元寇のとき蒙古軍はどうやれば日本を完全制圧できたの?
に東を目指す。つーかむしろ逆になぜそれをしなかったのか……?
得意の機動戦で一気に九州を征圧する。
>>1だと対馬壱岐に時間がかかり過ぎ、九州上陸前に日本軍の反撃に遭ってしまう。
不利なだけでは?
まず最初に日本に使者送ってから侵略までの間に時間があるから
日本はその間にも準備や情報収集してるんでないか
まあ南宋攻略の最中だし他にも目標はあるし
できるなら消耗せずに帰属させたかったんだろうけど
俺が蒙古軍の将軍なら優越な水軍力を駆使して、
関門海峡を封鎖したうえで、日本海から京を攻め、天皇と上皇を生け捕りにする
さらに海上から鎌倉を襲撃して、執権と将軍を生け捕りにする
800年前のモンゴル軍にそんな技術や経済力が有るか そこまで負担や犠牲を払って得るほどの価値がある島か
大友氏に中国四国九州20か国を与えるといって寝返らせよう
当時の海運能力でこんな軍事国家を侵略なんか無理ゲーだろ
鎌倉時代では無理だろう
フビライは大覚寺統の干された皇族に反幕で挙兵を持ちかければ勝てただろうな
壱岐対馬博多の割譲を条件にして
日本列島内に拠点を構築すれば、あとは約束を反故にして日本を完全制圧
同様のことを欧米列強がやれば、幕末に白人が日本を支配出来たのに
日本侵略にくる外国勢力と組むほど馬○じゃないんじゃね?
そもそも、当時は普通に両党が順番に即位してるから干されてる皇族いないし、
承久の乱以降、皇室に味方して幕府と戦う武士はいない。
>>41
元寇と三別抄
https://www.youtube.com/watch?v=Gpkspnb7scQ
ここの1:26:00あたりから1分でもいいから見てみ
三別抄って蒙古を相手に最後まで抵抗した側だから逆じゃん
それ日本は結局スルーしたから手を組んでないよ
別に日本侵略にきてもないし
日本は三別抄の手紙を、それまで高麗からくる正式な国書と違うと訝しんでて信用しなかった
鎌倉幕府は三別抄をスルーしてないよ。
三別抄の手紙を重視したから、朝廷が蒙古に出そうとした返信を握りつぶして、
大陸に調査団派遣してる。
>>49
朝廷が蒙古に出そうとした返書って蒙古に従ったり友好するようなものじゃなく、
クビライの国書の内容を手厳しく批判するものだよ
三別抄の手紙を重視したから朝廷が蒙古と交流するの止めたという意味なら、
幕府がこれを止めたからといって、蒙古との交流を止めさせたとは言えないと思う
喧嘩売ってるのかってくらいの内容だし
大陸に調査団(5回目の使者が連れて帰ったやつ?)にしても、
戦争が近いなら相手国の偵察はしたいだろうし、
それも三別抄の手紙を重視したからとは言えないと思う
>>50
元史に書いてあるじゃん。
『元史』巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國
「去歲九月、日本人の彌四郎らと太宰府西守護所に至る。守る者云えらく、先に高麗の給くところとなり、
屡々上国の来伐を言う。豈に皇帝の生を好み○を悪み、先ず行人を遣わし璽書を下示せられるを期せんや。
然れども王京はここを去ること尚お遠し。願わくは先に人を遣わし奉使に従い回報せしめん。
良弼乃ち鐸を遣わしその使二十六人と同に京師至り見えんことを求めしむ」
ここに書いてある「しばしば上国の来伐を言う高麗」って三別抄のことだから。
三別抄の情報をもとに、返書より先に使二十六人を送ることになったのが分かる。
『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条
「安童言えらく、良弼、金州の戍兵を移し日本をして妄りに疑惧を生ぜせしむることなきを請う。
臣等以爲らく金州の戍兵はかの国の知るところにして、若しまた移戍せしめば、
宜とするところにあらず」
金州にモンゴル軍が駐屯してるって日本側が知ったのも三別抄情報だし。
日本の使二十六人はその調査を任務にしてたんだよ。
>>52
それ『高麗にあざむかれて元が日本に攻め寄せると脅かされた』とは言ってるけど、
使節を派遣する理由がそれだとは言ってないよ?
そもそもその会話では、使節の派遣目的を都が大宰府より遠いから
まずこの使者を遣わして~と、言ってて、名目上はあくまで使者
もちろん本心はその後の記述で元が疑ってたように調査目的だろうけど
会話では調査が目的とも、調査する理由が高麗(三別抄)だとも言ってない
この会話でわかるのは、高麗(三別抄)が元の侵略を警告してたことのみ
でそれについては、幕府は三別抄の使者が来る前から疑ってるし、
そもそも4回目の使者が持ってきた国書で
「返書しないと将軍に命令して万の船で王城まで攻める」と脅してるんだから、
三別抄の使者に警告されるまでもなかった
>>52
>金州にモンゴル軍が駐屯してるって日本側が知ったのも三別抄情報だし。
下の所も、 金州の駐屯軍について日本が知っているとは書いてるけど、
それが三別抄情報だとは書いてなくない?
>>54
三別抄からの手紙には、金州にモンゴル軍が駐屯してるって書いてあるんだよ。
だからこれは明らかに三別抄情報。
『元朝名臣事略』野斎李公撰墓碑
「既にして至れば、宋人、高麗耽羅と共にその事を沮撓せんとす」
来日した趙良弼が「高麗耽羅」つまり三別抄からの妨害を受けたと書いてある。
三別抄からの妨害ってのは、>>52のようなモンゴル情報を日本に流すことだ。
外交交渉に当たった趙良弼がそれを障害だと感じてたんだから、鎌倉幕府が三別抄をスルーしてないのは確かだろ。
>>49
ってか朝廷が返書しようとしたのは1269年の第4回使節金有成の時で、
三別抄の使者が来たのは1271年だからその2年後
朝廷が蒙古に出そうとした返信を握りつぶしたのが、
使者が来た2年後より後ってのは遅すぎない?
幕府が蒙古を疑ってるのは2回目の使者の潘阜が
1268年に来て直ぐからだし(蒙古の凶心への要人を御家人に伝えてる)
三別抄の手紙を重視したから蒙古を拒絶するようになったんじゃなく
三別抄の手紙がくる前から元々だし
元人の総司令官ヒンドゥはぜんぜんやる気がなかった。
文永の役ではたった一日で帰ろうと言い出すし。
弘安の役ではフビライが約束した日までに江南軍が来ないから帰ろうと言い出すし。
とにかく帰ることしか考えてない人。
こんな調子で日本全土占領とかやる気あったのか?
少なくとも弘安の役ではその気があっただろうね。
昔の戦争は土地を占領するよりも、まず敵の主力を潰す。敵の主力が壊滅して抵抗力が
なくなれば土地や王朝は意のまま。
弘安の役で東路軍が志賀島戦闘をやっていたころ、幕府側の人が「敵もやっつけたが味方も
損害が多い。このままだと兵数の多い敵の方が有利だ」とこぼしている史料があったように思う。
十万の江南軍が合流した後ならなおさらだ。もし台風が来なければどうなったかわからない。
承久の変で19万動員出来る鎌倉幕府にはアウェイの土地じゃ敵わんだろ。
>>27
その承久の変の時期に攻めてきてたらモンゴル勝てたんじゃね?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%A2%E3%B3%E3%B4%E3%AB%E3%AE%E9%AB%E9%BA%E4%BE%B5%E6%BB
高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年である。当時、金朝に属していた契丹族の一部(黒契丹と呼ばれる)が満洲から
高麗に乱入し、江東城(カンドンソン)に籠城したが、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしている[2]。その後の1220年
から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが(以降とは異なり奴隷を要求されず)[3]、1225年にモンゴル
使節が○害される事件が起きためモンゴルの侵攻を招いた。ただしこの時、モンゴルのチンギス・カンは西夏への遠征中で
あり、高麗侵攻はチンギスのタヒ後、三男のオゴデイが大カーンに即位した後に行われた。
この時期、高麗と協力してさっさと日本に兵を出してれば、1220年に準備開始したとして攻撃実行はちょうど1221年ごろだろう
でも日本に攻め込むなら事前偵察は必要だし、
といって使者送ったら日本は警戒するし、
九州すら偵察なしで攻め込んだら文永の役以上にまごついただろうしで、
いきなり攻め込んだらそれはそれで元にも不利だったと思う
日本近海にいれば上陸拠点作れない限り台風の餌食やから
どっちにしても同じやで
>>24
>やる気があったのは高麗とフビライで
>モンゴル人達は海の向こうまで行くのは嫌だと暴動起こしているじゃん。
それ初耳だけど何の話?
最初の使者が海の向こうまで行くのは嫌だと途中で帰った話はあるけど
鎌倉時代の肥後国御家人竹崎季長奮戦す
https://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/index.html
モンゴル帝国としては西進が征服の目的で、海の向こうとか割とどうでも良かったはず
突破して京近くにたどり着いても比叡山からわらわらと降りてくる武者法師の薙刀の錆
それ全て食い止めてたとしたらものすごい国だな
つうか馬大量に連れてくるのも難しいしな
一応描かれてるから連れてきてはいたんだろうけど
文永の役の前に結局出さなかったけど返書の草案を朝廷が書いてたけど
かなり強気に元の要求を拒絶してたし
使者出した原因も前々から蒙古が怪しまれまくりだったなら
それが原因とは限らないし
後押しになった可能性はあるが
それで防衛強めてより攻めにくくなった
といって文永の役の頃に大軍で攻め込むことも南宋と戦争してる時にやらないだろうし
要するに当時では最初から完全制圧できる状況になかったんじゃね
考え方としては、あえて遠方を征服して従順な子分の国にして、あとで挟み撃ちにするやり方もある
とくに高麗はこのあと50年がかりでモンゴルと激闘を繰り広げることになるから、あらかじめ日本を抑えて挟み撃ちにできていればこんな苦労もなかったかもしれない
日本征服の難易度を100としたら高麗は2くらいだろ。
モンゴルと高麗は激闘なんか繰り広げて無いぞ。
高麗の武臣政権が江華島に引きこもってる間、モンゴル軍は半島で奴隷狩りやってただけ。
そもそも50年じゃ無いし。
1225年にモンゴル使節が○害される事件が起きたため紛争勃発し、1231年に戦争に発展、6度にわたる戦闘を経て「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」「骸骨野を蔽う」状況を経て1259年に国家として降伏するも、
なお抵抗勢力が三別抄を組織してさらに抵抗、日本討伐のために建造されていた船を焼き討ちにするなどの成果を挙げるも1273年に完全制圧して終戦
正式な戦争をしてた期間は1231年から1259年までの19年間だけど、その前後の戦闘を含めれば1225年から1273年までの49年間だね
1225年にモンゴル使節が○害されてから1231年までの間に戦闘なんか無い。
それに三別抄は高麗王朝に対する反乱だ。
高麗自身はモンゴル軍と共闘してるじゃん。
そもそも1231年から1259年までだって一方的に荒らされて「蒙古軍が経る所の州郡みな灰燼となる」
「骸骨野を蔽う」状態になったわけで激闘なんかじゃないだろ。
でも高麗を完全に抑えてない段階で、日本に大軍送れるのかな
文永の役では高麗、弘安の役では高麗と南宋が造船担当してるし
承久の乱のときの日本は朝廷とすら戦争するくらいなのに
従順な子分になんてなるかなあ
ゲリラ戦が続いたら地の利のないモンゴル側に不利だし
その隙に別の国に攻め込まれる&被征服民の反乱
になるわな
結局は、元の国内も国外との関係も安定しないと
日本征服できるほどの規模の大軍送るのはデメリット多すぎるし、
といってそこまで元が安定してたことないような気がするしで
日本征服は最初から無理げーだったんだな
多少九州で優勢になったって補給確保できなければ
半島や大陸からの渡海補給が遭難すれば窮地に陥るし
九州以外がの武士の攻撃は続けくだろうし
江南地方の穀物を首都大都まで輸送する手段に、運河じゃなく海運使ってたのなんて
歴代中国王朝で元くらいだ。
馬の牧場もわざわざ渡海輸送が必要な済州島に作ってるし。
でも弘安の役は軍ですら台風にやられてるわけだしなあ
江南→大都の台風襲来率がどんなか知らないけど、
日本までだと補給部隊も台風に遭うリスク高そう
だから南宋攻めた時に中国沿岸から中東まで貿易やってたイスラム人を大量登用したんだよ。
そいつらが海軍軍閥作って日本とか東南アジアとか海外進出を積極的に進めようとした。
よって、元寇の軍も、純粋なモンゴル人の数は少ない。
モンゴル人は被征服地の人材を積極的に雇用する。
日本は→日本の武士は
>>65
実際のところ何人くらいいたんだろうねモンゴル人
高麗人除いても、残りは蒙古と他の混合だし
どっちが屁理屈だよ?
「モンゴルと高麗の激闘」にモンゴルと高麗が共闘した戦いを含めるのはおかしいって
当たり前の話だろ。
あくまで高麗の政府は高麗王の方だからね
三別抄の行動を高麗のそれとするのはどうだろう
この頃の高麗王は王子は人質に出し、その王子に元の皇女の降嫁を願い、
実際それが叶えられてもいるほど元に従ってた
蒙古の戦い方をしったら、そもそも、日本制圧なんて、土台無理。
蒙古は人口少ない。よって、一度の戦いだけで、相手を征服できない。
何度も、攻撃、撤退、攻撃、撤退をループして、相手が疲弊するまでやる。
これには陸続き同士の国と大平原で戦闘しないといけない。
いちいち、渡海して戦わないといけない対日戦では、まず不可能な戦闘。
三度目の日本遠征も準備してたらしいけど、
仮に何度もやったとしても日本が疲弊する前に
渡海の負担で元の方が疲弊しそうだな
元や高麗にやったことだな
ヒットアンドアウェイだな。
ヨーロッパの地中海沿岸はアフリカから来るイスラム系海賊にズタボロにされたらしい。
そんな感じで数年間攻めれば良かったな。
倭寇の活動は高麗や元にとって致命傷だったよ。
元は江南地方から首都までの穀物輸送を海運に依存していた。
高麗も全国で採れた年貢を海運で首都へ集積していた。
モンゴル軍が30年間朝鮮半島で暴れても高麗王朝が存続できたのは、
この海上輸送網が手付かずだったからだ。
一方、倭寇の襲撃は元と高麗の海運輸送網を直撃した。
オスマン帝国はビザンチン帝国を破って旧領を陸路進軍し、ハンガリーを拠点にウイーンを包囲してたんだよ
オスマン帝国領ハンガリーは1541年から1699年まで、150年以上継続してずっと支配してきた
地中海ではオスマン海賊とマルタ騎士団がお互いの商船を狙って海賊行為を繰り返してた。
アフリカ側にはオスマン海賊に支配されていた土地もある。
レパントの海戦でオスマン艦隊を撃破したけど、それでオスマン勢力が地中海から消えてなくなったわけではない。
逆に東ローマ帝国とハンガリーが落ちてから、それ以上ヨーロッパの侵略が進んでもいない。
それに対して九州四国の倭寇を仕切っていたのは征西将軍府。
つまり倭寇とはモンゴル高麗の「征東」と日本の「征西」の戦い。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1536846164/
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