【歴史】加藤清正に朝鮮出兵を…愛知の旧家から秀吉の「朱印状」が見つかる
https://mainichi.jp/articles/20190327/k00/00m/040/355000c
加藤清正に朝鮮出兵を…秀吉「朱印状」見つかる 愛知の旧家
毎日新聞 2019年3月27日 22時09分(最終更新 3月27日 23時31分)
戦国武将の豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、重臣だった加藤清正(1562~1611)に出兵を命じた「朱印状」が愛知県刈谷市の寺で見つかり27日、報道陣に公開された。
市歴史博物館によると、朱印状は縦21・5センチ、横125・5センチ。江戸時代に旧刈谷藩士だった旧家の菩提(ぼだい)寺で発見され、昨秋に同館に寄贈された古文書数百点の一つで軸装されていた。
朝鮮出兵の1592(文禄元)年3月23日、主計頭(かずえのかみ)に任じられていた加藤清正への書状で、「高麗に出陣して陣を固めたら早々に知らせること」と命じている。「異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断はしないように」と念を押しているほか、先に出兵を命じた九州や四国、中国地方の大名と相談し「城の守りを固めて、つつがなく進めるように」と戦いの展開を見通すような言葉が並んでいる。秀吉の命令を筆記する書記役「右筆(ゆうひつ)」が記し、秀吉の朱印(直径3・8センチ)が押されている。
朱印状は当時京都の聚楽第にいた秀吉が、熊本にいた清正に出兵を命じたもの。同館によると、朝鮮出兵した黒田長政の家譜で清正らに出兵を命じた文書の存在は知られていたが、実物は見つかっていなかった。加藤家が江戸時代初期に改易され、散逸したとみられる。
豊臣秀吉の古文書に詳しい名古屋市蓬左文庫の鳥居和之文庫長は「(朱印状は)他の大名に広く出されていたものと考えられるが、1次史料はなかった。清正は有名な武将だが家が断絶して資料が散逸している。発見は大変喜ばしい」とコメントしている。【亀井和真】
清正宛ての朱印状・写し
去九日之書状今日
廿三日到来、加披見候、
先書ニ如被仰遣候、対馬守・摂津守高麗ヘ定而
可相越候条、其方も
至高麗船付令着
岸、取固候て早々注進
可申候、異国者手ぬるく候
とて、少も不可由断候、
九州・四国・中国衆
何茂高麗ヘ渡海之
儀、被仰遣候、御先勢
路次つかへ候ニ付而、廿
五日御動座候、猶以
城々堅相拵、皆々申
談無卒尓様可成
其意候也、
三月廿三日(朱印)
加藤主計頭とのへ
※愛知県刈谷市歴史博物館の資料より
清正宛ての朱印状・現代語訳
(3月)9日の書状が今日23日に着いたので見たところである。以前出した書状でも記したが、宗義智・小西行長を高麗へ向かうように命じている。お前も高麗に出陣し、陣を固めたら早々に知らせること。異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断はしないように。九州や四国、中国地方の大名へは既に高麗へ出兵するよう伝えている。先に行った者たちが道中で詰まっているので、25日に(私が)出陣する。城の守りを固めて、皆で相談をしてつつがなく進めるように。
3月23日 秀吉
加藤主計頭(清正)殿へ
※愛知県刈谷市歴史博物館訳
加藤清正に出兵を命じる豊臣秀吉朱印状(部分)。文書の左端に秀吉の朱印が押されている=愛知県刈谷市の市歴史博物館で2019年3月27日午後5時半、亀井和真撮影
https://cdn.mainichi.jp/vol1/2019/03/27/20190327k0000m040353000p/8.jpg?1
>>1
> 「異国の者はそんなに強くないと思って、決して油断はしないように」と念を押しているほか、先に出兵を命じた九州や四国、中国地方の大名と相談し「城の守りを固めて、つつがなく進めるように」と戦いの展開を見通すような言葉が並んでいる。
今も昔も日本の組織ってまんま同じような事を言ってるんだな
例えばサッカー日本代表も「(アジア予選などで)格下相手にも油断するな。守りからしっかり入って攻めに転じるように」みたいな感じだし
秀吉の重心だった加藤清正への朱印状が見つかったことが重みあるね。
敵は侵攻して来てた西欧で目指したのも支那で朝鮮はただの通り道なのに
朝鮮出兵とか意味不明のインチキワード使うのいい加減やめろよ
ほんとそれ
目指したのはあくまで大陸出兵だよ
つーか秀吉はもっと上手くやれば明はボロボロなってるしもうちょい行けた気がするんだけどな
それも踏まえて作られた戯作「国爺谷合戦」は面白いよなあ
韃靼人まで出て来て味方するし
主人公は明と日本の混血児(わとうない)だし
清正は言うこと聞かずに突っ込んでて、地名にオランカイとかカタカナ異文化出てきてビビるが
白金にそのものズバリ清正公と呼ばれる覺林寺があってGWに菖蒲祭がある
>>33
ずばりというか、清正公寺ってお寺すら東京にはあるんだが。
横浜の清正公通りも概ね、お寺に清正公が祀られてて(てた、かも?)それが由来だろうさ。
やっこさん、熱烈な日蓮宗信者だから、けっこうお寺とかも建ててて、そういうとこじゃ神様扱いなんだよ。
中華 当時の明国があまりに怖くて、防波堤として、朝鮮を味方にとっときたい! とも言える。
いやその前から朝鮮半島なんてキリスト教の代理戦争してたろ
協力を拒んで邪魔したから痛い目にあっただけ
中国出兵だ
朝鮮は単なる通り道
秀吉は中国を制覇するために出兵した
成功すれば明の後は清ではなく豊臣だった
後が続かなかったね
太平洋戦争の時の日本軍みたい
刈谷だからおそらく水野か土井の家臣なんだろうけど清正との接点が皆目見当つかん
これが水野や土井でもわからんのだけど
いや、兵站を軽視したのが派遣した武将というべきか
いくら戦闘で勝っても兵糧の確保に苦労するようじゃ駄目だな
足りない分は現地調達すりゃいいけど、後々現地民を敵に回してから困難になったしな
>>58
加藤清正はそれでも無理に 鼓舞したけど、他の武将は最初からシラケてた というのが だいたいそういう話
こんな土地は所領に欲しくない。
やる気をなくしてたらしいな。
畿内に一万石の方が良いとか。
そもそも朝鮮出兵をしていたのはスペイン人を排除する為。別に朝鮮統一するためじゃ無い。
秀吉の考えは知らないが当初の朝鮮出兵は○し合いだけが目的じゃない。
スペインが力をかなり失ったおかげで徳川家康時代に朝鮮出兵しなくても良かったわけ。
日清戦争にしても本当の敵は欧米で朝鮮や中国を滅ぼそうなんて日本は考えていない。
ア○学者が小学生並みの思い込みで野心・暴走論を広めたせいでむちゃくちゃ。
連中は「全ての侵略はとにかく悪で野心によるもの」とか言ってて、特に日本は世界情勢もわからない馬○だと思ってる。
2度目の出兵では朝鮮半島南部を割と安定的に支配していて支配地への朝鮮人の流入もあった
倭城跡は今でもはっきり残ってる
北京陥したのは農民反乱軍の李自成
この混乱に乗じて万里の長城越えて来たのが満州族
正直読めん、鑑定考えたが普段仕事忙しすぎてそんな気が起きない
老後の楽しみに残しておく
天下人秀吉の花押なり朱印なり偽造したら処刑でしょ
天正20年(1592年)3月13日付中川秀政・木下勝俊・木下利房宛の秀吉朱印状にも
先江戸大納言(家康)・加賀宰相(前田利家)参陣、関東・出羽・奥州日の本まて、諸卒罷立候間、事外路次御人数つかえ候条、去一日延引候
とあるが名護屋まで行くにも道中諸国の軍勢で溢れかえってるため秀吉が到着の延期してるし出兵するにもまた大軍でつかえてるしでちょっと面白いな
秀吉はこんなバ○なことしなかったら、豊臣家も滅亡しなかっただろうし、
家康みたいになれて、偉人になれたのにな。
天下をとった奢りだろうな。
これ以上部下に配る領地が無かったから、大陸を侵略するためにまずその通り道の朝鮮半島に出兵したと言われているね。
兵站がダメだった
朝鮮みたいな貧しいとこから徴発できんわな
上陸直後は割と兵糧も現地調達できてて安定してたことは伊達政宗らの書状からも分かってるが
その後三成ら奉行衆が現地入りして日本軍の怒涛の進撃を目の当たりにすると戦線が伸び過ぎていてこのままだと兵站に必ず支障をきたし日本軍は飢えると本国に報告してる書状が残ってるな
それがあるから2度目の出兵の時はあまりに深く攻め込まなかった
しかしたちまち兵站に窮して城に引きこもる戦いに
明を攻めるなら半島経由したのは間違いだった
兵站の豊富な江南から行くべきだったろう
愚かだったけど歴オタ的には、興味深いイベント
そして恐らく淀殿は名護屋に行ってないので、秀頼は秀吉の子じゃない、っていうオマケ付w
福田千鶴は京極高次書状に出てくる名護屋にいた大坂殿→淀殿を根拠として名護屋に居た説つまり秀頼実子説を唱えてるよな
文禄2年(1593年)5月22日付おね宛の秀吉自筆書状には淀殿の懐妊をめでたいとしつつも「にのまる殿(淀殿)はかりのこにてよく候はんや」
と言ってるが単に子がいないおねに対する心遣いなのか、夭逝した鶴松に対する遠慮なのか、または実子ではないと分かっていての言葉なのか解釈が難しいとこだな
明も十分に名君は存在している
夏殷周、春秋戦国、統一された秦~清に至る前の中華の歴代の中でトップ争いをするほどの皇帝と
治世の短さや知名度から名が挙がらないだけで
宣徳帝や弘治帝のように中興の治世を行った名君はいるんで
但し、正徳帝とか万暦帝のように外征を繰り返して財政を悪化させた暗君もいる
特に明は万暦帝の知名度が高すぎる感じだな
オイラトなどのモンゴルや後金(清)の女真などの外の情勢をみるとよく耐えている
宋の駄目さに比べると
豊臣も滅亡しなくて済んだのにな
秀吉が依怙贔屓したからだろ、三成も朝鮮に行かせれば良かった
官兵衛も徳川になびいたし、豊臣は家臣団がバラバラ
成り上がりで家臣との結びつきが弱いのが滅亡につながった
一応文禄の役では朝鮮に渡っている。
国内の政務に必要な人材だから長く朝鮮にはやれなかったのでは。
明軍と朝鮮軍は毛皮製の耐寒服や寒さに強い蒙古馬をたくさん用意していたと
堺屋太一氏が書いていた。
近江(淀殿)閥VS尾張(おね)閥の様相もはらんでるから一筋縄ではいかない。
ただ、それは半島の陸地を行くのではなく、半島の東岸伝いに行くべきだった
当時の日本が幾ら世界最強の陸軍国家といっても兵站が保たないのではどうにもならない
勿論、そう考えていた節もあったんだが、頓挫して風でもある
秀吉は倭寇を取り締まって、これらを味方に付けずに、外洋に慣れない水軍動員でいったのが間違いの元
来島も○されてるしな
結局、他国侵略を目指すなら、そこの人間を分裂させてこちらに引き込まなきゃ無理ってことよ
熊本城へ戸籍上次男が就任 加藤忠正 その後 5年後に○害されタヒ亡
五大老No.1の徳川とNo.2の前田も渡海させてないし、
秀吉がどこまで本気だったのか分からない
前田は徳川抑えに必要だし、徳川派遣して大活躍されたらますます心を寄せる武将が増える
清正を前に出し、三成に仕切らせる。子飼い中心にやる必要はあったと思う
徳川の事信頼してたぽいから単に国内の抑えで
前田は怪我でもしたら豪が暴れるし病弱の麻亜が臥せりそうで出せなかったんだろう
とりあえず朝鮮を完全になめきってたから朝鮮の支配権が確固たるものになってからどうしようかってとこもあったろう
対馬守、摂津守だけで宗義智と小西行長だと分かる当時の人って凄いな
あまり賢くない将だと思うよ
武勇もどこまであったんだか
難治で知られる武勇に秀でた熊本の兵隊を使ってなかったら、朝鮮で活躍できたかどうかも怪しい
まあ、それでも反乱が相次ぐ熊本を治めたわけで、そ神輿に収まるだけの人間的な魅力はあったんだろうけど
後継の忠広も幼年・無能なのも相まってお家騒動→改易に繋がった
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1553704997/
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