出雲大社は古代最高の高層建築だったのか?何故高層化する必要があったのか謎を考えてみよう
だからぁ~
それ、平安時代の源氏棟梁が高層化させたからぁ・・
一番だったと広く言われたことが
いくらまでなら出す?
縮小復元模型ならあったよ
古代16丈
神代32丈
高層って言い方がそもそもおかしい。
高層とは複数の層が高く積み上げられた建物に対する語。
層とは階のことだが、昔の仏塔で裳階が沢山ついてるものは、
沢山階があるように見えるので(実際は1層)、誤解されて高層と呼ばれることもある。
しかし出雲大社は高さはあるが階は1層。裳階もない。
なんでこれを高層と呼ぶのか分からない。
本来の意味での高層建築なんて、日本の伝統建築には、城郭ができるまで無かったよ。
消防法だと31mを超える建物は高層建築物だよ
これは100尺が基準になっている
http://aruaru.kacchaokkana.com/31m-kisei.html
出雲の高層神殿も31m以上に床が有るので
現代だと非常用エレベーターが必須っぽいw
どう見てもダビテの神殿なんかと同じ形だろ。
御柱祭とか裸祭りとか
たぶん昔は危なく無かったんだが、技術が失われ習慣が変わりあぶなくなって行く
昔は普通だったのだ
木造世界一は微妙だな
そんなに高さがあったのか?
地震で倒れた
風で倒れた
何も無いけど倒れたなど
だからかなりの高さの神殿が有ったはずだ
太い柱を立てた上に社を乗っけただけの原始的な建造物だし。
バランス悪いし、建築物としての美しさはどこにも無い。
実際残ってたとしても、大仏殿の中から天井見上げたときのようなスゲェ~って感覚は覚えないと思う。
まぁそもそも日本は歴史的建築物に関しては趣味的な美しさはともかく、規模と言う面では中国大陸以西の国々には遠く及ばない。
木の文明から抜け出せなかった限界だろう。
清水寺の舞台を覗いたときみたいなすげーはあると思うぞ
>>27
水上「住居」じゃないか、と千家尊統氏は考察してる。実際、現拝殿の場所は元は海底だった形跡が発見されているそうだ。
昔は本殿が現拝殿の位置辺りにあったと言う記録と重ねて、島根半島が陸続きではなかった時代、大社は入り海際に建っていたことになり、宍道湖に繋がる入り海を通る船を見守るような形で、海人族の生活に密接な形だったのではと
そうだとすると、参道があれほど深く下ってゆくのも、浜辺から海底へ下ってゆく形状に相当するんだよね
内部構造の神座の位置も、生活住居として、家内の主の席に相当するのじゃないかって考えも挙げられている
そうなると怨霊説よりずっと、古代にその地に生きていた人達の生活や、その中で生まれた信仰として現実味が感じられる気がする
復元映像が正しいと限らないからな
もっと立派だった可能性が高い
江戸城はデカいぞ
なにしろ堀と石垣がデカイ
堀と石垣の複合施設と見れば世界一かもしれん
残ってないけど天守閣も高かった、天守台も含めれば高さ65メートル
規模なら前方後円墳もスゴイ、大仙陵古墳は墳墓が486m
堀も入れれば長辺840m
ピラミッドよりでかいw
木造でも高さ50~100メートルの巨大建築を作っていた事を特筆すべきだな
上古の出雲大社が高さ96メートルと伝わっている
キリスト教やユダヤ教の国々がエルサレムやローマを聖地とたたえるように、日本人であれば京都・奈良を日本の特別な都・聖地としてたたえる。
・日本仏教の総本山や本山も大半が京都・奈良、畿内に存在する。
ちなみに、日本仏教の聖地は高野山と比叡山である。
・伊勢神宮をはじめ、神社の総本社も大半が近畿に存在する。
二十二社は畿内の神社から選ばれ、国家の重大事の時に朝廷から特別の奉幣を受けた。
・兵庫県淡路島の伊弉諾神宮には、伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)が祀られている。
・天皇陵も京都の泉涌寺など京都や奈良、近畿にそのほぼすべてが集中しており、歴代天皇が眠る畿内、近畿はまさに日本の聖地
・日本の世界遺産もその多くがこの地域に存在している。
京都御所にて即位式を成されて帝都東京へ戻られる形を取れば良い。
>>35
昭和天皇までは京都御所で即位の礼をやってたんだがな
伊勢神宮はともかく熱田神宮なんて地方豪族が祭祀していた神社に行く必要ないだろ
神武天皇陵も造られたのが明治時代なんだよあれ
熊襲からしたら大迷惑なやつ
1万何千年か忘れたけど火山灰は日本にも降ってる
津波を見張る為か津波から逃れる為かは知らん
屋根を曲線にする必要なんてない
変な色を塗りたくらないでくれ
灯台説が面白い
縄文時代もっとも価値が高かった黒曜石を取りに隠岐に行く船の帰りの目安として
灯台が必要だったという話
灯台であれば高層にする必要があるし、倒れても無理して立て直す必要もある
実際に発掘調査をしてみると、とても100メートルは無理だろうって結論に達してたな
それでも裳階を構造材だということにして裳階で補強して100メートルにしてたが
NHKの番組でやってたんだけどね
実際はそれほど大きくなかったんじゃないかな
そういうこと。
八雲神社
鉄、金属片・・・?
謎の刀などがあったと言う話、出雲大社には何があるんだ
サルタヒコと言うスレなどを読んでみて
出雲系統の話をしているには、
しているんだけど
なぜか芸能の話をしていたりするから、
系統が違う?
高さは盛ってるとは思うけどそれほど難しいことでもなかったかもね
鎌倉時代にいたっては大仏様建築の挿し肘木と通し肘木を駆使すればどうにかなりそう
雲太、和ニ、京三
日本の三大勢力。
縄文人
BC1000年頃渡来し水稲をもたらした古い渡来人
弥生時代前期末~中期に渡来した勢力
それ(今から三千年前に渡来は)、出雲神族の事。
神族は王族の事で、神をカモと発音していたそうな。
やがて勢力を拡大していき、いわゆる神武が即位なさったたとされる二千六百有余年前の時期=出雲が王政を開始した時代をキキ神話が横領改ざんしたもの。
日本初の王(出雲王)が即位なさったのは間違いないので、、、
Ⓐ縄文人=先住民
ⒷBC1000年頃渡来し水稲をもたらした古い朝鮮半島からの渡来人
大和盆地を中心に縄文人(先住民)と共存
初期・大和王朝=出雲王朝
Ⓒ弥生時代前期末~中期に朝鮮半島から渡来した勢力
九州で勢力を蓄えた好戦的集団、近畿地方に進出
武力で大和盆地を制圧 前政権を山陰出雲に封じ込める
後期・大和王朝
>>70
元々畿内は縄文系勢力、殷由来の古い渡来人、弥生時代前期末~中期の中国南部系の渡来人も仲良く共存していたんだな。
1世紀後半には環濠がいらないくらい平和だった。
それを倭国大乱で破壊したのが、山陰東海の縄文系勢力。初期の大和朝廷。
初期の大和朝廷に虐げられていた元々畿内にいた勢力と関東東北の縄文系勢力が手を結んで、初期の大和朝廷勢力を倒すんだな。
今の出雲大社、元来は杵築大社。
その名前が示す通り、元来巨大建築に適さない場所(砂地?)を無理やり?地盤改良(杵築)して造営されたから杵築大社?
いわゆる「砂上の楼閣」(足元が心もとない)とは杵築大社をいった?
杵築大社はヤマト朝廷が造営したのではありません。
旧出雲帝国滅亡からかなり経ているにも関わらず
東西の旧王家らが未だ隠然と広く民心を得ていて
不気味に存在している事に危機感を募らせた
ヤマト朝廷側(狡猾なホヒの末裔、出雲国造ほかが主導、画策?)が
旧出雲王家らの財力を削ぎ弱体化、疲弊することを狙って
非業の最後を遂げた(天皇家と出雲国造らの祖先らが弑逆した)、いわゆる出雲の大国主=第8代オオナモチ(主大/帝王の称号)、西の王家、神門臣家当主の八千矛命の慰霊する大社の造営する事を唆して
(拒否すれば、いちゃもんを付けて要らぬ争い(攻撃)を招くのは明白。否応なしに)
旧出雲王家らが莫大な私財を投じて造営させられた。
主に西の旧王家、神門臣家が携わった事から
東の旧王家、富家は杵築大社は神門臣さんの物と言っていたそうな。
後年、朝廷、天皇家の力をバックにした天皇家の忠良なポチ、国造家(一の子分、ホヒの子孫末裔)が横領して現在に至るところ?
杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。
あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた渡来人系の出雲の王族が追放されたから。
出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。
サルタヒコ一族は、縄文人のオオナムチに破れるんだな。
そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸。
役の一種だろうな。
巨大古墳作りと同じ
あってもおかしくはないね
神社はもともと祭事の際だけ造ってすぐに解体してたんだし
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1326972922/
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