もし豊臣秀頼がハンニバル級の武将なら徳川家康に勝てたのか????
考えるでしょう。ものを言うのは軍事力と視る筈です。
軍の整備に掛かるでしょう。四万の野戦軍と5千の文官兼務の守備隊整備可能と思います。
この時点の豊臣家は65万石が領地ですが蔵入地もまだ残っており、備前、伊勢、大和にも飛び地があり、
実質100万石程度の領地があったようです。又大阪は商業地なので、30万石相当の収入見込めたと推察できる。
根拠としては摂津の慶長検地の石高35万石に対して江戸期の統計だが人口80万程度だったようだ従って
摂津の国の豊臣領は30万石程度多く見積もれる、合わせると130万石程度の経済力有していたと思われます。
又大阪城落城後約2万8千枚の金(約28万両)と約2万4千枚の銀(約24万両)が 残っていたので
篭城時はその倍はあったと推定できます、金50万両の価値ですが、参考として文化年間で三両あれば
一年間生活できたと言います、慶長の一両は米価や賃金で比較すると文化の五倍と推定されます、
慶長時代の家族の生活費は年間0,6両、1,2両も出せば兵士一名が雇えたと考えられます。
130万石の大名だと4万程度の兵士雇えたでしょう。残りの5000の兵士を雇う費用は年6000両程度。
4万五千の兵力維持充分可能と考えます。
>>2-7
>>1の考証見ても豊臣に甘く書いているよな。徳川軍は譜代合わせても20万は用意できるはずだ
豊臣が近江を含む近畿一帯を占領すれば、西国は完全に徳川から分離される。
家康の動員可能兵力は東国のみ、譜代以外の大名は日和見、場合により徳川に
襲い掛かる。動員兵力15万がせいぜい。関白の追討令って結構効力強い。
近江まで勢力下に治めれば、秀忠の将軍位剥奪も可能、将軍位失えば天下に
号令する法的根拠も無くなる。古来日本では京を勢力下においた武将が主導権
を握る。
二条城も伏見城も拡張されまくりで一気に落とすのは無理でしょ。
他に大和には秋山城とか、長浜城とか城があるにはあるので
戦になったら詰めるに決まっている。
そもそも>>1は戦時と平時の話を勘違いしてるけど
「普通に生きていく」のと武器弾薬兵糧などを確保するのは全然違うわけで
全国握った徳川が妨害すること考えても軍事物質インフレでどうしようもない金が必要になるんだが
どうやって軍事行動起こすわけ?
「兵力800程度ってあほなのかな、徳川の命令あればほかの大名はその城に詰めるし」
秀頼が山城、近江、大和制圧の設定なので高取城に与力できる大名は存在しない。
「 全国握った徳川が妨害すること考えても軍事物質インフレでどうしようもない金が必要になるんだが
どうやって軍事行動起こすわけ?」
現に大阪冬の陣では10万の兵を集め軍備を整えているよ。
http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/20563/%F1%8F%F0%8F%E9/8/
二条城は家康自ら堅固な城で無いと言っている。
伏見城自体は広大だが少数の兵力では護りきれる城ではない。
近江長浜城と宇陀松山城見逃していた、宇陀松山城城主福島孝治は
福島正則の実弟であり、夏の陣では大阪城内通の疑いかけられて
いるくらいだから、積極的に徳川に味方せずむしろ秀頼の幕下に
馳せ参ずるでしょう。
近江長浜城は内藤信正が城主ですね、石高兵力は不明ですが、
後に高槻城に4万石で入っているので、この時点での石高4万石、
兵力1000と仮定します。内藤氏は徳川譜代なので徹底抗戦必至ですね。
彦根より14キロの地理的状況なので井伊の残党逃げ込み
兵力2000程度に増加していると考えられます。
早急に落とさないと徳川本隊の接近時拠点とされそうです。
彦根城落城後二日で通常野戦軍二万到着予定なので内一万と
砲兵隊五組派遣し近江長浜城攻めですね。近江長浜城の縄張り図、
遺構全て家康の手で破却されているためどのような城か一切不明ですが、
本能寺の変に際してねねが城から避難し領内大吉寺に身を寄せた
と記されているので、堅固な城とはいえないと思います。
容易に落とせると思います。
清正健在中に秀頼に手を出せば、加藤清正、福島正則、浅野幸長、
池田輝政らを敵に回すことになる、池田輝政(16000)、
浅野幸長(7000)、加藤清正(15000)、福島正則(12000)
計52000程度の動員兵力、これに大阪城4万加えれば軽く9万、
徳川勢は西日本の大名は日和見決め込むだろうから当てに出来るのは東国の兵のみ、
かなり危険。1611年時点で秀頼は18歳、16歳時より準備始めたとして
約2年部隊の訓練期間として充分です。
戦略としては夜が長く、未だ余り寒くない11月の晴天の日の夜間に奇襲をかける。
江戸城の大番組は8組あり常時二組が勤務、朝、夕、夜の3交代制とあるから
夜間城内に居る兵員は全部隊の10分の一程度と推察されます。
五個の備えを一手とし20の独立部隊を作ります。
備の定員400、鉄砲組4隊、弓組一隊、槍組五隊を基本単位とする。
一個部隊定員2000。内六個部隊1万2千を全員乗馬の高速機動部隊とする
(全馬牝馬とし口取り不用)。砲兵隊創設、砲は木砲、外径20センチ、
内径10センチ、砲長150センチ、重量30キログラム。
駄馬一頭で二門輸送可能、一門で二回発射を原則とする。一組100名、
砲は正規20門、予備10門。6組創設、全員乗馬、砲及び関連装備輸送のため
一組当たり駄馬25頭、口取り25名全員乗馬の機動砲兵部隊創設。
急行軍時5km/h乗馬部隊は通常7km/h,急行軍時9km/hと仮定します。
豊臣領内の枚方より伏見まで10キロ、伏見より京まで10キロ、
京より膳所まで10キロ、膳所より彦根まで60キロ。
又布石として京に豊臣屋敷を構え方広寺、豊国神社警備の名目で
兵200人程度を常駐させる。
秀頼が攻略すべき拠点は高槻城、伏見城、二条城、膳所城、彦根城、
大和郡山城の6箇所と想定します、
1611年当時高槻城には城主はおらず守備兵力は100前後留守番のみで
接収には戦闘不要だったでしょう。
大和郡山城は城番が筒井定慶、兵力は200乃至300前後、
大阪夏の陣では守備兵の大半が逃亡したそうですから戦意は相当低いと思えます。
伏見城:城主松平定勝、5万石 兵員 1300名。
二条城:大番組1組、兵員400名、膳所城:城主戸田氏鉄、3万石、兵員800名、
彦根城:城主井伊直継、18万石、兵員4500名、以上です。
伏見城、二条城に各一隊、膳所城に一隊と砲兵隊一組、彦根城に三隊と砲兵隊5組、指揮は秀頼がとる。
7時頃に1隊で伏見城奇襲、伏見城夜間の兵員は130名前後、外堀突破は容易に出来、
城下町に宿泊中の大半の兵員は簡単に掃討可能、城内進入路は五箇所、
守備兵は多く見ても一箇所15名、戦闘にもならない、
城兵少数なので城の攻略短時間で可能。
京、豊臣屋敷に交代要員と称して計400名集結、鉄砲二組、弓三組、槍五組からなる備を編成、
七時に二条城襲撃、二条城は現在は本丸、二の丸の二重構造だが
1411年時点では本丸のみの「単郭式」であり、夜間の守備兵40名前後大手門の守備兵15名前後、
容易に門を破り内部に進入可能、天守にこもり抵抗できる兵力数十名、
残兵は非武装のまま掃討可能、急襲時はなるべく弓と槍で攻撃し周辺に事態を悟られないようにする、
午後八時過ぎ到着の2000の兵力で京を制圧。
午後九時半、膳所城奇襲、膳所城は築城兵員80前後、城下を制圧し築城人員増加させないようにする、
さらに砲兵一組20門で大手門砲撃、大手門破壊の上城内進入、
守備兵80だと容易に制圧可能。
城下を蹂躙、築城人員400名程度。彦根城は表門、大手門、黒門の三箇所の進入路があり
一箇所の守備兵80名前後、大手門、表門には砲兵各二組、黒門には1組配備、五門づつの
一斉砲撃数回にて各門破壊。守備兵掃討、大手門、表門突破後には天秤櫓が防御、守備兵50名、
同じく砲撃にて櫓門破壊、続く太鼓門櫓守備兵20名がせいぜい、
砲撃で破壊、搦め手の黒門も砲撃で破壊、守備兵掃討、西の丸に攻め込む。
この時点での守備兵90名前後二箇所からの襲撃で全滅。
大和郡山城はにはあらかじめ大和大納言の菩提寺(城内に存在)で法要を行うと称し、
秀頼名代として片桐且元、貞隆兄弟を派遣、南都の名刹の高僧を招聘、
道中警護のためと理由付けして片桐兄弟隷下900の兵を入城させ、
法要後筒井定慶及び守備兵を武装解除、大阪城より1000の兵を入れ守備を強化。
2隊は京に2隊は彦根城に、8隊1万六千は近江、美濃国境線に陣地構築して
待機。守備隊5000の内3000は大阪城守備、伏見城、膳所城には各500の守備兵配置。
秀頼はこの戦闘終結後速やかに京に向かい、豊臣屋敷に入る。急襲部隊は全軍帰還し再編成。
徳川方の動き。冬の陣では9月26日開戦準備、10月11日出陣、
10月23日京都着ですから、戦闘まで一ヶ月弱の余裕があります。
この間に募兵厳選して約四万、将としては真田幸村、長宗我部盛親、大谷大学、増田盛次、
毛利勝永後藤又兵衛、明石全登、仙石秀範、氏家行広、京極備前、御宿政友、塙直之の面々、
4千づつの10隊編成。ついで朝廷に奏上して関白に就任、徳川追討令を発して
諸大名に参陣を命ずる。加藤清正、福島正則、浅野幸長、蜂須賀至鎮、黒田長政計4万は
参加せざるを得ないと思います。
総兵力は徳川宗家7万、松平忠輝1万8千、松平忠直1万3千、
徳川義直1万2千、徳川頼房9千、徳川頼宣1万2千等合して15万程度。
西上可能兵力12万、秀頼方は総兵力12万5千、戦場に動員可能兵力10万。
美濃、近江国境付近で決戦。
秀頼に才能があろうが危ない事だけはさせたくないから
総帥には織田有楽斎か織田常真の人物を立てる。
これなら仮に家康に負けたとしても
「秀頼に家康と戦う腹づもりはなかった。全ては織田某らの暴走によるものに~」
と言い訳ができるからだ。
家康が秀頼の首を取る機会逃すはずが無い。口先でごまかされる相手ではない。
秀頼が生き延びたいなら、家康の息の根止めるしかない。
独立してたころはほとんど城落とせてないよ
その上10万まとめるなら近江、大和、伊勢等の城を落としきれないし
わけたら篭城されるだろう。譜代の井伊氏がいるんだから。
攻めてる間号令されて終わり、
家康の動因は東国のみって、黒田とか、天領は西国にもある。
徳川にだけ襲い掛かって何で豊臣に襲い掛からないんだよ、
最上とか黒田とか池田は徳川シンパだし、譜代、親藩、本家だけで20万動員できるんだ。
大名からすれば徳川と連携して豊臣を攻めた方が、領土手に入るだろ。
関白の追討例がそんな強いなら、足利将軍滅びてないよ。
将軍位剥奪したところで勝手に戦うだけ、織田信長とかもそうだったろ
京を主導権?頼朝も尊氏も秀吉も家康も全然違うところを根拠地にしていた。
本当に戦国ヲタクなのか?
1611年当時近江の軍事拠点たる城郭は彦根城と膳所城のみ。山城は伏見城
と二条城のみ。大和は大和郡山城と高取城のみ。高取城城主は本多政武2万5千石
但しこの本多は徳川家と全く無関係、兵力も800名程度、大和郡山城を確保しているので
大して脅威にならない。
伊勢の藤堂高虎が大阪に直接侵攻しようとしても、紀伊経由だと浅野氏の協力必要だし、
大和経由だと大和郡山城を攻略の必要がある、下手に大和に入れば大阪城よりの部隊と大和郡山城
からの部隊に挟撃される危険性あり。高虎は日和見か、尾張経由で参戦のいずれか
の戦略立てるだろう。
秀吉がタヒんでがらっとかわったみたいに
そう考えるとやっぱ天が徳川の世を選んだのかな
大坂には味方せず。むしろ家康寄りだが、地理的状況が故に出馬はできず――だろ。
そもそも、徳川は豊臣が動いた時点で大名に号令をかけるし、
周囲がつめに来るぞ、長浜には越前の松平が兵を詰めるだろうしな。
柴田勝豊が長浜で秀吉の大群と一ヶ月戦ったのをみても、すぐには落とせないよ。
伏見も硬いしな。
あの時点で豊臣に味方しそうなのは恩顧現役世代の福島と加藤と浅野くらいだろ。
浅野と加藤なんかタヒぬ寸前だったから、指揮取れないだろうしな。
で、息子は徳川に付けといわれてる。
倉入地は、離れてるから補給線断たれて無理だしな。
福島と加藤は池田とか細川加藤に妨害されて大阪にこれないと思うぞ
軍事物資も制海権取られて無理だろうしな。
四国勢はどうするんだよ戦線伸ばしすぎたら幾内経由で補給線断ちに来るぞ。
10万の兵って間違いなく誇張してるだろうし、
冬の陣では3週間しか戦闘できず、それすら物資不足してきていて、補給が出来ないと講和したんだよ。
夏の陣では堺略奪して4万程度しかいなかったのにどうやって物資をもたすんだよ、もたないだろ。
で、大名の横流しも高い分食らうからな無理だっての。
越前の松平が北近江に進出すれば、側面を突かれて大敗でしょうね。
ハンニバルは「トラシメヌス湖畔の戦い」でローマ軍2500の側面を奇襲し
1500を討ち取り10000を捕虜にしている。越前からのこのこ出てくれば
格好の餌食。
柴田勝豊は開戦五日目で秀吉に寝返っています。1411年11月の時点では
加藤清正はタヒ亡しているので参陣するのは子の忠広になりますか。
大阪冬の陣の築城軍は10万が定説、兵糧米は直前の大阪蔵屋敷接収分で11万石
福島正則献上分3万石、20万石くらいはあっただろうから2年は築城可能。
兵糧米に窮したのは包囲軍の方だよ。
築城・・・?どこに城を築くんですか?
あとその兵糧のソースは?
>>22の言ってる事は2個ぐらい見たことあるけど>>23の言ってる事は見た事がない
ソースお願いします
http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.hukusima.html
福島正則がわざと大阪蔵屋敷に米置いておいて兵糧米の足しにした
ってのは有名よ、知ん無かったの!
入力ミスだろうが一桁違うよ。
トラシメヌス湖畔の戦いは、5~60000の兵力で
ローマ25000~40000を伏兵で奇襲し、15000を戦タヒさせてるね。
徳川方もそれ相応の戦備を整えているに相違ない。
落とされちゃ困る前線の要衝に、近江の諸大名や藤堂高虎くらい事前に派遣できるだろ。
大坂に近い京都所司代もマグロじゃねーんだし。
福島も徳川の犬だぞ、無理だって。
徳川軍が兵糧に窮したのは一時期で、すぐ米なんて補給できているわけだし
戦やるには弾丸とか装備とか必要なんだけど、豊臣は制海権取られてるから
当時は火縄は自力で使えなかったんだから無理だって。
2年は篭城可能って、弾丸とか装備とかが足りなくなってきて講和したんだよ。
秀頼が生き残るには西国の大名の支援が必要。
誰か良い武将(有力者)は、いないものかねぇ。
戦っている間に徳川来るだろうしな。
で、徳川軍の兵力は20万超え、勝てるわけがない
あの時も薩摩と長州の二藩のみが見方するだけで勝てるよ
何せ単なる徳川氏と薩長の私闘であって諸大名も積極的に動く理由が薄く
仕舞いには朝廷軍と賊軍の構図になってしまい旧幕軍は完全に瓦解┐ (´ω`) ┌
その為に旧幕軍の実数が僅かだったから薩長だけでも何とかなったけど
大坂の陣では徳川氏は幕軍であり諸大名も普通に戦う気があったから状況が違い過ぎるお( ^ω^)
大坂に篭ればな、
慶喜は今で言う売国奴だから、トップに敵シンパを据えたようなもの
インドムガール朝では領内で戦乱が相次ぎ、各地の豪族が
自分の領地の徴税権を担保にして、東インド会社から武器を購入、
結果としてインド全体が東インド会社の私物と化し、
セポイの乱を経てイギリスの植民地にされてしまった、
幕末の日本の心ある人材は、幕府の首脳たる勝海舟、徳川慶喜ですら
戦乱の長期化は日本全体にとって危険だと認識していた。
又幕府組織そのものが日本生き残りの障害物たることも認識していた。
これがたいした混乱なしに薩長軍が勝利した原因。
家康が政権握らなければ、幕末に日本が存亡の危機に
追い込まれるような状況になってなかったろう。
司馬遼太郎あたりが家康の存在を毛嫌いしていたのは
こういった認識があったからだよ。
同時代でも家康が嫌われていたのは京における秀頼政権を望む民心。
江戸時代初期から存在する太閤記がその間の事情を物語っている。
こっちの準備が整うまで敵が動かないの前提の戦略だもん
冬の陣の家康の出陣見ていますと、開戦準備から実際の出陣まで15日要しています。
軍制の問題で司令官が直接各部隊掌握していないためと考えます。そこで秀頼に直接
掌握し命令下せば何時にても出陣可能な部隊編成させ、一部の部隊に機動性も持たせ
て徳川方の城を夜間に奇襲させれば、勝機在ったのではと言う発想です。
なぜそれを覆そうとするのか。家康公は仕方なく、無駄に歯向かう豊臣を攻撃したのだ。
アンチはその意を少しは汲み取りなさい
勝者の余裕ぐらい見せろよ
>>42
それでも平和には変わりねーよ
下手に海外と交流して海外の人間が内部に入り込んだ後攻められたらたまったもんじゃねー
色んなものを固定する事で台頭して下手な戦乱を起こさないようになったんだから
そんなに戦好きなら海外の戦狂いの歴史でも読んでろや
貴方はアメリカ大陸の先住民やオーストラリア大陸のアポリジニの悲惨な
運命をご存知か。タスマニア原住民なんて○害の上ドッグフッドにされたんだよ。
軍事力と技術の貧弱さは悲惨な運命を招く。
武力とは闘うだけではない意味を知っていたからである。
天下を求めたのではなく、戦の無い世を神君は創ったのだ。
小早川の1万5千よりよっぽど戦える兵隊が集めれた筈だ
実際は、徳川の力を強めて、豊臣の力を弱めるための戦さ以外の何物でもなかったんだから
豊臣vs徳川の側面があったといってもまぁ間違いじゃない。
元亀天正の戦乱をいつまでも追い求めるのは、ゲーム脳だね(ニッコリ
アンチ家康がなんとしてでも家康がタヒぬようにもっていくだけでつまらん
スレタイが「ハンニバル級」とか、見てるこっちが痛々しくなる
秀頼が元服時点で豊臣が天下を奪い返すのは絶望的
家名を残すために、むしろ軍事的な才能よりも、政治力が必要
本当にハンニバル級の戦術眼があれば家康など一蹴だけどね・・・
多勢に無勢での包囲撃滅を狙ったりしてねw
何も得る所なかったもんね
一体何しに行ったのやら
言われてるほどの武将でもないのよ
ローマの団結を期待できない徳川はあっけなく瓦解、諸大名が軒並み寝返るレベル
まあローマ攻略の時期を逸したり、本国の十分な支援を得られなかったり政治的にはアレだけど
ハンニバルは戦争屋って感じだな、民会(カルタゴは貴族の元老院と市民の民会の二院制、衆議院にあたる)
の支持で一応カルタゴの首相であるスフェトの任期を果たしたこともあるけど
当時世界で最も先進的な軍隊を相手に戦ってたわけだけど?
倭国よりは全然強かった
城を壊されて塩までまかれそう。
篭城などいかにくだらんかが分るわな
暗峠の上で家康軍を待ち伏せする作戦を実行するなどは面白そうだ
夏の陣:籠城も不可能、出撃策も勝ち目無しなのに戦を強行→櫓に追い込まれて命乞い
淀君って無能にもほどがあるなw
捏造マンセーありなら島津家久が3000で六万を倒し隆信も討ち取った超誇張だがデータにある奴のがよくね
島津家久>ハンニバル(笑)
ハンニバル戦術は鉄床とハンマーの理論
現代でも普通に応用が効く
ハンニバルの優秀さの本質はそれ
家久>ハンニバルとか言ってる奴は相当バ○じゃね?
誰かのパクリ、編集者の捏造
その可能性は高い
豊臣秀頼がハンニバル級の武将なら家康と戦うはずがない。
ウラジオストクあたりに、ノヴァ・大坂を建設して、
第二次朝鮮出兵に乗り出すほか、やることなどない。
ガリアやアルプス越えで現地部族への威圧・味方の士気鼓舞のため乗った気がする
ハンニバルでも幕府を壊滅させる前に力尽きて命乞いが結末
ハンニバル王子~♪
攻城戦しなかった理由が物資不足だったし
同意
ハンニバルの指揮力はすごいと思う。
が、本国から支援がもらえなかったということは、政治力はなかったのかもね。
そういう意味では、秀頼がハンニバル級だったとして、大坂の陣で撃退しても、
結局何もかわらなかった様に思う。
常に敵の意表をつく、大阪の陣であればどのような戦い方をするだろうか。
築城戦のみでは勝機はつかめない。石山寺を本陣とし、勢田川河口に陣を敷き
2千から3千程度の軽装機動部隊を伊賀、甲賀を経由して東軍背後に送りゲリラ戦
を挑み、補給部隊を襲撃する戦術取ると思う。東軍が大軍で討伐に来れば退却
引き上げれば再度襲撃、討伐隊が居座れば、他の場所で補給隊を襲う。東軍が
あせって総攻撃をかけてきた時点で決戦すると思う。
中大兄皇子くらいの値打ちがあればどこぞの城内で、~の改新があったかもしれん。
中大兄皇子は人望が無いから蘇我入鹿と蝦夷をぬっ○しても天皇になれなかったんじゃん
つ天智天皇
ヤって直ぐに就ける程皇位は甘くない。
ほとぼりが冷めるまで、お母さんに関白でもやらせとけば良い。
秀吉が関白になったんだから、女の関白も良かろう。
ハンニバルってカルタゴだっけ?
重装歩兵が騎兵に蹂躙されただけの話じゃなかったか?
それに、関ヶ原の時は秀頼って、本当に子供。
そんな子供に家康が謀反を起こした討てって命令されても兵隊は動けないだろ。
大阪の陣の頃じゃ、大勢は決し過ぎてたし。
息子も人望が無いから見方に裏切られて叔父さんに負けたじゃん
息子に能がないのはどうにもならんw
ていうか、徳のない秀吉さんの子供なんだから細かいことを気にしてどうする?
伏見だかでの対面とやらの折にでも
『秀次兄様の敵!』とでも脇差しでも突き刺せれば、後は福島かセイショコさん(あるいは秀康兄様あたり)が始末出来たかもだが
ハンニバルなら徳川軍を3~4回撃破し家康、秀忠及び主要な家臣を戦タヒさせてるだろう。
但し政治能力なさそうだから、自力での天下統一は無理で、浅野、蜂須賀、黒田あたりの
集団指導になりそう。
ハンニバルはローマに負けた後の借金をもの凄い勢いで返済した凄腕だったはず
それで完全復活したから逆に他の貴族に裏切られて国を追われていたような
ハンニバルに政治力がないwwwwww
クソ馬○すぎワロタwwwwwwwwwww
沼地に突き出た台地の要害に築かれた土の城だ。
大きさも500㎜×330㎜で卓上サイズで手ごろな感じ。
博物館仕様で作らせただけあって見事なできばえだ。
http://saikatsutramway.sakura.ne.jp/saikatsu_tramway/furumaki.html
バルカ!バルカ!
して瀬田に出撃。
豊臣恩顧の大名たちから続々と密書が届く。
近江、伊勢、播磨を転戦して、親徳川の勢力を撃破。
豊臣包囲のために播磨・因幡・備前・淡路を抑えていた池田は、輝政が急タヒ
して動揺していた上に、背後の毛利の動向が気になるため動けずにいたとこ
をろ、秀頼が得意とする奇襲戦法で撃破。
ここで毛利が旗幟を鮮明にしたことにより、西国大名たちが続々と秀頼に帰参。
西国は毛利たちに任せて、秀頼は東へ転戦し、完成直前の名古屋城を攻略。
そこで中部地方の大名たちが続々と帰参。
勢いを増しながら東海道を東へ攻め下る秀頼。
片や、上杉や伊達たちの動向が気になって動けずにいるとろい徳川。
もはや勝負は見えている。
てか秀頼がハンニバルじゃ大局的には上手くはいかんだろうが
戦争屋より自身の指針を立ててくれる戦略家や権謀術数立てられる謀略家が必要
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1280541171/
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