【歴史】岐阜城「一ノ門」、斎藤道三が建築か?市発掘調査により織田信長説覆す可能性が高まる
岐阜城「一ノ門」、道三が建築か 信長説覆す、市発掘調査
https://this.kiji.is/727865017093685248?c=39546741839462401
2021/1/29 21:36 (JST)1/29 21:52 (JST)updated
岐阜市は29日、岐阜城がある同市・金華山(329メートル)の発掘調査で、織田信長が築いたとされていた「一ノ門」が、構造などから信長の前に居城した戦国武将・斎藤道三が築いた可能性が高いことが判明したと発表した。市は「信長の独創性が強いとされてきた岐阜城のイメージを大きく変える成果だ」としている。
今回の調査で、一ノ門の構造は16世紀前半に美濃国守護の土岐氏が築いた「大桑城」(岐阜県山県市)の門に非常によく似ていることが判明。土岐氏に仕え、後に追放した道三が、土岐氏と同じ技術を用いて築いたとみられる。
※関連リンク(岐阜市)
令和2年度岐阜城跡発掘調査成果を発表しました!/文化財保護課/岐阜市公式ホームページ
https://www.city.gifu.lg.jp/item/49343.htm#Contentpane
大して財力が無いよな
信長の親父は財力を蓄えてのし上がって
本家を上回った状態で信長が引き継いでる
岐阜城をとったときは既に犬山城も帰順していて尾張統一は終わっている。
>>16
織田弾正家は財力が極めて高かった。尾張半国の奉行に過ぎない立場だった
父信秀が朝廷に献金できるくらいのゆとりがあったからな。これは>>22も指摘
しているが、津島湊を押さえていた影響が非常に大きい。
麒麟もやってたけど、織田信秀が朝廷に献金した金額は今川義元の数倍だった
名前だけ岐阜城に変えて天守も形ばかり整えた程度だったんだろうね
むしろ岐阜城下の経営で大儲けして成り上がったのではないか
尾張の海上交易の利益も知らんのか
一回登ったら十分。
よくあんな所に天守を作ったもんだ
道三が優れた人物だったのがよく分かるわ
そう思った
どうして土岐氏の建造物に似ていると
織田から斎藤に建築者が変わるんだろう
職人の活動時期かねえ?
一気に情勢が変わった
有名どころの城では、落城回数多いな。
あれは城主が余りにも無能すぎ。
最初から篭城戦の構えで粘ればよいものを、わざわざ城外に打って出たからああなった。
家臣団には信忠から譲り受けた美濃衆も居たから、道三時代に再三再四成功させていた
防衛戦も出来たはずなのにね。
攻め手に元岐阜城主が居るのに守れるはずがない
自分が城主になってから弱点補強して改築すれば良かっただけの話。
無能の無能たるゆえんの1つでしかないだろ。江戸時代じゃないんだから、
城郭の改築は基本的には自由だったんだぞ。w
秀信は籠城するつもりだったけど岐阜城の寄せ手が元岐阜城主の池田輝政で弱点を把握されていることと
岐阜城が水の手を確保しにくいことからやむなく出撃したと言われてる
道三時代の加納口の戦いなんかもずっと籠ってた上の勝利じゃないし
加納口の戦いでは、守城側が最初に打って出てないだろ。w
それと信長の孫は後詰が来る前から、連携も無いまま単体で打って出ている。
多勢に無勢で論外だろうに。
実際は元から自分の家に基盤があったんだよな
ワロタ
数ヶ月単位で長期間籠城する必要のある戦いではないでしょ。
数日持ち応えれば大垣からの援軍は確実に間に合うし、1週以上持ち応えれば伊勢路から、
更に持ち応えれば大津落城によって関西からの援軍も間に合う可能性も出てくる。一方で
家康本体はまだ江戸表に留まったままだった。
東軍が清洲に到着してから、岐阜城に攻め掛かるまでだけでもそれなりの日数はあったから
その程度の備蓄を用意するだけの時間的ゆとりはあっただろ。
秀信が援軍要請してた竹ヶ鼻城が落とされて焦って出撃したんだろ
更に8月19日付の黒田長政が井伊直政に宛てた書状では
犬山表も黒田・徳永軍らがすぐにでも渡河できる状態で犬山城を包囲可能である
ことが記されてるから、その辺りの情報も当然秀信の耳に入っていただろう
秀信は大垣と犬山にも援軍要請してたけど竹ヶ鼻城が落ち、更に犬山も風前の灯で援軍は期待できない
そこで当初籠城予定だったのを急遽出撃に変更したってのが真相じゃないかな
結局兵力分散したことで福島池田らに速攻で蹴散らされたけど
東軍主力が相手じゃ全兵力集中しようがそんなもん誤差程度
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1611931303/
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