中国の南北時代に勃興した周・斉・陳という真の三国時代を語ろうや
資治通鑑より
北斉の皇帝の暴帝ぶりを
面白がりながら見る時代だ
自分が住むのは絶対嫌だが
魏呉蜀のときは、蜀が小さすぎて事実上の魏呉による南北朝時代であり、しかも「天下の3分の2は魏」と言われるほど国力に大差があった
周斉陳の時代のほうが、「三国鼎立」と呼ぶにふさわしい状況
いや
この時代は陳が小さすぎる
北周と北斉の2強対決と言っていい
国力についてはその通りだが、軍事的にはむしろ、東晋の桓温に次いで南朝が健闘した時期
蜀と呉の人口比は
1:1・5で小さすぎるってことはない
まあ不可侵条約結んでたから実質南北朝みたいなもんだが
状況としては魏呉蜀より、曹操と袁紹が華北を二分して対立する中、孫策が江東を統一して南で台頭してきたAD2世紀末の状況に似ているのではないかと思う
袁紹は国力に勝り、曹操は勢いに勝る。孫策もまた侮りがたい。
ここで、北斉が袁紹、北周が曹操、陳が孫策に相当する。そんなイメージ
陳の宣帝の北伐
573年、北斉では後主の暴虐が激しくなっていた。陳の宣帝は、北斉討伐を提唱した。公卿達は反対したが、呉明徹だけは決行を唱えた。
宣帝は、呉明徹を都督征討諸軍事に、徐陵を監軍事に任命し、十万の軍で北斉討伐を命じた。
北斉は、揚子江からジョ水まで掘で繋いで防衛線として、水中には大木の柵を築いた。
呉明徹は、程文季を先鋒として、驍勇の士卒を与えた。程文季は柵を抜き、敵を撃破した。
魯廣達が合肥の南で北斉軍と戦い、撃破した。
北斉軍は、体が大きくて膂力のある人間を選んで先鋒とした。中でも西域胡は、射撃が巧くて百発百中だったので、皆は一目置いていた。
北斉と陳は石梁で戦った。
戦う寸前、呉明徹は、蕭摩訶に言った。
「もしも、あの胡を○せば、敵軍の志気は崩れる。君の軍才は、関羽にも負けまい。」
すると、蕭摩訶は答えた。
「やってみましょう。」
そこで呉明徹は降伏した敵兵を呼んできて、誰が西域胡か指し示させ、自ら蕭摩訶へ酌をして酒を飲ませた。蕭摩訶は飲み終わると、馬を馳せて北斉軍へ突撃した。
西域胡は、陣から十余歩前方へ出てきた。だが、彼が弓を射るより早く蕭摩訶が投げた手裏剣が、彼の額へ突き刺さり、即タヒした。
北斉軍からは、十余人の力自慢が飛び出したが、蕭摩訶は彼等も斬り○した。
これによって北斉軍は大敗し、尉破胡は逃げ出し、長孫洪略は戦タヒした。
尉破胡が出陣した時、侍中の王林も従軍させていた。王林は、尉破胡へ言った。
「呉軍は士気が高い。持久戦へ持ち込むべきだ。軽々しく戦ってはならぬ!」
しかし、尉破胡は聞き入れず、敗北してしまった。
王林は単騎で、どうにか彭城まで逃げ延びた。
(続く)
呉明徹は、王林が軍を立て直す前に討つべきだと考え、夜襲を掛けて撃破した。寿陽の兵卒は、相国城まで退却した。
呉明徹は、寿陽を攻撃した。彼は肥水を堰き止めて、城を水浸しにする。城内には病気が流行り、六・七割の人間がタヒんでしまった。
北斉の朝廷は、寿陽に救援軍を送った。その軍勢は数十万。しかし、尉破胡が敗北したばかりなので北斉軍は怖じ気づいており、寿陽から三十里のところに留まって、なかなか進まなかった。
呉明徹の諸将が言った。
「堅城を抜く前に、大軍が救援に来ました。どうしましょうか?」
すると、呉明徹は言った。
「兵は神速を尊ぶ。それなのに、奴等は屯営したまま進まない。自ら戦意を挫いているのだ。奴等には、戦う気はない。」
呉明徹は自ら武装して四面から寿陽へ猛攻を加えた。遂に、その一角が崩れ、王林を捕らえて建康に送った。援軍の将は北へ逃げた。陳軍は、彼等が残した輜重を奪った。
呉明徹の陣中には、王林の元の部下だった将兵が大勢いた。彼等は、王林が捕らわれるとこれを伏し拝み、仰ぎ見ることのできる者はいなかった。そして、彼等は争うように王林の助命を嘆願した。
呉明徹は、造反が起こることを恐れ、使者を派遣して寿陽の東二十里で王林を斬った。これを知って慟哭する者が大勢居り、その泣き声は雷鳴のように轟いた。王林を知る者も知らぬ者も、彼のタヒ去を聞いて涙を零した。
北斉を討った南朝最後の名将・呉明徹だが、はたして、良かったのか、悪かったのか。
というのも、弱体化した北斉が、北周の武帝に滅ぼされてしまったからだ。
華北を統一した武帝。もはや、南朝・陳の運命は風前の灯火となった。
漢 禅譲→ 魏 禅譲→ 晋 禅譲→ 宋 禅譲→ 禅譲→ 斉 禅譲→ 梁 禅譲→陳
陳こそ漢民族の古代からの流れをくむ国だったのに
三国志のハイライトは、なんといっても、曹操VS袁紹の華北対決だという人が少なくない。
実際、曹操が袁紹を倒して華北を統一してからは、「天下の3分の2は魏」と言われるほど北が南を圧倒していたので、群雄割拠といってもイマイチ盛り上がりに欠ける。
400年後の隋末の群雄割拠を描く「隋唐演義」でも、盛り上がるのは長安の李淵と、洛陽の王世充の華北対決。歴史ドラマはたいてい、唐が北朝を統一したところで終わる。
実際には、復活した南朝の蕭銑とのタヒ闘がそこから始まるのだが、ここはスルーされることが多い。
それと同じように、北周や北斉の時代を描く歴史ドラマも、南朝の陳はあんまり出てこない。
北周の武帝とか、北斉の蘭陵王あたりが見どころだ。
五代十国や南北朝の時代を描いた演戯もあるのに
4大奇書に
三国志が入ってるのは
南北朝や五代十国と違って
三国時代は漢民族が主役で異民族がわき役だから
講談師も気合入って書きやすかったからだろう
五胡南北朝や五代十国だと完全に異民族も主役の一端を担っている
しかも南北朝の場合、最終的に凝った隋は異民族の流れだし
>>13
どっちかって言ったら、むしろ、講談で人気があるのは、漢民族の英雄が異民族を倒すストーリーだな
「三国志演義」の評価が高いのは、作者の羅貫中が優れた知識人だったため、文学作品として士大夫に愛読されたことによるもの
明の時代から盛んじゃなかった?
>>17
「三国志演義」などの4作品が「四大奇書」とされるようになったのは清代
「奇書」というだけあって、読書人の愛読書
明代の民衆にとっても、北方民族の侵略は忌み嫌われる恐怖だった。
宋の岳飛や楊家将、明の劉伯温など、異民族と戦う漢民族の英雄は、講談の人気者。
「異民族が出てくるストーリーは民衆に人気がない」というのは、日本に限った話で、中国ではそうでもない。
もちろん、中国でも関羽や張飛は有名だし、三国志に人気がないと言ってるわけじゃないんで
金庸をはじめとする中国の武侠小説には、清の庶民、とくに子どもが講談や芝居を楽しむ場面がよく出てくる
それを見れば、講談がどういうものだったかが分かる
北朝はどうもイメージが良くない
俺もそれ思った
四国時代だよな
三国志だって燕があったけどカウントされてないし
>>37
中国は広いんだ
地方の独立小勢力なんか、数えたらキリがない
北周が華北を統一してからは、陳の滅亡は時間の問題となった。
ところが、ここで想定外の事態が起きた。
なんと、不世出の英雄・北周の武帝が若くしてタヒ去したのだ。
ああ、後梁って、北朝じゃなくて南朝の残党が建てた小国のことか
それは盲点だった
魏晋南北朝時代と五代十国時代は、どうしても、ときどき王朝名が錯綜してしまう
>>26
「後梁」っていったら、普通は朱全忠を連想するだろ
この時代のは「南梁」と呼ぶべきだ
都が西に移ったのだから西梁では?
北周・北斉・陳・後梁
侯景の乱により、南朝の梁はいったん崩壊した。
梁の武帝の子・蕭繹は、侯景の乱を鎮圧した。
蕭繹は、552年11月に根拠地の江陵で梁の皇帝に即位し(元帝)、梁を復興させた。
そこに、北朝の西魏が5万の軍で侵攻してきた。
江陵は554年11月に陥落し、元帝は戦タヒした。
西魏は、江陵において、蕭詧を新たな梁の皇帝(宣帝)として即位させた。
これが後梁である。
しかし、元帝崩御の報せを受けて、旧都・建康を守備していた王僧弁と陳霸先が、建康で別の皇子を擁立し新たな皇帝としたため、梁は2つに分裂した。
だが、両雄は並び立たず。
建康では、王僧弁と陳霸先の対立が次第に表面化し、やがて王僧弁を倒した陳霸先が、禅譲を受けて、陳の皇帝となった。
南朝・陳があれほど弱体だったのは、侯景の乱で首都・南京が荒廃して国力がダウンしたのもさることながら、建国時のトラブルが後々まで尾を引いた。
陳覇先と並ぶ2大実力者の1人、王僧弁を打倒して皇帝に成り上がったわけだが、王僧弁の残党は健在で、かれらの反攻に陳覇先は苦しんだ。
魏晋南北朝時代と五代十国時代
とくに紛らわしいのは、両方とも北朝最後の王朝が周
しかも、最後に名君が登場して乱世を終息に向かわせたが、その途上で早逝するという同じような流れをたどった
>>31
南朝の最期にも、不思議な共通点がある
隋に滅ぼされた陳の後主と、宋に滅ぼされた南唐(呉)の李イクは、ともに政治家としては無能だったが、詩人としては天才で、中国文学史上に不朽の名作を残した
世界史で習ったけどゴッチャになりそうで
小説十八史略を読んで頭を整理した覚えがある
陳先生ありがとう
実際のところ、この時代はマイナーに見えて、実はそうでもない
滅亡寸前で風前のトモシビだった北斉が、最後に空前絶後のスーパーヒーロー「蘭陵王」を残してくれたおかげだ
引用元:https://www.homedrama-ch.com/contents/hdc/special/ranryouou/sp/img/ttl2.png
蘭陵王こと高長恭は、北斉の皇族で、有名なイケメンの優男。
戦場では仮面をつけて戦っていた。
中台合作ドラマ「洛陵王」は大ヒットしたが、蘭陵王の仮面は、日本の能面だった。
アニメのネタにもなっている。
陵王面ならまだしも、般若面って何よ
って言われてたな
>>46
しかも、蘭陵王の邸宅には、神社の鳥居があった
時代考証を超越したファンタジー時代劇だった
北斉といえば仏像だ
仏像彫刻の歴史から、北斉は外すことができない
引用元:https://www.museum.go.kr/relic_image/PS01001001/bon006/2016/1124093013018/700/bon006690-000-0001.jpg
ガンダーラ美術の方が良い
>>42
それまでの仏像はインド人みたいな濃い顔をしていたが、北斉から東洋人っぽくなった
とても優しそうな雰囲気なのが、北斉の仏様の特徴
最終的に、北の隋が、南の陳を滅ぼして天下統一した。
漢が崩壊して以来、じつに400年後のことだった。
隋はあまりにも強力で、陳はあまりにも無力だった。
このため、「史上、最も楽だった天下統一」と言われる。
簡単すぎたため、時代劇のネタになりにくい。
随唐演義はおもろいよ
日本でまったく人気が出ないのは何故?
横山光輝の三国志みたいに読みやすいマンガにしてくれる人がまだいないから
キングダムの続編でこの時代やらないかな
現在のキングダムが「キングダム 天下統一編」だとすると、
「キングダム 地上最強編」とかで。
文宣帝や北斉後主を筆頭に
北朝の描写にリアリティーもたせたら
R指定食らうから
むしろそっち方面でカリグラの有名な映画のお株を奪う評判の作品を目指して制作してみるとか
こいつらが基地外の筆頭で扱われてるのは、単に在位約10年と北斉では長い方だったから。
孝昭帝や廃帝殷が同じペースで基地外エピソードを量産してても、在位1年では通算で10分の1しか累積しない。
蜀方面からの進行も行われたの?
>>51
まず長江中流の「後梁」を押さえて、そこが陳攻略の基地になったから、上流の蜀から攻め込むまでもなかった
秦漢とか三国志の呉の時代には広大な湿地帯だった長江下流が、六朝時代の数百年を通じて開拓が進み、今ではすっかり穀倉地帯。
経済力では南朝が北朝を格段に上回っているので、本当なら難敵のはずなんだけど、陳は弱かった。
侯景の乱のときの南京大虐○の打撃が大きかったこと、陳覇先のライバル王僧弁の残党との内戦が続いたこと、南朝最後の皇帝・陳後主が無能だったのが原因。
それでも、隋は何年もかけて侵略を準備し、最後は50万の大軍で攻め込んでいる。
結果的には楽勝で、陳後主は、妾と一緒に井戸に隠れていたところを捕縛され、妾は美女なので隋に連れていかれた。
>>53
>結果的には楽勝で、陳後主は、妾と一緒に井戸に隠れていたところを捕縛され、妾は美女なので隋に連れていかれた。
後主と一緒隠れていた張麗華はその美貌から帝を惑わされることを恐れた高ケイによって斬○された
一方後主はというとその暗愚さから反って警戒されずに助命された
晩年は文帝の飲み仲間として重宝され長安で悠々自適の生活を送ったという
>>56
南朝の皇帝や貴族は、文化人としては優れているからな
詩とか管弦を楽しむには、もってこいの仲間
>>55
どの国もそれぞれに強大で、突出した勢力もない
「三国鼎立」と呼ぶのに最もふさわしい時代
わからんが、唐のほうがさらに突厥との関係が深い
こうしてみると、南朝の梁は大国だった
この3国はいい勝負。三国志の時代より、「三国鼎立」と呼ぶにふさわしい
東魏・西魏・梁
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/b/b1/%E8%A5%BF%E9%AD%8F%EF%BD%A5%E6%9D%B1%E9%AD%8F%EF%BD%A5%E6%A2%81.PNG/291px-%E8%A5%BF%E9%AD%8F%EF%BD%A5%E6%9D%B1%E9%AD%8F%EF%BD%A5%E6%A2%81.PNG
ギョウを抑えれば
太行山脈で東西に分けられない?
>>88
太行山脈で東西に分けるのは、自然国境として落ち着きが良い
でも、ギョウは古来から趙の領土で、キングダムの漫画でも、「太行山脈を回り込んでギョウを攻略する」という話をだいぶ前からずっとやっている
東魏と西魏は、北魏が分裂してできた。
分裂したといっても、ちょうど真っ二つになったわけではなく、北魏の首都の洛陽も、
伝統的に北朝の中心都市の業も、東魏にあった。
馬も人も、東魏がより多く受け継いだ。
このため、国力は東魏が突出していた。
でも、北魏から続く、鮮卑貴族と漢人官僚の対立までも、ついでに引き継いでしまっため、国内は内紛が絶えなかった。
国力では見劣りする西魏は、宇文泰の粘り強い改革で強くなり、ついには東魏を逆転した。
いろんな面で、数百年前の袁紹と曹操に似ている。
折から南朝の梁は、侯景の乱が全土に広がり、弱体化が顕わになっていたので、西魏の宇文泰は府兵制で組織した軍隊を派遣し、四川地方や江陵を奪った。
しかし、当時、モンゴル高原に興った新たな遊牧騎馬民族である突厥に対しては、府兵制の軍隊では立ち向かえなかった。
552年、柔然から突厥の木杆(もくかん)可汗が独立した。
突厥はかつて服従していた柔然を攻撃したため、柔然の民が西魏の領内に逃げこんでくると、宇文泰は突厥の要求に応じて、情け容赦もなく柔然の君主以下3000人を捕らえて突厥に引き渡し、それが皆○しにされるのを傍観した。
宇文泰は突厥に対してその後も卑屈な態度を取り、その属国と見なされることとなった。一方の東魏は突厥に対して果敢に抵抗し、その侵入を再三撃退している。
<宮崎市定『大唐帝国 中国の中世』中公文庫 p.312>
「西魏の宇文泰は府兵制で組織した軍隊を派遣し、四川地方や江陵を奪った。 」
なぜ蜀はいつも制圧されるのか
蜀の険道は晋時代に交通整備されて侵入しやすくなってでもいるのか
たいてい、北に行くほど軍事力が強いからな
蜀より西魏が強く、西魏より突厥が強い
国境守るコスト的に南北朝になるのは妥当
有無を言わさず後梁を征服して南半分を征服して武帝梁時代の振り出しに戻すと言う事は
>>73
大河の下流から上流に向かって攻め上るのは、逆よりずっと難しい
ディーゼルエンジン付きの現代の船ならともかく、昔の船でそれをやるのは無理。
陸路でも、低地から蜀の山岳地帯に攻め上るというのは
桓温
陳は、王僧弁の残党との内戦で忙しかった
それどころではない
陳は同時期の北斉後主や北周宣帝みたいなヒャッハーな皇帝がいないから地味で面白くない
>>76
陳後主は不朽の名作を残した詩人
華やかな貴族文化だ
陳後主は斉後主や周宣帝と違って、国政のトップとしてとことんずれてるだけで、人として狂ってる壊れてる感はないんだよな。
>>82
平和な時代なら、優れた貴族文化の担い手。
でも、大陸の国際情勢は厳しいからな。
そういう奴が、国家をマトモに運営できることは珍しい。
文化活動だけ優れてて
政治的には大した有能さはないのに、
内憂外患にも大政争にもみまわれず
位を全うして暗君として悪名高くはない
君主てそもそも殆どいないのでは?
金の章宗ぐらいしかおもいつかん
そういう人物は大抵政治も有能だからなぁ
蜀の劉禅と同じように、国が滅んで囚われの身になってからも、長安で酒浸りの日々を送り、隋の文帝から警戒されなかったという話がある
数百年後、北宋に滅ぼされた後周の李イクは、南京の都を懐かしむ詞をいくつも残し、不朽の名作とされてるが
「ほんとかよ?」と思うようなウソっぽいエピソードも目につくのだが、北斉の正史を編纂したのは唐朝
そんなに北斉の無道を誇張する必要もなかったと思うんだよなあ
北斉後主の逸話 (ウィキペディアより)
・自ら琵琶を弾いて「無愁の曲」を作った。近侍が一斉に和したので民間からは「無愁天子」と呼ばれた。
・ある王に「任地にいた時、何が楽しかった?」と聞くと「蠍をたくさん入れた穴の中に人を入れてもがき苦しむ様を見るのが楽しかった」と言ったので、
同じようなことをさせると、その王を叱りつけた。「なぜ、このように面白いことを隠しておったのだ」と。
・陥とされた平陽を奪還しに行った時、あと一押しで落とせるところまでいったが、馮淑妃と共に落城する様を見物しようと攻撃を止めさせた。
馮淑妃の化粧に時間を取られたので、結局は落とすことができなかった。
・陳に侵略された時はさすがに顔色は失ったものの、臣下に「まだ淮河以南を失われたにすぎません。
黄河以南を失われたとしても我が国には亀茲くらいの国力があります。一生遊び暮らすには充分ではありませんか」といわれて、そのまま納得してしまった。
こんな数々の伝説で、その無能ぶりが後世に伝わる。
それくらい北斉の国力は強大で、弱小国の陳に侵略されたり、北周にあっさり滅ぼされたりしたのは、信じられない大逆転だった。
歴史に残る超オウンゴールを連発でもしない限り、こんなことにはならなかった。
北斉の初代皇帝・文宣帝の逸話
・幼い頃、高歓が子供たちの才能を確かめようと、絡まった麻糸を与えては解くように課題を与えた。
他の息子たちは解くことができなかったが、高洋はその絡まった糸を刀で断ち切り、「乱れたものは斬らねばならない」と答えた(『北斉書』文宣帝紀、『通鑑記事本末』)。
これは「快刀乱麻を断つ」という故事成語のもととなったといわれる。西洋にも似た話が伝わる(ゴルディアスの結び目)。
・ある時、文宣帝が悪酔いしたので、母親の婁氏が鞭を打った。すると文宣帝は非常に怒って「なんだ?この婆さん、他所に嫁に出してしまうぞ!」と叫び、誤って怪我をさせた。
酔いが覚めると過ちに気づいて深く後悔し、「私は母上に言ってはならないことを言ってしまった。どうか罪深き私の背中を打って欲しい。打たなければ○す」と、強引に臣下に自分を杖で打たせ、自ら母に心底から詫びた。
・長い鋸など処刑道具を常に準備していて、酔うたびに戯れで人を○した。そのため楊愔は、宮殿の庭にタヒ刑囚用の檻を作った。
無論、生贄のためであり、3ヶ月間文宣帝に○害されなかった者は解放されたという。
・猜疑心の強い文宣帝は、寵妃の薛嬪と清河王高岳の内通を疑い、高岳を○害した上、薛嬪の姉を鋸引きの刑で惨○した。後に薛嬪をも○し、その骨で琵琶を作らせた。
・僕射の崔暹が卒去した時、そのタヒを大いに悲しんだ。ある時、文宣帝はその未亡人の李氏に対して問うた。
「崔暹のことを思い出すか?」
「どうして、忘れられましょうか?」
「それならば、崔暹の傍らに行くがよい」
と自ら剣を抜刀して、李氏を斬り捨てたという。
・占い師が文宣帝の寿命を占った時、占い師は90年生きると予言したが、さすがに文宣帝は占い師が予言をごまかしたのを見抜いたという(実際に出た結果は30年だった)。
やはり、王朝の初代は強烈な個性の持ち主が多い。
初代といっても、東魏の高歓を魏の曹操に例えるなら、初代皇帝の曹丕に当たる人物で、本当の初代は高歓というべきだろうが、それにしたって、王朝を創業したことに変わりはない。
遣陳使が贈られることになっていただろう
>>110
歴史の教科書に載ってないだけで
遣宋使も遣陳使も送られてた
南朝は日本文化の源流
北周の武帝は、西魏の時に父の宇文泰が作り上げた府兵制の軍事力を擁して、北斉併合に乗り出し、577年それを滅ぼして華北の統一を回復した。
さらに南朝の陳、北方の突厥との戦いを進めたが36歳で病タヒし、全土の統一はならなかった。
武帝は軍事態勢を強化するため仏教寺院の所有地を取り上げ、僧を兵士として徴兵するという廃仏を行った(三武一宗の法難の一つ)。
これによって華北の仏教は一時衰え、末法思想が始まった。
次の代の皇帝は統治の力が無く、最後の皇帝の皇后の父(外戚)であった楊堅が581年に禅譲を受け、隋の文帝となる。
鮮卑語と中国語のバイリンガルだったの?
全員気違い三昧をやってても人望はあったのか?
文宣帝と武成帝は基地外だったが(基地外だから?)戦闘には滅法強かった
いやさ、幾ら戦闘に強くても人が着いて来なければ皇帝にはなれない
ってか戦闘すら出来ないでしょ。
一人じゃ戦えないんだからさ。
東魏の時代から
宇宙代将軍のような有力な将軍がいた
おそらく鮮卑の故地に近いから
鮮卑の精鋭も多くいたのだろう
北斉時代も斛律光や段韶といった将がいた
>>141
人材もさることながら、馬が東魏・北斉には多かったと言われてるんだよなあ
これに対抗するため、東魏の宇文泰は、歩兵中心の府兵制を編み出した。
これが、隋唐の兵制として受け継がれた
北斉は鮮卑の故地に近く、人材も馬も豊富だった
首都は、伝統的に北朝の中心都市だったギョウ
北斉と北周は、袁紹と曹操の関係に似ている
北斉は国力が優勢で、人馬も豊富だったが、北周に逆転負けを食らった
周の武王、秦の始皇帝、漢の劉邦、前秦の苻堅、北周の武帝、唐の李世民・・・と、
「西の長安に拠る勢力が、東を打倒して華北統一」というパターンが中国北部では続いた。
微妙なのは魏の曹操で、これは河南省を本拠地とする、西というより真ん中の勢力。
でも、袁紹は明らかに東側の勢力だから、やっぱり曹操も、「西が東を滅ぼした」というパターンに沿っている。
このパターンの例外は、後漢の光武帝。
>>135
補足として、北魏は東から西に向かって華北を統一したケースだけど、北魏の場合は、北京や大同あたりを本拠地とする、「東」というより「北」の勢力だから、あんまり関係ない。
唐からあとは、「北が南を征服する」パターンが定着し、「西が東を征服する」という形はなくなった。
南北朝時代を勝ち抜いた
隋も高句麗に大敗して滅亡する
>>146
勝ち抜いたといっても、すでに北周の武帝が北斉を滅ぼして華北を統一し、南朝の陳も弱体化して、全国統一が目前の状況からのスタート
熟しきった柿が落ちるように、簒奪してから数年後に統一が成った。
「中国史上、最も楽だった天下統一」といわれ、ドラマチックな要素なし
北周は蜀や荊州の襄陽なども支配下に置いて江陵の後梁を傀儡国家にしていた
武帝の時更に淮南も獲得
隋楊堅は西晋司馬炎より統一が楽だっただろうな
趙匡義「おれの方が楽だった気がするが」
天下統一は楽勝だったが、その代わり、兄の趙匡胤を暗○するのが大変だった
中国の時代劇では、結構、人気のある時代だ
なんといっても、蘭陵王・高長恭という悲劇のイケメンヒーローがいて、北周の武帝という英雄豪傑の敵役がいて、北斉の皇帝は気が狂った極端な悪役でキャラが立っている
日本ではマイナーどころじゃなく、ほとんど知られてないが
その後の、隋の天下統一は楽勝すぎてまったく面白みがないので、中国でも人気がない
しかし、そこから先の隋の煬帝の暴君ぶり、そして隋末の群雄割拠は、「隋唐演義」として大変に人気のあるテーマ
煬帝の悪魔的な異常人格ぶりをコッテリと描けるので、漫画化するにも向いてると思うんだが
李世民(太宗)が主人公なんだろなあ
>>152
李世民を理想的なヒーローとして描く歴史ドラマもあったけど、そればかりじゃない
人気があるのは、「隋唐演義の関羽と張飛」こと、英雄豪傑の秦叔宝と尉遅敬徳。
古来から、門柱に描いて魔除けにしたほど中国では有名なコンビ
それなら劉聡や石虎などが出てくる五胡十六国時代のヒャッハーぶりも同じぐらい面白そう。
そりゃ、バトルとしては面白い時代だろうけど、その辺りの人たちだと異民族すぎて、中国の視聴者に人気が出ないんじゃないかな
中国は、漢の滅亡で崩壊し、人口が激減したところに鮮卑族を初めとする民族大移動が起き、人間を入れ替えて再スタートした
日本では大和朝廷・飛鳥時代の頃、中国でも鮮卑族が先住民の遺した古代文明を学んで、新たな文明の黎明期を迎えていた
あっちの時代劇はネタが豊富やな
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1582964051/
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