出雲や北部九州から相次いで硯(すずり)の破片が発見され、
弥生時代にはすでに文字があった可能性が高まってきました。
文字があったのならば、7世紀の朝廷は古代の王のおおよその実年を把握できており、
2世紀初頭の後漢書東夷伝の倭国王師升がスサノオ(Shuai sheng)だと分っていたでしょう。
記紀編纂時の7世紀後半と言えば、白村江の敗戦ショックが癒えない時代、
かつてヤマト民族の始祖たるスサノオが渡海し生口160人を捧げて後漢の皇帝に朝貢していた。
ものすごくみじめであり自尊心がズタズタです。
彼ら7世紀の記紀編纂者たちは、古代日本が中華の属国だったというぶざまな歴史を、時代を古く古くすることでごまかしました。
また記紀編纂者たちはスサノオから5世代後の神武が卑弥呼の時代になることも分ってたでしょう。
朝貢年
266年 台与 トヨ津媛
・
238年 卑弥呼Bei mei hu 比売后〈Bi; mai hou〉=ヒメ(踏鞴五十鈴)后
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升Shuai sheng スサノオ
だから記紀において神武東征をやたらクローズアップして、まるで男王国であったかのような記述をし、
卑弥呼であるヒメ(踏鞴五十鈴)媛の記述を最小限にとどめました。
そして神武をBC660年という遠い遠い過去に葬り去り、神武以降の天皇の年齢もそれに合わせました。
これが古代の天皇が100歳を超える日本の歴史の真相でしょう。
今の1年は2年と数えられてたらしいよ
それただの作り話
>>2
冬には氷が張り、夏にはセミが鳴く日本で1年を間違えるということはあるまい。
中国史書の記述は野菜の春植え、秋植えのことであろう。
継体天皇以前を倍歴だという意見があるが、そうだとしても神武は紀元前になる。
当時の平均寿命や一代在位年から大きく逸脱する。
ゆえ、倍歴説は無理なのだ。
>>2
倍年暦なんて国家権力による意図的な
文書改竄を否定したいだけだろ?
お人好しにもほどがある
>>5
同感です
だが奈良時代、日本の広域の統一を成し遂げた朝廷は
卑弥呼と同時代人の神武から始まる万世一系の男王の歴史
を書きたい。卑弥呼や台与といった女王の存在は邪魔になる。
そこで、卑弥呼より百数十年も後の神功皇后を卑弥呼の
時代にタイムスリップさせ、卑弥呼や台与と同一人物らしく
見せるというやり方を思いつく。
そうすると神功と後続する応神・仁徳・允恭の4人の在位年数が
不自然に伸びるし、本来526年に大和で即位したと考えられる
継体天皇も武烈天皇が亡くなってから20年間も大和に入れない
事態が発生する。だから、部分的な改竄を隠蔽するため、
神功皇后より前の王たちの在位年数も意図的に伸ばして、昔の
人は長生きだったんだ、すごいでしょうと主張するしかなくなる。
古代天皇の寿命が100歳を超える理由は至って単純なものだ。
意図的な改竄を悪意のない倍歴説で誤魔化すことは不可能。
高齢でようやく跡継ぎを授かる
子供を産める年齢なんだろう 例えば孝霊天皇は
即位して2年目54歳の年に細媛命を皇后に迎えている
けど細媛命が息子の孝元天皇を産むのは16年も先
数え年15歳で皇后になったとすると31歳で子供を産んだ
ことになる いや、10年とか16年とかまだいい
皇后になって子供を産むのに26年や29年もかかった女性
がいるんだ 羊水お腐り年齢を超えての初出産か、古代の
天皇は幼女を皇后にしていたんだろうか?
在位60年を超えるてるのは、みなそうだろう
安本美典さんは5世紀から8世紀の延べ20人の天皇の平均在位が10.88年だと言われてます。
5世紀の天皇の在位って記と紀で違うのだが何を根拠にしたのだろうか。
そしてその10.88年を、古くなると在位が短くなるという理由で10年にしておられます。
このあたり恣意的。
そしてその10年を実在確かな用明天皇以前に当てはめてます。
いや全然意味が分からない。
用明天皇を基点にするなら用明天皇から30代あたりの平均在位を計算して当てはめればいいだけ。
やってみます。
(続く)
31代用明天皇585年即位。
その後の30代の中に重祚(ちょうそ)が2人いるので、
62代・村上天皇までが30代、そして村上天皇が967年まで在位、
967-585=382
在位期間382年を30人で割り、一代平均在位を出します。
382÷30=12.7
平均在位12.7年です。
そして31代用明天皇から神武まで、神功皇后を確実な一代と見なし、31代遡ります。
12.7×31=393.7
四捨五入し394として
用明天皇即位年585-394=191
神武即位191年。
古くなると若干、在位が短くなるとして+αを10年。
AD200年頃、つまり卑弥呼の時代が神武の時代です。
卑弥呼(Bei mei hu)とは簡単です、比咩后(Bi mie hou)、比売后〈Bi; mai hou〉、つまりヒメ后、
ヒメ(蹈鞴五十鈴)后以外にいません。
とてもじゃないけど皇紀26000年とかア○なこと言ってられないと悟って
書紀の記述を現実と齟齬が出ないように神武を3世紀の人と言っただけなんだよ
>>37
>神武を3世紀の人
3世紀でも初頭や前半と、後半や末では意味が全然違ってくる。
>>39
まあ著作読んでみてよ
確か飛鳥の前の天皇を4グループに分けて
統計的に予想される数字と
日本書紀に記載されているものと比較
どの程度の改竄がなされているかを推測するというもの
持論のために適当な証拠を探してくるよりは
整合性のある考え方だと思うよ
桁が一つおおかったわw
皇紀2600年
に訂正
古事記や日本書記が成立したのが西暦700年頃なんだから
当然人の平均寿命は理解している
なのに、あえて100歳以上としたのは何か理由があるのは間違いないよ
とする伝統的な皇統譜に最も合うのが西暦61年だろう。しかし、スレ主が指摘した
ように他の氏族と世代数を揃えて神武~崇神は6世代?と考えるなら、西暦181年が
最適かな(7世代なら西暦121年即位もありえなくもない?)。即位する前の年は、
神武が媛蹈鞴五十鈴媛命と結婚した年ということになる。媛蹈鞴五十鈴命が卑弥呼
であるというなら、卑弥呼が西暦180年頃神武と15歳ぐらいで結婚したとしても
西暦248年頃にタヒんだときは83歳に達していることになり、かなりの長生きだ。
西暦241年即位は神武天皇から父子継承が順調でなかったとしても天皇の平均在位
年数がちょっと短いと感じられる。
仲哀天皇の崩御年は古事記の壬戌からは西暦362年、日本書紀だと
西暦200年と同じ庚辰の年を探すと西暦380年がぴったり合いそうだ。
その年の末に生まれた応神天皇から一世代21年で子供を作ると5世孫の
継体天皇が生まれた可能性が高い西暦485年にぴったり合致する。
継体天皇の孫であり曽孫でもある敏達天皇が生まれた年は曽祖父との
年齢差が60歳ぐらいと考えると、愚管抄の西暦549年あたりだ。敏達天皇の
曽孫である皇極天皇・孝徳天皇が生まれた年は600年代~610年代にかけて
だろう。皇極天皇は33歳でなく20代初めで天智天皇を産んだことになる。
結構長そうだからな。日本書紀の天皇の在位年数が長いのも
女王のそれを参考にしたからかもしれない。
43代338年なわけよね。一代平均338÷43=7.86年か
例えば第21代雄略天皇は377+7.86×20≒534年頃即位、
第33代推古天皇は377+7.86×32≒629年頃即位とか?
前スレ最後の説によると、推古天皇の即位は643年で、崩御は660年
完全に唐の時代だからこそ、日本書紀には一貫して唐王朝との交流記事になっていて、そこに誤りはまったくないって話だね
(通説だと推古天皇の時代は隋王朝のはずだから、日本書紀の記事が誤りだといわれてる)
あるだろ。神武天皇即位は卑弥呼の存命中かそれ以前だね
それ以前といってもそんなに昔じゃない。
「卑弥呼以ってタヒす。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。更に男王を立つ。国中服さず。
更に相誅○し、当時、千余人を○す。復(また)、卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。
国中遂に定まる。政等は檄を以って壱与に告諭す。」
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)后━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ后(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
左の事代主から大御気主までは先代旧事本紀・巻第四地祇本紀、右は日本書紀。
卑弥呼のタヒ後に立ち、千人を超えるタヒ者を出す戦争をした男王はだれなのか。
事代主の曾孫・建甕尻だ。
先代旧事本紀では別名をタケミカヅチと書かれている。
関東の守護神・鹿島神である。
7世紀の朝廷は、魏志に書かれた卑弥呼に後の立った男王が誰なのか分っていた。
だから「タケミカヅチ VS タケミナカタ」の争いを神代に設定した。
そうしなければ、せっかく時代を古くして卑弥呼もトヨも隠したのに、それがだれなのか分ってしまうからだ。
そして最も隠したかった帥升も誰なのか分ってしまう。
だから隠したのだ。
崇神は318年没。
そして神武即位は辛酉181年であろう。
ただし根本的な話だが、神武の時代に「天皇」なる称号はない。
だから神武は天皇に即位していない。
ない称号に即位などできない。
若かりし卑弥呼Bei mei hu 比売后〈Bi; mai hou〉=ヒメ(踏鞴五十鈴)后と結婚した時期が辛酉181年であろう。
もっと言えば神武は「オオキミ」でさえない。
神武の時代のオオキミは義理兄の鴨王(かものきみ かものおおきみ)こと天日方奇日方。
どういうことか。
>>73の系図の左端、これが「オオキミ」なのだ。
この系譜の大王が大物主。
この大物主が崇神の時代に倒された。
いわゆる「易姓革命」である。
あ、雄略天皇の年代も問題にしてたか
雄略天皇の即位は579年で、崩御は591年とされている
この説に従えば10代崇神天皇の崩御が506年だから、377年から506年までの129年間を10代の天皇が治めたことになる
べつにこの説が正しいと言うつもりはないし、どこかの遺跡を発掘して正しい暦法が発見されればそれに越したことはないんだが
要するに、この時代の暦法が失われた結果、年干支が狂ってしまって日干支と整合せず、神武天皇即位の「辛酉年春正月庚辰朔」に該当する日が見当たらず
無理やり古代まで調べてみて最も近かった紀元前660年を、日本書紀では神武即位とせざるをえなかったということになるわけで
日本書紀は少なくとも意図的に間違えたのではないことになる
上梓時期がずれているが記と紀はワンセットであろう。
だから古事記に正しい没年干支がある時期、日本書紀は間違えている。
逆に日本書紀の即位元年の干支が正しい場合は古事記の即位元年は間違えてるみたいな。
典型的な例は、崇神の没年干支は古事記が正しく318年、成務355年、仲哀362年、応神394年。
この時期の日本書紀の没年干支は意図的に嘘を書いた。
逆に即位元年では日本書紀が正しく、応神は390年。
そうすると応神は4年しか在位がないが、
母親の神功皇后が夫の仲哀の没年362年から応神の即位元年390年まで28年という、
かなり長い間の摂政になるから、
応神が28歳という少し高齢で即位したであろうことから、何も問題はないと思われる。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1567073972/
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