【歴史】「できるだけ長く苦しんで」…腸がとびだしあふれる血の中で破顔、10数時間後に息絶えた「特攻の父」大西瀧治郎中将
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20240809-00072715-bunshun-000-2-view.jpg
(省略)
今日われわれは大西中将を「特攻の父」とよんでいる。特攻作戦を発案し、それを実行に移した提督という意である。地下に眠る大西もまた、その名をかならずしも拒否するものではないことであろう。全責任を一身に負って自刃したかれの胸中には、十万億土で散華した多くの若者の先頭に立つの想いがあったであろうから。
しかし、歴史的事実を深くたずねれば、そこに疑問なしとはしないのである。特攻戦術が採用されるに至るまでの経過は、きわめて混沌として見極めがつけにくい。一概に、大西中将の提唱によって、などと結論づけることは事実を見失うこととなろう。
昭和19年7月、サイパン島を失い、戦局は日本帝国にとって最悪の段階を迎えた。本土全部がB29の爆撃圏内に入ることを意味し、軍事工業が壊滅すれば近代戦の遂行は不可能になる。当時、軍需省航空兵器総局の総務局長であった大西は、この事態に対応すべく断乎たる処置を強請する意見書を、海軍大臣嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)大将に突きつけた。
その所見が海軍中央を震撼させるのと前後して、東条英機(とうじょう・ひでき)内閣が総辞職し小磯国昭(こいそ・くにあき)内閣が成立、海軍首脳部が一新してしまう。しかし大西の意見書の波紋はおさまらぬどころか、いっそう荒立ち、10月5日付で大西の南西方面艦隊司令部付が発令される。やがて、つぎの決戦正面であるフィリピンの第一航空艦隊司令長官に任命されるであろうふくみが、その裏にあった。
■「零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当りをやるほかに…」
この最前線転出が、はたして懲罰人事であったのか、それとも決戦正面へ海軍航空のエースを登場させる重要な意味をもっていたものなのか、真相は曖昧模糊(あいまいもこ)とした霧の中にある。しかも人事発令4日後の10月9日、大西は蒼惶(そうこう)として東京を去るのである。
(省略)
「山本司令とはマニラで打ち合わせずみである。副長の意見はただちに司令の意見と考えてさしつかえないから、万事、副長の処置にまかす、ということであった」
と言った。しかし、事実は、マニラで大西は山本司令と会ってなんかいなかった。ということは、大西が完全な嘘をついて、玉井副長に決定的な判断を求めたことになる。
ここで少し前のところを読み直してほしい。大西はまだこのときは南西方面艦隊司令部付の一中将で、なんの命令権も決定権もない。であるから、わたくしは大西中将と書いてきた。第二〇一航空隊を指揮する第一航空艦隊司令長官に正式に任命されるのは、翌10月20日なのである。ならば、玉井副長をだましたりせず、長官になってから大西は正々堂々と話し合えばよかったのである。大西はそれをしなかった。何故なのか。
■軍令部起案の電報文にすでにあった「敷島隊」の名
ここに一通の興味深い電報が残っている。軍令部の源田実(げんだ・みのる)参謀の起案になるもので、日付は昭和19年10月13日。
(省略)
この電報起案は、大西中将が東京を離れた数日後に、すでにして書かれている。しかも、何ということか、神風攻撃隊の名も決められている。さらに言えば、10月20日に特攻作戦が正式発令となり、大西が名付けたという本居宣長の「敷島の大和心を人問はば……」の歌に発する敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊の攻撃隊名も、この電報の中にある。
この合致は決して偶然なんかではない。明らかに、体当り攻撃は作戦の総本山軍令部の発案、そして決定によるものであったことを語っている。つまり特攻という非人間的な攻撃の責任は、海軍中央が負うべきものである。大西はその実施命令の発動者になる役割を負わせられて、早々に東京を旅立った。しかし、大西には長官として「命令だけはしたくない」の深い想いがあったと思われる。それが真夜中の、まだ一中将の提案となり、玉井副長への欲せざるごまかし発言となった。
■「特攻なんてものは、統率の外道の外道だ」
明治24年(1891)生まれ、海兵40期、144人中の20位で卒業、頭も決して悪くない。生えぬきの航空屋として山本五十六大将の信頼の厚かった大西は、単なる我武者羅な勇猛、豪胆の士ではない。親分肌の人情家、神経もこまやかであった。そして作戦は九タヒに一生をもって限度とす、自分ができぬことを命令してはならぬ、そうしたよき海軍魂を身につけた闘将でもあったのである。(以下ソース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/5095b701648259788649f80f6abb7bf74aaa0ed2
★1:2024/08/12(月) 23:51:40.25
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1723474300/
この人は一人で自決したからいいけど
宇垣長官は終戦を認識しながら5機で体当たり出撃した
付き合わされた搭乗員や部下の遺族はたまらんだろう
自刃しただけマシなトップ
軍には精神論振りかざしといて戦後おめおめと生き残ったゴミが山ほどいるからな
自決は陸軍に多く海軍は少ない
絶対数が陸軍の方が多いから当然だがそれでも海軍は少ない
陸軍三長官の阿南陸軍大臣、杉山参謀総長が自決、土肥原教育総監はタヒ刑
海軍は米内海軍大臣、豊田軍令部総長、小沢連合艦隊司令長官は自決も刑タヒもしなかった
陸軍では田中静壱大将東部司令官など戦争責任がないであろう軍人まで自決したが海軍はほとんど自決していない
大西瀧治郎、宇垣纏は例外人種だろう
しかし、本当にこうゆう嘘か本当か嘘かわからないことを、さも史実かのようによく書けるもんだね
その神経が既に理解不能だわ
証拠はもちろん、検証も論証も何もなし!ただ「こうだったらいいな」だけで妄想を垂れ流して恍惚とする?
「嘘も100回唱えれば本当になる」って壺ウヨの専売特許だけど、いい加減自分等の惨めさに気付かないもんかね
そういえばこの話、この何年か壺ウヨがすがり付いてる「日本の○○を世界が称賛!」みたいなオ○ニー糞動画とそっくりだね
今のロシアや中国みたいだな
そりゃ多用されますわと
大和武蔵長門以下、戦艦5重巡10駆逐他計32隻の第一遊撃部隊
この戦果と敷島隊9機の戦果が同じかむしろ特攻が勝ってる 特攻に傾斜するのは無理もない
もはや水上艦艇は役立たず 潜水艦が何とかな状態 沖縄戦の時点で海軍はもう手を挙げるしかない状態だった
撃沈させた関隊長は凄腕の艦爆乗りとして有名だった
「俺なら250キロを命中させて帰還できるのにな」
と語って出撃したそうです。
ガンダムでいうとジオン軍戦意高揚のため
ガトーが爆弾抱えたゲルググでサラミスに突入し
轟沈させた感じ エースの無駄遣いは勿体ない
もうこの頃の零戦は、ザクくらい
でも現実として通常爆撃で沈めた船って44年以降大物はプリンストンぐらいでほとんど無いでしょ
対空砲火なんか飛んでくるアイスキャンデー避ければ当たらんと豪語してた名手中の名手である江草少佐も普通に撃墜されてるし
俺がやるんだからお前らは強制
山場の「できるだけ長く苦しんで」が
全然出てこない姑息な記事だし
愚かとか気持ち悪いとか今時期じゃなくても軽々しく表現しないで欲しい
赤坂から芸者を呼び寄せ夜な夜な豪遊してた
司令官の富永恭次は自分も最後に特攻すると言って部下を特攻させ
その後台湾へ逃げ生き延びた
特攻兵をタヒに追いやった連中はクズしかいない
寺内寿一は開戦から敗戦まで一貫して遊んでた
元々寺内正毅の息子、伯爵で長州のプリンスって毛並みだけで南方軍総司令官に任ぜられた
仕事要員じゃなく単なる飾り 毛並みだけならカウンターパートのダグラス・マッカーサーといい勝負で開戦から双方終戦まで総司令官だった
寺内に戦争指揮など誰も期待していないので、戦争は、山下奉文、本間雅晴、今村均と部下の仕事のできる軍司令官がやった
初戦の戦勝後、総司令部を置いたシンガポールで暇していた寺内がやってたのは敵性スポーツのゴルフ 寺内は戦争中いいもの食って遊んでいた 本来寺内は敗戦時の戦犯要員だったが、イギリスは貴族社会だけあって、伯爵の称号に敬意を表し好待遇だったが、脳溢血でサクッとタヒ亡 タヒ因はいいもの食いすぎだったと疑いたくなる
富永恭次は、無断移動が流石に問題視されあちこち飛ばされた挙句満州の弱小師団の師団長に
そのままシベリア抑留となり将校どころか閣下でさえ全く気遣わないソ連軍にこき使われ10年後何とか帰国した時には完全にシオシオに
哀れ極まる状態で国会にまで呼び出されかつて東條の元で陸軍次官でブイブイやってた面影は欠片もなかった
一応の罰は受けた感はある
ただ軍上層部と象徴さんは裏切り者だろうな
あの時期に片道燃料で航空機の援護もなく
沖縄まで辿り着ける筈がない
また傷だらけで辿り着いたとしても戦局は覆らない
では何故大和を突っ込ませたかというと
「大和を温存して負けたら納税した国民に非難される」
という上級軍事官僚の言い訳のため
一握りの上級のプライドのために数千人が犠牲になった
戦闘機と油があれば飛んでたって言ってた
こんなもんに付き合わされた沢山の優秀な若者達が気の毒過ぎる
上が馬鹿だと下が苦労するのは昔も今も一緒ですわ
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1723543995/
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません