【戦国時代】高橋紹運(じょううん)という武士の鏡といわれた筑前の戦国武将について
武士の鏡、高橋紹運について語り合いましょう。
読みは、高橋紹運(じょううん)が正しいです。
『筑前戦国史』吉永正春 海鳥社; 増補改訂版
一気に読んで、涙が溢れてきますた。下克上の裏切り、裏切られる戦国時代において、主家にあまりにも忠実だった武士、高橋紹運。
岩屋城決戦に持ち込んだのは、戦略の一つでもあり、無謀の末ではありませんでした。
通常なら、宝満城か、息子のいる立花城に移り篭城戦を採るでしょう。
ナカーマ
立花宗茂にはまって歴史小説に飽き足らず、その本を1/3ぐらい読んだとこ。
九州三国時代の終わりを決定づけ、中央集権化への移行を考える場合
岩屋城の戦いは日本史の教科書に載せておかしくないレベル。
太平洋戦争後、GHQの命令で、この武将を持ち上げることは禁止されたらしい。
戦前に紹運は戦意高揚に利用されたことは事実らしいが、紹運が為政者側だったら
どう判断するか見ものだし、戦国期の生き方を当時の生き方にそのまま重ね合わせ
ることには無理がある。
戦国期ならば当然、紹運のような生き方は素直に称えられるべきである。
今でも島津アンチから称えられ
必要以上に過大評価させてるがね
きたる七月二十七日は、岩屋城戦四百二十六年目に当たります。
遺族ほか関係者による法要を営みます。
有縁の方々の御参詣くださいますよう、御案内申し上げます。
参加費一人二千円(昼食代他)
岩屋山 西正寺
http://ww2.tiki.ne.jp/~shirabe01/bu/date/date002.htm
末裔の務めとして、3年に一度は参加してます。
今年は、参加致します。
http://blogs.yahoo.co.jp/muzirusi_kaijp
>>22
立花家の人は来るの?
沢山見えられますよ。
私の家系は外様ですし、歴史も詳しくないで隅の方で参加してました。
誰に尋ねても、気楽に誰の末裔でと自慢話をしてくれます。
多分尾ひれがついてますが、裏話は飽きがきませんね。
>島津軍諸将は、紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を何度も送ったが、
>紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのよ
>うな輩が多いが私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは
>鳥獣以下である」と敵味方が見守る中で言い切った。敵味方関係なく賞賛の声
>が上がったと言われている。ちなみに降伏勧告は計5回、島津方から3回、味方
>である立花宗茂と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かない為に城を捨てて撤退
>せよという趣旨で1回ずつ受けているが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を
>断っている。
>落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首
>実検に及ぶとき、「我々は類まれなる名将を○してしまったものだ。紹運と友で
>あったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと
>伝わっている。
高橋紹運 西津弘美著
【 立待月 】
天正十四年(1586)七月八日
立花銃虎からの使者「十時摂津守連貞等」が、火急の知らせと岩屋城に駆け込んできた。
内容は嶋津の侵攻して来たことにより、岩屋城を出て宝満城へ移る様にとの銃虎から
からの要請であった。
しかし、紹運は使者にこう答える。 命運は、秀吉旗下の援軍が到着するまでに堪え凌ぐ
ことにある。 日頃の献身を思うに、どうしてわしだけが城を離れられようか。
紹運は声を出して笑った。 涙を払って決別する十時に、書状を渡す。
「岩屋城における篭城の手当て、ことごとくあい整った。 ~略~
じつに再会も期し難きものと考える。」
応援を断り続ける紹運に対し、宗茂の剣の指南役であった「萩尾大学、麟可」の
一族が駆けつける。 萩尾竜介の一途に思いつめた決意についに紹運は折れ、
立花勢三十九名が、裏門の守りにつくことになったのである。
【 獅子の子 】
若くしてキリスト教に目覚めた大友宗麟は、毛利元就が率いる大軍と多々良浜
の合戦で立花城を守り、毛利元就の撤退で平穏な全盛期を迎えた。
筑前に守護代として赴任してきた立花道雪は、「道雪のあるところ高橋紹運あり」
と称されるほど、筑前、筑後、肥前、豊前まで目を光らせていた時代である。
「天正七年の晩秋」
立花道雪は、突然坊主頭を下げると高橋紹運に嫡男の統虎を立花家の跡取りとして
欲しいと懇願するのであった。
断り続ける紹運に道雪は大友家の将来を熱意をもって説くのであった。
世は止む事なき戦国乱世である。 ついに紹運は受諾するのである。
立花道雪の娘婿となる前日、紹運は統虎にこう告げた。
「もしや道雪殿と敵味方になるやもしれぬ。 その時は立花家先駆けとして
この父を討ち取れ。 立花家から離縁されても、この城に立ち寄ってはならぬ。
その時は、この刃で自害せよ。」と形見として備前長光を与えた。
「天正九年十月二十五日」
ここに、立花宗茂が誕生したのであった。
映画「硫黄島からの手紙」みたら、紹運を栗林中将に重ねてみるのも何となく分かる気もする。
硫黄島にしろ岩屋城にしろ勝ち目ないの、ほぼ分かってたと思う。
だが、出来る限りのことをしつくしてベストを尽くし、戦った。
つきあわされた部下たちは大変だっただろうが。
あくまでも自分の感じたまでを述べたものだから、荒らしとかフルボッコとかは勘弁してよ。
反転攻勢の機を窺いながら時間を稼ぐ為に自らが犠牲になったのです。
太平洋戦争時、紹運は玉砕の鏡だとして軍部に利用されました。
そのことにより、戦後、教師達は紹運や道雪を封印して来ました。一部を除いて。とんでもない話です。
仮に、紹運が太平洋戦争時生きていたとして、一億玉砕を主張していたでしょうか?
息子や一族を存続させる為に、自ら玉砕したのです。当時の軍部は日本人の最期の一人まで英米と戦え、
と言っていたのです。未来はありません。「滅亡の美」とやらに自ら酔っていたのです、彼らは。
紹運は違います。戦略として自ら玉砕を選んだのです。
もちろん偉いことは偉い。それは認めるけど、立花氏が江戸時代まで残ったから
この人物の話も永く残ってるだけのこと。
大友宗麟・吉統親子って結局は秀吉にいいようにあしらわれて、江戸時代まで残らなかったし
この人物の玉砕って、どうしてもいまいち賞賛できないんだよね
鎌倉幕府の最後に北条氏に殉じた武士たちのほうが素直に賞賛できる
秀吉政権に利用された、了見のせまい人物って感じがどうしてもしてしまう・・・
「岩屋城戦没者追悼法要」
七月二十七日は、岩屋城戦四百二十九年目に当たります。
遺族他関係者による法要を営みます。
十時三十分
西正寺
昭和63年7月23日 テレビ西日本・TNC 13:00~13;50分
岩屋城の戦い「落城」が放映されました。
大御所・吉永正春氏の運動によるものです。
http://www.ustream.tv/recorded/24138882
高橋紹運は多くの人を○し味方も○され、数々のタヒを見てきたんだろ
たぶん我等では本当のところを解らんのではないのかな
大友が豊臣の後ろ盾を得て時代が変わる前の最後の戦い
古い時代を背負ってタヒんでいったのではないのかね
はその典型例じゃね?岩屋城でさんざん苦戦してるし、吉岡なんちゃらとかいう
夫人が城主の城でも散々な目にあったみたいだし。この時から300年後に、
この時代に加藤清正が築城した熊本城を、西郷がついに攻めきれなかったのも、
熊本城がすごかった面もむろんあるけど、伝統的に薩摩隼人の攻城戦に対する
苦手意識がでた結果だと思う。
早い話、紹運が無かったんだろね
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