があったからな
どちらも準備不足が招いたしくじり
普通に台風来るだろ?
数か月上陸をさせなかった
それが勝因
それだけの話
地の利を生かして夜間に特殊部隊を送り込んだり
ゲリラ戦術をとっていた鎌倉武士
その「やあやあわれこそは~」の間に一方的にやられてる学研漫画のイメージがめっちゃ強い
まったく手も足も出なかったと教えていたな昔は
正々堂々?そんなの知らんw勝てばええねんそれで義経も潰したんやの源氏のイメージだろ
それに対抗する為に大切っ先の大段平の刀が出来たんだってな
以降南北朝時代迄どでかい日本刀になるんだよな
逆だよ
元寇で鎌倉武士になすすべなく蹴散らされるモンゴル軍を見て軍事力は大陸より日本の方が
遥かに進んでることに日本人は気付いたんだよ
だから元寇の後は日本人が倭寇で大陸荒らしまわり
中国はどんなに荒らされてもモンゴル軍ですら歯が立たなかった日本に勝てるわけないと
分かっていたから報復できなかった
なぜ長い年月を空けて報復に明に攻めようとした秀吉はともかく
清の時代になり朝鮮を完全に属国にしたのに日本に攻め込んでこなったのだろう
小国で資源も無いのに日本人やべぇ~秀吉効果が何百年も効いたと言うことかな
清は自分らが倒した明の主力軍が朝鮮で日本軍に散々な目に遭わされていたのをよく知っていたし日本鬼子だの鬼島津だのと日本をキチの殿堂入りさせて関わらないようにしていた
19世紀半ばにイギリスによって強引に軍艦を買わされ日本との間に争いが起こるように焚き付けられるまでそんな感じ
九州が固められているかは現地で一度戦わないとわからない
大軍を揚陸するための広くおだやかな湾があり 大軍を養うために朝鮮半島から近く
大軍を展開するために背後に平野があり 日本側の重要拠点が付近にあり 揚陸後日本側を遮断し拠点化できる地点
他は無いよ
鎌倉側は一応九州以外からの上陸も想定してた
ただ陸側の移動の方が早いから海岸線を移動するほどモンゴルに不利だろうし沖合いからピンポイントで本州の上陸適地に行ける技術と情報は無かったんだろう
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1590491336/
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