戦国期の公家について語ろう
その他もいろいろ語ろう
京都御所の近衛池の桜はキレイですね。ことしも見たいと思っています。
九条池や閑院池などもそれぞれ違った趣があっていいですね。
桂池は何で一般公開しないんでしょうか?。
すばらしい庭園だという噂ですが。
桂池って桂宮家の屋敷内の庭園に池があるってことですか?
桂宮家ってどの辺にあるの?
京都御苑の南?
東?
そう考えると凄い。
唐橋在数の絡みをのぞくと、陰薄いよね
稙道なんて関白になっても、任関白の拝賀が行えなかったし、
摂津、播磨に下ってるし
当時の荘園経営に興味あるんだが…。
政基公旅引付のことね
尚経の雑記
稙道の嵯峨記もあるらしい
よっぽど室町殿に献金したんだろうか・・・
金額が多い日は嬉しそうに日記を書いてたんだと思うとなんか笑えてくるよなw
何もできない摂家なんかより
神祇大副で吉田神社神職のほうが、厳しい時代は生活しやすかったのかな
貞成親王は看聞御記の中で正月の馳走に鯛が出たと喜んでるし
吉田兼見は>>17
山科の子の言経卿は勅勘受けて大坂に逼塞してるとき町人にもらった食事を嬉しがってる
なんか親近感わくよなw
>>18
というより公家衆の中でも特定の権益を有す家はそれなりに生き残れたんだろう
ただそれを維持するためには山科のように室町殿や幕府に権利を主張したり
九條や一條のように直接自領経営に赴いたりと、たたあぐらをかいていたわけではないわけだな
山科の得意分野は医術ですか
>>20
>たたあぐらをかいていたわけではないわけだな
年貢(って言うのかな?)が入って来ないだろうから、やむにやまれず行動する人が多かったのでしょう
>>18
それはマジ話なのか?
だとしたら凄いな…
干魚に
「美味じゃのう…」
と言ってる山科卿には泣いた
笑いながら泣いていたもの。こっちが泣けてきた。
世が世なら、政治や儀式を厳粛に執り行う身でありながら・・・。
横領は日常茶飯事だろうし、下手したらまったく都に届いていなかったんじゃ?
山科なんかは家宰の大沢が散点してる山科領を東奔西走して
在地勢力の横領に四苦八苦してますな。飛騨にあった山科領は京極に横領されたため大沢が出向いてるし
名字の地山科も細川の被官に横領されて住民が蜂起したり
山科自身が逃亡先の将軍の住居や細川の陣所に出向いたりしてる
出張費用や贈り物、交渉経費は全部自己負担だから
山科など戦国末期でも多少は所領を維持できた家以外は
泣き寝入りしかなかったんだろうねい
山科家雑掌・大沢氏というのは後に徳川幕府の高家になった大沢氏とは関係有り?
関係ないと思う
高家初代は大沢基宿
祖父大沢基相ー父基胤は今川家家臣で遠江堀江城主
それがなんで高家はよくわからないけど
当てになるかどうか分からないけど
大沢家の母方が皇族とか
wikiではかかれていますな
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E5%AF%BA%E5%AE%AE
全然別系統。ちなみに大沢は藤原北家魚名次男鷲取流で下北面出身の地下・諸大夫
1: 伊勢北畠氏
「神皇正統記」で知られる北畠親房の子孫が伊勢国に地盤をはって発展していった家系で村上源氏。 南北朝の
頃から一大勢力だったこともあり、支族も多く、木造・大河内・田丸・星合なども家が分立してます。 累代伊勢国司
として勢力を振るう一方、権大納言を極官として公家としての体裁も整えていました。 しかし戦国末期、織田信長に
敗れ信長の子信雄を養子に送り込まれる形でお家を乗っ取られ、やがて一族謀殺されて本家は滅亡しています。
分家の上記支族は江戸時代に入り幕臣として仕えています。
2: 飛騨姉小路氏
南北朝時代に南朝より国司として赴任した姉小路家綱が祖先。藤原氏。 武力を蓄えて南朝(といってももうこの頃
には有名無実化していますが)の拠点として飛騨を支配し、北朝の足利将軍家の一門である斯波氏と闘争してい
ます。 1411年の戦い以降、おそらく所領争いか跡目争いのせいなのでしょうが、この家は小島家・小鷹利家・
古河家に分立、一時期は同時に国司を名乗っていたようです。 公家としては権中納言を極官としていたようで、
後半になるとそこまで上れずに中将あたりで足踏みしている例が多く見られます。この家も下剋上の波に呑まれて
戦国時代後半になると豪族の三木氏に家を乗っ取られ、 三木嗣頼などはご丁寧に自ら姉小路嗣頼と名乗り、
朝廷から官位をもらっています。 しかしこの三木改め姉小路家も小国の哀しさ、全国統一の波の中で消えていく
運命でした。 ちなみにこの「正統」姉小路家の一族は歌道に優れ(って、この時点ですでに戦国の荒波を乗り越え
られそうにないですが)、 宮中に何度も参内しています。これなどはやはりこの一族が大名よりも公家であった
本質をあらわしているでしょう。ちなみにこの一族関係や記録は余り残っておらず、 これからの資料発掘が望まれ
ます。
3: 土佐一条氏
関白の一条教房が戦国時代に自分の領地であった土佐の中村に下向したのが最初です。ようするに疎開した
人がそのまま居ついて大名化したものです。 とびきり上流階級だったこともあり、土佐中村のように官位など
持っている人がいないような土地では大変歓迎されたようです。 大納言が極官だったようですが、やはり京都
との縁が遠のくにつれて官位も高くなくなっていきます。 末期の兼定はキリシタン大名として知られています
(洗礼名ドン・パウロ)。 長宗我部氏の土佐統一に伴い領地を失い滅亡し、最後の内政(左近衛中将)は自殺。
支族もいたのかもしれませんが、資料には出てきません。おそらく没落したのでしょう。 この一族がミニ京都
として整備したおかげで現在の中村市街は「小京都」として観光客を呼べるわけです。
その他、伊予国の西園寺家というのもあります。 南北朝に逃げてきた西園寺の一族がいつのまにか勢力を蓄えて
戦国時代に宇和島近辺を中心に支配、土佐一条氏とはずいぶん公家同士で争ったようです。 しかし実はあまり資料
がなく、本当に南北朝からあったのか、どういう系譜だったのか、いまひとつ明らかではありません。 ただ伊予国は
西園寺家の知行国(大雑把にいえば国司任命権を持つ国)で同家の領地扱いだったことをみれば、西園寺の庶流が
流れていたのは確かなのでしょうが・・・。ちなみに公家出身とはいっても本流とはかなり疎遠だったこともあってか
官位的には高くありません。近衛少将どまりだったようです。この家も長宗我部氏の伸張に伴い滅ぼされていきます。
富小路氏
摂家の二条家の傍流、ということになっていますが、やはり当時の文書にはそのことは載っておらず、いくつかの
論文ではその出自は二条家ではない、ということになっています。ではどこかというと、どうも一般庶民だったよう
です。つまり室町時代に経済の発展に伴い土倉(金融業)でお金を貯めて系図を買って貴族の仲間入りという
線があるようです。
公家文化に浸るのが悪とみなされてる。
決して義元も義隆も全部ダメというわけじゃないけどね
義元は死に方が無残
義隆は月山富田城の敗戦後、戦に興味を無くしたのがな
悪とみなされるのは
平家物語の影響が強いと思う。
大宮様の娘と大沢基胤の子か
堀江城は浜松市だからありそうな話ですね
ちなみに大沢の祖は基秀、道長ー頼宗ー俊家ー基頼ー(略)の流れ
貞治年間 (1362~1367)に丹波大沢から堀江に移り住んだようだ
家系は大したことがないと思いますが
>>35
九条殿遺誡で藤原師輔が「昨日の日記を書きなさい」っていってるから
この遺言を守ったんだと思う
ところでこの遺誡は日常生活中心だけど
摂家をはじめとする公家は、祖先と関連して歴史から教訓を十分学んでいるんだろうね
そこから自然と身につくんじゃない、処世術みたいなものが
摂家の動向
近衛・・・稙家近江に流寓、前久越後や薩摩の下る・摂津や丹波に流寓
九条・・・政基和泉などに下向、稙通摂津播磨に下向
一条・・・教房土佐下向し土佐一条氏へ、房通・内基も一時土佐へ
二条・・・尹房備前周防に下向
鷹司・・・在京
ところで思ったんだけど
摂家で戦乱に巻き込まれてで死んだのは、一条政房、二条尹房ぐらいだね
(一条兼定もと言えばいえるが)
足利将軍、鎌倉公方、管領や関東管領らの武家の名門は、殺されたり戦乱で死んでいるんだけど
摂家は殆どいない
武家じゃないからなのか
たまたまなのか
土佐一条氏は徐々に戦国大名化するわけですが、守護代や国人からの成り上がりの多い戦国大名の中で異色の存在と言えます。
ですので、曲がりなりにも戦国末期までその命脈を保った一条家の領国政策などは改めて再評価されるべきでしょう。最近の土佐一条氏の研究では、一条氏と長宗我部氏との官位の比較から、
「土佐一条氏(内政、天正五年、従四位下右近衛中将に叙任や子、政親、天正十四年十二月、従四位下摂津守に叙任)が長宗我部氏を超越する存在であった、とする論考も出てきている。」(引用文はくらのすけ屋敷より転載)
と一条氏を再評価する動きもありますので、今後一層の研究の進展が待たれます。
土佐一条氏に関しては閨閥関係もまだ整理されてないよね
伊東義益に嫁いだ娘については土佐一条氏関係の資料を見てもまず出てこないし
先日日本史板で「一条兼定の娘で大奥仕えしていた女性がいた」という話を教示されて
仰天したことがある。
格だけいえば図抜けている
領国政策も良かったんでしょうね
そうでなければすぐ追放されちゃう
なにしろ戦国時代の八百年も前から権力闘争に明け暮れてるんだから
同じ人物が八百年も争っていたわけじゃないし。
藤原氏もしぶとくて、ってことでしょ
別に>>45は藤原氏が一番しぶといとは言ってないし
そっとしといてやんなよ。そういう年ごろなんだからさ。
記者「歴代総理大臣としてはかなり年令の若い就任となりますが」
近衛「私の先祖なんてもっと年少で宰相を勤めてますよ」
近衛文麿っていえば
応仁の乱の話もあるよね
歴史を背負うて生きてるんだよね、摂家の人は
南北朝時代にあれだけ足利氏に敵対したのに、よく戦国後期まで生き残れたよね。
顕能以来多家城を拠点として、南北朝合一までしぶとく頑張ってましたから
ついに義満に所領を安堵され、その後応永五年(1398)には伊勢守護に・・・
一時反乱を起こし討伐されるも、赦免され所領も回復
このまま戦国大名に・・・
義材・義晴・高国に接近した材親、晴具のことかな
なんで参陣してるのかな?
勅勘でも受けてたの?
こいつのジイさんも陶晴賢の謀反の時に巻き込まれて討死したんじゃなかったっけ?
ま、養子だから血の繋がりはないにしても、何だか不運な家系だなw
南北朝期から現地に土着している北畠氏・姉小路氏に対して、応仁の乱以降に
現地に下向した土佐一条氏は成り立ちが異なる。
成り立ちという点に着目すれば、むしろ土佐一条氏よりも伊予西園寺氏のほうが
北畠氏や姉小路氏に似ているといえる。
公家は経済的な理由で、大名のもとに寄寓すると、
和歌、蹴鞠の教授や色紙の揮毫などで、謝礼をもらうことができた
京にいるよりずっと経済的に豊かであったので、好んで下向をした
・文人貴族の末裔である。
・歌が好きで、『古今和歌集』や『新古今和歌集』を愛読した。
・私家集もある。連歌も巧であった。
・蹴鞠もやっていた。
・大成される前の茶や立花にも手を出しており、能も舞っている。
・『源氏物語』や『徒然草』も愛読していた。
しかし、氏真と違って文化人のイメージがない毛利元就。
氏真は従五位下治部大輔
基久の実の父は正親町季秀、その父は庭田重保だよね
持明院基規か
それにしても大内義隆とともに逝ったのは、
二条尹房、二条良豊、持明院基規、三条公頼と多いね
なんと、貧乏で餅もつけなかったという公文重忠も公家だった!
基本的に土佐の古代史は文献が散逸していて、
土佐公文家がどういう経緯で誕生したのか知るすべほとんど無い。
ただ、現在の郷土史家の研究によると、古代に京から流されてきた
藤原北家流の飛鳥井の一族が土着し、公文家となったというのが有力説。
証拠は、銀杏紋という家紋、武家で銀杏紋を使用したのは後の徳川将軍家、
公家で使用したのは羽林家飛鳥井の一族のみ。
いわゆる半家(半武家半公家)の家格として、
長宗我部に仕えていたと思われる。(こういったことは珍しいことではない)
銀杏紋の家紋については、さすがに将軍家と同じではまずいと思ったのか、
江戸初期に一時期、武田菱に変えている。
長宗我部滅亡後、公文家は武士としての身分を剥奪されるが、
将軍と言えども、武家には公家の官位を剥奪する権利はないので、
完全な公家となる。
その証拠に領地はそのまま安堵され、
大地主としてのほほんと幕末まで生き延びている。
地元の住民も、公文の本家は公家だと認識しているので、
この説が今のところ研究家の間では最有力。
詳細ありがとう。超ありがとう。
嗚呼、俺の中で公文先生がますます比類無き存在に・・
親父殿の雅教は当時権中納言だけど、雅敦はまだ公卿ではないね
>>88
飛鳥井雅敦と日野輝資が出陣してるみたい
戦力的にどうこうって感じじゃないだろうけど
このへんのことよく知りたいんだけど、やっぱ言継卿記なのかしら?
なにかオススメある?
お「武家昵近公家衆」か
ところで持明院基久の反響というか、ここの人だろうかyahooの知恵袋で基久のこと聞いてたね
基久は子の基征とともに五月に入城、五月七日の天王寺・岡山の戦いで戦死してる
一説によると大坂開城後の同二十八日に没とも
言継卿自身が町衆と近しくて
火傷した近所の大工の下女のもとに、駆けつけて薬を与えたりしている
町内の米屋から借金したりも
この医術の副収入で、比較的食いつないでいる
酒は貴族の基礎的社交技術だから酒豪は酒豪でいいとして
桓武平氏ってのはこれまた・・・
どっから仕入れてきた話?
山科家が言継の200年以上も前から
藤原氏ではなく桓武平氏になってたというわけ?
手元に史料が無いからワカラン
平業房と高階栄子の子が実教の猶子教成になったのか。
これ下手すると後白河院の落胤かもと妄想。
ちなみに桓武平氏嫡流は西洞院家、橘氏は薄家
どちらも血は絶えたけど
細川家が近衛家を乗っ取ったって本当?
今の当主が実は細川の家系と聞いたんだが
なんだかガセくさいな・・・。
しかし公家としての近衛は江戸初期に親王が入ってなくなっちゃったからな
いわゆる皇別摂家というやつだ
現当主は確かにモリヒロの実弟
その奥方は三笠宮家の長女で次期当主と更に次の当主は決まっているw
信尹は一人だけ男の子がいたけれど、
何かの問題があって近衛家を嗣がせられなかったという説がある。
「近衛太郎君」といわれている人がその男の子らしい。
>>111
太郎君は女だよ
信尹のこどもは薩摩にいたころ産まれてすぐ亡くなった男の子と、姫である太郎君だけ
橋本政宣『近世公家社会の研究』を嫁
「近衛太郎君」の文書を分析した結果、それまでの通説であった「女性」説は信用できないとしている。
(文章が漢文でありひらがな文がない、その他)
八百屋が大名になることもある。摂家より清華が上位であることも珍しくない。
家格なんて幻だろ。
よくレス見てみたら摂家と清華の家格逆転なんて絶対ありえんじゃん。
年令や個人の資質によって一定期間の位階逆転はあるが
それを例に出して家格が幻想だと言ってるなら詭弁
・摂家の嗣子は昭和の近衛忠輝以外、同じ摂家の出か直宮だけ。
・摂関は皇太子と同格で、それ以外の諸親王よりも格上。
この2点は崩れないので、摂家より格が上な精華はありえない。
やりようによっちゃ豊家も摂家として残れたかも
河鰭季富や飛鳥井雅春の関係が結構複雑だね
この人相当タフだよね
>>128
武士に憧れたが、武士には慣れなかった公卿。
黒幕つーか、放浪(出奔)癖が凄いね。
義兄(義輝)の仇である松永とは縁が切れないし、光秀与党と疑われるし、その度に田舎に逃げてる。
鷹狩りとか乗馬のこととか武士に教えを請われるくらい詳しかったようだね>前久
でも晩年は
「ヤパーリ公家らしく文芸をたしなんどきゃ良かった(´・ω・`)」
と島津義久や義弘にこぼした手紙が残ってる
自分のやりたいようにやったように見える人生でも、最後は後悔が残ったと言うことなのかな
飛鳥井の末?
お話をうかがった限りでは、それは農民というのでは?
百姓にしては富裕だったというだけでは?
武士の身分を剥奪されたら
なんで完全な公家なの?
ほんものの京都の江戸時代の公家には堂上と地下があり
さらに地下の下に下級官人がいる
これらは朝廷から代々、位と官職名を授かっている
商人でも位や官職名を授かり官人身分を得ることはあるが
公文なる家は江戸時代に、そういうことがあったの?
武士ではない大地主は農民ていうんだよ
豪農とは尊称するけど
公家と
公家の末裔の農民とは違うよ
戦国期とさして変わらないような気がする
公家は貧しさに耐えうると、幕府に見くびられたように最近思えてきた
公家の貧しさより、大名旗本をのぞく武家の貧しさの方が著しいと思う。
戦国期の厳しさは、公家武家問わず江戸時代と比べるべくもないほど悲惨。
そうですね、江戸時代の公家の断絶は聞かないもの
戦国期は有名な公家でも、ばたばた断絶してしまいましたね
一条家(世尊寺流)、二条家(御子左流)、洞院家(西園寺流)
惜しい限りです
これらの末の庶子家の冷泉や正親町しか江戸時代に残ってない
菊亭
落語家の屋号みたいだけど
公家的な呼びかたでいうと
家康の二条城は二条亭
秀吉の聚楽第は聚楽亭
公家は他の公家の屋敷を亭と呼んだみたいだね
公家的にいうと
二条家康
聚楽亭秀吉
関白と征夷大将軍を兼任していたかもな。
九条家には関白も征夷大将軍もいたけどね。
兼ねてはいないが。
一条家って並みの公家じゃないんだね
近衛家と同格の最上級の公家なんだね
関白家が都を離れてもよかったの?
まあ近衛家も離れた時期もあったらしいけど
近衛中将として実があったってこと?
播磨で近衛府の中将の責任は果たせないと思うが
>>192
氏綱の後妻が近衛氏の出身だしね。
若狭武田氏も公家との縁は深い。国信は長く在京していたし、久我氏に嫁いだ
娘もいる。
>>193武田氏の一族で重臣の粟屋氏の娘は近衛家の室になり、外孫は天皇になったらしい。
>>194大内氏の官位の高さは並みの公家以上だね、将軍家も凌いでいる。
戦国期の公家といえば山科言継
武士にも物怖じしない下々の人間にも気さくな人物だったらしい。
町医者のようなこともしてたらしいね
中世・近世期の公卿3000余人の詳細なデータベース、だそうな。
>>219
ひとりひとりのデータがどのくらい厚いのか気になる
広告みたら「年ごとの官員録を個人別の官歴に編集し直した詳細な履歴」なども
載ってるらしいから期待できそうだけど
しかし価格が21000円かー
まあデータ量からしたら妥当な金額かもしれないけど
公卿補任(+歴名土台)を個人別にしただけならちょっと空しいかもね
編者が橋本政宣だから、そこまで酷いものは作らないとは思う……思いたい。
六角や細川・若狭武田なんかの守護の子弟までも随行していますし
もちろん奉公衆は行くでしょう。
柳沢家の家紋は傘。つまりアンブレラだ。明治中期、萩城跡の石垣に刻まれた柳沢氏の家紋「傘」の略字が几号水準点と間違えられたことがある。
荘園からの年貢運搬が途切れた事が、貴族を「生産地」である地方に
行かせることになったと考えるべきかと。
肥料やりすぎたから。
正解!
京都じゅうの庭師が「お願い世話させて」って頭を地面にすりすり御役所もうでする
くらい
儲かる仕事らしいよ御所の樹木の手入れの仕事は。
肥料くらい何ぼでも、ぶちこみますわ。
より簡易な俳句に移行したから。
連歌が廃れるのはそれ以降
公家の公達の中には,信長軍に陣借りして所領を得ようとした者はいなかったのでしょうか?
言い方は悪いが,勝ち馬に乗るのも才覚だと思うが。
江戸期の公家の家禄を見ても万石取りはいませんよね。
小説だけと、岳浩一郎『天正十年夏ノ記』にそういう人たちが出てた気がする
信長のやり方に賛同して陣借りする若い公家たち。所領を得るのが目的ではなかったみたいだけど
勧修寺晴豊による公家視点で信長全盛期を描いた小説で面白かった
万石取りになった室町以前の堂上公家は数家存在する。
出自を隠して江戸時代は大名としてやり過ごし明治に華族となった。
上杉輝虎の処には近衛家もいたしねえ。
陶晴賢の反乱で三条公頼(清華家・従一位前左大臣)が殺されてるね
>>319
> 滅ぼしても意味がないしね。
それがけっこう大きいよな。
成り上がり者にとっては公家と交友があるのは
今で言うと芸能人の友達がいるようなもんで自慢できるしな。
苦しくなったのは応仁の乱以後、守護などに地方の荘園を横領されてから。
(戦国期を通じて京は日本最大の大都市、経済都市として繁栄している)、
公家の、地方の荘園からの年貢が、戦乱や地方の武士による簒奪で、京に届かなくなり、
収入がなくなったため、収入の当てがある地方に下った、という見方が正しい。
九条政基の唐橋在数殺害とか、血生臭いのが多いなあ
そんな九条家が好きです
戦国期の九条家当主というと稙通だけど、この人もなかなかにアグレッシブだよね。
戦国大名っていうのは格好良い
福原荘の兵庫津や幡多荘の宿毛津、足津とかを掌握して海の道を確保し流通を握ろうとしたとかなんとか
てか武家と公家を分け隔てて考えるのはやめたほうがよさそうだな
やはり公家の中に武家があると考えると納得できる
実充の弟となってるけど、個人的には怪しいと思ってる。
二人の子は西園寺「伊予守」(実名不明)。
西園寺家の特徴として、代ごとに実と公を交互に通字としていることなど。
房基が生きてた頃は両者は仲が良かったと考えていいのではないかな。
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