1324年、死期が迫ったポーロはベネチアの自宅に司祭兼公証人を呼び、
大きさ67x27センチの羊皮紙に遺言をラテン語で口述筆記させた。
遺言を所蔵するベネチアの国立マルチャーナ図書館は複製した羊皮紙を含む大型本を共同出版。
版元のスクリニウム社の担当者は、「前回の写本は150年前のもの。
今回の版は、最新の科学技術と学術基準の文献学を駆使して作成され、誤りが修正されている」と述べた。
ポーロは、「神が私の魂を罪から解放してくださるため」に、ベネチアの教会組織に金銭を提供し、
延滞債務を恩赦し、タタール人の使用人を自由にした。寄付金以外ほぼ全所有物を妻と3人の娘に譲渡しており、
息子がない場合は財産を親族の男子に譲っていた当時の慣習と異なる措置だったという。
出版担当者は「この点で、ポーロはかなり時代を先取りしていた」と述べた。
20世紀末には、一部歴史家がポーロは実際には中国に行かず、
黒海で出会ったペルシャ人商人からモンゴル帝国の様子を聞いたとの説を展開したが、
大半の歴史家がこの見方に反対していた。
版元の担当者は、遺言にあるように、モンゴルに住むタタール人の使用人がいたことは、
中国に行った事実を裏付けていると指摘。
また、死後に明らかになった所蔵品リストに、極東産の高価なじゃ香があったことも証拠になるとみられる。
関連ソース画像
http://image.news.livedoor.com/newsimage/stf/8/0/80177_769_30861c6b2d23c97cd5c7602d64f62695-m.jpg
Reuter
https://reut.rs/2qEW37V
>>1
マルコ・ポーロはベネチア出身
東方から帰還途中でライバルであるジェノバに捕らえられ牢獄につながれそのまま獄タヒ
その間看守に東方での出来事を話した
この看守がまとめて本にしたのが東方見聞録
ベネチア、ジェノバ、ピサ、アマルフィはかつてイタリア四大海洋国家で地中海で競合する関係であった
>>20
>東方から帰還途中でライバルであるジェノバに捕らえられ牢獄につながれそのまま獄タヒ
マルコ・ポーロは釈放されて商人として活躍し、巨万の富を蓄えてベッドの上でタヒんだんだが・・・・・
中国に行った、途中まで行った、マルコポーロは非実在
いろいろあって面白い
本箱に
「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」粟野真紀子訳・草思社と
「聖徳太子はいなかった」石渡信一郎・三一書房があった、昔、疑い深い自分がいた
単にあまり会ったこともない親戚より嫁や娘に渡したかっただけかもしれんわけで
それは珍しい部類だったかもしれんがそれが先進とか関係ないだろう。親戚と仲が良ければそうしてたろうしな
大げさだよね
先進的って書いてあるから何かと思ったら
どこにでもあるから
引用元: http://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1524050735/
コメント