【日本史】豊臣秀頼の実の父親という説も・・・?大坂の陣の“A級戦犯”大野治長は無能な家臣だったのか
大坂の陣で豊臣方は敗北したが、敗因は無能な家臣・大野治長にあったという。それは事実なのか。
※以下、「大阪」は前近代における表記の「大坂」で統一。
■大野治長などのこと
大野治長は生年が不詳、通称を修理亮といった。
治長の母は大蔵卿局であり、豊臣秀吉の側室・淀殿の乳母でもあった。慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件の際には、徳川家康のもとを訪れていた女性でもある。
こうした関係から、治長は秀吉の馬廻として仕えたといわれている。
当時は1万石を領し、従五位下・侍従に叙任されていた。
治房は治長の弟であるが、生年不詳で経歴もあまりわかっていない。
豊臣秀頼に仕えたのはたしかであり、知行として1300石を与えられていたという。なお、治長には治房のほかに、治胤、治純という弟がいた。
秀吉のタヒ後、治長は秀頼に仕えて、警護二番衆の隊長となる。
しかし、慶長4年(1599)9月、大坂城内で浅野長政、土方雄久らと徳川家康暗○を企て、未遂に終わった。
この容疑で治長は捕らえられ、下野国結城(茨城県結城市)に追放されたのである。
この時点で、治長の将来は断たれたかのように見えた。
翌年、石田三成らが挙兵すると、治長は家康から赦免され、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に属して軍功を挙げた。
合戦後は再び豊臣家に仕え、秀頼を補佐するようになり、重臣の1人に数えられた。
慶長19年(1614)に起こった方広寺鐘銘事件によって、片桐且元が大坂城を退去すると、治長は織田有楽長益とともに、
豊臣家の中心的人物として秀頼を支えることになった。相前後して豊臣家を守るべく、治長は難しい政局運営を担うことになる。
■治長にまつわる悪評
ところで、治長には、後世にわたって悪評がつきまとった。
たとえば、大坂の陣に際して、治長は真田信繁ら牢人衆らの意見を取り入れず、徳川方を叩く好機を何度も逃したというものである。
それゆえ牢人衆は徳川家を打ち負かすチャンスを失ったので、何度も地団駄を踏んだという。
こうして治長は、豊臣家が敗北したA級戦犯に仕立て上げられた印象が強い。
それだけではない。治長と淀殿との間には、絶えずスキャンダルが噂された。
たとえば、慶長4年(1599)の段階において、治長は淀殿と密通していることが風聞となっている(『萩藩閥閲録』)。
同趣旨の話は、姜沆の『看羊録』や『多聞院日記』にも記されており、相当な話題になっていたことがわかる。
また、江戸時代に成立した『明良洪範』には、秀頼が治長と淀殿との間に誕生した子であると書かれている。
それらの記述は治長と淀殿との密通の根拠となり、後世に秀頼が秀吉の実子ではなかったと広まるようになった。
秀頼が秀吉と淀殿との実子であるか否かは、現在も疑問視する向きがある。
■一変した評価
ところが、現在、治長の評価は一変しているのではないだろうか。治長は豊臣家存続のために腐心しており、徳川家との講和にも尽力した。
当時、京都所司代を務めた板倉勝重は、自らの書状の中で、治長が不屈の精神によって事を図り、秀頼の為なら悪事を働くことも辞さなかったと記している。
悪事と記されているものの、それは徳川方から見たものであり、豊臣方からすれば、そうでないことはたしかである。
(以下略)
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20210501-00235647/
大野治長は淀殿と乳兄弟(同い年)で幼い頃から常に一緒、
2度の落城経験(小谷城、北ノ庄城)も共有してるのだから(コレが大きい)、
小さい頃から手を握ったり、背負ったりしてた可能性が高い
(落城経験が無ければ周囲も気を配ったり、自制も働くが、止めるものがない)
普通の仲ではないよ
しかも同時代人から見ても、2人の関係は
「あの2人に限ってまさかw」ではなく、「あの2人はあやしい…」という評価だった、
複数の人間が、わざわざ書いて記録に残すくらいなのだから、
限りなく黒に近いと言っていいだろう
唯一、大野治長に有利な材料は、豊臣秀吉が治長をまったく咎めていないこと
何かあやしいところがあれば、何か耳に入っていれば、
絶対権力者の秀吉は治長なんて虫けらで何でもできるわけだから
周囲が敢えて秀吉に「お気の毒」ということで、何も教えなかった可能性もあるがね
淀殿は治長をかばうだろうし、誣告とみなされてトバッチリを受ける可能性もあるから
治長が咎められたのは秀吉タヒ後のこと
同感
美少女お嬢様とイケメン執事って少女漫画のあるあるネタだから有り得そう
それに淀殿には守るものが元々なかったというのもある
大抵の妾になった女性は守るものがあった
まあ姫とかだと実家の両親から一族全てとか
弟がまだ幼くてそれを守る為に秀吉の妾にって人もいたな
そんな中、淀殿は守るものがない
両親は既にタヒんでるし、一族もバラバラだしね
精々大蔵卿と治長位しか手元にいないんだよな
妹は結婚すればそっちが守ってくれるからな
淀殿の後ろ盾になるものも何もないから、ある意味他の妾と違って自由なんだよ
自由ということは、従う義理がないということ、彼女が裏切っても困る人がいないんだよ
彼女の裏切りをされて頭を下げる人がいない
人質になる人もいない
このフリーな状況で、しかも相手は沢山妾置いてる老人
しかも正妻でなく妾だから責任もない
ここまでフリーだと身近な治長と恋仲になるのも有り得なくもない
関ヶ原にしろ大坂の陣にしろ秀頼が出陣しなかったのが致命的
秀頼が出陣していれば徳川方について豊臣恩顧の将の槍が鈍ったかもしれないのに
NHKの番組でやってたけど関ヶ原の西軍陣地で大きな山城が見つかってその規模から
石田三成は秀頼を迎えたかったのではないかと推測されると
もし秀頼が来ていれば戦況はガラッと変わっていただろうな
悪妻娶ると録な事にならないw
淀は下げマン
親を○した相手を滅ぼすためとすると辻褄合うと思う。
復讐心がなかったかというとあるかもしれないんだよな
両親の敵みたいなもんだし
守るものもないから簡単に裏切れるというのもある
それに他の姉妹は正妻だったから、責任もあった
家を存続させる責任ね
でも妾だと家を存続させる責任はないんだよな
相手がタヒんだらはいさよならだからね
その家に留まることはない
だから簡単に裏切れるて、好きな人に好きと言えたのだろう
どこぞの正妻として嫁いでたら責任が伴うから淀殿の行動も変わってたと思うんだよな
治長と思ってても恋愛には行かなかったかもしれない
でも相手が両親の敵の老人で責任ない妾だし、守るものもないとなると裏切れる可能性高くなる
ある意味、秀吉に囲われるとなった時、ずっと傍で守るから一緒に生きていこうとか言われてそう
タヒぬまで一緒にいるから、この秀吉の館で生きていこうとかさ
二人の妹とは立場が違うからな
淀君て、秀頼と自分のことしか考えてない
豊臣家をなんとしても存続させる気が毛頭ない
豊臣家を存続させるには、自分が人質として江戸に出向くぐらいすべきだった
淀君はあくまで徳川は豊臣の臣下ってスタンスだったから
淀君の頑固さが仇となった
無学を曝け出してるだけだぞ
一度誤って広まると修正は難しい。近年ではセレブが金持ちになっちまったろ。
あれがまさにチートだよな。
どういう戦術をすればあれだけ強くなれるんだろ?
いや、古い評価だと戦争に導いた戦犯って評価だからあながち間違いじゃないかも
B級でもタヒ刑おるよな
間違ってないよ
1番の戦犯の事をA級戦犯っていうんだよ
極東裁判のA級戦犯とは違う
もちろん元ネタはそれだが、戦犯という汎用性のある単語にA級という「とびきりの」的な言葉が結びついてそういう意味になった
確かにこれが使われだした時には元ネタの誤用誤解もあったかもしれないが
逆にこの新しい「A級戦犯」という単語の意味から類推して極東裁判のA級戦犯を1番罪の重い人と勘違いする、まである
つーかA級が文字どおり「平和に対する罪」だなんて、連合国側も思ってないでしょう。
それは確定した事実
墓でも掘ったか
前田利家本人が書き残してるから
フロイスも日本史の第16章で「秀吉の片手は指が6本あった」と書き記している
https://medical-tribune.co.jp/kenko100/articles/111208524830/
都合よく淀殿だけ2階懐妊するとか
側室100人くらいいたのに
他に子がいない時点でもうね
秀吉自身、種無しの自覚があったのかどうか
一人目はもしかしたらもしかするけど、二回目の秀頼は明らかに怪しいよな
それに大野って淀殿にとって幼馴染で今でいう執事みたいなもんだろ
乳母の子供だから、小さい頃からずっと一緒に育てられてきたしな
ずっと苦労を共にしてきた間柄
そして今でいうお嬢様と執事みたいな関係性だろ
間違いがあってもおかしくなさそう
政治的な意味で、主君信長の姪に秀吉の実子とされる子どもを産ませたかったということだよ。
大野治長ごときが太閤殿下の目を盗んで密通なんてしたら、一発で磔だわ。切腹すら許されん
鶴松に関しては確かにそのような考察もある、
が、秀頼に関してはどうも秀吉が同意を与えていないようなのだ
(出産日の辻褄が合わないことからも明らか)
それにそのような観点で見れば、秀次と淀殿に子作りさせたり、
秀吉の養子だった八条宮智仁親王と淀殿に子作りさせてもよかったのだ
(足利義尚にも、将軍御所に避難していた
後土御門天皇と日野富子の子であるという風聞が当時からあった)
同意
秀頼が生まれるとき淀に「母乳で育てよ(乳母を使うな)」って突き放してんだよね
今も昔も母乳育児はたいていの女性にとっては不眠不休の生活になりがちなうえ
出にくい体質だと赤ちゃんが栄養不良で育ちにくくなる
ミルクのなかった当時、母乳のよく出る体質の女性に授乳を任せるのが当たり前で、高貴な夫婦に産まれた子は乳母や教育係と一緒に大事に育てるものだった
秀吉、淀を嫌ってたんだろな
何かの弾みでなんか感づかれたらまた余計な血が流れるから
他人を近づけるな
という意味だったえい
敢えて苦難の道を選択しちゃった人
家康との間で交わされた書状残ってるよね
参考までにC級戦犯でどの程度なの?
A級は、戦後に作られた「人道に対する罪」とかいう、訳の分からない犯罪
B級は、捕虜虐待とかの、戦前から規定されていた戦争犯罪
勝機があったかもしれない関が原とは全然違うからな
スレタイに要らんキャプション付けた上にA級戦犯の誤用まですんな
本文でも敗戦の最高責任者という酷い誤用してる
息子にビジョンがあり講和目指すなら
最初から徳川の要求受け入れるなり徹底的にやれよと思うわ
淀君が江戸に人質に行けば良かったわけだろ
それは認めない、でも講和は結べとか母親は足しか引っ張ってないし
息子の治長も中途半端だわ
みんな浅井チームじゃん
まあそうね、最終的に織田氏の面々(信雄、有楽斎)は大阪城を退去してるからね
冬の陣の直前に、織田信包が毒○されてなければ、また大阪の陣の展開が違った可能性はあった
そうだよ。豊臣家の対立は結局、高台院(尾張)閥と、淀(近江)閥の戦いなんだもんw
尾張閥は高台院とともに家康の方に行ったよね
三成方(近江派)が勝ってたら、清正正則(尾張派)はつぶされてただろうからな
調整役の秀長がやっぱ偉大だったわ。ヤツがタヒんでから豊臣家中の不和が
どんどん表面化してくるのな
秀長は偉大な弟だね。秀吉も秀長がいたときは暴君じゃなかったと思う
三成は秀吉のイエスマンで、秀吉の悪行を諫めなかったから人望がなかったんだと思う
落ち武者なんか農村部に逃げたら刈られるだけだな
太閤検地で全国の土地使用状況リストができてる時代に落人の里が作れるはずもなし
都会に逃げ込めばワンチャンあったかもしれん
秀吉の寵愛の具合からいって松の丸殿と淀殿は「呼ばれた回数」にはそんなに差が無かったはず
でも淀殿は2度も子を授かっている、怪しい
豊臣とスペインがもう少しうまくやれば相当に長引いた可能性があった(銀の枯渇も早まっただろうが)
(某記事より)
≫豊臣方の大坂城下では「火縄銃の弾」の生産がおこなわれていたが、それを可能にした
≫原料の鉛を海外から提供したのは、スペインと繋がるキリシタンの商人であった
対して家康側は、イギリス・オランダ(プロテスタント)からカルバリン砲輸入で大坂の陣に勝利、で
やっと国内が治まった
(元HP:)http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/476102544.html
しかし、オランダは家康にスペインの策略の裏側を知らします。
オランダの責任者が、ヤックス・スペックス
スペインは、技師を派遣する代わりに、キリスト教を保護し布教の許可をすることを求めていました。
オランダは、
実はその布教こそ、家康が亡くなった後、キリスト教徒を使ってスペインが日本を征服する目的があるのだ。と進言。
激怒した家康は、スペインを追い出します。
そこで、スペインがとった手が、豊臣秀頼に近づき、秀頼を勝たせること。
~
秀吉の次の代の代理戦争で、
家康(側のイギリス・オランダ)が秀頼(側のスペイン)に勝ったが、銀が枯渇するほど持ってかれたのが痛い
スペイン自体がカルバリン砲に負けてるし
一説には193cmとも。
ナイナイ岡村(秀吉)の子が
大谷翔平(秀頼)くらいデカくなることってありえるのか?
まずありえないね
>>751
っ メンデルの法則
淀殿は大阪城にいたことがわかってる
↑なので、秀頼が実子でないのはほぼ確実。秀吉もそれは認識していたと思われる。
それなのに何故甥の秀次を廃してまで秀頼に跡を継がせようと思ったのだろうか?
出生の秘密ネタっておもしろいからな
秀頼は蔵に逃げ込んで徳川方に降伏を申し出たけど、井伊直孝が無視して蔵に放火して焼き○した
という説もあるなw
正妻のねねがまだ健在なのに後妻業も何もねえだろ
側室はまだまだ他にもいるから中の一人に過ぎないってw
正室、側室関係なく、世継ぎを生んだ嫁が1番偉いのがこの時代やで
信長秀吉家康の流れを軸に周りの武将覚えていくとわかりやすくて面白いことに気づいた
こじらせると「また三英傑か!」ってなるんだ
あるいは秀頼か
いくら何でも家老でもない大野治長に責任押し付けるのは変だわ
秀頼と同じ高身長なら間違いないでしょ
普通に考えたら家臣が妾を孕ませたら即処刑で生きて行けないでしょ
書物読むと同時代の人達は知ったと思える記載多数あり
鶴松(棄)がタヒんでがっかりしたが、淀はまだ若いから子は出きる。子は欲しいが、自分はその気が無くなり可愛がっていた治長なら淀に種を仕込ませても良いと思ったか?
或いは秀吉は両刀使いで3Pで淀が懐妊?
その仮説だと秀次に家督と関白職を譲ったのがおかしいし、
その時点ですでに秀次を粛清するつもりだったということになるので、ちと苦しい
3Pは性癖だから。
菊亭母子との親子丼は酷すぎる
事実か冤罪か知らんけど
でも托卵なんだから、どうせ続かないでしょ
どっちにしても養子しかなかったよ
演:榎木孝明
淀殿の乳母・大蔵卿局の子。 関ヶ原の合戦後、淀殿の側近として表舞台に登場。
片桐且元の追放後は真田幸村らと共に徳川と合戦に及ぶ。
今わの際に秀頼が淀殿に「秀頼の父は太閤に相違ござらぬか?」と訊ねた際、
ぎくりとして面を上げるという意味深な仕草を見せた。
息子の体格が大きかったのは母親側の遺伝かもしれない
でも実父が秀吉ではないというほうがいかにもありそう
治長は特に小男という話は伝わってないんでしょ
治長さん背が高かった伝が残っている模様
武士の棟梁になられては困ると豊臣家を滅ぼすのを決意したそうだ
公家風に育てられて、武家の棟梁として頼りなかった
図体デカイだけ
大和に移って、神社仏閣修復に精出してればよかった
二条城で秀頼に会った家康は秀頼のあまりの体格と威厳に驚いて
こりゃ絶対太閤殿下の子じゃねーわと思い豊臣家を滅ぼすのを決意したそうだ
秀吉や治長の傍系(父親や弟の子孫)が残ってて、秀頼の遺髪でも見つかれば検証できる可能性はあるけど。
秀吉の墓
https://rekijin.com/?p=16212
明治時代墓改装の為発掘、ミイラ状態の秀吉が発見される。但し遺体は移送途中でボロボロに。この時遺体の調査はされず。(明治政府も余計な事をする)
また秀吉の歯が墓から1キロほど離れた豊国神社に祀られてる。
なお捨松の墓は、京都妙心寺に鶴松霊廟(祥雲院霊廟)としてある。秀頼は難しいから先にこっちを調査してみるのも良いんじゃないか?
ついでに見つけた一歳の時の逸話。短い生涯でこれだけの事を成し遂げたのか。グッジョブ。
秀吉は9月20日に遠征(小田原征伐)より凱旋して聚楽第に戻った。11月7日、朝鮮使節(黄允吉、金誠一ら)との謁見に際して、秀吉は中座して鶴松を伴って現れ、鶴松が使者の前で小便を漏らして秀吉を笑わせ、使節を憤慨させるという出来事があった。
豊臣鶴松wikiより
長宗我部じゃ秀頼を守れない
だから西日本最強の鬼島津こと薩摩にかくまわれた伝説まである
家康も関ケ原の因縁があるとはいえ鹿児島まで派兵しなかった
仕方ないだろ
大蔵卿にとって治長は息子だもんな
淀殿の乳母でもあるけど、息子もいたわけでさ
そりゃ両方可愛がるよ
だから幼馴染で仲良かったとみてる
そして二度の落城にも一緒だったんでないか淀殿と治長
しかもタヒぬ時は同じ大阪城の中で
なんつーか少女漫画みたいな話の悲恋だよな
妾になったけど、所詮秀吉と結婚した訳でもないしな
正妻はそういう覚悟いるけど、妾は沢山いたから存在が軽いだろ
子供孕んでなければ淀殿だって歴史に名を刻んでないんだよな
そこが運命の皮肉だよな
秀吉の妾いっぱいいたし、その後次の結婚?妾?とかもいたしさ
もしかしたら大野と結婚もあり得たかも
問題は大野がちゃんと戦国を渡っていけるかだけどね
妹にぶら下がればワンチャンあったかもしれないんだよな
でも秀吉存命の時に秀頼身籠って文字通り運命変わったよな
豊臣の名の下継がないといけない立場に変わった
そして正妻は全て捨てて隠居だもんな
人脈は正妻の方があったから、子飼いは家康につかせたけどさ
そう思うと淀殿の違う一面性が垣間見れるよな
ってばっちゃが言ってた
城跡に置いてある籠を観ると、子供しか乗れないようなサイズが多い。
忠実に再現なら江戸時代までの日本人の身長はかなり低かったと思われる。
170センチでもデカ目だったろうな。
姫路城とかも天井マジ低いしな
しかも幼馴染でさ
これを正に当たってたのが淀殿と治長だろ
そこに強欲なジジイの権力者
金と権力を傘に妾になれと迫る訳だ
しかもそのジジイは自分の親父と同じくらいの年齢だし、正妻含め妾沢山いた
そしてそのジジイは父親を滅ぼす時も敵側にいて、兄弟を○していた
そしてそのジジイは母と再婚相手も滅ぼした
その二度の落城と父親と母親のタヒに関わったジジイが今度は自分に妾になれって迫るわけだろ?
愛せるかって言われたらやっぱり無理だと思うんだよな
身近に守ってくれてた治長を愛してしまうのも仕方なさそう
でも秀吉主役だとこういう視点の話にはいつもならないんだよな
しつこく結婚を迫ってきた男と結婚したけど、なかなか子供が授からず、ある時遊び女に子供が出来たと連れてきた
そしたらその子供と遊び女を連れてきて一緒に暮らすとか旦那が言い出してさ
そしてその子供が早くに亡くなると、旦那の女遊びは酷くなる一方
妾をずらっと並べてさ
でも若くして子供を亡くしてしまった旦那をつい甘やかしてしまうのだろうな
そして若い妾にまた子供が出来たが、その子も早くに亡くなるわけだ
そうなるとその女=淀殿と仲良くなんて無理だしさ
二度目に淀殿が孕ってもほっとく関係性しか築けないのも無理ない
そして旦那がタヒんだら、子供のいない自分が男社会で従わせるなんて無理なんだから、隠居しようってなるのも無理ないことだよ
この二人は対比としても面白いよね
長女に妾にっていったけど、淀殿が次女と三女は見逃してと言ったのか、許嫁がいるから、早々に嫁にいけと行ったのか
三女は小学生位で一度目の結婚だよな
両親が亡くなって、従兄弟と早めの結婚
後ろ盾がいないから、せめて従兄弟と幸せになれよってのがなんか切ないよな
次女は普通の政略結婚ぽいけどね
だから三女はある時離婚させられて、今度は政略結婚させられるわけだ
多分一度目の結婚は秀吉が仕組んだ訳でなかったから面白くなかったんだろうな
まさに秀吉もそれ
日本がお見合い結婚昔は多いのはもしかしたらそういうのを知ってるからかもね
昨今ではそういうお節介さんが減ったから関係ないけどさ
沢山の家臣の手前、太閤様は托卵されたんだってププー笑なんていわれると権威が落ちるもんな
誰の子供だろうと懐の大きいのを見せつけるしかないと思ったのかもな
まあ、そこが権力者の悲しい所だよな
そんなことはない
浅野は裏崩れを誘発するし
伊達は味方打ちするし
前田と黒田は真田と毛利の突撃も傍観するし
普通に逆転はあったよ
かなり胡散臭い動きしてる外様は多いし
秀頼がうってでなかった豊臣方の戦略ミス
そこまで絶望的な兵力差でもないし
家康は負けるのも覚悟して藤堂と
最後はお前と一緒に籠城して討ちタヒに
する予定だったし
おいおい浅野長政って徳川派じゃなかったか
いうても北政所の実家やし
真田や後藤などが主張したといわれる内線の利を活用した攻勢防御ならワンチャンあったかもという幻想があるから
現実には大幅に縮小して実行された史実でさえ大失敗してるけどな
豊臣が残る方法はただ一つ。家康に恭順して領地替えに応じることだった。
戦になった時点で終わってるw
大野兄弟や豊臣側近は終始後手後手
豊臣精鋭軍の七手組なんてまともに戦った記録ないんじゃないか?
近年の説では七手組は戦略予備に指定されていて真田らが血路を開いた決定的瞬間に本陣突撃咬ます計画だったのでは?とされる
まぁ近衛師団的な位置付けみたいなもんだから温存はしとくんだろうけど
もったいないなぁ~って思ってしまう
七手組の青木一重と伊東長次の本領安堵の怪
実は家康側のスパイだったとの噂も
あ~、なんかそんな話あったなぁ
七手組がそれじゃもうダメだこりゃ
幕末にどういう動きしたか楽しみ
木下家は弱者大名として続いたけど
倒幕の旗手として、薩摩・長州に祭り上げられそう
豊国神社のある近畿地方ならいざ知らず
薩摩長州の田舎侍が豊臣家の末裔を祭り上げようなんて考えるかなあ
先祖が秀吉に負けて一時的に従属させられただけの関係だし
明治維新の時の薩長の主力首脳陣は、そういう幕藩体制を無視した考えの人が中心だから
豊臣家を反徳川の旗印にすると考えるどころか、その対極の発想しかないだろうね。
だから娘の千姫を輿入れさせた
千姫との間に子供が入ればワンチャンあったけど
秀頼がそうしなかったのはもう戦うつもりだったろうな
・男子の国松:処刑
・娘の天秀尼:養母となった千姫の働きかけで仏門に入ることを条件に助命された。37歳で亡くなるが、長命であった千姫が天秀尼の13回忌に香典を送っている。
墓所は神奈川県東慶寺。
また元禄初頭に80歳で没した求厭は臨終の際に、自分は大坂落城時に3歳だった秀頼の次男だと語ったという(『浄土本朝高僧伝』)。
◆秀頼の遺体?
昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡の発掘調査で人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が発見された。骨は人為的に埋葬されたものとみられ、頭蓋骨は20代男性のもので顎に介錯されたとみられる傷や、左耳に障害があった可能性が確認され、年齢や骨から類推する体格から秀頼のものではないかと推測された[12]。骨は昭和58年(1983年)、京都の清凉寺に埋葬された。
秀吉の墓と天秀尼の墓は残ってるから是非とも鑑定して、決着を付けて欲しいなあ。
肖像画はそんなに太ってないけど、ありのままに描かれてないのか。昔から顎が丸いなあとは思ってたが。その頃滞在してた修道士が「物凄いデブだった」とでも書いてればはっきりするんだが。
誰にとっての平和なんだか
長年信じきってきた誤用を守ろうと無理スジな主張するのは恥の上塗りにしかならんぞ
勝者が敗者を裁くロジックっていつもそれやで
帝国もそれで清国から2億両銀塊で巻き上げたろ
「天下わけめの合戦ニて候」と言ってるのも興味深い
ちなみに秀頼や茶々が自刃したのはこの書状の日付の翌日
(慶長20年)1615年5月7日付大野治房書状
重ねて申し遣わす。敵が押し寄せてきても茶臼山・岡山より私の軍勢を出せば、必ずや一大事になるので、この旨を皆によく言い聞かせるように。
この法度を破るような者があれば、すぐに成敗を申し付ける。
昨日の合戦では余りに軍勢の間隔が間延びしたため不覚を取ったので、今日の合戦は重要なものになるであろう。
いくら私一人が手柄を立てようとも、総軍の負けになればそれも詮無きことなので、軍法を堅く守るよう申し付ける。
追伸
なお真田信繁と毛利勝永とよく相談して、軽率に合戦することを禁ずる。
今日こそ一大事で、天下分け目の合戦なので、抜け駆けなどないよう堅く堅く軍法を守ることが肝要である。
とにかく敵を引き付けてから一戦に及べば、必ずや我等に幸運が訪れるだろう。
熱いわぁ、大坂の陣は凄く好きな戦いだから感慨深い
なんこ切なくなるんだよなぁ
同じ日付の大野治房の軍令書がもう一通ある
内容もほぼ同じだが、こちらでは船場方面に明石全登と弟の大野治胤(道犬)を派兵したことが書いてあり、
真田・毛利とよく相談してから合戦するようしつこく言ってる
(慶長20年)1615年5月7日付大野治房書状
「猶以そつしのかつせん不可然候、真田・毛利相談肝要ニ候、
敵押寄候由、只今注進承候、乍去そつしの合戦不可然候、近邊真田・毛利申合、いかにも敵を引請、急度合戦尤候、
軍法菟角肝要ニ候、船場表へハ、明石・同けん指遣候、其表注進追々待入候、謹言」
敵が押し寄せてきたとの注進を今しがた聞いた。しかし軽率に合戦することは禁ずる。
真田信繁・毛利勝永と申し合わせ、敵をよく引き付けてから合戦に及ぶのが良いだろう。とにかく軍法を遵守することが肝要だ。
船場方面には明石全登と道犬(大野治胤)を遣わした。そちらの状況の注進を待っている。
追伸
なお軽率に合戦することは堅く禁ずる。真田信繁・毛利勝永とよく相談するように。
徳川秀忠では関ヶ原みたいな采配は厳しそう。
ま、家康タヒんだ時点で100%改易だろうからな。
徳川家は敵じゃなくなる。
秀忠は家康のように豊臣家を潰そうとまでは考えていなかったという説もある
だからこそ淀や大野は『家康さえタヒんでくれれば』と思っていたし家康はそういう弱さを見ていたので生きているうちに潰そうとしたと
関東は農業盛んな田舎って感じだっただろう
信長も秀吉も戦上手だが国作りは下手だった
家康はそこんとこ優れてた
伊達に人質の間吾妻鏡など読んで勉強してない
西軍が勝っても戦国時代が長引くだけだからね
仙台や広島、福岡あたりが都になってたかもしれない
戦争長引けば、イギリスに付け入られて大英帝国の一部になっていた可能性もあるし
大野兄は融和派
それにしても大坂の陣で籠城戦を主張して譲らなかったのは淀じゃなかったのか
まあそりゃそうだな、いくら淀でも戦いのやり方まで指図はできないだろうし
寝返りも何も片桐は豊臣の家老とは言え徳川から所領安堵されている徳川大名だよ
むしろ仕官してる実態が一次資料に認められるのに、禄をもらってないなんて超イレギュラーパターンは
一次資料として豊臣家が家臣に俸禄を支給してない例が残ってて始めて考えるべきことだよ
関ケ原を豊臣VS徳川の戦いに持っていって秀頼を立てなかった豊臣方の大きな戦略ミス
なにも幼い秀頼を陣におかなくても豊臣の旗印を全軍に使用許可を出すだけでも戦局は大きく違ってたはず
指揮系統がボロボロだから
関ケ原だって毛利輝元が総大将だよじーさんの七光りのボンなだけ
秀頼も大差ないでしょ
徳川のような結束力ないから
今だって関西広域「連合」だもん
関東は東京中心にまとまる
秀吉のスタッフは無能のボンクラばかり
リーダーとして雲泥の資質の差がある
家康と秀吉の差は人間と猿の知能差そのもの
それは豊臣の官僚制度を見てたからじゃないか?
意外と優秀なのは豊臣秀吉の養子だった徳川秀忠
なぜかというと秀吉と違い敵になりそうな大名を潰しまくったから
伊達政宗も戦で負けて政治で勝ち敵の大名を滅亡させてたし
いざデキてしまったら受け入れてしまう
老いもあるが
憧憬していたお市の娘で特別な女だったから責め詰るという選択肢はなかった
千成瓢箪も一緒に持ち帰ったのを、味方の軍勢みて、
戦況は劣勢と受け取られ総崩れしたエピソードって事実なん?
史実とされてるな
戦国研究で有名な黒田基樹氏や平山優氏もこの治長が馬印を持ち帰ったの事が大失態で、ここから本格的に豊臣軍が崩れたと言ってるな
前に自分でも出典が気になって調べたことあるが分からなかったんだよな
武将の書状にはなかったから、日記とか当時の従軍兵の記録とかかなとは思ってる
あり得るかどうか まず無いとみる
といっても冬の陣前での信繁はほぼ無名だからな。
昌幸の息子ってだけで。
関ヶ原の時は父親の昌幸が指揮を執っていたので、
信繁が前面で指揮した戦はなく、未知数でしかないねん。
更に兄は徳川だし。
信州上田城で徳川秀忠率いる徳川本軍4万を食い止めて関ヶ原への参戦を遅らせたのは
信繫じゃないの?
旗を振っていただけという噂もある。
歴史変わったでしょうか?
教えてエ○いひと
秀吉がタヒぬ前に、成人した嫡子がいれば、
かなり違ったことは確かだが。
最期は本人の能力次第だな。
織田は、バ○息子ばかり残っていたので、あの始末しだし。
どの家庭も似たようなもんや。
親父が偉大な業績あげても息子が凡庸で没落する家なんていくらでもあるがな。
確かに3代優秀な人間が続けばかなり大きくなれる。
女好きの禿鼠は、いろんな女を側室にして、全く出来なかった種無しだからね。
豊臣家への愛着も無くなって、自分と親しい大名に徳川を倒せと命じなかった。
秀頼は秀吉の子供と言うより、織田家と浅井家の縁者だから、そちらの身内たちでなんとか
せえよという感じで、知らん顔してたっぽい。
家康が積極的に動けたのも、高台院が豊臣家のまとめ役を放棄してたからだろう。
ねねは淀をめっちゃ嫌ってそう
当時としては珍しい恋愛結婚で人生の大半をかけて秀吉を支え、秀吉や自分の親族を養育してきて豊臣家を築き上げてきたのにさ
本当に秀吉の種か怪しい子が豊臣家の後継者って…
そら知らん顔するわ
しかもさ、家康とは仲良しなんじゃね?
高台寺は家康が支援して建ててるでしょ
大名としても秀吉の後継者としても、不本意な結果だったんじゃないかなあ
赤穂藩て浅野長政の隠居領が発祥のハズ
天下取ったのが清盛、頼朝、尊氏、信長、秀吉、家康で
尾張が頼朝、信長、秀吉 三河が家康
尊氏は鎌倉か栃木といわれて(子孫の足利一門は京都定着)
関西人だと京生まれ京育ちの清盛ぐらいか(伊勢平氏で三重説もあるが)
大阪の楠木正成なんか戦前の教科書に載ってて必ず暗記させられた忠君愛国のシンボルだバーカ
今も皇居前に騎馬像あるわ
大坂の陣直後に国元の家臣に近況を伝えた宗茂の書状には、
「我々は旗本や御前(秀忠)の備えを命じられた故に、
先手になるようなことはなく、雑兵に至るまでいずれも無事だ」
と言ってるから大坂の陣で宗茂は全く戦ってないんだよな
当時の宗茂は3万石ほど。
かつ欧州棚倉なんで、九州出身の家臣団ではいまだベスト統率取れない。
かつ、
秀忠のお気に入りなので秀忠は近くに置きたい。
かつ、
内外共に武功に難のある秀忠だから、
側近は武名ありつつ経験者で固めたい。
徳川生え抜きはみんな家康のものだし。
淀が生む前にも子が生まれた可能性がしてきされている。
秀吉は、何かと「秀勝」と養子に名付けていた時期があるんで、
オリジナルの夭折した実子秀勝が存在したんではないかと言われている。
文禄2年(1593)8月3日 秀頼誕生。
妊娠出産が1か月ほど計算が合わないと思う。
出産が1か月早まるケースはよく聞くが、遅くなるケースはあまり聞かない。
日本史ってこういうのがあまりにも多すぎる(政治権力者やその末裔の利害が絡んでいるから)
基本的な事実関係がおろそかにされていたり、隠蔽されていたりする
徳川家康の「神君伊賀越え」もわずか2日で踏破してるからなw
(松平家忠の「家忠日記」でバレた)
しずがたけの戦いの前田利家の裏切りなんてかわいいもんよw
家忠日記に拠る伊賀越えってかなり無理あるもんな
松平家忠も単に土地勘が無かったから適当なルートを書いたのか、それとも他意があって書いたのかは分からんけど
6月2日 本能寺の変勃発
6月3日
雨、京都の酒井忠次より家康が帰国次第、西国(毛利攻め)へ出陣するとの報告が来た。
(中略)
酉の刻(午後6時)頃京都にて明智光秀と織田信澄が謀反して上様(信長)が自刃されたと、大野から報告が来た。
6月4日
我等の軍勢が敵200人余りを討ち取った。
信長父子の件は極秘扱いよう岡崎・緒川より報告が来た。
家康は堺に滞在していたそうで、伊賀、伊勢路を退いて大浜へ上陸したので、町まで迎えに行った。
穴山梅雪は切腹した。道中織田信澄の謀反は風説だったことが分かった。
家忠日記は馬鹿正直にすべて書いていることに定評があるので、
私は松平家忠がいい加減なことを書いたとは思いませんよ
あらかじめ伊賀ルートで帰国する周到な準備(馬の用意とか)がなされていたということです
まるで本能寺の変が起きることが最初からわかっていたかのように(すっとぼけ)
家康はなにがなんでも滅ぼすつもりで居たんか
それまで宗や明に留学生送って見返りにお金たんまりもらってたのが(いわゆる朝貢)
石見銀山手に入れて「自分とこの金は自分とこでまかなう」=通貨発行権握ってるからなあ
織田信長は留学生送りまくる寺を滅ぼし唐入り(中国侵攻)して元を叩く戦略
豊臣秀吉は石見銀山で日本の流通貨幣を定め経済を一手に握った
徳川家康「秀吉タヒんだしおれが天下取るか」
まあだれでもそうなるんじゃね?ただ毛利、今でいう「持ってない子」だなあ(^_^;)
冷淡というかあんまり豊臣の存続に心を砕いたようには見えない正直
ダンナの愛人に乗っ取られた家の安否とかどうでもいいかもしれんな
ねねこそ
「本当に秀吉の子かよ!
あとは知らんwww」
ってなってそう
家康と組んで、自分の子供たち
黒田長政、福島正則、加藤清正、小早川秀秋を動かした張本人
仲良かった前田に話通して動かないようにしたかもしれない
家康と寧々が仲良かったというのは三流小説家の創作やで
目的が一緒なら手も組むだろ
寧々が許さないと長政も秀秋もあんな活躍しないって
そもそも高台院の周辺に家康と縁の深い家臣がおらず
組むことすらできない。前から家康と高台院が結託してたなら
小早川秀秋はあんなに苦労してねーわ
木下利房、木下延俊、小早川秀秋の甥っ子三人
秀頼なんて、秀吉の子供かどうかもわからないし、
基本それほど熱心に守りたい相手でもなかったと思われる。
ただし、大坂の役のときには一応仲裁しようとしている
関ヶ原直前に黒田長政と浅野幸長の連署で秀秋を調略してる書状が残ってるけど
「政所様へ相つゝき、御馳走不申候ハてハ不叶両人ニ候間、如此候」
我々も政所様との縁により、貴方をお誘いしないわけにはいかない
とおねを前面に出して秀秋調略してるもんな
秀秋がおねに可愛がられたことがよく分かる
どうにもならんかったって話じゃなかったっけ
そうだね
淀殿以下豊臣譜代が恭順論に傾くなか、太閤嫡男の矜持を貫いた対徳川強硬派が実は秀頼本人だったことが近年明らかになりつつある
二条城会見後に進物を返さない片礼で応じ、家康宛の自筆書状で「お礼は大坂に来られた際に致しましょう」と言い放っているくらいだからな
近年の大坂の陣関連の研究だと通説とは違い、淀殿が融和路線で秀頼が開戦強硬派だからな
徳川方からの大砲が飛んできたから慌てて和睦みたいな話も創作で、実際は終始劣勢のまま物資尽きかけてたから和睦しただけだし
本丸桜門まで出御したが、城内寝返りの報を受けて引き返した
本人が如何に戦いたくても、一存ではどうにもならない
その代わり同意見な真田幸村が出たわけだが
母親が幸村嫌いという内部分裂状態
なぜ夏の陣がおきたのかがわからんな。
物資は尽きたがお金はあったんだろ。メチャクチャあったらしい
いや、そういう意味じゃなくて。
大坂城あろうが金あっても無意味を冬の陣で悟ったのに
なんでまた無意味に戦うのかね?
城内主流派が戦う以外に後が無い浪人衆と譜代強硬論者で占められちゃったからな
彼らが秀頼を擁して再戦に突き進めば、もう誰にも止められない
秀頼とその近臣のみがやる気満々で劣勢とは思ってなかったってことでしょ
実際講和後すぐに又牢人を集めて兵糧をせっせと買い集め始めてると板倉から家康に報告が行ってるし
劣勢と思ってなかったのなら講和を結ぶ必要がないじゃん。
やる気はあっても兵糧が無くなりかけてるのに戦は続けられんでしょ
そういうのを戦況が劣勢と言うんだが。
まさかと思うけど、「ここでいったん和睦して武器食料補給したら俺絶対勝てるで」
と思ってたとか?
その辺りは秀頼の心情が絡むところで、一次史料にもなく個人的な推論になるから話半分で聞いて欲しいけど、
決して勝てるとは思ってなかったと思うよ
まあ劣勢は火を見るより明らかなのに、秀頼は劣勢だとは思いたくないってのが本音で、
とにかく戦って後のことは知らんって心情が秀頼に少なからずあったんだと思う
もし戦が嫌ならとっとと家康の命に従って国替えに応じてるでしょ
秀吉が近江長浜城主の頃の側室とされ、秀吉の第一子となる石松丸(羽柴秀勝)を産んだらしい
織田信長が、秀吉を「剥げ鼠」といって叱責する書状を返した同じ年であるため、側室の南殿が子を産んだことは、寧々と秀吉の夫婦喧嘩にも何らかの関係があると思われる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AE%BF
おねの嫉妬深さを報道しないよな
南殿は庶民出身(史料に親族が明記されていない)なので、その辺の男とやった後で
秀吉に囲われてたので、秀吉の子ではない可能性高い。
実際、南殿は屋敷を与えられておらず
同時代から既に非実子を疑われていた証拠。
(秀吉の子を得た側室にしては異例の冷遇)
ネネが怒ったのは秀吉に側室が多いことよりも
(側室は当時普通)
どこの男の種か分からん子を家中に入れたことだろ。秀勝が亡くなったおかげで、恥曝しなお家騒動にならずに済んだようなもん。
そんなことを言ったら家康は後妻好き
綱吉や吉宗の母親だって庶民や農民
やった女には、以後、屋敷を与えて管理してたろ。
南殿にはそうした待遇が無いから、非実子疑惑が当時からあったと思われ。
弟の秀頼助けて家康と戦ったか
家康について尾張豊臣(というか羽柴)家が続いてたか
秀次みたいに粛清されたか
おねの息子が豊臣を継いだら秀頼は諏訪家を継いでいた勝頼みたいに浅井秀頼とかになって近江の領主だったかも
利権の分配が上手かったのも徳川政権が長く続いた理由かねえ
改革派だった信長、それを踏襲した秀吉
一方で、旧勢力の利権を保護し、支持を集めた家康
やはり神話の時代から続いているシステムを破壊するのは容易じゃないって事か・・・
家康は甲州征伐後、すでに詰んでたんだよ
新たに駿河1国を得たものの、織田信忠(美濃国、尾張国)、
毛利秀頼(信濃国伊那郡)、河尻秀隆(信忠後見役、甲斐国)、
北条氏政(伊豆、相模他)に囲まれて伸びしろゼロ、これ以上の領土拡大は望めない、
粛清された水野信元と同じ状況に陥っていた。
信康事件によって織田氏との婚姻関係も解消していた。
(これは最近の有力説では家康から解消した、自分で息子、信長の娘婿を粛清した)
残っている息子の於義丸(結城秀康)が満8歳、長松丸(徳川秀忠)が満3歳。
家康には男系の(松平広忠を父とする)同母兄弟、異母兄弟もいない。
(義信事件のとき、諏訪勝頼は満18~19歳で、すでに元服・初陣も済ませており、
信廉(信玄同母弟)、信豊(信玄同母弟信繁の次男)も居た武田家よりも、はるかに条件は悪い。)
織田信忠と松姫(武田信玄六女、のちの信松尼)との正式な婚姻が予定されていた。
信忠と松姫の間に生まれた男子の1人が武田の名跡を継承すれば、ジ・エンド。
だから信長生前から、
すでに家康は(依田信蕃はじめ)武田旧臣への調略を開始していたことが明らかになっている
(実質、謀反の企て)
「家康は信長の命令にそむいて武田家臣たちを匿った」というのは、
典型的な徳川史観による捏造プロパガンダで、
実際は現代にも残る信長自身が出した国掟がそれを否定している
だから本能寺の変をやるのは、本当にあのタイミングしか無かったんだよ
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1620825651/
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