本願寺・近江・長島・三河・加賀・越中を始めとした戦国時代の一向一揆について
文正元年(1466年)・・・近江一向一揆 ○・・・・《金森合戦》・・・・● 比叡山延暦寺
応仁02年(1468年)・・・近江一向一揆 ●・・・・《堅田大責》・・・・○ 比叡山延暦寺
文明13年(1481年)・・・越中一向一揆 ○・《田屋川原の戦い》・● 石黒光義
長享02年(1488年)・・・加賀一向一揆 ○・・《高尾城の戦い》・・● 富樫政親
明応03年(1494年)・・・加賀一向一揆 ●・・《豊原寺の戦い》・・○ 朝倉貞景
永正03年(1506年)・・・加賀一向一揆 ●・《九頭竜川の戦い》・○ 朝倉宗滴
永正03年(1506年)・・・越中一向一揆 ○・・《般若野の戦い》・・● 長尾能景
永正04年(1507年)・・・加賀一向一揆 ●・・《帝釈堂の戦い》・・○ 朝倉貞景・宗滴
大永02年(1522年)・・・越中一向一揆 △・・《多胡城の戦い》・・△ 畠山義総
享禄04年(1531年)・本願寺一向一揆 ○・・・・《大小一揆》・・・・● 朝倉宗滴・畠山家俊
天文元年(1532年)・本願寺一向一揆 ○・・《飯盛城の戦い》・・● 畠山義堯・三好元長
天文元年(1532年)・本願寺一向一揆 ●《山科本願寺の戦い》○ 細川晴元・六角定頼・法華一揆
天文02年(1533年)・本願寺一向一揆 ○・・・・《堺の戦い》・・・・● 細川晴元・茨木長隆
天文02年(1533年)・本願寺一向一揆 △・・《天王寺の戦い》・・△ 木沢長政・法華一揆
天文04年(1535年)・本願寺一向一揆 ●・・《杜河内の戦い》・・○ 細川晴元
天文24年(1555年)・・・加賀一向一揆 △・・《敷地山の戦い》・・△ 朝倉宗滴・朝倉景隆
永禄02年(1559年)・・・加賀一向一揆 ●・・・《弘治の内乱》・・・○ 畠山義綱
永禄07年(1564年)・・・三河一向一揆 △・《上和田砦の戦い》・△ 徳川家康
永禄07年(1564年)・・・三河一向一揆 ●・・《馬頭原の戦い》・・○ 徳川家康
永禄07年(1564年)・・・加賀一向一揆 ●《小松大聖寺の戦い》○ 朝倉義景
永禄10年(1567年)・・・加賀一向一揆 △・・《堀江景忠の乱》・・△ 朝倉義景
永禄11年(1568年)・・・越中一向一揆 △・・《放生津の戦い》・・△ 上杉謙信
元亀元年(1570年)・本願寺一向一揆 ○・《野田福島の戦い》・● 織田信長
元亀02年(1571年)・・・長島一向一揆 ○・《第一次長島合戦》・● 織田信長
元亀02年(1571年)・・・近江一向一揆 ●・・《金森城の戦い》・・○ 織田信長
元亀03年(1572年)・・・加賀一向一揆 ○・・《五福山の戦い》・・● 河田長親・山本寺定長
元亀03年(1572年)・・・加賀一向一揆 ●・・《尻垂坂の戦い》・・○ 上杉謙信
元亀04年(1573年)・・・越中一向一揆 ●・・《勝興寺の戦い》・・○ 上杉謙信
元亀04年(1573年)・・・加賀一向一揆 △・《朝日山城の戦い》・△ 上杉謙信
天正元年(1573年)・・・長島一向一揆 △・《第二次長島合戦》・△ 織田信長
天正02年(1574年)・・・越前一向一揆 ○・・《一乗谷の戦い》・・● 富田長繁
天正02年(1574年)・・・長島一向一揆 ●・《第三次長島合戦》・○ 織田信長
天正0?年(157?年)・・・越中一向一揆 ●・《八乙女山の戦い》・○ 上杉謙信
天正03年(1575年)・本願寺一向一揆 ●・・《高屋城の戦い》・・○ 織田信長
天正03年(1575年)・・・越前一向一揆 ●・・《竜門寺の戦い》・・○ 織田信長
天正04年(1576年)・本願寺一向一揆 ●・・《天王寺の戦い》・・○ 織田信長
天正08年(1580年)・・・加賀一向一揆 ●・《尾山御坊の戦い》・○ 佐久間盛政
山城:山科本願寺・興正寺
摂津大坂:石山本願寺
近江:本福寺・顕証寺・福勝寺
加賀:光徳寺・弘願寺・勝願寺・本泉寺・松岡寺・光教寺・尾山御坊(金沢御堂)
越前:本覚寺・超勝寺・本向寺・照厳寺・興行寺・吉崎御坊・西光寺
越中:土山御坊・行徳寺・善徳寺・瑞泉寺・安養寺(勝興寺)・専徳寺
能登:長福寺・本念寺・本誓寺
伊勢長島:願証寺
三河:勝鬘寺・上宮寺・本証寺
「一向一揆」は江戸時代の造語
「一向一揆」の定義も江戸期の東西本願寺教団によって行われた恣意的なもの。
同時代的にはあくまで「一揆」「土一揆」であり、一向宗による宗教的な一揆であったと判断すべきではない
一向宗の一揆で、当時は浄土真宗も一向宗と同一視されてた
って理解してたけど間違いですか?
親鸞を祖とする浄土真宗は一向俊聖を祖とする一向宗とは別物
ただし両者とも浄土教の流れを持つので混同されがちで、浄土真宗を一向宗と呼称する者が大勢いたが、これは不適切である
親鸞の教えを広める浄土真宗の僧侶・信者が興した一揆を「一向一揆」と呼称するが、この名称が適切か否かは賛否両論ある
しかし戦国時代後期、畿内・北国・東海の一揆の多くは浄土真宗の寺社が深く関わっており、
浄土教の僧侶・信者のことを「一向衆」と呼び彼らがしばしば一揆を興したので、これを広く一向一揆と呼んでいる
一向一揆の武力は相当なもので、初期の頃から各地で管領や守護大名、守護代をたびたび破るなど猛威をふるった
しかし朝倉宗滴・細川晴元・三好長慶といった名将に阻まれ覇権を握るには至らず
戦国末期には織田信長・上杉謙信に圧倒され消滅していった
そんなこと言ったら戦時中「太平洋戦争」も存在しませんでしたよ。
一向宗門徒と浄土真宗門徒ら「一向衆」が興した一揆で一向に御経を唱えてた一揆だから「一向一揆」。
それでいいんじゃないですか?
書店の書物にも一向一揆と表記されてますし。
少なくとも欧米は「太平洋戦争」と読んでいたんだが。
一向一揆は当事者も攻める方も、誰一人としてそれが「一向一揆である」と認識していなかった、あくまで後世の定義にすぎない
煬帝とか中国の皇帝はタヒ後に正式な名前付けられることもありますよ。
一向一揆で一般に広く知られてるから問題ないと思うんですけど。
浄土真宗門徒による一揆は他の法華一揆や葛西大崎一揆と違い浄土真宗という
点で強く結束してるから、他の一揆とは区別するためにもただの「土一揆」「一揆」では
不便じゃないでしょうか。
「一向衆の一揆」ということで一向一揆でいいと思いますが、
学会等で名称変更を提起させるといいかもしれませんね。
>>9
> 浄土真宗門徒による一揆は他の法華一揆や葛西大崎一揆と違い浄土真宗という
> 点で強く結束してるから、他の一揆とは区別するためにもただの「土一揆」「一揆」では
> 不便じゃないでしょうか。
そもそも他の「土一揆」「一揆」と違う性質のものだったのか、という根本的な部分ですら議論がある
いわゆる一向一揆は「南無阿弥陀仏」と唱えて極楽浄土へ行こうとする一向衆による一揆でしょ
その一揆率いてるのは石山本願寺や長島願証寺、井波瑞泉寺といった浄土真宗の寺
一方、法華一揆は南無阿弥陀仏とは唱えず「南無妙法蓮華経」と唱えるから別物
他の土一揆も南無阿弥陀仏とは唱えないはずだよ
違う性質のものと言えるんじゃないかな
>>11
「南無阿弥陀仏」を唱えているのはいわゆる一向一揆全体の中での一部に過ぎなかった。
法華一揆もそう。法華宗の寺院を拠点にする、以上に宗教的な結合はなかったと言われる。
これらの一揆は後世になって宗教的要素を過剰に見出されていたので、注意が必要
>「南無阿弥陀仏」を唱えているのはいわゆる一向一揆全体の中での一部に過ぎなかった。
それは確かに正しいだろうね
加賀一向一揆は上杉謙信が「自分の敵は大軍と見え候」と書状に書いてることから
相当の大軍だったと思われるけど、
数万の兵すべてが浄土真宗門徒あるいは一向宗門徒とは思えないし
ただ加賀一向一揆の中心メンバーは全員浄土真宗門徒だよ
加賀一向一揆末期の頭領は広済寺の坪坂伯耆守包明だし大将は本願寺坊官の杉浦壱岐守玄任
浄土真宗門徒が領民従えて一揆興してたのが事実だろうね
>>13
それは室町幕府によって加賀守護が本願寺になった事が大きいと思うよ?
宗教団体というより世俗領主として支配していたわけで。あくめで結果的に支配層は本願寺派に内包された。
大和の支配層が基本的には興福寺の関係者であったこと一緒。
加賀守護の富樫政親を倒したのは加賀一向一揆というより富樫の親族らしいな
政親を支援したのが浄土真宗高田派で政親の親族を支援したのが浄土真宗本願寺派だったかな
政親を倒した親族が守護になってたな
>>15
僧兵というと比叡山延暦寺のイメージ強くて一向一揆で僧兵って言い方聞いたことないな
越前の平泉寺の兵は僧兵というよな、小谷城付近の砦で信長にボコられてたが
越中五箇山で煙硝が大量生産されてたから奴らの鉄砲火力は半端なかった
上杉謙信でさえ富山城攻略や朝日山城攻略に手間取ったのも頷ける
杉浦もげんとうだと音訓読み混じってるし、げんじん?
七里よりちかだな、杉浦の方はげんとうともげんにんともいう
杉浦玄任は朝倉義景・上杉謙信と戦った名将だが織田信長の越前一向一揆征伐で打ち負かされた
学問的なことは分からん素人だけども
確かに北陸の一揆は越前も加賀も国人一揆のイメージがあるな
対して石山、長島、三河の一揆は一向一揆と分類したくなる
まあ、三河の一揆は国一揆だったかもしれんが
人が良い女子供を含む農民たち。
一向一揆が武装した百姓の集まりというのは間違い
戦国には落城等で野に下った鉄砲持ち侍達が傭兵稼業している例が沢山あった
水軍になる例もあった
一向一揆とは百姓や一向宗の名目で敵対国の大名や国人が戦のプロを集めて仕掛ける紛れもない戦争
百姓も沢山混じってるが、その軍事力は大名直轄の軍団に匹敵する物があった
戦国時代の一向一揆は、百姓一揆とは別次元の存在
学校で一揆=百姓の反乱と教えるのが悪い
最後は2万人も焼き○したってホントかよ。
ガソリンもなかった時代によ。
ナチスもびっくりだろ。
一酸化中毒で次々とタヒぬからね。
明智光秀は信長に仕える前越前の家老朝倉土佐のもとで陣借りして坪坂伯耆を大将とする加賀の一揆軍と戦ったことがあったそうな。
一方、本多弥八郎正信は三河出奔後、加賀の一向一揆を指導していた時期があったとか。
時期にずれがあるし、お互い一軍を率いるまでの身分ではないから、有り得ないが、
本多弥八郎軍と明智十兵衛軍のガチ○コ対決があったらどうだったろうなとかふと考えてみました
>>42
出典元の明智軍記のその記述なんだけど
朝倉と本願寺が講和した時期も史実と違い滅茶苦茶だし
坪坂伯耆守は本願寺から加賀へ派遣された坊官なので
本願寺の命令に背いて兵糧の簒奪をして朝倉と問題を起こした云々の記述にしても
正直、?っていう部分が多い
それに坪坂伯耆守って朝倉家との最終決戦で総大将に相応しい人物がいなくて
仕方なく総大将格に祭り上げられた兵站担当がメインの人物で
それまでは実戦経験に乏しい人物って言われてたぐらいだしなあ
明智軍記の光秀の朝倉家でのエピソードは後付けで考えられて追加されたような記述が多い
>>43
それは知らなかった。勉強になります。
坪坂は軍略もそこそこ、そして信仰も篤い、地元の地侍か国人あがりかと、私はてっきりそう思っていた。
じつは本山から派遣されたそれも補給担当の坊官だったんですね
兵站担当というよりもどちらかといえば信者からのお布施を管理する立場の人だったみたいね
まあ、もちろん戦場の前線にも出ていた事は間違いないだろうけど
一向一揆とははたして何だったのか?
政教分離・楽市楽座に抗する旧態依然
とした生臭坊主の軍団か?
世界初の国民主権国家を築くため仏敵
第六天魔王に挑んで破れた悲劇の聖軍か?
存分に語ってほすい(´・ω・`)
そもそも1990年代に信長マンセーに使われた政教分離・楽市楽座なんて大ウソだよ。
信長は寺社の荘園を奪いまくる犯罪行為に抵抗したら皆○しをしていただけで、
財産をすべて横領されても抵抗しない寺社には寛容だった単なる暴君だし、
上位権力者と交渉するための組織である惣村一揆という民主的共同コミュニティの撲滅を図っていた。
単に信長のやり方に従わないで反対する者たちを虐○してたに過ぎず、政策として意図して宗教の政治介入を排除していたわけじゃない。
また信長は独裁商人を厚遇し、その支配下の元で座による独占をしたり、関による搾取を放任していたどころか彼らから賄賂をとっていた。
特に信長お気に入りで尾張美濃両国を商売司だった伊藤惣十郎は柴田勝家などからも
自由競争を排除する独占権を認める書状が発給されており越前領など広範囲で独占による高価格販売搾取をしていた。
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見~京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された 歴史的意義の無い 実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。
朝廷が寺社へ発注してきた神々への国家安寧や豊穣や鎮魂などの
年間祭祀行事や儀礼のほとんどが失われた。
大名の非道に立ち上がったのが一向一揆
浄土真宗の仏の前では人は皆平等、南無阿弥陀と唱えればお釈迦様に導かれて皆極楽浄土へ行けるという教えで強く結束した
ただ武力で信長に及ばなかった
なってたらどういう政権運営をするつも
りだったんだろう?
大政奉還とか?それとも幕府を作ろうと
したの?
他の一向一揆も有力大名の一族が結成したのか
噛み付くんだったらしっかり噛み付いてこいよ。
仏教としては、かなり異端と言って良いと思います。
信長がいなかった場合の一向一揆の未来
今まで尊敬してた坊様がワシに税払えとか言い出す
→税から免れようと頑張った一揆衆、内部で混乱、分裂騒ぎ
→戦乱は続く…
本願寺がしっかり統率できずに各地で暴走してた感じはする。
義元や義昭より抵抗頑強だった気がする
なんせ全国各地で火の手上がったから
wikiに載ってる月岡芳年の浮世絵みたくかなりドロドロした戦いだったみたい
戦国時代の同様の存在(仏教原理主義過激派の代表)、一向一揆が注目されないのは
不思議で仕方がない。
>>91
確かに最近になって俺も本願寺の一連騒動はなんだったのかと考えて調べるようになったのだが、
きっかけがISやアブサヤフやアルカイダらイスラム原理主義、戦争時のチベット仏教兵やオウム真理教ら仏教原理主義、各キリスト教原理主義について調べだして一向一揆にたどり着いた
日蓮宗とか比叡山や根来寺の僧兵らとも一向宗は揉めていたらしい
本願寺一向一揆、山城一向一揆、近江一向一揆、長島一向一揆、三河一向一揆、越前一向一揆、加賀一向一揆、越中一向一揆
蒼々たる勢力に視聴率も飛躍的に向上するに違いない
織田信長の最大のライバルは本願寺顕如だからな
1556-1560︰織田信長vs今川義元
1561-1567︰織田信長vs斎藤龍興
1570-1580︰織田信長vs本願寺顕如
1570-1573︰織田信長vs朝倉義景
1570-1573︰織田信長vs浅井長政
1575-1582︰織田信長vs武田勝頼
1576-1582︰織田信長vs毛利輝元
1580-1582︰織田信長vs上杉景勝
信長の野望でレギュラーではない
本願寺勢力に属した坊官や国人って他にどんなのがいる?(雑賀根来などは除く)
下間頼龍・下間頼広・下間頼旦
顕如次男の顕尊くらいしか思いつかない
国人衆で名前と事跡が多少わかるやついないかな
明治以前の坊主共は民衆を苦しめるだけに存在していたようなものだからな
坊主への布施でみんな財産を失って蓄えも出来なかった
明治以前は寺が異常に多くて(恐らく今の10倍以上)葬儀などあるといくもの寺から坊主が押し寄せて布施を要求し
更に寺は統治者不介入の領地を持っていて、税を取れない分の皺寄せは民衆に回ってくる
寺の既得権益に手を入れようとすれば民衆を煽動して反乱を起こし血を流させたし本当にとんでもない連中だったのだわ
世界じゃ依然として宗教勢力の力は強いのに
文化財の損失は痛かったけど国民生活の面から見ると明治政府最大の功績だと思うわ
まあ、政府が意図した以上に広がりを見せた訳だが
それだけ寺が民衆から憎まれていたという事だろう
中世以前、近代以降の有力な区分となりそうですね。
海外の中東は、社会の仕組みとしては中世的と考えれば理解の糸口にはなるかも。
あと、明治以前じゃなくて江戸幕府成立前の間違いだろ。
江戸幕府の寺社奉行の支配下で統治者不介入の領地ってありうるのかよ。例を示して。
当然、寺社奉行の権限が及ばない土地ということだよね。
起きた現象は明治政府も意図してない。それに地域差が激しく、全く記録にない地域も多い。
神社だってものすごい数が統合され廃止されている。憎まれたのか?
鹿児島は率先してやる立場だったから根刮ぎらしいな
寺領は免租地だと思っていたのだが勘違いだったのだろうか
寺社領は統治者の介入の結果であって、統治者の都合でいつでも変えられる。
税制との連動は当時の制度。
石山本願寺で10年も信長に対抗したのが凄い
信長の最大の敵は武田勝頼でも今川義元でもなく顕如かも
なんか最近事情があって浄土真宗本願寺派の開祖親鸞のこと調べていたんだけど、浄土真宗ってさ、 まさに創価も真っ青の危険思想そのものだな。親鸞の時代から信長の時代まで、時の為政者達が放置 していたのが信じられない。
なかったと思うよ。むしろ信長だから戦えた。信長が一向宗に滅ぼされていたら、もしかしたら日本は、本願寺 門徒王国みたのになっていたかもしれないけど、これは絶対やばかったと思う。宗教というのは一度人間の 理性や分別といったリミッターが外れたら、どんな恐ろしいことがおこるかわからないのは、世界史を見れば あきらかなこと。
どう危険なの?
念仏唱えて仏にすがれば極楽浄土へ行けるよって教えだよ
それほど危険とは思わないな、現代の浄土真宗は左翼思想入ってて偏ってるけど
どんな悪いことをしても念仏さえ唱えれば極楽往生できる という主張は 法然がまだ生きてた鎌倉時代に一念義、多念義論争として 浄土宗の弟子達の中で繰り広げられた 極楽往生にはたった1回の念仏で良い。
どんな極悪人でもかまわないという過激な一念義は 酒、女、盗み、○人などを犯す破戒僧を大発生させ、社会問題化 たった1回念仏さえ唱えれば、どんな悪いことをしても良いのだ!と モラルハザードを巻き起こす
親鸞自身は本当はどう思ってたのか知らんが、こういうのは間違いなく後世に人間に悪用される。
親鸞居なかったら 日本は眠れる獅子の清朝化か、フィリピン化してるわ
日本の既存宗教は金持ちと権力者しか相手にしてなかった
下民は救済の対象外だった
悪人正義でその救済からもれた者を救えというのが親鸞の画期的な教え
だから下民に積極的に教えた
戦国期に下民に布教してるのは一向宗とキリスト教だけ
頭悪い近視眼ほどやたら生臭だのと暗黒面連呼するけど 戦国期日本みたいな文明レベルの遅れた野蛮人に宗教というのはモラルや公徳心、社会性のもととなる善悪の判断基準を教えるものだから一概に悪とは言えない
戦国期の日本人は大名から雑兵に至るまでその殆どが個人の利得とその次に家族という戦前の中国兵みたいな低レベルの価値観しかもたなかった 教えをともにする仲間(他人)のために最後まで戦える一向一揆の方が遥かに文明レベルの進んだ存在だよ
家康が江戸期にキリスト教の洗礼名簿真似て寺に人別帖作らせて戸籍管理はじめるがどん百姓に積極的に関わろうというのは武力革命路線放棄した浄土真宗だけだったからな
足軽で旦那が戦タヒしたら田畑横領(横取りの語源)残った妻子奴隷売買平気でするような原始人(秀吉の母親がすぐ再婚した理由)に村社会というイビツながらも一応の社会性を江戸期に教育してるわけでそのおかげで明治期の富国強兵で国民国家化が可能になる下地ができたわけだが 国家のため民族のため戦友のため信仰のため戦える近代的な意識高い無名兵士と、私利私欲で敵から賄賂渡されたり振りになったら簡単に寝返り逃げ出す原始的な雑兵の差だぜ?
徳川幕府開闢は必然
長年続いた応仁の乱の被害より天文法華の乱の方が被害が大きいとか
多分武士の方がお行儀よく戦争してた可能性ある
今、本願寺の鷺森旧事記を読んでいるけど、顕如らは一向宗という呼ばれ方が嫌いだったみたいだな。
というのも、時宗の開祖である一遍の弟子に一向という者がいて、その一向が開いた宗派が一向宗と呼ばれていたらしい。
なので本願寺は混同を避ける為に八代目の蓮如が浄土真宗を名乗ったとのこと。
また本願寺は顕如の頃にかなりの勢力で、そこらの大名家を軽く凌ぐ武力はガチで持っていた。
根来寺と雑賀衆が組んで信長反乱部隊を結成した際に、親信長派だった何代目孫一が反乱部隊の筆頭格である土橋と根来寺の泉職坊快厳らと雑賀内で内乱に発展し、既に大坂石山から退去して鷺森に身を潜めていた顕如が孫一に書状で「物騒な事はやめとけ」と諌めている。
孫一は言う事を聞かずに土橋家を一掃しようとしたので、正親町天皇が詔勅を出して内紛を止めた。
しかし信長が紀州の反信長派を皆○しにしたかったので軍を進めて孫一らと根来衆一部と和泉衆らの連合軍で滅ぼしてしまった。
顕如は信長がキレてとばっちり勘弁と苦悩して、いちいち信長に書状でご機嫌覗いしてみたり、武田攻めの際には坊官を派遣しておべっか使いまくって敵意が無いと示したとのこと。
尚、顕如の息子の教如との仲違いは裏で本願寺父子の策略あった説もあるが、策略だった場合には近江鉄砲衆や大坂寺内町衆を保身から利用して極楽浄土への道を奪った事になるので策略無かった説が有力ぽい。
結果、本願寺は顕如ら西本願寺と教如ら東本願寺で別れて今に至る。
引用元: http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1393077151/
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