【岩手】坂上田村麻呂が討ち取った蝦夷の将の亡骸埋めた「鬼死骸村」は今
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■停留所に由来説明やスタンプ
岩手県南部にかつて、鬼死骸という名の村があった。自治体としては明治時代に消滅したが、その地名入りの電信柱はいまも残り、バス停も最近まで現役だった。このおどろおどろしい名前に匹敵するのは、私見だが、渋沢栄一の出身地の血洗島(埼玉県深谷市)ぐらいか。地元では、名前を生かしたまちおこしが始まっている。
宮城県境に近い一関市真柴地区。農村の風景を楽しみながら、まっすぐに延びた県道を車で南下する。この辺りかと右側を見ると、あった。「国鉄バス 鬼死骸停留所」の看板が目立つ待合所(いまは休憩所)だ。
中には村名の由来などが書かれた説明板やパンフレット、江戸時代に描かれた「鬼死骸村絵図」のパネルなどがある。コメントが書ける自由帳に「鬼死骸」スタンプも設置済みだ。
バス停には、5年前まで路線バスが止まっていた。ルート変更で廃止となったが、バススタンドは“鬼”関連の名所までの距離などを示す案内板として活躍中だ。
地元紙で見た「鬼死骸」の名前にひかれてここに来たが、訪問者の理解を助ける様々な配慮を目の当たりにし、すでにかなり満足だ。
待合所に腰を下ろす。耳を澄ますと「ホーホケキョ……」。別の鳥のさえずりも聞こえる。のどかだ。地名とのギャップに 萌も える自分がいる。
平安時代、 征夷(せいい)大将軍の坂上田村麻呂が、抵抗する 蝦夷(えみし)の将、 大武丸(おおたけまる)を討ち取った。斬首は現在の宮城県まで飛び、それ以外の 亡骸なきがら を埋めた場所が鬼死骸と呼ばれるようになった。地元に伝わる由来だ。鬼死骸村は他村と合併した明治8年(1875年)まで実在した。
■大武丸の亡骸の上に置かれた?「鬼石」
個人的には、どんないわれがあるにせよ、よくぞ人々はこの村名を受け入れたと思う。
下世話な妄想で申し訳ない。自分が同村の住民だとする。旅先のホテルで宿泊カードに住所を記入するにはかなりの緊張を強いられ、勇気もいる。受付担当にふざけたやつだと思われないだろうか。
本筋にもどる。
「バス停」の案内を頼りに、県道を北へ650メートル移動すると、田んぼの中に「鬼石」があった。その巨石は、大武丸の亡骸を埋めた上に置かれたといわれる。近くには、大武丸のあばら骨とも一部が埋められた場所とも伝えられる「あばら石」、坂上田村麻呂が平安を祈願して 勧請(かんじょう)したという鹿嶋神社もある。高台にある神社は木々に囲まれ、昼間でも薄暗い。いい雰囲気だ。
ちなみに階段を上ると左側に、前足部分を失った小さな 狛犬(こまいぬ)が目に入る。鬼の仕業かと思ったら、東日本大震災時の地震で破損したらしい。鬼より怖いものはいろいろある。
■「鬼滅」ブームにあやかり話題に
ところで、休憩所や案内板などを整備したのは、「真柴まちづくり協議会」のみなさんだ。会長の大倉秀章さん、真柴市民センター所長の小野寺徹さん、同センター職員の佐藤美和さんがいろいろと説明してくれた。
3人によると、協議会は地元の歴史や史跡をPRする事業の中で、奥州街道などとともに、鬼タヒ骸村も紹介する活動を始めていた。
そこに、漫画「鬼滅の刃」ブームが到来。まさに鬼が滅した場所としてネット上で話題となり、マスコミの取材も相次いだ。このため昨年から今年にかけ、鬼タヒ骸関係の事業が急ピッチで進むことになったという。
3人は気合十分。取材時には、自腹で購入したという特製の上着やマスク、帽子を見せてくれた。上着の左胸と背面には「奥州街道 鬼死骸」の文字が並ぶ。時代が違えば、バイクでブンブンいわせるお兄さんたちの服に似合いそうだが、インパクトは十分だ。
協議会では、鬼死骸ゆかりの地も訪れるツアーを開催したり、無料のアプリで“鬼死骸地図”を作成したりして、内外への周知を図る。小野寺さんは「鬼タヒ骸をきっかけにして人々が様々な史跡を巡り、真柴地区への理解を深めてくれるとうれしい」と話す。
アニメ映画「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」は米国など海外でも大ヒットした。世の中が落ち着き、旅が自由にできるようになると「オニシガイ」を求めて海外の鬼滅ファンが真柴地区まで足を運ぶこともありそうだ。協議会の皆さんは、ますます忙しくなるかもしれない。
読売新聞 2021/06/24 12:00
https://www.yomiuri.co.jp/local/michinoku/20210618-OYT8T50052/
地元の人にとってはご先祖に連なる人が埋葬されてるんじゃないのか
鬼タヒ骸なんて読むのかググっちゃったよ
征夷(せいい)大将軍の坂上田村麻呂が、抵抗する 蝦夷(えみし)の将、 大武丸(おおたけまる)を討ち取った
ここは丁寧にルビふってるのに鬼タヒ骸にふらないのは何故だ?
きしがいと読ませたいんか
義務教育を受けてないとこういうのに育つ
アイヌ民族関係ない。エミシだよ。
東夷北狄といって、東北に住む住人をエミシといい、十二支の方角・丑寅にちなんで丑のツノをはやし虎の皮のパンツをはいた鬼という勇猛果敢で強靭な者として創作したんでしょ。
古代から「エミシはひとりモモな人」と言って、「一人で百人」分の働きをすると恐れられていた。
規格外の強い人物を鬼って例えてるだけの事
悪人正機の悪人がその意味に当たるんだっけ
悪って強いという意味で使われていた時代もあったらしいけど今の時代でいう悪っていつから大々的に使われ出したんだろう。戦国時代の赤井悪右衛門という武将がいた頃はまだ強いっていう意味が残っていたんだろうな
どこまでが名字やねん
こいつ
坂上
さかのうえ・たむらまろ
日本史で習わなかったのかな?
大宮(氷川神社)の向こう側の世界だからな
氷川神社は元々はアラハバキを祭っていたといわれている
そこより先は朝廷の権力が及ばない世界だ。
アラハバキは塞の神や製鉄の神ともいわれている。
実際、製鉄のたたら場の構造がそこら辺から変わるから
蝦夷たちが幅を利かせていたのだろう。
>大武丸
よく分からん。悪路王の元ネタの1つなんかな
人首を「ひとの生首」と勘違いしてる説が多いけど、違うと思う。
昔はあちこち戦場でそんなところに「人首」なんて地名つけたらあちこち人首だらけになってしまう。
エミシにとっての首相や首都と同じ意味の「首」だと思う。
人首丸はエミシトップの御子息だし。
その人はサバイ
他にも鬼の手が落ちたところは手柄(手骸)とか、
鬼の目が落ちたところは鬼の目とか。
蝦夷に哀れみと尊敬の念さえ持った田村麻呂が
将の首塚を鬼タヒ骸なんて言わないだろ
命名させたのは京の連中では?
日本は鬼に神的な力があると信仰して来た
まあ無理かな
これ基本中の基本
この時代の公家や武家の子供の幼名で鬼と命名した事実はない
それは京都の話じゃないか?
この場所は蝦夷だから東北民衆の鬼の概念が
違う可能性は?
平安時代の鬼の怨霊って、エミシ及びエミシ支持者からの復讐だと思うぞ。
騒ぎが起きるたびにエミシを故郷に帰したり、特典を与えてた。
かっこよすぎ
あの辺は、川の流れが北上川と逆向きの北に流れ、それから東に迂回して、北上川に合流して南に流れる。
エミシ語のシカリ(回流する)という意味に、オンネとかオニ(大きな)という接頭語を付けた言葉にこの漢字をあてたものだろ。
ほかにも小さな回流場所もあるからね。
天皇家の編纂なしでジモテイーの文句タラタラの風土記があればもっとよーくわかったろう。
あの曲玉はプレゼントしたものではなくて、借りパクされたものだから早く返して欲しいとか。隼人やらイワイやらえみしやら、出雲でも守やでも文句タラタラの風土記が読んでみたいわ。ガルチャンみたいな風土記!
こういう地名を残しておいたから
後世の者が朝廷の仕打ちを思い返すことができる
伊勢神宮関係だったかな?
キメツの作者は神社関係なのか、かなり神社関係に詳しいようだ
神主さんの下の位に禰宜(ねぎ)てのがあるから
炭治郎=神主
禰宜=禰豆子
みたいな感じかなと
今でこそ、red hairで背の高い外国人なんて珍しくも何ともないけど、
当時は「鬼」と畏れられた
どういう経路で大陸から渡ってきたのか、興味深い
群馬には「クロホネ村」ってのがあったぞ。今は桐生市か。
茨城だか栃木の辺りだったと思う。授業風景とか運動会とか父兄参観の様子を想像しながら楽しい道行だった。
古地図で調べたら山全体が処刑場で
牢屋とかも点在していた
阿弖流爲とか悪い事してたのか?
征伐という名の侵略戦争なのでは?
まあその時の最新兵器がネブタだったりもしてな
奥州清原氏や奥州藤原氏みたいに従えと言われて従わなかったんだろうな
単身ではなく、彼らは部隊を築いて、大和朝廷と戦っていたわけか・。
田村市に行って、たまたまある山の頂上に蝦夷征伐の首切り塚があるのを覚えている。
絶世の美女、小野小町は田村市の隣。
マジで、闇が深い。
アシタカのタヒ骸か
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