ワイが生まれてもいない時代だけど、昭和30年代の時代が気になる
特に都会の生活に興味があります。
単なる幻影だとは思うけど。
そんな人っていますか?ヘリコプターで広告をまいていた不思議な時代。
日本経済を混乱に陥れようとする、ヨミの恐ろしき陰謀・・!
子供心にゴミが増えるだけじゃん・・って、こういう突っ込みをするのは40年代以降のこまっしゃくれたガキであって、それに素直におびえたお子さまが沢山いたのが30年代でしょう。
そんなのいなかったぞ。
だっけか?テキトーです、すんまそ。
ま、とにかく都会も道が舗装されていなく、みんな土踏まずが発達していた、30年代ということでは、どお?
ところで、わたしゃ30年代は完全に幼児だったんですよ。
ふはー・・もう寝ます。2さんおやすみなさい。
都会の若夫婦の日常なんだけど。
ヘリコプターをはじめ、いちいちそそられます。
いわさきちひろの挿し絵もいいかんじです。
でも、この時代が転換期であって、その後日本の家族は崩壊していったのだなと思うと、複雑な気分にもなります。
家の母は母乳が出なかったんで僕は粉ミルク飲んでたらしいんですけど、大きくなって(s45~)からほ乳瓶派は人間が軽薄で冷たいとかとかよく言われました。たまたま森永じゃなかったらしいんですが・・なんとも人生の分かれ目としか言い様がありません。同じ学校にはいなかったですが、サリドマイドの人も同年配がピークだったと思います。s37です。
小さいのから大きいのまで面倒みてた。
其の後みんな塾に逝くようになっていなくなってしまった。
1さんは好みが良いと思います。
私の来し方を振り返ってみても、世の中全体に良い雰囲気だった。
関西にいましたが、神戸などハイカラの極みでした。
塀ってあんまりみたことないですね、やっぱ。
コンクリートの塀ならありますけど、サザエさんにでてくるようなのはないです。
どぶはありまして、よくはまってました。
ちなみに私は昭和51年生まれです。
>>17さん
関西での当時のお話をもっと聞きたいです。
しつこいですが、『私は2歳』のお話も関西の設定のようなので。
いいですね~
夜行列車って乗ったことなくて憧れます。
カーテンからそっと覗く見知らぬ駅、ムードがありますね。
森永?なんでしょうか?なんだか幻想的ですね。
名古屋にはコカコーラの丸いネオンがありますが…
新幹線が通る前の電車の旅はこういう夜行が多かったのですね。
松本清張の『点と線』を読んで、乗車時間の長さにびっくりしました。
今は飛行機でひとっとびと便利だけど、ちょっとさびしいものもありますね。
神戸に家族で「お出かけ」する時はきちんと革靴を履いて行きました。
家族というものに、迷いがなかった時代というべきか。
そんな気がふっとしてしまいますね。
いいときにこどもじだいを送らせえ貰ったかもしれませんね。
っておりました。
それで、関西と関東の間の行き来は経験した方かと思います。
東京へは寝台車、急行銀河で行きました。姫路を出るのが夜7時10分頃
だったと思います。車両の色はあずき色でした。確か電気機関車が引っ張
っていたと思います。
映画のオリエント急行○人事件では夜に出発を待つ列車のわくわくした気
分が伝わって来ますが、乗り込む時はまったくあの気分でしたよ。子供で
すから、すぐ寝入ってしまいます。夜中にふと目が覚めて、どこか駅に停
まっているらしいと知ると、窓の厚手のカーテンの隙間からそっと外を伺
います。静かな中に「沼津~。沼津~」などという声が外から聞こえて来
て、「ここは沼津っていうのか…」、という具合です。東京へは朝8時頃
着いたように思います。
地球儀のような形の水色の森永のネオンサインがあったのはどこだったかな。
今、川が江戸時代のように多ければ、素晴らしいと思います。
堀・川も減りましたね。
道の舗装具合だね。車が通れないくらい狭い道は、土が多かった。それと差別する気じゃないけど、あのころは極端に貧乏な家の子がクラスに
2人くらいはいた。(東京)
目を回す速度を出さないので,線路わきの距離標を数えながら「何キロ
のところまで来た」なんて数えながら旅行を楽しんでいました。
距離標というのは,高さ1メートルくらいの白い細い四角柱で,
例えば1/2という数字の下に23とか書いてあるものです。
1.5キロ毎に立っているから,1/2という数字のあるものと無いもの
が交互に現れます。
かも。サザエさんで、「カラーでお送り致します。」って、サザエさんが言ってた。
ちょっと記憶違い。父に確かめましたら、姫路から出発でなく、急行銀河は
神戸発だったそうです。「神戸駅」があったかどうか聞き忘れましたが。
それから、夕刻近くに出発するのは間違ってないが、東京着は朝7時より
は早かったそうです。
このURLにビラを配るヘリコプターのことが少し書いてありますね。
私は記憶にありませんが、父はそういうのがあったと申しております。
駅前のバス通りですら未舗装だった。
水溜りがあちこちにあって、そこにオイルが
浮かんで広がって、虹色に反射してた。
あれは、いつまであったんだろう?
日の出号は乗ったこともなく、知りませんでした。修学旅行専用列車ですね。
1959/04/20 東海道本線に,修学旅行専用列車「ひので」「きぼう」号運行開始
という事のようですが、終わりはよく知りません。昭和45年くらいでしょうか。
鉄道@2ch掲示板 http://piza.2ch.net/train/index2.html
で分かるかも知れませんよ。
http://flightinfo.ens.ne.jp/tmurakam/fsnote/980329.html
↑ここに絵があります。水色と思っていたけど、違ったかな。
えっ?17さんの言ってるネオンって銀座5丁目のヤツのことじゃないの?
確かに名古屋の大昭和ビルにも平成7年?くらいまでありましたけど、銀座
のが全然有名ですよ。服部(現和光)の時計台とともに銀座のシンボルとして
当時の雑誌、映画によく出てきました。篠田正浩監督「瀬戸内少年野球団青春
編 最後の楽園」(1987)にも夕闇の空に森永のネオンが輝き出すシーン
が印象的に使われていました。(但しセットによる再現)1953.4.11 銀座、不二越ビル屋上に東洋一の森永ミルクキャラメル、チョコ
レートの地球儀型大ネオンお目見え。(某年表より)
たしかに銀座のも有名です。しかし、名古屋の「大名古屋ビルヂング」という
駅前のビルの屋上には、今はコカコーラのに変わっていますが、昔は
森永ミルクキャラメルの地球儀型大ネオンがあったようです。
検索エンジンで大名古屋ビルヂングをキーワードにして調べてみてください。
そうすると、名古屋らしいと思うのです。
「私は2歳」は映画化され、その年(1962)のキネ旬ベスト1になって
たのをご存知でしたか?私もずいぶん前に名画座で見たきりですが、ビ
デオ化はされてるのかなぁ。↓にちょっとデータを入れときますので、
機会があったらご覧になるといいですよ。「私は2歳」
監督:市川崑
製作:永田秀雄 市川崑
原作:松田道雄
脚本:和田夏十
撮影:小林節雄
音楽:芥川也寸志
美術:千田隆
出演:鈴木博雄/山本富士子/船越英二/浦辺粂子/渡辺美佐子/岸田今日子
団地に住む若い夫婦に待望の男の子が生まれた。両親はもとよりお婆さん
までも大騒ぎ、といった日常を淡々と綴った作品だが、なによりユニークなの
は赤ちゃんの独白の形でナレーションが入ること。赤ん坊ははたして両親の愛
情をどう見ているのか、という視点が面白い。 松田道雄の育児評論の映画
化。2歳の赤ちゃんが主役という、映画史的にも珍しい作品ができあがった。
その赤ちゃんは3200人のなかから選ばれた鈴木博雄ちゃん。題材が意表を
突いたうえに、一種の社会批評の観点も兼ね備えていて、キネマ旬報ベストワンに
輝いた。ちなみに市川監督は同4位に「破戒」も入選するなど大活躍の’62年
だった。
その内,「○○ちゃん,ご飯よ」なんて,どちらかの母親が呼びに来るのだ。
今の子供は店に入って、店の人を呼ぶ時「すみませ~ん」って言うけど、
俺が子供の時は「ちょーだいな~」って言っていた。(東京)もっとも俺が子供の時はコンビニなんかもちろん無く、小売も大資本はデパート
ぐらいで、町のお店の形態は今と全然ちがうけどね。
みなさんの所では、なんて言っていたんですか?
ついでに別件。
閉館した池袋の映画館の文芸座、新文芸座として復活したね。なんか嬉しい。
はいはい!「ちょーだいな~」って、言ってましたね!微妙にメロディをつけて。
あと、友人宅に行って遊びに誘うときは、「あーそびーましょー」。私は昭和39年生まれなんですが、昭和30年代のものは妙になつかしいですね。自分
の世代のものでは無いのに。たぶん、小さい頃はまだまだ昭和30年代のものが残っ
ていて、でも物心つく頃には高度成長時代がはじまっていて、それらが次々作り変
えられて無くなっていく情景を目の当たりにしているからではないかと。昭和30年
代は、戦後日本の原体験的情景というか。
高度成長時代に作られたものって、安っぽくてセンスがなくって、正直スキじゃな
いです。
なんだか意外です。
あと、『私は2歳』が映画化されてたなんて全く知りませんでした。
ビデオ探してみたい…けど今はちょっと多忙で無理です。
夏頃に一段落したらビデオ屋にいってみることにしよう。
でもこのへんエ○ビデオ屋しかないのが悩み。オイルの話で思い出したのですが、昔実家に汲み取り式のトイレがあって、バキュームカーが来てたんですけど、その去ったあともやっぱり毒づいた虹色だったのを思い出しました。
お食事中の方ごめんなさい。
どうなのでしょう?
昭和30年代はデパートの屋上は子供にとってはお買い物から解放され
た後の待ちに待ったお楽しみの場所でした。
汽車に乗りたいだの、船に乗りたいだの。
とっても象徴的です。
ところで、今名古屋のケーブルテレビでやってるドラマにちょっとはまってます。
木曜夜中にやっている『風と木と詩と』という白黒のもので、昭和30~40年代だと思います。
木暮みちよさんとかが出てます。
風俗なども興味深いですが、ドラマ自体からただようほのぼのとした雰囲気にとてもいやされます。
お手伝いさんが主人公の青春もの、という設定からして新鮮です。
でも、来週から多忙になるので、もう見れないでしょう…。
種類もいくつかあるようで、人々の関心が高いのかな?
祝日には当然のように国旗を揚げていたし、そういう点は
のびのびしていたと思います。
ここを見て友達の家に遊びに行くとき「あ~そぼ」と玄関で呼んだのを思い出しました。
23区内に住んでいましたが、電話のある家が少なく、急用は電報で来ました。
父の職業がマスコミ関係だったので、帰りの遅い日は、ラジオのニュースを聞いて、
「あ、どこそこで、落盤事故だ」とか、のどかでした。確か、電話線が来ていなかったようです。
周囲は一面の田んぼで、春にはれんげ、前の水路でどじょうがとれました。
変わりだしたのは、東京オリンピックあたりからかな。
小学校2年生の頃練馬区に住んでいましたが、
北田中(現三原台)には大きな雑木林が有り
夏の朝早起きしてクワガタやカブトムシを捕りに
行ったものです。
キャベツ畑のキャベツには青虫がたかり
神社や近所の空き地で暗くなるまで三角ベースの
野球をしました。あ~懐かしい
でも、関越の工事の頃から急激に変わりましたね~
高度経済成長前夜?その頃が一番興味ある時代です。
ファッションも好きですね。
今のように服は買うものというよりつくるものだったと聞いています。
裁縫のできる人には憧れますが、私が当時の若者だったらさぞ苦労したでしょう。
でも既製服でないということは、流行の仕方も今とはちょっと違うのでしょうか?
流行の型紙が出回るということなのかな?
型紙を作っていたのを覚えております。型紙はデパートの包装紙を利用
していました。ブルーの色鉛筆のようなもの、形はホテルの石鹸を二ま
わり小さくしたもの、で包装紙の裏に型を取っていました。それから、
あれは何に使うのでしょうか、鉛筆くらいの長さの柄の先に、直径2cm
ほどの歯車がついた道具。やはりそれで作ろうとする服の曲線に合わせ
て線を引いていたと記憶しています。75cmの竹の物差しや下敷きにする
大きめの板もお馴染みの道具だったような気がします。足でミシンを動
かして服地を縫い合わせておりましたよ。自分の洋服もそうですが、子
供達の服も作っていました。私にも白い柔らかな布地の、ノラクロに似
たイヌの顔のワッペンのようなのが左胸に付いたのがありました。
日の出号って確か32年早生まれの代まであったような気がする。
文芸座の復活! 嬉しい! まだ旧会員証とってあるよ。
ついでにビデオ屋さんも復活してくれるといいのですが。>51さん 幼児体験、めっちゃご近所! 南田中(現・高野台)は
同じ学区域だった。まだ田圃も多くて、先生に「明日の理科の時間、アオムシの
観察するから持って来てくださーい」って言われると、「ハ~イ!」って。
キャベツ畑の青臭いにおい、好きだった。
マンガも勃興してきてるけど小説もまだまだ元気があった、
、、、この10年よりも恵まれているかもしれない。
出発一週間前から 友人と東京の話で盛り上がったよ。
イメージだけで夜遅くまで討論したもんだ。
当日電車に乗って出発するまでの時間はなぜか涙が出た。
その時の気持ちは未だに鮮明に覚えてるよ。
北関東や東北に向かう場合,必ず東京から上野まで国電を使いました。
その辺りの線路沿いの石造りの壁は今も昔のままですね。上野駅に到着す
るほんの少し前に西郷さんの像がちらと見えるのが楽しみでした。
東海道本線を使っていた頃,大船で巨大な観音様が見えるのも楽しみでした。
♪横須賀ゆきは乗替と 呼ばれておるゝ大船の
つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や尋ね見ん♪
ブルーの…石鹸を…ってチャコのことかなぁ?
それから歯車のついた…って、ピザのカッターみたいなのですか?
あれも布に色を着けず印を付けられるので、今もお裁縫箱に入ってる。
昔は、「装苑」みたいな本が今のファッション誌の代わりだったのでしょうね。
小学生時代、「定規は絶対に竹尺」って先生に言われた。
「金属製やプラスチック製は熱で狂う」という頑固な先生でした。子供の頃は、渋谷駅のホームからもハチ公が見えた気がする。
針指しの中身が人毛で、錆びないって言う理由。
週刊新潮(だったと思う)の表紙がオードリーヘップバーンみたいな外人モデルで、
オーダーメイドのような物を着ていた。
子どもの頃針山の中の入っているものが髪の毛と知って、なんだか無気味な気分になりました。
でもほんとうに髪の毛なんですか?
すごい剛毛だと思ったんで…。
うちのお祖母ちゃんもそうしてたし、由利透さんだって・・
私ですら、母に習って髪の毛入りの針山作りました!昔、セーターをほどいた毛糸を湯通しして
もう1回、編み直してたくれてたお母さん、っていらっしゃいますか?
昭和33年生まれです。
母親がセーターほどいて、ラーメンみたいになってる毛糸を湯通しして、
干して編み直してました。
毛糸を巻くのに両手にかけて手伝わされたのがちょっとイヤだった。
編み機があって、ガッガッガッって感じで編んでました。
ここにくると今は失われたいいものがいっぱいあって、
ノスタルジックでイイ!!!
私の育った街には進駐軍がいましたから、中心街は、○伐としていました。
物がなく、つつましい生活でした。中学のクラスが62名もいた。
昼に弁当を持ってない子がいた。修学旅行の写真を、見ると写ってない子がいる。
参加できない子がいたんです。女子で大学進学した子はゼロ。小学校の同級せい、32名で二人。
先生も軍隊帰りがいて、よく殴っていた。廊下を走っていただけで、全員張り飛ばすのだ。
いい先生も多かったけど。
男女交際も、今より情報不足だから、かわいいものだった。先輩の口伝しかなかった。
後年、聞いてみると、進んでたやつは、しっかり女性に関する知識をもち、実行してたらしい。
私は初デートでは、暗い町をウロウロあるいただけ。その後興奮さめやらず、二晩ねむれなかった。
関西の閑静な住宅街(の近く)に住んでいましたが、
近所の空き地には何故か牛がいました。(誰かが飼っていた?)
夏には水槽をリヤカーいっぱいに積んだ「金魚売り」のおっさん、
夕刻には「ぱふー」と自転車(バイクではない)に乗ったおとうふやさんも来ました。
テレビで4、5回みました。
団地が懐かしいの。
東京23区内で、生れ育ちました。
昭和30年~昭和32年位までは、主要道路以外は舗装していないところが多く、
路地で、道路にロー石で、画を書いたり、ケンケンをしたりしました。
欧米、特に、100%舗装路のイギリスの例が良く出され、瞬く間に舗装化が
進みました。昭和33年から昭和35年位までには大抵の道路が舗装化されて
しまいました。
また、原っぱも、あちこちにあり、おそくまで、三角ベース野球、鬼ごっこを
したり、素朴な遊びが多かったですね。
原っぱに、紙芝居屋がやってくると大騒ぎ、紙芝居屋から、水飴などを買って、
ワイワイガヤガヤ見ていました。私は、腸がよわく、駄菓子を買って食べて、高熱・下痢(疫痢)になり、
タヒにかけたので、駄菓子を一切買うのを禁止されていました。そのため、大抵、タダ見はだめだよ!と、紙芝居屋に言われるのですが、
馴染みの紙芝居屋は事情をだれかからきいたのか、何も言わず見せてくれました。
昭和32年に、我が家にも、14インチの白黒TVがやってきました。月光仮面をどきどきしながら、みました。
番組は、アメリカからの輸入物が多く、漫画の「ヘッケルとジャッケル」、ホームドラマ「パパは何でも知っている」(長女ベティ! 長男バド!、
末っ子キャシー!)等を好んでみていました。
買った当初は、ご近所の家族や、私や姉の友人達(多いときには10数人)が
やってきて、一緒になってみていました。時には、飛び入りの人達と晩御飯も一緒になり、母はてんてこ舞いしていました。
公園の街頭TVに毎晩、大勢の人が集まる時代でした。
そのうち、国産ドラマも沢山始まり、NHKの「バス通り裏」、バラエティー
「お笑い3人組」「ジェスチャー」「私の秘密」、「夢で会いましょう」その他「少年ジェット」「まぼろし探偵」「七色仮面」「ナショナルキッド」
「海底人8823」等、月刊漫画のい主人公が続々ドラマ化されました。
漫画は、昭和34年まで、月刊誌しかなく、「少年画報」、「ぼくら」、「少年」
「少年クラブ」等を愛読していました。
雑誌の付録が、すさまじく、紙戦車、紙ロケット、紙ミサイルなど、
初期は7大付録等であったのが、昭和33年頃には各誌21~27大付録と
競い合っていました。
これらの月刊誌も、昭和34年に「少年サンデー」「少年マガジン」が
創刊されると、消えていきました。
私も、両週刊誌の創刊号を買った後、月刊雑誌の定期購読をやめ、
両週刊誌を交互に定期購読するようになりました。
60年安保で世の中は騒然としていましたが、子供は、のびのびと
遊んでいました。
1960年(昭和35年)は、大変な好況(岩戸景気?名前忘れました)で、
「黄金の年」と言われていました。
大晦日の紅白歌合戦か、レコード大賞のような年末特別番組で、
アナウンサーが「黄金の年、1960年よ! さようなら!」と
叫んでいたのを今も覚えています。
東京でも、近隣のものが寄り添って暮らす、ほのぼのとした時代でした。
テレビには脚がありました。チャンネルはガチャガチャ回していました。
冷蔵庫にはカギが、洗濯機には手回しの絞り機がついていました。
お米の通帳ってのがあって決まったお米屋さんに配達してもらいました。
ソフトクリームは不衛生だからと食べさせてもらえませんでした。
三ツ矢サイダーはありましたがコカ・コーラはありませんでした。
トイレでは「ちりがみ」を使っていました。新聞紙も時々。
服が破れたら継ぎ当てをしていました。
ビールやジュースは、冷えているのといないのとでは値段がちがいました。
コンクリート製でふたのついたゴミ箱にごみを出してました。
電話を持っていないひとは「呼び出し」のお世話になっていました。
街灯はスイッチがついていて、点灯する当番がいました。
シェパードやブルドックはいましたが、ハスキーはいませんでした。
もうとっくに倉庫入りしたと思ってたので。
興味深いお話がいっぱい書き込まれていますね。
タイムスリップしたいです。
ちなみに上の方で映画『私は2歳』のお話をされた方へ
少し前に衛星か何かでやってたんですよね。
うちは衛星みれないもんで、いつかはビデオ屋で探してぜひみたいです。ところで、最近皇室慶事のニュースでこのころの映像がよく流れましたね。
私は普段は皇室ニュースに興味はないのですが、『皇太子妃美智子様』が出るとつい見てしまいます。
今見てもとても魅力的です。
ファッションも当時の流行最先端らしいですし。
布をたっぷり使ったスカート(ドレス?)とか、これまたボリュームたっぷりなまとめ髪とか(どういう構造なのかよくわからないのですが)。
現代の目からは新鮮にうつるものです。
それともこのころの風俗が普遍的なのかな?
いろんなお話していたな。紙芝居が終わるとみんなそれぞれの家に帰り
夕御飯を食べて、、、小学校の頃は毎日近所の子供と遊んでいた。塾なんて
そろばんくらいのものだった。
家庭教師は週3回くるわ。習いたくもないピアノやらされたし。
バレエはさすがに拒否したけど・・・忙しい毎日でした。
駄菓子屋は行かせてもらえなかったし・・・汚いから・・・
そのかわり、高校、大学とめいっぱい遊びましたけど。
“お稽古事”や“衛生”面での各家庭の違いが大きくなった時代でもあったのかな、とも思います。
それまでの封建的な家庭像から、新しい家庭像の在り方を模索しだした時代で、
それが例えばお稽古をさせるか、何を食べさせるかなどの教育方針の大きな転換期となったかと。
当時を経験していないほのぼの幻想派なんで、ほんと、想像にすぎんのですが。
そこは城南の大田区と同じように町工場が数えきれないほどある町で、
町のブロックごとで変化する機械油や印刷インキ、ゴムのニオイ、
鋳物の焼けた金属臭などのおかげで、たとえ目や耳を塞いでいても
自分がドコにいるのか分かるようなトコロでしたネ。
また、騒音も相当なものでプレスの音、バフがけの音、旋盤の音などの
機械音に混じってオート三輪や発動自転車(自転車にエンジンを付けたモノ)の
吐き出す音や工場のサイレン、工員さんたちの木のサンダルの音などが
いつも元気良く響きわたっていました。
ですから年二回のお盆とお正月というふたつの期間は、逆に無音感が妙に
際立ち過ぎて子供ながら町に不思議な寂しさを感じていました。
30年代は、戦争直後の混乱がおさまってから5~6年は経っていましたが
まだ様々な部分では戦前、戦中、戦後の「事情」が色濃く残っていましたので
とにかく「語る」には面白い素材ですネ。
これから少しづつみなさんのお話の流れにそってお話をさせていただこうと
思いますので、よろしくお願いします。
小説を書いてみたらどうですか。
思い出の記憶の扉をたくさんお持ちのようですね。
靴下もセーターもスボンも「ツギ」があたっていて普通。
だけど、今みたいに息苦しい雰囲気は無くて「あっけらかん」としていた。国電の中の傷痍軍人が妙に恐ろしかった。
By昭和30年生まれ。
サリドマイドのエンゼルベビーは小学生の頃かな?
大阪の長居スタジアムの側に住んでました。
あそこ、当時は競馬場でした。東京五輪に合わせて公園にして競技場を作ってた。
地下鉄の駅のところの道路は舗装もしてなくて、雨が降るとひどいぬかるみでした。
車なんてほとんど通らなかった。
雨が少ないので、ため池と真っ黒な風車があちこちにあった。
友達を遊びに誘う時は「あ~そ~び~ま~しょ」
学校などへ行く時は「い~き~ま~しょ」と言って誘い、
お店に入る時は「おばちゃ~ん」か「ちょうだ~い」
そう言えば幼稚園で駆け足する時はワケも分からず
みんなで「アンポ、ハンタイ」と言いながら走ってました。
TVが我が家に来たのは昭和33年。
皇太子御成婚を見る為かと思ってたら、「私は貝になりたい」の
再放送に合わせて買ったと、後に親が言ってました。
幼稚園の時にストーブを買う迄の暖房は火鉢! 冬は厚い下着を来てましたね。
流行は主に洋画がお手本だったのかなぁ?
洋服は母親の手作りの他、従姉妹や姉のおさがりとか着てました。
時々停電とか断水とかあったのが、まだ戦後って感じ?
あ、庭でスピッツを飼ってた!
小学校の時に近くの商店街にアーケイドがつきました。
6の日の縁日が雨でつぶれないので、嬉しかった。
子供の日は銭湯が菖蒲湯になったり、1月2日は朝風呂になったり、
お祭りの時は券をもらって入りに行きました。
小学校には二宮金次郎の石像があり、
教室の廊下側には木枠のガラス窓があった。
ヘリコプターからのビラ、なんとなく覚えてます。
のですが・・・。
30年生まれです
ワラジではなく、足袋だったよ。
四角いアイスクリーム覚えてる?ヘラのような棒に「ヒット」「ホームラン」とか書いてあった。
お菓子屋のおばちゃんの顔を思い出してしまったゼヨ。
運動たびはアッという間に破れたような想い出がある。
大阪の南の方で育ちました。>>87
私も四角いアイスクリームは覚えてます。
あの頃は,アイスクリームにも当たりつきってのが良くありました。
おかげで、今でもアイスクリームの棒を確かめる癖が残ってます。
「お小遣い」って皆さんいくらくらい貰ってました?
私は1日10円でした。
当時は10円で、たこ焼きが4個買えました。(今じゃ200円くらいいるかな?)
駄菓子屋には「バクダン」ってよばれていたアイスキャンディーが売ってました。
1個10円。 このバクダンだけは、他のアイスクリームやアイスキャンディー
なんかとは別の容器で売っていた。
私はこれの「黒糖」味が好きでした。(食べると舌がその色に染まりました。)
覚えています。
真夏、中学の部活の後にコーチが必ず買ってきて
みんなで食べたのを思い出しました!なつかし!!
山のようにあることに驚いています。子供時代のおもちゃや漫画雑誌の話・・
暗くなるまで原っぱで遊んだ想い出・・
文芸座・文芸地下は学生時代、私もよく行きました。
しばらく書き込みがなかったようですが
また復活したいですうう
現金が無く、翌日まで待たされたと聞きました。
セスナ機が煙をポッポッと吐きながら空に宣伝文を描いていたのを思い出します。
両親の田舎(新潟)では、なぜかみんなキセルでタバコ(刻み)を吸っていました。
私も記念切手の発売日に、郵便局の前で並んだ記憶があります。
枠に大蔵省の文字が印刷された部分は価値が高いとか・・
私も東京(郊外)で育ちましたが、近所には空き地や芝生の畑が
散在し、有刺鉄線をくぐり抜けては、三角ベールボールなど、色々な
遊びに興じました。地主のお百姓さんに怒鳴られ、一目散に逃げるの
も愉しかった。
もはや勝手に遊ばせてくれる空き地や芝生など、東京にはどこにもあ
りませんよね。スポーツを楽しむのも、部活やクラブで大人に管理さ
れるしか方法がなさそう。
言い尽くされたことだけど、昔の子供は子供らしかったです。
(長くてゴメソ)
ところが最近多いんです、アドバルーン。
マンションやビルが多くて近くに行かないと見えないのに
なんででしょう。有刺鉄線で服を破いたり、怪我したり、よくやりました。
傷痍軍人。すっかり記憶の中から消えつつありました。
手足がない人がゴザにすわり、もう一人がハーモニカを
吹いているのを思い出しました。街角にかなり多く居ました。
戦争が終わって20年も経っていたのに。軍服を着て前に空き缶を置いて
後ろには立て看板のようなものに、何か書いてありました。
小さかった私は親に聞いた覚えがあります。
昭和36年うまれです。傷痍軍人、普段街中で見かける事はなかったけど、
お祭りや縁日の時とかには、時々見かけました。
両肘から先を切断の傷痍軍人が、ござをしいて、四つんばいになって
泣いていたのが印象に残ってます。アコーデオン伴奏とセットでした。
今思えば、演技でしょうけどね。なんだか恐ろしくて正視できなかったのを
覚えてます。
すぐ隣では、お面とか風鈴とか売ってたりしてね。
母親がやってた内職、お土産用の小さな飾りものだったけど一つ仕上げて10銭だった。
かまどでご飯炊いてたし、七輪使ってたし、テレビずーっとなかったし。
まわりの大人はお金がなくてがつがつしてて、こすっからかった。
ガキ大将みたいのもいたけど、ずいぶん陰惨ないじめっこだった。
校庭に捨てられた子猫なんか、必ずいじめ○されてたしなあ。
暗い思い出ばっかりで申し訳ないんだけど、今の日本の方がずっとましなような気がする。
実家では子供の頃、月遅れのお盆をしていた、確か旧盆などと言っていた記憶がある。大人になってもしていたが実家を出てマンション暮らしを始めてからは全くご無沙汰で、はっきり覚えていない。親が細々と慣習を続けていたのだろう。今でもしているのだろうか。昨日、道を歩いていると送り火を終えた盆飾りが門の近くに置いてある家の前を通った。不思議なことに、その盆飾りには馬に見立てたキュウリの飾り物がなかった。一頭?ポツンとナスで作った牛だけがいた。
キュウリの馬は、もう既に腐敗してしまって姿形が無くなってしまったのだろうか?それにしては、残骸らしき物も無かった。
この送り火を終えた盆飾りを見つけてから、他にもあるか意識して門の近くを見て歩いたが、他に一軒しか見かけなかった。お盆の習慣も昔、田舎だった都会からも無くなってしまうのだろうな。
開発されたばかりの新興住宅地に住んでいたので、林や原っぱがまだまだ残っていた。
道路はアスファルトじゃなかったので風のひどい日は、土埃で空気が赤茶色だった。
雨上がりの水溜りにそろりそろりと入るのが楽しかったなあ。新興住宅地は核家族ばかりだったせいか、お盆は皆さん郷里に帰っちゃうんだよね。
だから送り火とか迎え火は大人になるまで見たことがなかった。気づかなかったのか?
ある夏家族旅行の帰りに厚木という所を通った。山沿い地域で田んぼなんかも
あっちの方に広がっている。どこの家の前にも四角い箱の中になにか綺麗なものが入っている。
母に電話で報告。
「何かお祭りでもあったらしくて、どこの家でもこういう形状の綺麗なものを入れて
家の前に飾っていた。あの地域限定で売ってるんだろうね。」
「なに馬○なこと言ってんのよ。それ送り火よ。」
「よく知ってるね。私見たこと無いのにお母さんはあるの?」
「実家でやってた。そういえばうちは迎え火の翌日にお婆ちゃんちに行って、
送り火をやる前に帰って来ちゃったから、あんた達は見たこと無かったっけ。」
いまだに迎え火、送り火の残骸である綺麗な箱しか見たことありません。
たまごアイスって覚えていませんか?
ホームランバーと並んで人気がありました。
爆発させたことありますよ。傷痍軍人・・・小学校のとき七夕祭りのとき夜店に混じって
軍歌をアコーディオンで弾いていた・・・
子どもごころにとても恐~怖でそこだけ避けて通りました
デパートのお好み食堂で楽しみにしていたチョコレートパフェも
微かに聞こえるアコーディオンのおとで不味くなりました
家に帰って母に話をした・・・
「あの人たちはちゃんとお国から年金をもらってるの!
子供からお金を巻き上げるようなことして!」
と、すごく腹を立てた
なんとなく淋しくて悲しかった・・・
私の家では日の丸の国旗さえ有りません。実家には確かあるはずです子供の頃、国民の祝日には掲げていました。でも今では箪笥か物置の奥にあり日の目を見ることはありません。
国民の祝日に国旗を掲げる習慣は無くなり、「旗日」と言うことばはタヒ語になってしまったのでしょうか?
カバーが掛かってた。「あったりまえだのクラッカー」を食べながら、
ケネディー暗○の場面を何度も見た。
東京オリンピックの入場行進をオープンリールのテープに録音する父。
足踏みのシンガーミシンで娘達のよそ行きを縫う母。
夏には家中の畳をあげて、バルサン焚いた。閉め切っているはずなの
に窓や玄関の隙間から白い煙がもうもうと出てた。
友達んちへ行くと、半紙にくるんだおやつをもらった。
近所に真正「ざーます」言葉を話す眼鏡おばちゃんがいた。
あんなスネオ母のまんまな人、今はいないよね。
当時の車わ90%以上トラックでした、戦後10年たっていましたが
まだ戦時型のトラックもけっこうのこっていました
(戦後走っていた木炭車などわさすがに見られませんでした
タクシーはちいちゃいルノー国産はサイドバルブ860ccのダットサン
大型はシボレー フオードぐらいでした
都電がありました。
銭湯にも行った事あります。
ドライブにはよく連れて行ってもらいました。
家族旅行も必ず行って、写真をいっぱい撮りましたね。
はじめの頃は白黒でカラー写真に変わりました。
母は行事やお正月など着物をよく着ていました。
着物姿の母は綺麗で似合っていて、好きでした。
その後ドンドン母も洋服派になってしまい、スーツ姿もいいけれど、
やっぱり着物は格調高くて好きでした。
今年は私も着物を着る機会を増やそうと思っています。
それだとほとんど40年代の思い出ではないかしら?
「昭和30年代」がブームになりつつあると言ってたような…
そう言えば、復刻版のお菓子のパッケージや
畳にちゃぶ台、家具調テレビが新鮮に思えてきたよ。
というのは今考えると羨ましいです。
私は祖母に育てられたんですが、父兄会とか入学式とか
ちょっと気張った格好しなきゃならないときはいつも着物でした。
今は自分で着られないのが残念です。
あれ以来興味を持っていたが・・・って、よく考えたらうちの母三十年生まれじゃん!!
勇気凛々瑠璃の色
LFの人気番組といえば昔はこれだったそうですね。
今のオールナイ(中略)は、正直つまんない。
なって切ない気分になる。
暖かい気分なんだがもうないんだ、みたいな。
小学校低学年の冬の暖房は、石炭を使ってました。
用務員室に行くと、バケツのような石炭用の容器があり、
毎朝、当番になった者が取りに行くのです。
ストーブに石炭とマキと新聞紙を入れ、
マッチで火をつけるんですが、
火をつけたときに出る煙がすごかったのを覚えてます。
たきつけの木材が湿っていると煙がすごかった。
煙がすご過ぎて1時間目が半分くらい潰れた楽しい思い出もあります。
廊下は、板を並べた油ぶきのものでした。
廊下を歩くと、ギシギシと音がして
賑やかな足音をさせながら歩いてました。
一応朝毎読と日経が揃ってる。昭和33年以降全部。
で早速読んでみた。新聞の縮刷版見てみると隔世の感。特に社会面。
ドロボウさんは顔写真入り。「容疑者」呼称なし。
交通事故のニュースが結構多い。それも惨い現場写真付き。
「坊やダンプにひかれ即タヒ」「正面衝突四人タヒぬ」がゴロゴロ。
新聞広告はやたらとクスリ関係が目立つ。ビタミン剤やら胃薬やら
頭痛薬やら、挙句の果ては睡眠薬。しかも「健保適用」とある。
ラテ欄見ても浦島太郎状態。まだテレ東がない。
それに何といっても新聞のページ自体が薄い。夕刊なんて4ページ。
読めば読むほど余計に気になる時代だ。
その頃は乗用車も作ってた。・・・・・・と言っても信じてくれないかなぁ。
昭和29年生まれだけど・・・
いすゞはつい最近まで乗用車作っていたように思うが・・。
名車117クーペの流れをくむピアッツアとかジェミニとか
ビークロスは乗用というかSUVか?>139
2歳年上なんですね・・。銭湯といえば「ケロリン」でしょう。
あれこそ、昭和の銭湯にはなくてはならないものです。
行きたいけどまだ混みそうだな。
新聞によると(地方紙)昨日は8000人(@_@)
駐車場で待つ時間がもったいないから落ち着いてから
いってみます
30年代は東京ではウチ風呂を持ってる家は余り多くありませんでしたね。
私の知る限りでは持ち家一戸建てでもその半数以上はウチ風呂を
持ってなかったように思います。(もちろん、ウチにもありませんでした)
そんなわけで風呂は銭湯に行くのですが、私は男ですが小学校の3年頃までは
女湯に入ってました。(私だけではなく殆どがそうでした)
当然のように同級生の女子と銭湯で一緒になるのですが、お互いに
何の違和感も持たずに裸の付き合いをしてましたね。
今考えるとなん化奇妙な気がしますが・・・・。
嫁ぐ女性は夫ではなくそれらの人に処女を奪われたそうだ。
そして、実際に昭和30年代まではその風習が残っていたという。
白黒の画像の中に、色をみていたよネ。
私は、ひょうたん島の前の「チロリン村とくるみの木」を見ていたよ。
公園には、紙芝居のおっさんが来ていたな、「ケンちゃんの大冒険」とか言って。
さすがに、「黄金バット」は記憶にないな。
紙芝居の帰りに、シーソーで遊び。アゴを打って、血だらけになって泣いて帰った
ことを、覚えている。保育園に行っていたと思う。
親がSP盤のレコードを聴いていた。ビッグバンドとかラテンとか。
落とすと簡単に割れて、うっかり割ってしまったことがあった。
うちはわりと早い時期にテレビがあって、近所の人たちがよく見に来ていた。
東京オリンピックの入場行進は、学校のテレビで見た記憶がある。
o(〃^▽^〃)oあははっ♪人間ドックで、インシュリンの抵抗性が疑われますって言われた。
血糖値も尿酸値も高いし、中性脂肪も…。(ノ_-;)ハア…
昭和34年以降に生まれた日本人で構成される社会になったとき
寿命は41歳になるって、そういう本があったのを思い出した。
なんか知らんが懐かしくて泣けてくる。
アナログ感がな。
然し昭和30年代って、前半と後半は全然違うんですよね?まあ私の
体験した80年代も前半と後半は全然違う時代でしたが・・・。
及ばないだろうな。
おじいちゃんちに久しぶりに来たら全然変わってなかった。みたいな場所だなあ。
サングラスかけて、、、お、それから近所のうどん屋のようなお菓子やのような店へ「おばちゃん
ちょーだい!」、、、。ロバのパン屋さん。ロバが象のように見えて結局1回もよう買わんかった。
焼き芋屋にワラビ餅の屋台、2円の紅ショウガの天ぷら、紙芝居の鉄人とフランケンシュタインとの闘い
最後の「おたのしみ」当たると耳のついたソースせんべい。
そのころの親は子供に構えないほど仕事熱心だったんでしょうか?
ちなみにうちの親もあまり私にあーだこーだ言いません。
植木等のアイデアル洋傘骨とか・・・。
4~5年前の書き込みがメインですがとても感動しました。私の昔の思い出は、30年代は微かにある程度です。
40年代前半ならたくさんの思い出があります。
40年当時はTVは白黒で一家に一台だけ、電話の普及率は3割程度だったかな。
自動車のある家も少なかった。
近所の上下3歳位の仲間と、外で缶蹴り・コマなんかで遊ぶことが多かった。
紙芝居やさんにも僅かながらお目にかかることができました。
なにもかも懐かしい時代です。
みなさんの書き込みを読むうちに浮かんできたかすかな記憶を少し。
幼少期の私たちには吉祥寺が「都会」でした。今のようにデパートや素敵な店が並んでいたわけではありませんでしたが、春夏秋冬に一度くらい、近所の家族とゾロゾロ連れ立ってよそ行きの格好で遊びにいきました。
南口の井の頭公園に動物園と植物園がありました。ガラス張りの巨大な温室のなかの小さな喫茶室で、アイスクリームを食べるのがまず定番の楽しみでした。
帰りには北口のマーケットをあちこち回りました。親たちは食材を山のように買っていました。安かったのでしょうか?
八百屋のオジサンのしゃがれ声を息が切れるまで真似してふらふらになり、笑われた記憶もあります。
たまには、ブリキ製のゼンマイ仕掛けのおもちゃや洋服を買ってもらったりしましたが、何も買ってもらえなくても、吉祥寺に行くだけでみんなゴキゲンでした。子供たちは揃ってスキップしながら、
♪幸せなら手をたたこう!
なんて歌を合唱しながら、はしゃいでました。
どなたかのコメントにありましたが、いい時代に幼少期を過ごせたなあと思います。
…もうずいぶん昔の、まさに幻影のような記憶です。
に飛び出してたの覚えてる。
今では列車の窓が開かないから考えられないけど
昭和35年生まれです。 懐かしい。 4歳(39年)の時、父親の
転勤で、福岡に引越すことになったが、大阪から乗ったブルートレイン
は、途中から蒸気機関車が引っ張っていたなー。 目が覚めたら、窓の
外には瀬戸内海がキラキラと輝いて美しかった。
PCしない人。
まだ大阪が東京のGDPを上回ってた頃だ
いい時代だったなぁ俺まだ生まれてなかったけど
夕方豆腐屋さん来て、揚げはんぺん買う。紙芝居お菓子買えない子は最後列。
お母さんと手回し脱水機手伝い。
第一勧銀行の壁ぎわでヒヨコ、大ヤドカリの香具師。
下校時校門横で物売り「お金持っておいで」先生に追い払われる。
バスに車掌さん。子供料金1のケタが5円。
のんびりしてた。遠くが見渡せた。良い時代でした。
トイレが水洗式でない、ドブ川がコンクリートで蓋をされてなかったので夏場は蚊と蝿が大繁殖。
食生活は質素な和食がふつう。洋食が一般家庭に普及するのは30年代後期以降。
都市部でも水道が引かれてない地域が残存し、井戸があちこちにあった。
風呂のある家は少なく、大抵の人は銭湯に行ってた。
シャンプーはまだ粉末の「髪洗い粉」。
どういうわけか懐かしさを覚えるんだな。
家の明かりが電球色で、蚊取り線香が香ってたなぁ。
_,,,
_/::o・ァ
∈ミ;;;ノ,ノ
(´・ω・`)
自分は小学生だった昭和40年頃に、都会の借家から郊外の建て売りに引っ越したので、
昭和30年代と40年代の違いの方が、大きく感じるけどね。たった5年差だけど。
オイルショックの昭和40年代後半だとすでに、今現在と連続してて違和感もないような気がする。昭和30年代の東京は、まさに「3丁目の夕日」や「おそ松くん」の世界。夢まぼろしのようだね。
今頃の季節は「蚊帳」だった。クーラーは勿論なかったけど、網戸というものもなかったんだな。
たまにジーパン姿を見かけると、あとで主婦たちが「不良。愚連隊。」と陰口を言っていたっけ。
30年代は幼児だったのでほとんど記憶はありませんが、
写真をみると、道路は舗装されてなく、台所には大きな電気釜があった。ガス炊きだったみたいです。
2才の誕生日にはケーキなんぞも並んでた。
記憶のある時代(小学生)からは服は母親の手作りだった。
毎年夏と冬に新しいよそいきを作ってくれた。
トイレにはハエ捕りリボンがぶら下がってて、丸い芳香剤が
網にはいってぶらさげてありました。もちろんドッポントイレ。
冬になると、豆炭を七輪で熾して、こたつにいれるのが
私の役目でした。
カルピスはお中元でくる以外は母親が自作してたきがします。
あとはプラッシーとか飲んでましたね。
今思うと、季節の節目節目やイベントがはっきりしてましたね。
大晦日だけは遅くまで起きててよく、夜中にお参りにいって
朝風呂にはいって寝るのが大人になった気分だったっけ。
春にはたんぼで満開のレンゲを摘み、白いレンゲが貴重だった。
おたまじゃくしも、うじゃうじゃいたっけ。
夏は朝からラジオ体操にいって家族旅行(海)が楽しみだった。
縁側で夜寝ころんで、遠くにきこえる盆踊りの音を聞きながら
蚊取り線香の匂いの中でツイスターゲームとかしてた。
土曜はドリフ、キイハンターが楽しみだった。
トリスとペンタックスのCMも好きだった。
ともかくいつも家族が一緒にいて当たり前だった時代ですね。
>カルピスはお中元でくる以外は母親が自作してたきがします。「母親が自作してた」とは、母親がカルピスを水で割る事ですよね。
まさか、「母親が一から手作りした、カルピスに似たようなもの」、という意味じゃないでしょうね。
ならば、「カルピスはお中元でくる以外は」、の意味が分かりません。
濃縮液じゃないカルピス製品は、長い間カルピスソーダだけで、
カルピスソーダの新発売は、昭和40年代も終わり頃の事だったはずです。
それ以前には、そのまま飲める缶入りや瓶入りのカルピス製品は、無かったはずですが。
>台所には大きな電気釜があった。ガス炊きだったみたいです。えーと・・・
深夜のラジオから流れてくる1950年代後半~1960年代の歌謡曲(特に女性歌手)が気になる
異様なほどビフラート効かせていて気持ち悪いんだけど、それが逆に頭から離れなくなってしまうから怖い
一体あれはなんなんだろうか?
歌手名か曲名か、それも無理なら出だしの歌詞ぐらいは、幾つか例を挙げてくれない事にはねえ。
昭和30年から昭和44年までじゃ、15年間ぐらいはあり、
うるさいだけで個性が無く画一的な、(のように自分には感じる)、平成時代とは違って、
5年毎ぐらいの時代区分によって、歌謡界のスターもヒット曲の傾向も時代の特色も様々だしね。
それは昭和30年代以降じゃなくて、昭和20年代以前の事。
実際、70年、80年代にはそれを体感できたし、楽しく過ごしてた
夏もこんなに馬○暑く無かったし、ただ、トイレ事情だけは今の方が断然素晴らしいけど
ほのぼのと感じるのは今だからかもしれないよ。
現実は現在以上の格差社会だった。
給食費が払えない、
学級費が払えない、
遠足も金が無くて参加できない、
こんなだから教師にも嫌われ、差別される、
なんて奴も少なからずいた。ま、私のことだけどね。
懐かしく思い出すのと同時に恥ずかしく哀しくもある。
それが私にとっての30年代。
親の職業差別とか、障碍者とか。でも、モンスターペアレンツはいなかったかなあ、子供同士、けんかしても言いつけたりもしなかったし、
子供の世界で解決してた。だから子育てしてみて、「お宅のお子さんがー!」とか、くだらないことで
電話してくる親がいて、驚いたよ、もう。」
食えないからって生活保護は受けない。
そんな親父の自尊心の為にいつもひもじかった。
でも、それで良かったと今は思える。
石油コンロ。
都内でも各家庭に七輪があって秋刀魚は玄関先で焼いたな。
周囲を見回すと屋根、縁の下、電柱の陰に秋刀魚を狙う猫達が…w
60~70年代前半に活躍し、今年度の「第15回上
方演芸の殿堂入り」に選ばれた兄弟漫才の若井はんじ・
けんじさん(いずれも故人)の人気のきっかけになった
放送台本が2日から、大阪市中央区難波千日前のワッハ
上方(大阪府立上方演芸資料館)特別展で初公開され
る。台本のタイトルは「頭の先からピーコピコ」で、
数々のヒット曲の作詞を手がけたタレントの永六輔さん
(78)の作。
はんじ・けんじさんは、「ピーコピコ」や「ごめーん
ね」のギャグで売れた。66年に第1回上方漫才大賞新
人賞を受賞、将来を期待されたが、はんじさんは76
年、42歳で急逝。けんじさんも87年に52歳の若さで亡くなった。
台本は先月、はんじさんの遺族が、殿堂入りを機に遺品を整理する中で見つけ
た。64年12月にNHK大阪放送局がラジオ第一で全国放送した際に使われた
と見られる。B5判、30ページで、表紙には「はんじ」と手書きされている。
ワッハ上方の古川綾子学芸員は「若き日の永さんとはんじ・けんじさんが互い
を信頼しあってできた作品だと思います」と話している。特別展は5月29日ま
まで。水曜休館。【油井雅和】
しかも永六輔の台本って。
佐藤が辞めたあと、国民投票で後任を決めると思っていたら
小学生には理解できんゴニョゴニョで田中が就任した。
色々問題もあるらしいが、首相は公選制にしてほしい。
いちごは木箱に入れて売ってた。
電柱も木でタールを塗ってた。
八百屋がオート三輪で売りに来た。
近所の工場の前に乞食がむしろ敷いてすわってた。
よく押し売りがやってきてゴム紐を買わせてた。
頭おかしいおじさんが年中腹巻してて、その中にゴミ屑を詰め込んでうろうろしていた。
郊外に行くとあぜ道に赤ん坊寝かせて農作業してた。
近所で熊を檻に入れて飼ってた。
適当な時代だった。
昭和20年代までは社会がのんびりしていたけど、昭和30年頃から社会のペースが早くなって、
慌しい殺伐とした時代になったといっていた。
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/nendai/991496180/
ディスカッション
コメント一覧
ちょんまげの人がちらほらおったからね
うっすら覚えとる
刀はさすがに差してなかった