【歴史】西南戦争の古戦場から銃弾85発 劣勢・薩軍は鉄製 宮崎の七熊山
西南戦争は、西郷率いる不平士族が政府軍相手に起こした国内最後の内乱。1877年2~9月、熊本城を皮切りに、「田原坂(たばるざか)の戦い」を経て大分、宮崎などに舞台を移し、最後は鹿児島で薩軍が散った。七熊山では7月の2日間、戦火を交えたとされる。
七熊山は登山道があるが、ヤマビルの多さもあって訪れる人は少なく、山頂まで続く雑木林に、戦場だったことをしのばせるものは特にない。埋文センターは2020年度から調査。政府軍がまとめた「征西戦記稿(せいせいせんきこう)」に記述がある両軍の防御陣地跡も約40カ所、山腹で確認した。山頂まで緩傾斜が続くが、防御陣地跡は土を掘って傾斜をなくし、1メートルの高低差を利用して兵士が身を隠したとみられる。
また、銃弾は山腹の複数箇所で見つかった。鉛製の半数近くは激しく変形しており、至近距離で発射された可能性が高い。両軍が5~6メートルをはさみ、樹木に身を隠しながら銃撃戦を繰り広げたとする当時の記録を裏付けた。
埋文センター調査課の堀田(ほりた)孝博・調査第三担当リーダー(49)は「145年前に足元で起きた証しを知ってほしい」と話している。
調査の成果は小林市役所などで2~3月、展示される予定だったが、新型コロナウイルスの感染予防のため、2022年度に仕切り直ししたいという。【梅山崇】
毎日新聞2022/3/16 14:33
https://mainichi.jp/articles/20220316/k00/00m/040/173000c
初代のNATO弾で口径七.六二ミリのライフル実包があった。
規格を西側共通として、製造は各国でするのだが(自衛隊も使うので、日本も国産している)
西ドイツ製のものだけが、微妙な差異があった。
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それは薬莢の口の部分で噛む弾丸の側溝の肉厚で、そこが他国の308弾よりもごく僅かに薄くされていたのだ。
その違いが何をもたらすかというと、敵兵の体内に入ったときに西ドイツ製の弾は、
高い確率で弾丸が二つに折れ、被甲もバラけて、爆発的に飛散するのである。
これは非人道的と禁止されたダムダム弾の効果を合法的に狙ったものであった。
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さてそこで、この弾丸の側溝を薄く造れという指示書や命令書はドイツに存在するだろうか?
私は、せぬと思う。これもまた、下級技師の個人的なイニシアチブでしたことであろう。
しかしそれは、すべての上級技師、すべての高級陸軍人、すべての指導的政治家の暗黙裡の全幅の支持を受けていた。
だから、記録もなければお咎めも無い。
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HKのライフルがローラーロッキング機構
で薬莢切れが問題になってたから
その対策なのかなと勝手に
想像してみたり…
鉛は柔らかいので銃身内部を傷つけないし、人体に着弾時に変形して傷が大きくなる
毒があるので体内に留まると中毒を起こす
融点が低いので炭火程度の熱でも溶融させて新しい弾を作れる
西南戦争で火縄銃なんてほとんど使われてないんじゃないか?
戊辰戦争でもすでに弱小藩の二線級の兵器だし。
ペリーを迎えた部隊もゲベール銃だったらしいし当時の日本は意外に先進的。
いや
幕府軍はナポレオン3世から手に入れてたからゲベールマスケット
維新軍も最初はゲベール入れたけど
大村益次郎の判断でミニエー調達するも、スナイドル銃に転換してる
こっちはライフル
>>24の言ってた「ペリーを迎えた部隊のゲベール銃」は、ナポレオン三世経由ではなかろ。
> さらに講武所の設置と前後して、
安政2年(1855年)9月には徒組、安政3年(1856年)1月には小十人組に対して砲術師範の江川英敏への入門が義務付けされ、洋式銃砲の訓練が始められた。
この訓練は、講武所設置後には、その中の砲術習練所へと移って続けられた。安政5年(1858年)には、深川越中島に銃隊調練所が建設された。
しかし、阿部のタヒ後に井伊直弼が大老に就任すると、西洋式軍備の導入は停滞してしまった。
浦賀にペリーが来たのは1853年と1854年。
このときに火縄銃300丁を送っているが、
そもそもゲベールで迎えたというのはどこの記録?
>そもそもゲベールで迎えたというのはどこの記録?
>>24を書いたのはオレではないので、オレには答えようがない。
ただ、開国前から高島秋帆がゲベール銃をオランダから輸入しているので、不自然ではないかなと思ったまで。
高島秋帆が1831年にゲベール銃をオランダから買ったという記述があり、以後幕府も積極的に洋式化を進める中で相応の銃の整備をしている。
ペリーの来航時に対応した江川英龍は高島の弟子だから当然ゲペール銃は知っているし輸入できる立場にある。
ペリーを迎えた幕府側の部隊が全員ゲペール銃装備していてもそんなに変ではない。
幕府側の話ならきちんと書いてるが。
とりあえずペリーをゲベール銃兵隊で迎えたって史料が知りたいだけ
時系列は合わないけどな
記録にはあるらしいね。
ありがとう
前期のフリントロック式ゲベールか。
こら知らなかった。
勉強になります
鹿児島を灰にしてまで城山に籠る必要があったのか?
何故鹿児島に帰ったのか?
己等の益荒男ぶりを示すためにやっているだけで
合理性を追求したいわけじゃない
熊本の神風連の乱も同じ
最初の一文はわからんが、確かに急薩摩藩を巻き込まなかった動きから合理性がある感じでは無いよな。
カッコいいじゃないか
良くも悪くもその狂気が薩摩隼人たる所以。
ただ、だからボロ負けしたという事実はある。
本気で戦うなら跳ねっ返りが火薬庫襲ったらそいつらを切り捨てなければいけない。
情を優先して戦争始めるなんてあまちゃんが勝てるわけがない。
でもだから薩摩の人間は
西郷さんが好きなのさ。
で大久保が嫌い。
日本人もそういう西郷が好きだが、近代国家日本が生き残るためには冷酷な大久保の手腕も必要だったのだろう。
ただ、西郷はもう少し政府にいて欲しい人材だと思うけど。
幕府を倒すためには必要だったが、そこで役割は終わってた。
政府に残っても、征韓論みたいな好戦論者に祭り上げられるくらいしか、役割がなかったように感じる。
征韓論は困ったもんだが、理屈を人々の動きに変えることが西郷の真骨頂。
西郷亡き後の薩摩閥は迷走気味でしばしば元勲たちの個人的利害で国政があっちこっちしてる。最後にそれを取り仕切ったのは山形だが、西郷が元気だったらこういう迷走は起きなかったと思う。
大久保は言われているほど元勲たちを抑えられていない。
もともと西郷は調整役としての抜擢だからな。
長州征伐しかり、薩長同盟後しかり戊辰戦争しかり。明治政府のなかでも。
実際領内の神社に弾薬に使用するため銅製のびた銭を供出するよう命じてる書状が残ってるし
鉱山を奪い合うために南信から東三河にかけて侵攻してたんで
東三河周辺で争いが耐えなかったな。
武田と徳川で鉛の鉱山の奪い合いしてるからな
長篠を中心に信濃国境にかけての奥三河には鉱山が点在していた
近年の研究で奥三河には睦平鉛山の存在か確認されてるし、武田と徳川が奥三河の争奪に執念を燃やしたのは鉱山を確保するための争いだったつってことだな
戦国時代は火薬の原料は輸入されてたような。
輸入はされていたんだけど、当然生産もなされていた。
文書に残っているのはトイレの下の土。浸透した糞尿が硝酸菌の働きで硝石になっている。
実際にはもっと能動的に大規模な硝石製造プラントが稼働していた。
塩硝ね
白川郷の秘密生産物だから藩外秘だった
表向き生糸の生産しつつ、蚕のフンで溜め込むとか
前田もなんだかんだ戦国の武将なんだなと。
いつ徳川落とすかつねに考えてたんだろ
その通り。
明治維新時もそうなんだけど、戦国時代もリーダーたちは先見の明があるというか、科学技術にとても精通しているんだよね。
鹿児島とはお隣同士で仲がいいのに
熊本城、熊本鎮台は
島津薩摩を抑える為のものだし。
薩摩藩は賊軍だし仕方ない。
事実ではない。
九州の人たちはなぜかあの狭い島の中で歪みあっている。
熊本藩は薩長に協力したが、薩摩と血縁があったわけではなく、新政府に敵対する意思はなかった。
薩摩人がある種の狂気を特長とするなら熊本は頑固で議論好きなもっこすが気質。
西郷が軍を上げたというだけで西郷に協力するわけはない。
そもそも西南戦争の一年前に熊本では神風連の乱が制圧されている。
負傷者200名を出しながら120名以上を倒して乱を治めた政府軍の力を見せつけられているのに西郷に協力するわけがない。
黒田に恫喝されたから。
廃藩置県の時は、西郷にダマされたよね。
討幕する気が全くなかったのに西郷大久保に良いように動かされて討幕の中心にされてしまった久光様ですから、廃刀令には大反対だけど、西郷のためにお家を危機に晒したりはしないんだよね。
西南戦争勃発時にすぐやったことは子供たちを桜島に逃すこと。
人物として明治の人ではなく、幕藩体制の原則理念で動く人なのだよ。
犬がカワイイ
上野の像の完成式で
奥さんが「こげん人じゃなか」と言った逸話
やっぱ、戦争は物量だよな
多数の武士は秩禄処分でむしろ損をしたから、政府は彼らの恨みを買った。
武士というものをどう考えるかということだよ。
それまでの日本は200以上の大名家とその上位に位置する幕府に使えるサムライが支配層で、その経済的基盤は領地からの税収。
明治維新というのは日本の最高権力は将軍か天皇かという本質的には意味のない争点で争う中で、薩摩長州などと有力諸藩が幕府から権力を奪うという流れだった。
つまりそれに参加したほとんどの武士にとってそれは近代共和制国家を受け入れたというわけではない。
ところが明治政府は近代化を進めて、サムライの帰属先であり、サムライをサムライたらしめていた大名家から領土を召し上げ、結果的にサムライは雇用できなくなった大名家から雇い止めとなり、経済的に困窮することになった。
要するにサムライのほぼ全員が食いつめ浪人になった
でそれでもなんとか生活をしようとしていた時に、刀を捨てろと命じられたわけだ。
主家はもうないからサムライをサムライたらしめているのは自身の思い以外には刀しかない。
それを捨てろということはサムライをやめろということでサムライにとっては受け入れ難いことだった。
だって普通のサムライは悪いことは何もしていないし、なんなら明治維新時には自分があるいは親兄弟がそのために尽力したんだから。
恩賞寄越しても良いくらいなのに、何でサムライやめろと言われるのという話になる。
味方に撃ち○されたってマジっすか?
病気でち○こ腫れててつらかったんだよ
闘える状態じゃなかった
どちらも旧薩摩藩からだよ。
版籍奉還と廃藩置県の結果、薩摩に限らず日本中に無くなった藩に属していた武士が大量に放り出された。
その人たちの多くはしっかりした正業に就くことができず手間仕事で糊口を凌いでいた。
で、彼らは
武士なので刀とかは持っていた。
その彼らから刀を取り上げるという廃刀令が出されたことが全ての始まり。
従って兵士となる旧薩摩藩藩士並びにその子弟はいた。
武器は薩摩藩時代の武器庫や火薬庫にあった。
危険性を感じた明治政府はそこから武器弾薬の回収移送を行おうとするが、逆にこの動きが旧薩摩藩士を刺激して西南戦争が始まった。
回収は一部成功したので充分な武器弾薬はなかったが、とりあえずの戦争は行えた。
会津藩の恭順を認めてれば旧幕軍の残党も東北から散っていったし、戦闘継続能力もない。
でもない。
当時の銃は黒色火薬なので、今のような一斉射を効果的に行えない。
政府軍の銃は当時としては最新式の金属薬莢のものだったが、それでも今の金属薬莢とは違った。
結果、平地での戦闘はともかく、西南戦争で多かった山岳や丘陵地での戦闘では士族の抜刀突撃で平民部隊はバッタバッタと倒されて、危機感を感じた明治政府は旧幕府側の士族が多数いた警察官から抜刀隊を数百名選抜して投入し、結果的にこれによって勝っている。
平民だけだと最悪九州は失っていたかもしれない。
抜刀隊は
発案者が旧薩摩藩士
設立者が旧薩摩藩士
初代隊長が旧薩摩藩士
隊員の半数以上が旧薩摩藩士
後に復活させようとしたのが旧薩摩藩士
そんな時代遅れなものはいらんと潰したのも旧薩摩藩士
遠くまで真っすぐ飛ばなくなって精度が悪くなる
ライフリングも削れて火縄銃とたいして変わらなくなってしまう
それで鉛汚染で環境云々言われても鉛玉が主流なのかなるほど
バラバラに蜂起する訳無いやんか。
佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、西南戦争なあ。。。
連邦制みたいな体制だったのが裏目に出たんじゃねw 横の連帯がなあ。
特に反政府側の旧士族は保守的な考えの人が多いし。
西郷を視察にきた
が
刺○に来たと聞き間違いして
親父ギャグの駄洒落から若者が暴発した
本当に暗○狙いだとしたら、刺○だなんて具体的なやり方まで指示するものかと昔から疑問だった
自然タヒに見せかけるとかでないなら、○せという指示だけで充分だろうに私学校の生徒はそこを疑問に思わなかったんだろうか
本当に暗○狙いだとしたら、刺○だなんて具体的なやり方まで指示するものかと昔から疑問だった
自然タヒに見せかけるとかでないなら、○せという指示だけで充分だろうに私学校の生徒はそこを疑問に思わなかったんだろうか
日本史の授業では習ってないけど戦後復興も大変だったろうな。
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1647414779/
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