鑑真和上や長屋王を中国人が知ってる驚き「山川異域 風月同天」に感動
日本からの支援物資に書かれた8字、中国で感動呼ぶ
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山川異域 風月同天」(別の場所に暮らしていても、自然の風物はつながっている)という漢字8文字が1月31日、中国の交流サイト新浪微博(ウェイボー、Weibo)で絶賛を浴びた。
同日午後、「扎宝」というユーザーが微博に「中国語資格HSKの日本事務局から湖北省(Hubei)への支援物資はマスク2万枚と赤外線体温計。
『山川異域、風月同天』と書かれたラベルに感動」と発信した。中国・唐代の高僧、鑑真和上の伝記「唐大和上東征伝」によると、
日本の長屋王が唐に送った1000着の袈裟(けさ)に「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」と刺しゅうされていた。
これに心を動かされた鑑真和上が、日本行きを決意したという。
無能
いま中国に滅亡されると日本企業が連鎖倒産する。だから、いまは、こまる。
藤原四兄弟の政敵だったような
正妻は女帝の妹だったよね
長屋王は蘇我氏腹、藤原腹、皇族腹の皇子が居ったからな。
光明子に子供が期待できなくなっていた藤原氏にとっては
脅威以外の何者でもない。
思い出した
それが史上唯一の女性皇太子に繋がっていくんだったな
そうそう
それに長屋王自身が天皇に近い扱いをされていたし
正妻の内親王との間には男子が四人で後継者もたくさん
長屋王の変では長屋王の他にこの息子四人と内親王もタヒんでるから
そら恨まれるでしょうよ
>>44
どうもよく分からないので詳説日本史研究で調べてみた。長屋王はトップ級の人物だったんだ。
長屋王は、天武天皇の子で壬申の乱で活躍した高市皇子を父とし、天智天皇の娘の内親王を
母とし、妻には吉備内親王を迎えるという尊貴な血筋をもつ皇族であり、藤原不比等も娘を王に
嫁がせていた。順調に出世して、不比等がタヒぬと政界の首班となり、正二位左大臣まで昇った。
しかし729(天正元)年、突然密告を受けて兵に邸宅を囲まれ、自刃させられた。(長屋王の変)
同時に吉備内親王及び同内親王との間にもうけた王子たちが自○させられたが、ほかの関係者
はほとんど許されている。『続日本紀』では密告を偽りともしていることから、この事件は王邸を囲
んだ側の中心であり、変後の政界に進出した藤原4兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)により
仕組まれた事件であったと考えられている。
事件の背景としては、聖武天皇と藤原光明子との間に生まれた親王が早逝し、一方で県犬飼氏
出身の夫人に聖武の親王が生まれたことから、つぎの皇位継承をめぐって藤原氏に危機感が
生じたこと、それに対応して光明子を皇后に立てようとすると長屋王が邪魔になるということが
あった。変の直後、武智麻呂は大納言に昇り、そして光明子は聖武天皇の皇后となり、藤原氏は
大きな権威を獲得したのだった。皇后は、律令では皇族であることが条件とされており、天皇亡き
あとに臨時に執政したり、女性天皇としての即位もあり得、また皇位継承への発言権をもてる立場
であったのである。
うん。
持統天皇の異様な草壁血統への執着が遠因でもある。
女帝が変質したのも持統のせい。
天武天皇の皇后うののさららはライバルの大津皇子を謀反の疑いとか言って○してまで息子の草壁を天皇にすることに固執していたが
草壁が早タヒしてしまったのでその孫を天皇にしようとし
それまでの間自らが天皇になると言って持統天皇となってしまった
執念がもの凄い
>>54、>>56
天武天皇の頃から草壁>大津>高市の序列は明確に付いていた。
天武は大津を政治家に留めることを明確にしていたのに、持統は大津を○した。
ちなみにその頃は、女帝即位とセットで皇太子(後継の男帝)を指名すんのが定石。
ついでに、指名する皇太子は実子以外から選出。
推古-厩戸、皇極-孝徳とかね。
草壁のタヒ後、持統は自身の即位とセットで高市皇子を太政大臣に就けることで
その当時のほぼ唯一の皇太子候補である高市即位の道を完全に絶った。
定石をまったく無視して。
コレによって、女帝が皇統指名者から単なる中継ぎの役割に変質してしまった。
持統即位後は、孫の文武を皇太子にするため刑部(忍壁)も超冷遇した。
刑部は壬申の乱の頃から従っていた天武第四皇子なのに。
持統、とんでもねぇクソである。
壬申の乱を唆したんも持統かもな
共犯だよ。
日本書紀に「ともに謀を定む」と書いてある。
自宅跡地がイオンになってしまった方ね
なんかやたら発掘調査しまくってた印象だけどイオン建てるからだったのか
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1580636351/
中国人って言われると違和感あるな…
唐の人ではあるけど
当時は中国とか無いからな
唐の人
それが大仏建立のひとつの理由となった
日本の311のときも中国からは支援があった
長屋王の祟り
菅原道真の祟り
後1つ何だっけ?
平将門?
安徳天皇かな?
崇徳院?
三大どころじゃない
長屋王が入らない
菅原道真
平将門
崇徳上皇
の三つ
将門と崇徳院はガチ
祟りと認められているのは、書物に記載のある早良親王からなので
長屋王は祟り案件に入らないんじゃなかったつけ。
ご期待下さい
ジーン
呪いは怖いね
鑑真は向こうでも高僧だろ
鑑真でも助走付けて殴るレベル
日中合作映画「天平の甍」の製作の頃は
まだ中国は反日教育してなかった
だからこの映画は中国でも好意的に紹介され
それで鑑真を知ってる人が多い
ある程度教養のある連中とは付き合えるんだろうね
>>49
> マジレスすると中国人は鑑真も長屋王も知らず「山川異域 風月同天」にだけ反応したものと思われ
マジレスにマジレスすると、この説明では不正確。清の時代に編纂された詩集に長屋(王)の名は載っている。
だから中国の知識人なら探し当てるはずだ。簡潔な解説がネットにあがっていたので貼る。
https://blog.goo.ne.jp/kotonoha133/e/1d153d022fe3fa6f39476762b475e02d
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/54/7adc07a9b6d78748bf534f86d6684648.jpg
これは、中国の「全唐詩」(清の康煕帝の勅命で編纂された唐時代の詩を集めた漢詩集)の巻732に載っている日本の長屋王の作った漢詩。
読み下し文は、河出書房新社「古典の事典」によれば、
山川は域を異にし
風月は天を同じうす
諸々の仏子に寄せて
共に來縁を結ばん
長屋王(684-729)は奈良時代、聖武天皇のもとで左大臣にまでのぼった人物。
彼は、千の袈裟を作り、その縁に「山川異域、風月同天、寄諸佛子、共結來縁」の文字を刺繍して唐に贈ったといわれています。
鑑真和上(688-763)の伝記である「唐大和上東征伝」では、和上が日本への渡航を決意するにあたって、このエピソードを紹介しています。
「全唐詩」においても、この詩の説明文に、長屋王が袈裟に刺繍をして中華に寄贈した旨の紹介があり、続いて「眞公因泛海至彼國傳法焉」という文言があります。
これは字面から判読すれば、「因って鑑眞公は海を渡って彼國(日本)に至り法を傳えた」という意味のようです。
>>49 追加:
長屋王の漢詩が収録された「全唐詩」巻732はウィキソース中国語版でも読める。
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A8%E5%90%E8%A9%A9/%E5%8D%B7732#%E9%B7%E5%B1%8B
それと鑑真和上はなぜ日本へ渡航しようとしたのか、研究者の論文をいくつか読んでみたけど、
ようするに動機は現在では分からないというのが結論。比較的まとまっている講演録をひとつ紹介。
大阪国際宗教同志会 平成16年度第2回例会 記念講演 『鑑真和上はなぜ海を渡ったのか:中国から見た日本』
王 勇(浙江大学日本文化研究所 所長)
http://www.relnet.co.jp/kokusyu/brief/kkouen21.htm
高市皇子は天武帝の長男で
母の身分が低いため天皇への道は閉ざされていたものの
有能な政治家であったため最終的に太政大臣の地位に就いた
長屋王の最終的な身分は右大臣
長屋王は左大臣じゃないの?
そうだった
左大臣だった不比等が先にタヒんだんだった
だからそもそも普照たちは鑑真本人を誘おうとは最初はしてなかった。
日本三大祟神
イザナミノミコト
星川皇子
麻原彰晃
賃貸長屋を多数経営し儲けたとかw
団地公とか公営住宅帝とか
アパの社長かね
有能な上に血統が申し分ないからな
不比等の権力で無理やり皇族とくっつけてきた藤原氏からしたら驚異
ちょっと見直した。
そう教えられて我々は育った
引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1580639475/
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