戊辰戦争・西南戦争の軍事的考察
西郷どん、なんでタヒんでしまうん?
第二次長州征伐みたく守りきって新政府の武威を落とした方が良かったんちゃうん?
山県有朋が恐れていた3策のうち1策が鹿児島割拠で、
鎮定に手間取るうちに士族の反乱を誘発しうるのでそういう方法もあり得る
もっとも西郷は陸軍大将として全国の鎮台兵を率いる権限があると考えてるから
割拠策を取る必要性自体感じてないのだろう
>>2
明治維新後の日本政府は幕藩に代わって家禄を支給していたのだが、国家予算の4割がニート化した武家や公家の食い扶持にきえていたので1876年に秩禄処分として家禄廃止。
明治維新では勝ち組だったから永遠に家禄がもらえると思っていた薩摩藩士は怒り爆発して1877年1月から内戦突入。
という流れ。
長州藩だって薩摩藩頼みの他力本願だよ
薩摩藩が処分案のいったん受け入れを薦めたのに対して拒絶したのは
内戦収拾のために諸隊幹部を政府に加えたから抗戦以外の道がなくなったから
西南戦争の薩軍は、他県士族をアテにしてない点では自力本願とも言える
結果から逆算して戦略のあるなしを判定するのは滑稽
本当に薩摩軍が大挙して東京まで攻め上る気やったん?
いくらなんでも無謀という意見は無かったのであろうか
物資の補給・兵站の問題、それに天皇の密勅のようなものもない
桐野らだって、佐賀の乱などの武装蜂起の失敗、
同じく憤激して大挙した禁門の変での長州の失敗、
戊辰戦争(東北戦争)で補給で苦しんだ経験・・教訓となる事例はいくつもあるのに
西郷は過去に出兵上洛を何度も経験している
斉彬の出兵計画がそうだし、文久の久光の率兵上洛もそう
慶応年間の藩兵上洛もそう、明治3年の藩兵上洛もしかり
明治10年の上洛もその延長上で考えていたのだろう
何度も成功体験があるから今度もうまくいくと考えるのは人間のさが
鎮台の本格的抵抗を受けるとは考えていない
「2月下旬か3月上旬には大坂表に着く」と大山綱良に語っているから確か
熊本鎮台の対応を読み違えて引っかかった感がある。
26日には政府海軍が長崎に入って迎陽丸が拿捕されてる。
三州蟠踞よりは高知に渡って大坂を衝くほうがいい
西郷・村田らの参加の如何を問わずほぼ決していた
士族が鹿児島城下に銃を持って詰めかけ始めたのもその頃からの現象
戊辰戦争では庄内藩にフルボッコにされてたのは内緒だよ
なんか「新政府軍を苦しめた」とかのふんわりした記述ばっかりで具体的にどの戦いでどう使われたかってのがよくわからない・・・
実際は稼働率が悪く主に敵に殴りつけて使用した。
政治やろ
命くれてやると思っとるわ
薩英戦争も知らん若造が騒ぎ立てて根拠もなく絶対勝つといい、治めるべき年長者の篠原がそれを煽る最悪の構図
会津藩の降伏式に桐野を行かせたのが間違いだったのかも
桐野はあまりにも感情移入して、武士の生きる道は格の如くなりと
思い込んでしまったのでなかろうか
結局、戦わなかったの?
聖地日光の膝下で東北への入り口でもある宇都宮あたりの攻防戦で
戦力消耗してしまい、いったん消耗すると増援は難しいし
あと攻め手の板垣・伊地知もなかなか強くて・・
またも血の雨 涙雨
武士という名に生命をかけて
新撰組は今日も行く
幕府の旗本は、家督を息子に譲って、新兵ばかりの貧弱な軍隊だった。
数ほどの活躍ができないのは当たり前。
幕府正規軍よりも新撰組が目立つようではね。
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