【歴史】約160cmを越える大太刀を振るい、織田信長・徳川家康軍の追撃を防ぎ続けた…“猛将”を討ち取ったのは一体誰なのか
浅井方には、越前(福井県東部)の大名・朝倉氏が加勢。28日、長政の本拠・小谷城の南方を流れる姉川の河畔で、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍は激突した。世にいう「姉川の戦い」だ。
〈――押しつ返しつ散々に入り乱れ、黒煙立て、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り〉
と、『信長公記』にも記されたほどに激しい戦闘が続き、やがて、織田・徳川軍が勝利する。浅井・朝倉軍は総崩れとなったかが、そんな中、踏みとどまって抗戦を続ける者がいた。
その大柄な武者は、五尺三寸(約160cm)を超える長大な大太刀を振るい、四方八方に群がる敵を次々と斬り伏せた。
彼の名は、真柄十郎左衛門直隆(なおたか)。「北国無双の大力」と評された、朝倉家の猛将である。
敗勢の中で
朝から始まった姉川の戦いは、一説には4時間ほどで勝敗が決したという。
味方の浅井・朝倉勢が、雪崩を打ったように逃げ散る中、真柄十郎左衛門は大太刀を振るって、織田・徳川勢の追撃を斬り防ぎ続けた。
(……まさか、このような巡り合わせになろうとはな)
返り血にまみれながら、真柄はふと、そんなことを考えたかもしれない。
今から2年前、現将軍・足利義昭は越前で、朝倉氏の保護下にあった。
義昭は、13代将軍・足利義輝の弟であり、河内(大阪府南東部)の大名・三好氏によって兄を○され、己の命も危うくなったため京を逃れた。彼は、再び京へ戻り、将軍に就任して幕府を再興するという宿願のため、後ろ盾となる大名を探して諸国を流浪し、やがて越前の有力大名である朝倉義景を頼ったのであった。
『朝倉始末記』に伝わる逸話によれば、あるとき、義景・義昭が列席した宴の場で、義昭の近臣の一人が、
「朝倉の御家中には、真柄十郎左衛門という大力無双の者がいると聞いておる。天下に隠れなきその力のほど、是非とも拝見したいものじゃ」
と乞うてきた。真柄はこれを受けて、義昭らの御前に進み出ると、従者が数人掛かりでようやく担げるほどの、重く長大な大太刀を二振り用意し、それらを両手に握って軽々と振り回し、剣舞を披露してみせた。その場に居並ぶ者はみな驚嘆し、「四天や夜叉神(鬼神)といえども、これには勝るまい」と舌を巻いた。
朝倉義景は、義昭を手厚く遇した。しかし、彼の志はあくまでも越前を守ることにあったらしく、義昭の求める上洛への協力に応じることはなかった。
その後、義昭は越前を去って織田信長を頼り、その支援によって上洛し、将軍就任を果たす。
しかし、この「義昭・信長政権」と朝倉氏は様々な理由から対立を深め、ついには、義昭の命を受けた信長と、こうして戦場で相まみえることとなった。
あの越前での宴に列席していた頃は、まさか義昭と敵対することになろうとは、真柄は考えもしなかっただろう。そしてまた、かつて義昭に披露した大太刀を、このような形で見せつけることになることも。
だが、彼は己の運命を嘆いたりはしなかったのではないか。人並外れた膂力(りょりょく)も、振るう相手が片田舎の小領主や一揆などでは、乱世に生まれた甲斐がない。天下人の軍勢を相手に、己の武辺を存分に見せつける機会を得たことは、ある意味では僥倖(ぎょうこう)とさえ言えるかもしれなかった。
「我が名は真柄十郎左衛門! 志の者あらば、我と引き組んで勝負せぬか!」
全文は
https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/6606aa7ad2cb41dc83233df75dd5d071f515cf23&preview=auto
蔵之介なら知ってる
大太刀を振り回して戦ったことで有名である。
盛りすぎだよな
実際は
「身長148cmで木の棒振り回して走り回ってた」
これが真実なんだぜ
センスないからやめた方がいい
でかすぎ
「四天や鬼人といえど、これには勝るまい」
加藤清正も6尺もないと思う
兜が長いのは目立ちたいからだ
草が1mも生えてどうやったら騎馬戦になるのか
いや
彼だけは馬を背負って戦陣を駆け回ったので周囲が怯んだ
平均150~155だな
他意はない
合戦後も浅井朝倉が南近江で盛んに活動している事実からも、後世軍記物が語るほどの激戦ではなく、双方共損害は軽微だったとする説もある
司馬の国盗り物語も姉川の描写はこれだった
7段構えの5段目まで抜かれて6段目の家康が支えたって話な。
いや、大軍の朝倉軍相手に戦っていながら、小勢の浅井軍に崩されかかってる織田軍助けるために寡兵からさらに兵割いて大軍朝倉の横腹に突っ込ませて崩したとかいう、浅井も朝倉も俺が倒したんだと言ってるいかにも嘘っぽいやつ
司馬はあれを史実と思って書いたのか物語的に面白いから嘘を承知で書いたのかどっちなんだろ
大河『秀吉』では渡哲也・織田信長が姉川の戦いの後浅井朝倉の頭蓋骨を杯にして酒を飲み干す
という有名なエピソードの場面があるが文献では「髑髏を飾って酒宴をしたが、そこまではやってない」というし
そもそもあの作品以外でも信長が「透明な日本酒を飲み干す」というのはおかしいし
菩提山、天野酒といった僧坊酒では、室町中期既に「澄み酒」、即ち現代清酒に通じる製法が確立していたから、透明な日本酒を飲むこと自体はおかしくない
ただし信長自身は完全な下戸だったと考えられているから、結局あのシーンはおかしいことになるw
2m10cmとかもうオアシスのサンドジャイアントとかの領域だよ
でも飛び道具の標的になるだろう
江戸中期以降の身長の低さは動物性たんぱく質不足のため、島津藩士の侍とかは普通に肉食ってたので身長は高めだったとか
後世に話を盛ってどちらかを顕彰した軍記物は沢山作られたけどね
手取川合戦に至っては、謙信の有名な書状以外には同時代史料がなく、果たして「合戦」があったかどうかさえ分からないw
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