スペイン帝国の『テルシオ(スペイン方陣)』 vs. 戦国時代の武士の軍隊、はたして勝てるだろうか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/b5d4900860c2115feb452322649c9c09ddea8bfd
テルシオ
https://i.imgur.com/7mMlxoj.jpeg
https://i.imgur.com/PNn6dvc.jpeg
テルシオ編成のgif動画
https://i.imgur.com/Mz1wGGq.gif
https://i.imgur.com/9APeOO7.gif
映画『アラトリステ』よりテルシオの戦闘シーン
https://www.youtube.com/watch?v=4y6agtVxWi8
〇スペインのテルシオ
一五三四年、スペイン軍はテルシオを導入し、歩兵軍の大がかりな再編成をおこなった。テルシオは大規模な編成で、理論上、兵力は三〇〇〇名近くにのぼり、
おそらくは三つのコルネラの合同によって組織されていた。<中略>
テルシオは通常、パイク兵十〇個中隊、火縄銃兵二個中隊の計十二個中隊で構成されていた。パイク兵の一個中隊は二一九名、火縄銃兵の一個中隊は二二四名で、
さらに火縄銃兵の中隊には十五名、パイク兵中隊には二〇名のマスケット銃兵が配属されていた。
「戦闘技術の歴史3 近世編 クリステル・ヨルゲンセン (著), マイケル・F・パヴコヴィック (著), & 6 その他」
〇小火器の比率
一四九四年のフォルノヴォと一五二五年のパヴィアの戦いの間の二十一年に及ぶ戦いのうちに、火力が、ほんの補助的な役割から中心的で
決定的な役割に、移行していくのが見られる。ここに、火縄銃(アークエバス)はもはや槍(パイク)方陣の小さな付属物ではなく、
逆に銃手を守ることが槍(パイク)方陣の主な機能となった。スペイン軍が一五三四年に歩兵をそれぞれ三千名から成る部隊(テルシオ)に改編したとき
彼らはこのことを認識していた。イタリアの戦争では従来そうだったように六人の槍(パイク)手に一人のマスケット銃手をもつのに対して、
彼らはそれぞれ同数とした。また、マスケット銃手は特別の俸給を得た。最終的には槍(パイク)は、歩兵のマスケット銃の先端に銃剣として
かろうじて残ることになるが、その過程が始まりつつあった。
「ヨーロッパ史における戦争 (中公文庫) マイケル ハワード (著), Michael Howard (原著), 奥村 房夫 (翻訳)」
>>2以降に続く
>>1
〇小火器の比率2
一五二一年に導入されたマスケット銃は、より質量のある小火器で、発射される弾丸も火縄銃から発射される弾丸の二倍(火縄銃の弾丸が約二〇発で一ポンド
相当であるのに対して、マスケット銃は一〇発で一ポンド)の重量があった。このためマスケット銃の貫通力は大きかったが、銃自体もほぼ九キログラムと非常に重く、
発砲の際には二叉銃架で支えなければならなかった。マスケット銃を導入したテルシオ編成兵士の内訳によれば、テルシオの兵士比は、小火器武装の兵士一名に
対してパイク兵三・二五名である。ところが兵員名簿によると、テルシオの兵力は通常一五〇〇名程度、小火器兵一名に対するパイク兵の比率は二・二五名となり、
編成表や組織、装備などの資料が示す数字よりもっと規模が小さく、火器への依存度も高い集団であったことがうかがえる。
「戦闘技術の歴史3 近世編 クリステル・ヨルゲンセン (著), マイケル・F・パヴコヴィック (著), & 6 その他」
〇テルシオの短所
そのスペイン軍の得意とする隊形は、一五三四年のスペインの大将軍コルドバが考案したテルシオという陣形である。
それはスイス風密集方陣を数倍、分厚いものにしたもので、火縄銃兵と槍兵からなる一中隊二百五十、十二中隊計三千からなる部隊である。
要するに横に百列、縦に十五列程度の槍兵がびっしりと並び、その四方を火縄銃兵が囲んで、さらに四隅に火縄銃兵密集部隊を配置するという、
敵の度肝を抜く、見るからに壮観なまさに「動く要塞」であった。槍兵は前方に槍を構えるだけっでよかった。とはすなわち防御は鉄壁であった
ということである。しかそれは逆に攻撃の機動性に欠けるという致命的欠陥を持っていたことになる。例えば、部隊の方向転換は至難の業であった。
そしてテルシオ後列の兵はどうしても遊兵となりがちであった。つまりこの「動く要塞」は見た目にはいかにも難航不落であったが、
実際には所々に弛緩がみえたのである。
「傭兵の二千年史 (講談社現代新書) 菊池良生 (著)」
甲冑姿で戦う大会があるだろ
5対5
10対10
20対20
日本の探せ
弱くて話にならん
アーマーバトル世界大会
デンマークvs田吾作 5vs5マッチ
https://youtu.be/DRqk1D7Jtiw
そんな考証無視した素人のなんちゃってを基にするとかw
最も信頼のおける評価は敵からの評価である
大戦中、米軍による日本軍への評価はどうだったか?
https://youtube.com/shorts/_JIvXDZ5GA4?feature=share
今もかわらんな・・・
>>14は事実
時代設定を戦いに明け暮れた戦国時代とするか、250年間の平和の後の幕末とするかで違ってくる話じゃね?
幕末なら単純に兵器の性能差だろ
それも艦隊砲撃の援護付きでな
あとWikiではフランス兵が街に火を放って横浜に撤退したと書いてあるけど
その事実とやらの出典は?
国内防衛戦なら勝てる。
仮に隣国で攻めていけば勝てない。
神降りばい

なんで脇差しなの…?
戦国時代なんてどこもかしこも戦慣れした兵士かかえてんのに
無理だわ
大量に兵運べないしな
それ以前に人口差も激しいし動員可能な兵数も圧倒差
日本は中世でも人口多かった国
弓矢や槍の貫通力を防げる鎧なんて着たらまともに動けない
たった80人の陸戦隊相手に
当時最強だった長州兵3800人が30分もたずに市中へ逃げ
あげくパニック起こして街に火を放っただろ
戦国時代の日本を見てビビっていたのだから。
他のアジア諸国とは全然違った。
戦国時代ならテッポーあるやん 撃っちゃえ撃っちゃえ
長篠の戦いは織田の急造砦に突っ込んだ勝頼が悪い。
弓騎兵とか鎌倉時代かよ
>>33
関ヶ原の鉄砲装備数は規約で3割、兵員数15万人なので5万丁、少なく見積もって3万丁。
これは当時の欧州全土にあった総数と同じだったりする。
つ、つまりドラグーンに日本は勝てないってことっすね
まあ武士強いって言っても領土拡げられなかったんだから憶測にすぎんよね
竜騎兵は降りて戦うんだよ
英国の長弓兵も移動は馬やぞ
朝鮮では明の騎兵相手にもよく戦ってるからな
戦国末期には日本の大名軍はどこも火力の時代に完全に適応した軍隊になってたよ
射程短いから無理では?
モンゴルの軽騎馬弓兵にヨーロッパは勝てなかったんだし
戦国時代の日本軍が負けるって事は無いだろ
飛び道具だよ飛び道具
日本人が凝り性な気質で、戦国時代後期には
世界最大の銃保有国になっていたから
スペイン軍が銃兵1000人くらい出してくるのに対して
秀吉軍あたりだと、銃兵限定でも数万動員できるから日本の圧勝では
「戦国時代後期には世界最大」
よく保守派のトンデモ歴史作家が話してるけど
既に15世紀前半にはオスマン帝国が一万二千の鉄砲隊を組織して
明も最大の敵だった倭寇対策に一万以上の鉄砲を量産、
東南アジアの現地勢力も鉄砲や大砲を多用していたのに
日本が世界最大の保有数だったとする根拠はなんなん?
軍として強いか弱いかは別として鉄砲の数だけでいったら
> 一方、日本では1614年(慶長19年)に「大坂夏の陣」が起こりましたが、このとき徳川軍が用意した鉄砲は、火縄銃・最新火器を含め30万挺にものぼります。
徳川軍だけで…
だそうだ
終戦後に余剰になった鉄砲はオスマン帝国にも輸出されたというね
でもスペインって海軍が有名だし
陸軍だけ戦わせるって酷じゃないかい?違うの?
ポルトガルにメキシコもフィリピンも兵力動かせるんじゃね?
規模がダンチ過ぎませんかね?
負けそうならオーストリアやらドイツも来るよ?
太閤検地の石高が計1850万9043石ちょい
少な目に見積もって1万石250人としても45万出せるんだが
これは地続きのヨーロッパで起きた30年戦争でのスペイン側総兵力に匹敵する
30年戦争のスペインって
世界史から消えてるじゃないですか
戦国日本は30年戦争に連なるスペインvsオランダの覇権争いの代理戦争の場でもあった
オランダが日本(徳川幕府)を取り込んだ事で経済的に力を増し、結果的にその戦況に影響を与えた
スペイン単独じゃなくてスペイン含む旧教側勢力だっての
イタリア戦争アルマダ戦争だと万単位の兵力しかないから話にならん
さらに言えば朝鮮征伐時の九州勢はかなり無理して1万石600人、全国でこれやったら
当時の中欧西欧の全兵力余裕で上回るんだが?
50年ぐらい統治期間あるのに書類の決裁すらしなかったニート皇帝が好きやなw
でも倭が朝鮮に攻めてきた時だけ迎え撃てや!!って出てきたっていう
人間としての最低ラインは守るところとかもいいね
日本にも半世紀も征夷大将軍やっててただひたすら子作りしてた奴がいるからな
海外からの脅威も特になく江戸時代の太平の世で生を謳歌した超勝ち組
同じくらい子供作っても
三藩の乱抑え込んでネルチンスク条約減税康熙辞典とか
業績満載なチート康熙帝はあこがれる
射程が短くても槍より火縄銃のが強いんじゃね
知らんけど
スペインvsオランダの代理戦争だったとも言えるだろうな
ヴァレンシュタインくらいしか組織できないんだっけか
でもそれもヴァレンシュタインの運営が優秀なだけでそれ以降組織できる奴はいなくなって
10万単位の兵士の戦争できるのはナポレオン戦争以降となった
そして負ける
新大陸からの富をただひたすら王侯貴族が浪費するだけだったスペインは16世紀後半からどんどん落ちぶれていく…
三方が原の戦いでは、信玄が狭い道を通過、これを見た家康が今こそ桶狭間の再現だと喜び勇んで追撃したが、気が付くと信玄は引き返して鶴翼の陣で待ち構えていた
家康をおびき寄せる罠だったのだ
家康は魚鱗の陣を敷いて対抗したが惨敗した
>>94
長蛇の陣(ちょうだのじん)とか偃月の陣(えんげつのじん)とか信玄ハ陣は厨二心をくすぐるなw
>>94
そういう軍記物ってどこまでホントなんだか
それ言うとファランクスとかスパルタの強さとかの信憑性まで言及しなくちゃならなくなる。
日本は多くの資料があるが、江戸期の読書文化により「信長が光秀を殴ったらカツラが取れた」なんて言う創作本が多数出てるのが厄介って話はある。
逆。信玄が魚鱗、家康が鶴翼で戦ったのが三方ヶ原。
適さないと言うか
フェアであるみたいな気持ちってあるよな。
陣形とかかっこいいし優れたリーダーシップとか目立ちそうだし。
ただし平地向けなのでやはり戦争の勝手が違う
日本は基本的には山地に適応可能な散兵戦術で、各家がそのまま小隊になっててそこの能力に依存したままと見るべきなんだろうけど
100年も戦争やりながら存続しつづけた家とか戦キ○ガイの蟲毒みたいなものなので……
長篠が有名だけど賤ケ岳も山の尾根の要塞と柵連ねての火力戦だし
小牧長久手も柵作りあってるし
日本の戦国末期は野戦築城+火力っていうところまで進んだからな
信長の野望で島津に攻め込んだら
とんでもなく鉄砲溜め込んでてメチャ苦戦した思い出
こっちも最後だから兵力大消耗したけど現実だったら将兵に恨まれて統一後に即反乱起こされてるなw
そうそう、行きつくところに行った先が陣形よりも工兵と地形利用の野戦築城という
あと教育もクソも無い時代に各小隊がある程度独自に判断しながら戦の役割分担を成立させてるのが頭おかしい
兵の質高すぎだろ近代かよって感じ、あの時期の無能はとっとと淘汰されたんだろうな
そこらも>>98とリンクしてる話なのかもしれんね。
日本はどこ見ても丘や小山があるんで着陣と同時に工事が始まって簡易付け城だらけになるw
お互いのホームなら有利だろうし、逆もまたしかりと。
もう少し時代が進んでればこれに大砲が加わっただろう
腰に結ぶヒモも食べられる物にして最後に食べたとか。
かんぴょうとか干芋だったかな。
イメージだけど西洋の軍隊ってそこまで合理的じゃなさそう。
不味い不味いと言いながら固いパンを必タヒに噛みちぎったりして。
江戸時代に当時の人が研究で戦国時代から伝えられてる腰兵糧作って食べてみたら、みんな腹壊したってよ
ウケるwwww
俺等もご先祖みたいにワイルドに!!
↓
おなかいたいよう
とか、俺等とレベル変わらんやんww
親しみ湧くわ
宣教師フロイスの記録にも本能寺の変の直前の時期に信長が光秀を殴打したという記述があるね
失礼を言ったり酒飲まなかったりで殴ったって記述は、祖父物語、義残覚書、柏崎物語、続武者物語に違う形で記述されてるけど二次三次資料であるため全て信憑性がない。
殴ったらズラが飛んだは稲葉家譜で書かれてるけど、本能寺の変から260年経った頃の書物。
フロイスが書いてるのは「信長が人知れず光秀を蹴った、と言う噂を人づてに聞いた」なので、部屋の中で激昂してたのを外から聞いてた人の噂話を人から聞いたって記述だね。
カンナエの戦い(包囲殲滅戦)の模倣説あるな。
野戦築城と長篠城の間は片側が山で片側が梅雨で増水してる川なので、ここに武田軍を追い込むと逃げられない。
酒井別働隊は実に500丁の鉄砲を持って長篠城を救出したが、これにより500丁+城内の鉄砲が武田軍を後方から狙う事になった。
引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1675586221/
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