【歴史】石田三成が群馬で僧に?関ケ原の後、真田氏の縁で
戦国武将の石田三成は関ケ原の合戦で敗れた後、沼田に落ち延び、僧となった―。正行院(群馬県沼田市宇楚井町、木村年尓住職)に残るこんな伝承を知ってもらおうと、北群馬甲冑(かっちゅう)工房(吉岡町北下)代表の吉沢洋紀さん(40)がSNSなどを通じて独自の調査結果を発表し、三成のイラスト入り記念印を作成するなど情報発信に取り組んでいる。
通説では三成は関ケ原の合戦で徳川家康に敗れ、現在の京都市内で斬首された。一方、1959年出版の旧薄根村(現沼田市)の村誌によると、三成は敗戦後、飛騨高山を経て現在の長野県に入り、妻同士が姉妹関係ともされる真田昌幸との縁で昌幸の父、幸隆が再建した正行院に落ち着き、寺の第22世住職になったとされる。
吉沢さんは群馬県ゆかりの戦国武将をモチーフに「御城印」を製作する活動を通じて伝承を知り、昨年9月、木村住職の協力を得て、正行院で三成のものと伝わる位牌と墓を調査。位牌の裏には三成を指すとされる「石田治部少輔公」の文字があり、22世の墓と伝わる墓石にも小さく「石田」と刻まれていることを確認した。
伝承を県内外に広く発信しようと、調査結果をインターネット上で紹介し、「群馬御城印プロジェクト」名義でツイッター上に投稿している。三成のイラストをあしらった同寺の訪寺記念印を作り、御城印などを扱う「松之屋」(同市西倉内町)で販売している。
吉沢さんは「400年以上前の出来事で伝承の真偽は正確には分からないが、真実だとしたら歴史が塗り替わるようなすごいこと。わくわくする」と話す。
利根沼田地域の歴史に詳しい郷土史家の金井竹徳さんは、みなかみ町に石田姓が多い地区があることを指摘した上で、「石田家は真田家と親戚であり、三成本人は来ないにしても、側室や子どもなど、一族の流れをくんだ人が頼って来たことは考えられる」としている。
https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/f5ee3cf184989042463a481a7cd20524bf3f15ec&preview=auto
「石田治部少輔公」との表記がある位牌と並ぶ吉沢さん
https://i.imgur.com/WwJY4r7.jpg
間を取って京で斬首されたあと沼田に落ち延びた設定にしてみるのも面白い。
人脈もあったかもしれん。
捕まった後顔知ってる連中にしっかり見られてんのに
どんなくのいち忍法帳だよ
生存説は世界各地にあるだろ。
エルビス・プレスリーやアドルフ・ヒトラーや。
柿の話はともかくすり替わりはさすがに
三成は都大路を市中引き回しで六条河原で公開処刑だから
さすがに顔知ってる人も多いだろうしね
本来なら残らず全て破棄されてる書状だからなあ
三成の書状の他にも関ヶ原の戦い直前の毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、大谷吉継、
長束正家、増田長盛、前田玄以ら西軍首脳の書状がこれだけまとまって残ってる家は他にない
信之がこの危険な文書群を残したのは、この先幕府に何かあった場合に使えると判断して残しておこうと思ったのか、
はたまた他に意図があったのかその真意は不明だが、結果的にこの文書群が残ったお陰で関ヶ原研究には大きく寄与してるな
万が一見つかったらどうするつもりだったんだろうな
明治に入ってようやく中身を確認した訳だし、歴代の当主も何が入ってるのか知らなかったんだろうな
まあもし知ってしまったら危険だからと破棄されてた可能性も十分あるだろうな
>>41
夜中の間ずっと家来が見張ってたというのは
今だったら金庫に閉まっておく
当時だったら蔵に鍵かけて閉まって置く事を思い浮かべるかもしれんが
火事や地震の際に手遅れで持ち出せない可能性があるので
箱に閉まって、籠に乗せて、籠を御殿の部屋に置いて、
家来が周辺を見回りしてたみたいだ
で、いざ火事だ地震だとなれば、籠を担いで庭に避難する運用だったよう
参勤交代の際も籠を担いで江戸と松代を往復していたそうだ
恐らく、松代藩だけでなく、他の藩でも同じ様な運用だったのでは?
何かで読んだが、松代藩では重要書類を重要度に応じて3段階に分けて
3つの箱にそれぞれ閉まって籠に乗せて管理していたそうだが
時代と共に重要度の基準が変わってくるので
江戸時代半ばか後半にこれを2段階に分け直して2つの箱にしまい直した
という記録が残ってるらしい
恐らくその際には中を確認したはずなので
明治になって家康拝領の短刀云々の話しは創作だと個人的には思ってる
光成が処刑されたってのもあやしいもんだな。
明智史観察ともだけどめちゃくちゃだよ
影武者だったんだろう
その場合
20万石の大名とはいえ秀吉存命中はバリバリの実務取り仕切ってたんですが……それも影武者なら影武者が本体やろ
でも三成は気の毒で同情する人は多いだろうな
政治的にタヒんだなら本当に○さなくてもって暗黙のルールがあったんじゃあないのかな
だから本当に処刑されたのは
影武者とか
多分ない
佐和山城ぶっ壊して三成の存在すら消すレベル
一番○す理由があるのに
なんで?
天下を貰ったのに
子孫は許されてるしな
息子は津軽の重臣に
娘は津軽の藩主の嫁になった
いくら三成に大恩があるとはいえ、そこまでやっておいて
なんで津軽藩は廃藩どころか改易すらなく明治まで存続したのかが不思議。
津軽が、対北海道で重要な場所だったとか天海と仲良かったとかあるんやろな
川中島への改易を拒否して津軽に留まったのも良かった
これでおさまったのも天海のおかげやな
もし改易してたら一時的に石高は増えたが明治まで生き残ってないw
対馬の宗家も西側に付いたのにお咎めなし
玄関口ゆえに藩は繋がりあるから超重要な存在だったんだろうね
改易の意味分かってる?
転封ですな
ご指摘ありがとう
年齢と斬首の跡が骨にあった
こんな下らんことに付き合うのは時間の無駄、無駄
あったね
で肖像画や書状に書いてあったように出っ歯だったことがわかってるね
処刑とかされなかったの
子供6人全員お咎めなしみたい
日本は世界的に珍しい女はセーフとか出家したらセーフ文化がある
あとなぜか津軽藩藩主になってる
豊臣秀吉が没した後、豊臣秀吉の正室・北政所の養女になっています。
関ヶ原の戦いから10年後くらいに、弘前藩2代藩主・津軽信枚に嫁いでいます。
始め正室でしたが、後に徳川家康の養女(満天姫)が輿入れしたため、側室に降格されています。
その後、辰姫が生んだ津軽信義が、長男ということもあり弘前藩3代藩主になっています。
津軽信枚には9男4女がいますが、その中、石田三成の孫・津軽信義が藩主になりました。
すごいね
娘は堂々嫁いでる
家康は好きではないが、秀吉に比べ
懐の大きさが違うわ
秀吉なら妻子皆○しだろう
秀吉ももっと懐が大きければ
豊臣家が滅亡することがなかったかも
武田家から来た嫁と、その息子である長男に切腹命じましたけど。
頭緩い?
許されるわけねーのに
何で自害なんてしなきゃいけねえんだよ
生きてさえいれば僅かでもチャンスはある
宇喜多秀家みたいに逃げ切れば命だけは助かる例もあるからな
宇喜多の場合は島津のとこに逃げ込んだ後世間的にはしばらく行方不明になってたお陰で時間が経過したことと、
所在が明らかになってからは自分は何もせず、島津忠恒から家康に助命嘆願したのが功を奏した形になったが
なんとかして大坂城に帰って、籠城しようと考えていたから。
石田三成生存説
どちらもロマンがあるな
北関東だと広げすぎかな
金山城など関東7名城は小田原陥落で開城してる
忍城も同じく小田原の命令なくて開城してない
まあ、水攻めしたから石田は坂東武者には嫌われてたろうね
それもあって秀吉の政敵であり、
清和源氏の末裔を自称する、新田の分家の世良田の分家の得川がでてきて従えたわけだ
あと武田騎馬隊主力の坂東騎馬武者は井伊家に引き取られて赤備隊となっている
まあこのときに井伊な全員赤漆にしたんで、
ピカピカの漆と古参のくすんだ漆でニワカの受けは悪かったみたいだけど
真田は坂東武者なのに離反した珍しい武将
まあ兄貴は徳川方なんだけど
真田家に助けてもらってたならなおさらさ
まあ信幸が抑えたのかもしれんが
真田幸村として知られる人物が実は三成だったのである
どんなヤツか実際見たことのあるやつじゃないと
判断できないし。
身代わり建てて逃げることもできるな
徳川の力が強い東国の沼田に入るのも相当冒険
三成と一番仲良かったのが信之だぞ
信之宛の三成書状は14通も現存してる
しかもそのほんとんどが私信だし、中には織田秀信が湯治に出かける際に、三成は特に信頼する信之にその警護を頼んでたりする
まあいくら仲が良くても関ヶ原の時は周知の通り信之は是々非々の対応して家康についてるけど
意外に人望だってあったろ
どうだろうな
もしそうだと思ってても表立っては絶対言えないことだし、
ましてや書面に残すようなこともできないから史料にも残ってないしなあ
ただ去年発見された細川忠興宛の三成書状見ると、秀吉から拝領した金の使いみちについて
「自分たちは恵まれてるんだから、金は貯め込むのではなく周りに配るように」
と言ってるの見ると、人間的には正論吐いて嫌われるタイプだな
まあ真田信之や大谷吉継みたいに仲良い奴も勿論いるんだけど
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