最新の科学技術を使った研究から、弥生時代にユーラシア大陸を横断する交易の様子が浮かび上がってきた。
小中学生向けニュース月刊誌「ジュニアエラ」12月号では、どんなことがわかったのかを解説した。
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伊都国は、弥生時代後期(3世紀ごろ)に現在の九州北部にあったクニの一つ。
女王卑弥呼が治めたとされる邪馬台国とほぼ同じ時代に栄えていた。朝鮮半島に近いという地理的な条件を生かして、大陸との交易が盛んだった。
その伊都国の様子を伝えてくれる遺跡の一つが、1965年に発見された平原遺跡だ。
この遺跡には約1800年前の女王の墓があり、銅鏡やアクセサリー類がたくさん見つかっている。
その中には、886点に及ぶ紺色の「重層連珠」と呼ばれるガラス玉もある。
当時の日本にはガラスを作る技術がまだなかったから、海外のどこかから持ち込まれたものだ。
25年ほど前に行われた分析で、そのガラスの種類はソーダガラスということまではわかっていた。
人類最初のガラスは、6千年以上前に古代メソポタミアで作られたとされている。
ガラスの原料は、珪砂と呼ばれる砂。石英という鉱物の粒からできている。この珪砂を1700度以上に熱すると、溶けてガラスになる。
しかし、これほどの高温にするのは容易ではないので、珪砂が溶ける温度を下げる融剤というものを加えてガラスを作る。
古代に用いられていた融剤には、カリウム、鉛、ソーダの三つがあり、用いられた融剤によって、それぞれカリガラス、鉛ガラス、ソーダガラスと呼ばれる。
このうち、ソーダガラスは地域によって、融剤に使うソーダの原料が大きく二つに分かれる。
古代の西アジアでは、植物の灰を原料にした。一方、ローマ帝国が支配していた東地中海沿岸では、エジプトの塩湖から取れるナトロンという塩類を使っていた。
●ガラスに含まれる成分から製法や産地の推定ができる
奈良文化財研究所の田村朋美主任研究員らの研究グループは、10年ほど前から日本や世界各地で発見される古代のガラスを研究してきた。
その中で、平原遺跡から出土した重層連珠とよく似たガラス玉を、モンゴルとカザフスタンの遺跡からも発見した。
そこで、これら2カ所から出たガラス玉と、平原の重層連珠の成分を、最新の蛍光X線分析装置を使って比較してみた。
この装置を使うと、ガラスの中にどんな成分がどのぐらい含まれているかが詳しくわかるのだ。その結果から、ガラスの製法や産地の推定が可能になる。
ソーダガラスの場合だと、マグネシウムとカリウムが多く含まれていれば融剤に植物の灰を使ったガラス、逆にこれらが少なければナトロンを使ったガラスとわかるのだ。
3カ所から出たガラス玉は、どれもマグネシウムとカリウムが少ないことから、ナトロンを使ったソーダガラスであることがわかった。
このほかに含まれる成分の種類や量の割合も、3カ所でよく似ていた。
●ローマ帝国から「草原の道」を通って日本へ
これらのことから、平原遺跡の重層連珠がどこで作られ、どこを通って伊都国にやってきたのか、田村さんは次のように考察した。
「3カ所から出たガラス玉は、いずれもナトロンを使ったガラスで、ローマ帝国領土内の東地中海沿岸で作られたと推測できました。
カザフスタンやモンゴルからも出土していることから、東地中海で作られたガラス玉は、伊都国だけでなく、古代のカザフスタンやモンゴルの人たちにも好まれたことがわかります。
おそらくこのガラス玉は、『シルクロード』の『草原の道』を通り、カザフスタン、モンゴル、朝鮮半島を経由して伊都国まで運ばれてきたのでしょう」
※続きはソースで
イスラエル人が日本に到達してたというのも本当だと思う。エルサレムに菊の紋と
同じものがあるのは偶然ではないだろう。
これはもう古代に存在した水晶髑髏やアンティキティラ島の機械が何のために作られたのか?
も明かされる日が近いな
水晶髑髏は顕微鏡で表面調べて近代の工具で加工した事が証明されたよ
ドイツのイーダー・オーバーシュタインの宝石職人の工具だそうだ
まあ、普通に考えれば金だろけどな。
たぶん織物とか焼き物
地中海東部は、当時は織物の本格的な産地
ペルシャ絨毯が近くにあるのに、
価値のない織物のために、極東まで命がけでは来ない
焼き物は、弥生時代は芸術性が低い素焼きの
何も文様もないガラクタでしょ、命かける意味がない
地中海から直接商人がやってきたと考えなくても
日本はシルクロードの支流のどん詰まりで交易は半島を中継地に大陸の中華圏の国
日本には倭文っていう古代織物があって交易品だったはずだよ
あと海産物は可能性あるね
九州あたりでは古代から真珠も採れたんじゃなかったっけ
魏志倭人伝に倭は真珠と青玉の産地だと書かれている
青玉は碧玉と同じ意味でグリーンジャスパーのこと
青玉
http://www.zdic.net/hans/%E9%9D%92%E7%8E%89
1.碧玉。
碧玉
http://www.zdic.net/hans/%E7%A2%A7%E7%8E%89
◎ 碧玉 bìyù
[jasper] 一种不透明隐晶质石英,常见有几种颜色(如红色、褐色、绿色、黄色)
伊都国のあった糸島の潤地頭給遺跡からは出雲産の碧玉を加工する工房跡が見つかっている
加工貿易をやっていたようだ
硯の制作場とかもあって伊都国だけ当時としてはやたら先進的なんだよな
航海術を持つ海人族が住んでいてあちこちと交流していたせいか
このニュースはそれと別?邪馬台国時代?
それだけども宝飾品は既に見つかっていたのよね
蛍光X線分析、なかでも高強度の硬X線が照射できるようになって、非破壊でさらに多くの分子や元素が分析できるようになった
試料比較で今まで考えられてたよりも古くて遠かった事が分かった
ちなみにモンゴル、カザフの遺跡で出土した品は分析時に破砕されたり盗難にあったりで、ほとんど残ってないそう(T-T)
文献と遺構遺物を合わせて考えると北九州に邪馬台国があった根拠が続々と出ている
畿内説は未だに古墳と銅鏡を根拠にしているが説得力を失いつつある
九州では何の発見もないでしょ
知識の乏しい素人と異端の少数の学者が大きな声を出してるだけ
学者が通説に異論を唱えたいなら、学者らしく論文を書けと言いたい
一般大衆向けの九州説のトンデモ本ははっきり言ってただの雑音
畿内では桃の種
九州では曹操の鏡
https://i.imgur.com/JnvbqkY.png
中国のちゃんとした専門家やある程度のレベルの学生にきいたら当然の顔して
「そりゃ九州でしょ」「なんで近畿って言ってんの?って感じらしいけどな。
大陸の玄関口
出土品から考えても九州北部なのは確実で、畿内の政権が関わりが無かったであろう事は魏志倭人伝や畿内の遺跡の出土品からもうかがえる
鉄器の出土品に戦乱の匂いが濃厚な吉野ヶ里に女王国の東の倭人国等、魏志倭人伝の記述は九州を指していることに疑いがない
一大率の解釈で邪馬台国畿内説を肯定してしまう渡邊義浩はセンス無いと思うわ
そこらの土を高音で燃やしてドロドロに溶かして急冷すればいいのでは?
なんだ、ここが邪馬台国やん。伊都国を魏では邪馬台国と呼んでいたんだよ。
はい確定。
邪馬台国というのは北部九州にあった集落の総称だろうね
伊都國(怡土、糸島)ではない。
末盧国(松浦)でもない。
奴国(那珂川周辺)でもなく、
不彌国(宇美)でもなく
投馬国(都間、妻)でもない。
そして狗奴国と南で接する地域であり、
これらの地域を塗りつぶして出来た
空白地が邪馬台国であり、
山門八女~宇佐大分までの広い範囲である事が分かる。
宇佐や大分など、弥生後期に
開けていた土地があるのに、
魏志倭人伝には国としての記述がない。
そして邪馬台国の卑弥呼の後の女王は、
豊(豊前豊後)の姫が擁立されたと言う。
そして、邪馬台国から東に海を超えて
千里の所に倭種の国があると言う。
つまり、邪馬台国の東は瀬戸内海に面していた事が分かる。
これらの魏志倭人伝の記述から、
邪馬台国が宇佐や大分を含む範囲であった事が分かる。
>不彌国から投馬国の美々津まで、
不弥国の次に来るのは斯馬国だよ
不弥国は現在の福岡市早良区北部から城南区付近
斯馬国は現在の糸島市北部の糸島市志摩付近
投馬国は帯方郡から水行10日だね
投馬国は朝鮮半島南部地域の倭人の地ことだよ
時間をかければ、どれだけだって移動するさ。
短里説の九州なら成立するけど長里説の畿内だと伊都国から女王国までもかなりの距離になる
そもそも伊都国は漢の時代から大陸とつながりがなければならず、九州の土器すら出てこない巻向は畿内勢力が大陸とは違う文明圏であることを示してる
対馬国の方可400里と一大酷の方可300里を行程として見るなら
10600+400×2+300×2=12000里
伊都国が女王国と考えてよい
魏使も伊都国までしか来ていないので伊都国に卑弥呼が住んで居たんだ
伊都国は1千戸で一大卒が置かれ邪馬台国の監視を受けていたと書かれてる
邪馬台国は7万戸
糸島の平原遺跡が伊都国で千戸規模だとして、奴国や邪馬台国の万戸オーバーの遺跡なんてどこにもなさそう
ガラス玉もそうだけど、縄文時代も結構人の往き来はあったんだね
そういう事なのよ
縄文時代から日本国内で交易はあったのよ
これ重要
隣村から隣村へとリレー式に物流が動いていたんだろうな
7万戸なんだから領域国家だろうよ
平原遺跡周辺の平野で千戸やで?
万戸の遺跡もそれを抱えるキャパもどこにある?
北部九州地域全体が邪馬台国なんだ
伊都国や奴国はその構成国
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1638782353/
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