古来から伝わる人柱について真面目に教えてほしい
僕の近所の溜池には人柱の伝説があって、 犠牲になった乙女をマツっている神社まであります。
これってほんとなんでしょうか?
人柱なんてほんとにあったのか疑問です。
溜池にはそういったなんらかの伝説がくっついてる場合が よくあると聞いたこともありますが。
誰か人柱について詳しい人教えてください。
人柱の伝説、習俗は世界中にあるそうです。
ボルネオのミラナウ族は柱穴を堀り奴隷娘を落として○しました。
朝鮮では1528年に成同という人物の隣家の子供達が突然失踪しました。
実はこの成同という人物が家を建てるときに埋めていた事が発覚しました。
ソロモン諸島ブーゲンビル島のブイン族。
人狩りをし、その奴隷を殴り○して頭、手、足に解体、柱壁に縛り、これらに 槍と矢を投げる。
3日後それらを埋め、10日後に掘り出して骸骨を中心の柱の隣に置く。
ヨーロッパでも人の血を注いだとか少女を生きたまま壁に取り込んでしまったと言う伝承。
また人の変わりに人形や動物とかを使うケースもあります。
日本もたくさんの人柱伝承はありますね。
自分の隣町にも橋の建設の為の人柱の伝承があります。
柳田國男の主張、水神に仕える巫女が物語として語り歩いた、と南方熊楠の主張、どっちなんでしょ。
伝承のある場所から人骨が出たと言う考古学的証拠は見つかっていないのでしょうか?
有名なのは
「雉子も鳴かずば撃たれまい」っていうのがありますね。
長柄の人柱伝説だね。
「物いわじ 父は長柄の人柱 鳴かずば雉も 射られざらまし」
大正時代、皇居二重櫓下から、人骨が出てきて人柱か否かの論争が起きたらしいね。
そのとき、南方熊楠が「人柱の話」と言う随筆を書いて、実際に近世まで人柱が行われていたこと説いた。
オランダ人カロンが、すすんで人柱になる日本人のことを記している。
「日本の諸侯が城壁を築くとき、多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願い出ることがある。
自ら志願して敷き○された人の上に建てた壁は壊れないと信じられているからである。
許可を得て礎の下に掘った穴のなかに横たわって重い石に潰される。
ただしかかる志願者は、平素苦役に疲れた奴隷だから、望みのない世に永らえるより、タヒぬほうがましと考えているのかも知れない」
この記述が本当なら皇居の人骨も人柱のように思えてきます。
抜粋の仕方から見て引用元は『日本大王国志』(東洋文庫)ではなく、『南方民俗学』(河出文庫)からのようですね
日本書紀にある、おれの地元の話
http://www.norichan.jp/jinja/benkyou/tsutsumine.htm
武蔵の国のひとは、人柱になり、河内の人は知恵で助かった話。
平清盛公が摂津国大和田(大輪田)の泊まり=兵庫港を築港する際に難工事で難渋していた時、松王丸が人柱となり、以後見事に竣工した。云々。
供養塔が対岸の淡路島岩屋。万葉集にも詠われた名勝、絵島の頂上に有ります。
絵島は隣りの大和島と共に往古、神の島とされた禁足地でした。
絵島と大和島はあたかも伊勢の夫婦岩のごとく三対山(往古には山上に石屋神社が鎮座)の天然の鳥居で神籬岩ではなかったかと。
石屋神社の祭神は。国常立尊。伊弉諾尊。伊弉冉尊。
根元の三柱を併せ敬って天地大明神と奉る。ご別称は絵島大明神。
国生み神話の舞台の一つ。
西宮のエビス大神の出生地、放墜地伝説も
また、神功皇后が征韓出征の砌、天地大明神を奉り戦勝祈願と帰還のさいには報賽した伝説地。
*真東対岸は住吉大社。
そもそも何故生け贄を柱というのか。
この「柱を」神を数える単位として採用していたり
神の象徴として神格化する宗教・民族は多い。
古代ギリシャやケルト、近くではフリーメーソンもそうだ。
仏教でも体の中の柱という概念を大切にするし、
そのルーツであるインドでは今もその体幹を貫く光の柱が天と繋がっていると信じられている。
つまり柱というのは
どういう事だよ
教えて下さいてめえら。
簡単なことだよ。
人工物以外のもので柱のように、地面から天に向かって立っている円柱状のものといえばなんだ?
そう、「木」だ。
木はこの世で最も原始的な信仰の対象であったといわれる。
現代に残るポール状の信仰の対象は、元々木を模して作られたものなのかもしれない。
なるほど。
それはやはり、人間がかつて食料や身の安全を木に依存していた
猿の時代の名残なのだろうか?
それとももっと文化の発達した後の、スピリチュアルな感覚から来たのだろうか。
たしかに屋久島に行った時荘厳な気持ちになったがアレは何故だろうか。
もののけ姫のせいではないと思う。
木に雷が落ちる様を見て、天と地をつなぐものと思ったんじゃないのかな?
本で読みましたが、人柱とイケニエではまた違うらしいですね。
人柱は文字通り人の柱として橋などの建設物などを磐石なものにするため
イケニエは人を神の食べものとして扱うらしいですね。
早太郎(しっぺい太郎)の伝承を思い浮かべるのはこちらですね。
ところで、大島では学校で火山の噴火を抑えるために捧げた
人柱の歴史を学ぶと大島育ちの友人から聞きました。
どんな話なのか興味があります。
地中であれば竪穴を掘って柱のように埋める、と
「神、人を喰う」の六車由美の主張だけど、人柱に関しては異人の持つ呪力に期待して
異人(共同体外の人間)を使うことが多い
一方神に捧げる人身御供に関しては神が異人の人身御供に関しては拒絶するパターンが
多く共同体内の人間を捧げるってのが基本形なんじゃないか、と
(史実としての人身御供についてではなく人身御供「譚」についての考察なんで微妙に
このスレ内の関心からは外れるかもだが)
>>36
素朴な疑問なんだけど
人柱と人身御供ってどう区別してる?
普通に人身御供でも通りすがりの旅人差し出されてるとかないのかな?
共同体内で選ばれるのは単に異邦人が通らない山奥だからなんじゃないかとか思ってしまうんだけど
頻繁に旅人が通る場所でもやはり共同体限定ってことなんだろうか
>>37
人身御供「譚」において異人が供されるパターンってのは通りすがりの高僧だの六部だのが
身代わりを買って出て神を討伐するなり何なりして(神との間に妥協が成立とか)
以後は人身御供のかわりに饅頭だの人形だのを供えるようになったっていうパターンが主かと
異人は人身御供を止めるきっかけを語る話での主役であってイレギュラーな存在だよね
人身御供「譚」の主目的は痛みの記憶の伝承(その痛みがフィクションであれ史実であれ)
だと思うので、やっぱり共同体内からの犠牲でないと意味がないのではないかな
あと自分は
人身御供→定期的な神へのお供え。神を祭る為に供される贄
人柱→困難な工事を完成させる為の呪術的行為に使われる犠牲
っていう風に分けてる
>>38
thx!
そうなんだよね
譚だと、異人が人身御供の身代わりを名乗り出る話が多い
それが受け入れられるのなら、共同体の人間であることへの強いこだわりはさほどないような気がするんだよな
人身御供が定期的で、人柱が時に応じて、というのもわかる
ただ、両者の違いはそういう場面の違いだけなんだろうか
人柱の「柱」が神を意味するのなら、生贄となる人間は人の身ながら神になると考えていいのかな
それに対して、人身御供はあくまで捧げ物で神にはならない、という違いがあるのかな、と考えてみたりもするんだが
自分は34で言ったように柱≠神だと思ってる
人柱の文献上の初出、平家物語において経の島の由来として、
島が大風と大波で崩れてしまったので「人柱たてらるべしなんど」と詮議したが、それは
「罪業なるべし」として石の面に経文を書いて代わりとしたことが語られてる
無論、これは仏教的な価値観による人柱否定であって、人柱が神として崇められていたもの
を否定するものではないけれど、自分は人柱は厭魅や犬神等々陰陽術に代表されるような
人の行使する技術・呪術に供される道具にすぎないんじゃないか、と思う
(長いので続く)
(続き)
白川静「文字逍遥」からの引用だけど
「左伝に楚と晋の戦いにおいて楚が大勝、臣下の者が楚王に、晋の遺棄タヒ体を収めて京観を
つくることをすすめた話がしるされている。京観を作ることは古くは殷の時代から行われており、
殷では三軍の軍門に、義京やケイ京と呼ばれる京観が作られていたことが知られている。
卜辞によるとその祭祀には、三人のチベット系羌族と十匹の羊を開き裂きにして、犠牲とする
のが例であった。この積屍封土して作られる軍門の京観を、のちの都城の制に移したものが、
城闕(ケツ)の原型をなしている。それで城闕(ケツ)においても人牲や獣牲を用いることが行われた」と
もとは大陸から陰陽術等と共に入ってきた呪術なんじゃないかと
日本で自然発生したものであっても、犠牲に供した人柱をその後神として祀ってる例が
見当たらない限り人柱=神には肯きかねる
人柱を立てるという行為がどういうメカニズムで「効く」と昔の人が信じていたかについて考察
A)工事の途中で困難な出来事が起きる、あるいはそれが予想される場合にその土地の神の
荒魂を鎮める目的で人牲を捧げる
B)人間を○し、その霊を目的の建築物に縛りつけ守護神(霊)として機能させるようにする
(異人であるとか特殊な能力を持つ人間の「血」が建物を強固にするっていう考えも
ここに含めるべきか)
C) A+B 在地神に捧げるのが主目的だが捧げられる人間もその土地(建築物に居つく)
新たな神として祀る
まだあるかもだがとりあえず3つほど
南方熊楠「人柱の話」で指摘されてるように、ある宗教の普及により説明のロジックが変更
されるってこともあり得る
>>46
thx!
Aなら人身御供との違いは臨時性のみ
Bなら柱は神化としての柱と理解され得る
Cなら神と同じ信仰対象となる時点でBと一緒なのかな
この分類見て思ったんだけど
たぶん神としての柱なのだが、それは本来の神とは異なる神化なんじゃないかと
本来の加護を与える神ではなく、祟ることを避けるために祀ったんじゃないだろうか
タヒんだことによって神のように祟りをなすことができると考えた場合、祀って鎮めるということはあり得るんじゃないか?
>>46のCに沿って自分の考えを整理すると
1)工事を円滑にすすめるための土地神への犠牲(出来上がる前)
2)その建築物の長久堅固なることを祈って(出来た後)
出来た後、その橋なり城なりが流れや敵の軍勢の攻撃に耐えて無事存続するように
神威・加護を人々が期待した対象はささげられて神として祀られてる人柱なんじゃないか
と思う
「城が火災・地震の被害の無いのは人柱になった娘のおかげだ」
或いは
「大蛇と化した人柱の娘が霞をはいて城を包み守った」云々の伝承を見るとそう思える
ちなみに説教「まつら長者」にて人身御供を要求していた大蛇は、もと人柱の娘の成れの果て
っていう設定なので、人柱に立てられた経緯によっては祟りの恐怖はかなりあったと思うし、
それを避ける意味でも手厚く祀っただろうね
>>50
自分もそう思う
そう考えると、神の柱説を拒否する必要はないんじゃないかと思うんだよね
ただ、拒否する説を尊重してそれに従って考えると、その違いはどこに見出すことになるのかなと思って考えてみてるわけだけど
個人的には神の柱であり、建築の柱、どちらも言霊として意味をにじませていると思ってる
畏るべき存在で、祟られないように祀られたものは「神」だよね
神か妖怪かの分岐線が祀られているか否かの差っていう説もあるし
本来の神ってのは文化圏とかとは関係なく、シンプルに自然神だよ
人柱を捧げる対象はその河の神とかだろ
工事が無事に完成するように祈るんだから、氾濫などを防ぐ加護も与えてくれるはずだよな
でも、人柱の神は加護を求めるよりもひたすら祟らないことを願って祀るんじゃないかってこと
妖怪はもともと神だったものが零落したものだから祀られていないってのは当たり前だよな
地脈の関係もあるね。
柱はそれ自体が神性を帯びてて地脈を変えてしまう。
鍼と同じで思想で、地脈を整えることで災害の防止や土地神の鎮撫が可能だと思われていた。
人柱はその際の呪的な効能強化でしょ。
人柱の思想の根底に流れてるのは献身であり、犠牲。
世界中の宗教に普遍的に存在するもの。
場合によっては聖職者や権力者の埋葬を行なう事で同じ効果を得ようとしたり
キリスト教でも殉教として奨励した時期もある。
人柱になることで特別な存在になれるというメリットはもともとはあったのかも
ただ、日本の伝説じゃ、あまり名誉なことというイメージはない
これは古い時代の風習ではなく、近年まで行われていて、近年の価値観でネガティブに評価されていたからだろうか?
家康なんかは国家鎮護のために関東の霊脈の中心地であり
江戸城から見た丑寅の禁(金神)門である日光に祀られたはず。
第2次大戦で御国のために御柱に、をやりすぎた反動で
今みたいなネガティブ要素が濃くなったんだろう。
面白いけど、ネガティブ要素は第二次大戦前からあると思うよ…
人柱になって可哀想、って話が多いし
日光に祀られた家康は人柱として○されたわけじゃないから、ちょっと違う気がする
69 :日本@名無史さん:2006/07/08(土) 08:44:06
本を読んでいたら横浜の香ばしい歴史の一ページが記されてあったので書いておく。
明治初頭、西洋人の妾はラシャメンと呼ばれ蔑まれていた。ラシャメンとは緬羊のことで、
西洋人の船乗りは船上では緬羊で性欲を満たしていたという話にちなんだものらしい。
西洋人とラシャメンの間にできた子供はアイノコと呼ばれ蔑まれた。一目でわかるその姿に
親からは捨てられ、町の者からはひどい迫害を受け、生活苦から犯罪に走るものも多かった。
西戸部の暗闇坂には監獄があり、混血児が多数収容されていた。
明治6年8月、本町6丁目の大岡川に弁天橋が竣工した際、この西戸部監獄から混血児
4人が連れ出された。少年たちが橋の工事現場に行くと、大きな深い穴が掘られてある。
気味悪く感じて尻込みする4人の少年は、いきなり背中を押され穴に突き落とされてしまった。
泣き叫ぶ声を掻き消すように土や石が上からかぶせられ、たちまち生き埋めにされてしまった。
橋供養の人柱を捧げられたこの橋は、今も存在している。
該当箇所の地図:
ttp://map.yahoo.co.jp/pl?lat=35.26.46.072&lon=139.38.11.180&p=%CA%DB%C5%B7%B6%B6&ac=
14&lnm=%CA%DB%C5%B7%B6%B6&idx=23
北海道の鉄道には枕木の数よりもたくさんの人間が埋められているといわれる。
キリスト教とか仏教とか皆の犠牲になってタヒぬと神の使いになったり断食してタヒぬと菩薩になったりさ
柱と呼ばれるようになることが神やそれに近いものとして呼ばれることになるなら
人柱もなんだかしっくりくる呼び方だよね
人柱もまた民間信仰の産物だろうけど。人の怨念は粘りついてくるような気味悪さを伴うからな。
平安時代に兵庫築港に際して難工事と事故多発の為に、工事の安全と完遂、兵庫港の安寧を願って自ら人柱となった平清盛の近従「松王丸」さま。
供養塔(祠)は兵庫港を見渡す古来名勝で神の島、禁足地とされた淡路島岩屋は絵島の頂に有ります。
絵島は国生み神話のオノコロ島の候補地の一つ。
イザナギを追いかけてきたイザナミを追い払ったとされる。
その一節にだけしか出てこない割りには、ずいぶんと篤く祀られている。
ちなみにキクリヒメはククリヒメが訛った物で、柱にくくられた女性と言うことになる。
タヒと再生を司る神ということで、人柱伝説と関わりがあるんじゃないかと
いわれてるね
ところで日本の代表的な幽霊譚の一つである「皿屋敷」のお菊さんだが、
折口信夫が「お菊は白山と関わりがある」といっていて、それについて
ホラー漫画家の永久保貴一が「検証 四谷怪談・皿屋敷」でかなり力を入れて
調べてる
このスレの住人なら読んでる人も多いかな?
あれ読むと身近にある「番」や「皿池」なんて地名が気になって仕方なくなるんだぜ
菊理媛が日本神話に登場するのは、異説でだが伊邪那岐と伊邪那美が黄泉で争っているときに登場して
両者の関係を取り持ったから
だから菊理媛は、夫婦和合の神様であり、同時に生者とタヒ者の世界を繋ぐ役割りがある
けっこう、物語にするのが面白そうな神様だな
皿屋敷で不思議なのが豊臣秀頼の元夫人・千姫の
再婚先の姫路城と、隠居先の竹橋御殿両方ともに
○されて井戸から出てくる幽霊の伝説があるんだよね
伯母で元姑の淀殿が朝廷から賜った名は「菊子」だし
このへんも調べていくと面白そう
>>142
人柱は特定の宗教の儀式というよりは村社会のシステムだったんじゃないかな
民間で信仰されるのは豊穣をもたらす河川や水、山の神様で
恵みもあると同時に川の氾濫や日照りで農民の生活は左右されてしまう
それを鎮め、現世利益とひきかえに捧げられるのが人柱
願いを叶えてもらうための等価交換だよ
小さい願いなら五円玉のお賽銭でもいいけれど
重大な願いはそれなりのものを差し出さないといけない
プロパガンダとしての犠牲を人柱の範疇にいれてもいいなら、ベトナム戦争時代の空爆被害にあった民間人少女。
ニューヨークタイムズかなんかの一面を飾って、一躍世界の注目を集めるが、
ベトナム政権下で、体制の監視下におかれ、亡命という苦渋の選択を迫られた。
被害者を有用な武器として用いる。
政治の世界じゃよくある話だろう。
大義を失えば存続すら危うくなる。
犠牲の上の大義が必要なほど惰弱な政権であれば、存続維持に勤めるだけで害悪とすらなりうる。
タヒにはしないが多勢の犠牲を強いられているという話なら、現在進行形。
不定期周期で常に生まれている。
国際テロ組織殲滅の為の誤爆被害や情勢不安に難民を余儀なくされ、飢餓にあえぐ。
それら総て礎。
底辺の身柱が、天井を支えて、次層の床を維持している。
貧富、階級、階層社会。
一見無関係にみえるが、如実に影響しあってる。
気がつかない領域で。
柱は支え。
小さなコミニュティの天(あめ)の上(かみ)天(あめ)の下(つち)を揺るぎないものにする為の、支え。
上(かみ)下(つち)引き合い裃(かみしも)依りて常世(とこよ)へと誘う。
人の身柱、人柱。
人であり人でなし。
タヒして合一せし神にもの母白須(もまうす)御先(みさき)たらん。
恐らくはそのような意味合いで人柱という呼称が名付けられたのでしょう。
上(かみ)下(つち)寄せ逢い千々に乱れし混沌の……ひとはそれを忌み嫌う。
否、畏れている。
何故なら創世よりまた紡ぎ始めねばならなくなるのだから。
関係ないけどミシャグジ様の一年神主という古い風習はこのスレの定義だと人身御供になるのですね。
要するにさ、例えば津波や洪水で人がタヒんで、遺された人間は何故あの人がタヒななければならなかったのか考える
そこで意味のないタヒを意味あるタヒにする為に人身御供って役割を与える
人柱も同じように、古代の巨大な工場現場での、事故タヒや病タヒを意味あるものに変える為に
人柱の役割を与えてやる
と考えると良いんじゃないかと思ったりする
>>85
人身御供の伝説については、そのような解釈がある。
けれど、人柱は違う。実際に壁から直立した男性の遺体が発見されており、頭上に銭が置かれていることから、実際に人柱が行われていた可能性は極めて高いと思われる。
参考書籍は明治時代から平成まで数多。ぐぐれ
例えば明治期のタコ部屋労働者は、タヒんだあとトンネルに埋め込まれるたりしたわけで
それを人柱と呼んでいいものかなぁ、と
古代だって中世だって被差別民達がタヒんだら似たようになことをしてないとは言い切れんだろ?
ぶっちゃけ、「南方閑話」(1926年)の冒頭で、南方熊楠が「人柱は今でもある蛮行」と書いている。
wikiにも色々書いてあったなあ
人柱は大抵、旅人を捕らえて簀巻きにし、工事の場所に投げ込むのが一般的だったらしい。
その際、割合として多いのが巫女で、本物か偽物かは問題とされなかったらしい。
歩き巫女は基本的に身寄りが無い場合がほとんどだったから都合が良かったんだろう。
新潟県在郷の寺の住職です。昨冬、檀家から聞いた話です。
その家は地区でもかなり古い家柄で、昔は村人のまとめ役をしていた。その家が管理する墓が村はずれの小川沿いに有る。先祖から伝わっている話では、「旅の男が村でタヒんだ。その男の供養の為に村はずれに碑を建てた。金はその男が持っていた。そして碑の下に骨は無い」と。
この村は泥田で、川の増水で作が流れる事も多々あった所。水争いでタヒ者が出たことあった場所。
旅人がタヒんだのを利用して人柱を建てたのでしょうか。
○したんじゃないんでしょうかね。
人柱を旅人でまかなうのはちゃんと理由があるそうですよ。
一つはもちろん、コミュから人身御供を出さない為ですが
大きいのは土地との「縁」がない事だったようです。
日本の仏教は神道と習合してますから、土地神との縁は先祖から受け継いだ呪いの一種、
「ケガレ」と考えられていました。
そのため土地神に対し縁がない旅人の「ハレ」で土地神の怒り(ケガレ)を中和しようとした訳です。
だから昔の一人旅は命がけでした。
そもそもが一人旅を公的には認められていない江戸時代では、
一人で旅をしている人間はすなわち、犯罪者や間諜、浪人(浪人はただそれだけで犯罪者です。
無主なのに2本さしてますからね)や盗賊の手先やあるいは世捨て人であって
村人からしても自衛の為に○す理由があったたのですね。
しかも、旅人は奉行の定めた宿場に泊まらなければいけない規則もあり
そこでタヒんだ者は無縁仏として一括で管理されるのが普通でした。
(何らかの犯罪者や重要人物である可能性があるからです)
小川に一人でまつられるという事は
やはり、それなりの特殊な理由があるんでしょう。
池のほとりや堤に地蔵尊や仏像、祠の類がある場合はこの類とほぼ思われ。
なので、不用意にこれらを拝むのはタブー
今年の大河ドラマの主人公である平清盛公は
兵庫の津(港)、大輪田の泊(和田岬)を大規模に改修し拠点港として整備しましたが、
築港に際しては工事が難航、進退に窮して人柱を立てる事に衆議は一決。
しかしながら人選は難航。一向に決まらないのを愁いた清盛公の従者の年少の松王丸は自ら志願して人柱となると、以降スムーズに築港が成った云々。
大輪田の泊(和田岬)を望む淡路島の岩屋の名勝、絵島(古来、絵島明神様の神聖な島として禁足地)の頂上には松王丸の供養塔(鳥居有り)が有る云々。
人柱では一番有名な伝承かと。
和田神社はこの大輪田の泊の鎮守神として勧請創建の由。
また、西宮エビスの元宮(神体が最初に揚がった云々)ともされて西宮の鳴尾浜から和田神社までの御輿の船渡御祭が行われていました。近年故事に倣い復活。
岩屋の絵島の岸辺の岩山、三対山(城山)は伊弉諾大神の幽宮伝承地で麓の洞窟内には伊弉諾神宮摂社の岩楠神社が鎮座。(神功皇后が渡海して岩屋神様にお詣り)
その目隠しの前社?として岩屋恵比須神社が御鎮座。
蛭子大神はここでお生まれになり前浜から磐樟舟に載せられ遺棄されたとして元エビスの宮を標榜
海流からは岩屋から和田岬沖、鳴尾浜沖は整合性が有ります。
がいずれにしてもエビス神様として祀られたのは記紀神話の時代から五百年以上後の事
長柄の人柱
茨田の人柱
も有名だよな。出典は日本書紀だし。
しかし、出典は同じだけど長柄の方は結構有名だけど、茨田の方は今ひとつ知名度が低い気がする。
>>101
長柄は昔話が有名だからなあ
でも子供の頃は「雉子も鳴かずばうたれまい」が
長柄の話だとは知らなかったな
茨田堤はマイナーだけど、強頸絶間の跡地の碑が関西屈指の有名商店街、
千林商店街の中にあるね(民家の敷地内なので見学はできないけど)
ケンミンショーで大阪のおばちゃんを取材するコーナーの時よく映ってるから
千林商店街を見たら茨田堤の人柱を思い出してください
そういえば長柄も近くに日本最長の天神橋筋商店街があるし
刑場だけど千日前も賑わってるし
意図して人が埋められた場所って人を呼ぶのかな
日本の場合平然と竜神様への備えとか言って乙女を生贄に差し出していた。
川や海に近い城は特にそうだったのです。
だから日本は竜神信仰が強いのに案外竜退治の伝承も多いのです。
俺んち土建屋で、改修工事とかでたまに人柱でる話聞くよ。
昭和の工事現場の回収だから、労働者を埋めちゃったやつらしいけど。
>>117
事故タヒが結果的に人柱に、ってことか
後で供養とかして祀ったりはしてるの?
この手の話はよく聞くよね
万博の工事でタヒんだ人がそのまま埋められたとか
工場の釜に落ちて人が溶けたとか
15日付の産経新聞に人柱の記事があったので報告
昭和15年11月28日、戦闘機事故の根絶と操縦士の武運を祈って
水戸陸軍航空通信学校の井戸に身を投げた藤田多美子さんという
当時22歳の女性がいたそうだ
藤田さんは戦闘機の墜落事故に胸を痛め、自ら人柱になったという
その遺書には
「身は壌土と化するとも魂はかならず永しへに、
この地にとどまり大空翔ける皆々様の御武運を
お守りいたす事で御座いませう」
と書かれていた
彼女は大空の女神と讃えられてお堂や歌碑、胸像が建立された
戦後、お堂はGHQにより取り壊され他は遺族が引き取ったそうだが
遺族の「自衛隊の飛行場の見えるところに置いてやりたい」という思いに
有志が立ち上がり霞ヶ浦駐屯地と交渉を進めているという
泣ける話や(´;ω;`)
特にこのご時世
人柱になったという川に毎年遠足に行ってたわ
九州のうちの地元にも人柱にまつわるお祭りがあります。
川の治水のため、クジで庄屋が人柱に選ばれたものの、献身的な姉弟が身代わりに
なったとかで、神社に祀られています。
夏の終わりに大きなお祭りがあり、雨乞いの神様です。
でも実際は江戸初期の殿様が治水工事に乗り出したものの、難航を極め、
劣悪な労働環境に人夫が暴動を起こして逆に○されたとかで、
その事件を扇動したひとりの人物を祀ってるというのが本当の話だそうです…
悲劇を美談にして祀るのは、祟りを恐れる日本人らしい発想なわけで、
多分、その後も氾濫する川にびびって、祟りを鎮めるために
お祭りしてると思われます。
実際、今年、集中豪雨で酷く氾濫して全国ニュースにもなったほど難しい川です。
鶴市だな
俺も地元そこで鶴市神社にはよく行ってたよ
その通り。殿様は黒田如水です。
ある宗教のお坊さんで、布教?だかで寄った町に住みついて、
その町が日照りだか疫病で困ったときに身を捧げ、町が平穏になったらしい。
その町の町史に載っている。
住んでいる地方は祖先の宗教は少数なのに、うちは代々葬儀は祖先の宗派、苗字も同じ。
でもいつ子孫残したんだろw
天命を承けて出家し、後に入定した。
とすれば無理はないけれど・・・
チョイと昔まで放浪者やよそ者が行き倒れて(何等かで○され)タヒ亡(ままあった)すると、
池や沼に投棄したりしていました。
見分け方?として池沼の傍らや堤にお地蔵さんなどがあれば・・・・
(合掌)
これだから本当と言えるかどうかは怪しいものだ
女の子が駆け落ちしたのを、人柱にされたと噂されただけってのもありえるしな
田んぼに水を引く堰工事の現場監督だったとか。
小学生の時に課外授業で人柱の慰霊碑と竣工記念碑(実家隣)、資料館に行った。小学生当時は水に入って工事したのがご先祖様なのかくらいに思ってたが、このスレにあるように生き埋めとかだったのかな…と思うと怖い。
その先祖の墓はあるから掘り起こしたのかな。資料館行ってもそんな生々しい事書いてなかった。
実家の資料探してみるか…
日本神話には生贄を求めるような神様は存在しないし
ましてや、慈悲を大切にする仏教にはそんな考えはない
どこから人柱なんて風習が生じていたのだろうかね
民間信仰だと山のようにあるぞ
古事記にも櫛稲田姫の姉妹たちやヤマトタケルの奥さんとかいるじゃないか
人柱伝説
竜神、ヤマタノオロチにも通ずるものなのか
こんな国だから日本はどちらかというと竜退治や竜を封じる説話が多い。
人柱でわからんのは、この風習が何を起源にしているかだ。
仁徳天皇が、殉タヒを哀れみ、殉タヒを禁じたとの話はあるが
人柱を行って、どうにかなったとか
人柱を求める神様がいたとか
そういう話はまったく聞かない
聞くのは逆に、人柱にされた人の呪いだの
人柱にされた娘を哀れむ伝説だの
人柱を否定するような話ばかりだ。
実際に過去に人柱が行われたことがあった
それは多分、事実だと思うが
しかし、これほど肯定的な伝承はなく、否定的な伝承ばかりが広がっている事が
それほど頻繁に行われたようには思えないのよ
人柱は集団心理じゃないの?
工事1つとっても何回もやったら資源、人材ともに足りなくなるし。
先に命を1つ潰して縛り付けた方が呪として効率がいいんだと思う。
霊や魂を否定した観点からしても、この工事には誰かがそのためだけにタヒんでる、自分たちの利の為に○してると生きて従事する人が認識するのが目的かも。
縄文後期には土偶で代替えするようになったし
神に対する捧げ物という概念が消失したあとは
完全に現世利益を求める呪術的燃料としての色合いしか残らなくなったわけで
そりゃこっそりやるようになるわ
人の形の型を削って、そこに人を嵌め込むみたいなのなかったっけ?
イメージ的にはたいやき焼き機みたいに挟み込むみたいな感じ
これは拷問だっけ?人柱だったと思うんだけど
今だに毎年人柱の霊をなぐさめるための祭りをやっています。
学校で人柱の話を元にした劇をしたこともあり。
お糸祭と言う名前だったはず。ちなみに九州です。
地元にも今住んでるとこにも人身御供があったという川があるけど、どっちも若い女の子。
特に地元の川は小さな川だから昔は氾濫したというのが信じられない。
10歳にも満たない少女だったそうな。
人身御供があった場所には伝説を知らせる表示があり、少女の名から「おりみぜき」と呼ばれている。
今住んでるのは仙台で、こちらは広瀬橋のたもとに橋姫明神があります。
広瀬川に橋を渡そうとしたら大雨で川が荒れ、長者の一人娘「愛姫」が名乗り出て埋められたという。
資料によっては娘の名前は不明ともある。
橋のそばにある十八夜観音に篭り断食し、経を唱えながら埋められたが次第にその声も細くなり…という記載もどこかで読んだなぁ。
このスレを一通り読んだら、どちらも本当だか疑いたくなるけどね。
女の子だから工事で犠牲者が出て云々ではないかも知れないけど。
仙台、広瀬川、橋、大雨、ですか…
戊辰戦争直後の頃、広瀬川にかかる橋が大雨で流されて、橋の外側と城内との連絡が取れなくなるということがありました。
そこである武士が「よし俺が行く」と増水した川に飛び込んだかと思うと、すいすいと泳いで城側に向かい出しました。
武士は泳ぎが得意で、藩の元水練師範だった経歴の持ち主でした。
しかし、川の中ほどにさしかかった頃、上流から大きな流木が流れてきて、武士の頭を直撃。
あっという間に武士は濁った水底に沈んで見えなくなりました。
数日後、武士の遺体ははるか下流で見つかり、武士の家来達は変わり果てた主人の亡骸にすがりついて泣き崩れました。
私の5代前の先祖の実話です。
あまりのキーワードの一致に思わずカキコしてしまいました。
すれ違い大変失礼いたしました。
即身仏と違い、人柱ってのは伝承以外に根拠がないからな
まあ、日本は酸性土質で、骨まで解けてしまうので、根拠は残り難いのだが
しかし伝承も、決まって悲劇とか、権力者の暴虐として描かれ
人柱を讃えるような内容はほとんどない
これでは人柱を立てる側は悪評が残るし
人柱のなり手もないでしょうに
その辺が南米とかの生贄と違うのだよね
即身成仏も、実際は嫌がる僧侶を無理やり即身仏にしたって事が多かったそうだが
少なくとも、タヒ後、彼らは仏として讃えられている
しかし、人柱はね・・・・。
この辺から、人柱ってのは、なかったとは言わないが
実際に行われたのは例外的なものであり
本当はほとんど行われる事はなかったと思うがな
いつ頃のものなのでしょうか?
日本書記だったかと思いますが、
御前試合で当麻の蹴速を下して垂仁天皇の近習に取り立てられ貴族となった野見宿祢さん。
当時の天皇家?では皇族(貴人)が亡くなるとその近習家臣らは亡くなった主人と共に殉タヒする習わしだったようで、
御主人様の陵墓が完成すると埋葬と共にそれを取り囲む様に家臣近習らはそれぞれ所定の場所に半身土中に生き埋めされ身動き出来ない状態で放置されます。
その様は正に人柱。
その後、その陵墓からは呻き声、嘆き悲しむ声、阿鼻叫喚、怒声罵声、、、が聞こえて
また、カラスや猛禽類、野犬等が人柱を突つき、喰み、、、
酸鼻を極める地獄絵図が繰り広げられる志儀。
野見の宿祢さんも度々その様を見聞するにつけ、此は明日は我が身に降りかかる現実。
と危機感を募らせ思案の末に
殉タヒの人柱を焼き物(埴輪)に置き換える事を思い付き、恐る恐る御上(垂仁天皇)に有能な人材を殉タヒの慣習で喪うことは国家の損失云々ですから殉タヒ者を埴輪に代えてはいかがでしょうか?
と奏上したところ、常々私も思う所は同じであると御嘉納なさりました。
そんな折、天皇のおばさんが亡くなられたのでそんなら野見はん。試しに一辺やってみなはれ。
と殉タヒの替わりに埴輪の採用される事となり
土器作りに長けた出雲の仲間を至急集めて突貫工事で所定の埴輪を葬儀の期日に間に合わせ完成させ所定の場所に設置。
あとはその効果(要するに埋葬者の祟りを恐れた)の程を検証。
月日が流れて、どうやら効果(祟りを鎮める)は変わらないようだ。
と天皇がお認めになって勅命により以降は殉タヒを辞め埴輪で代用する事になった。とか
w
実際にしなかったのに日本中に伝説があるのは不思議ですね
人柱になったという僧侶の骨が奉ってあるお堂あるよね
長いこと伝説としてつたえられてきていたらしいが
昭和の初期に実際に骨が出土されたとかで
地滑りを沈めるための人柱だったらしい
それは僧侶が自ら名乗り出たとか
そういう形式の話ではない?
それならば、確かに可能性としてあると思う
実際に即身仏とか日本でもあったのだからな
人柱が行われた事がある事はあると思うが。
それが例外的な行為であり。
実際には滅多になかったのではないかと私が思うのは
世界各地に残る生贄の物語だが。
これは多くが神聖な行為として尊重される事があるのだよね
人柱に選ばれた少女は、一年間に渡り大切に扱われるとか
宗教的な儀式である以上、それを正当化する根拠があったりする。
スカンジナビアでは、有力者が無くなれば、女奴隷などに殉タヒさせる風習があったそうだが
形式的とは言っても、これは奴隷本人の意思で殉タヒする者が選ばれている。
中国では、優れた鐘を作るために職人の娘が、自ら煮えたぎる炉の中に身を投げた話があるが
人柱の場合は、そういうのを聞いた事が無い
嫌がる犠牲者を無理やり人柱にしたって話ばかりだもの
このように、その行為をまったく正当化しようとしない生贄行為が、果たして実在したと考えられるかな?
それが多いに疑問に思える。
ま、もちろんゼロではなくて、行われた事はあったとは私も考えてはいるけどね
それは例外的だったのではないかと思うだけで
人柱は生贄と神○しの本来の理由が忘れられて単に人を埋めればその家は盤石になる程度の非合理的な民間伝承になったものじゃないの
目的の建造物が呪いの場所になって毎年のようにそこで発狂者が出る、とか。
関わった建築家の血筋が代々早タヒにして後代には男子の子孫が絶えたりとか。
既に災害が来てしまっていたらデメリットは無くなるけどな
昔であればあるほど
自ら人柱を名乗り出た例だと、中部地方(越前だったか美濃だったか、あの辺)の城を築く際に、
息子たちを武士に取り立てるという約束で志願し埋められたが、どういう理由か息子たちは
取り立てられずに同情を買ったって話を現地の案内板で見たな。
維新後には横浜に橋を築く際に西洋人の妾(ラシャメン)が産んだ混血児数人を生き埋めにしたと
いう話がある。
明治6年8月、本町6丁目の大岡川に架かる弁天橋。人柱は西戸部監獄に収監されていた
混血児4人というところまで具体的な情報がある。
前者は丸岡城。福井だね。
人柱と言霊は一対なのかもね。
他人に言うとその霊験は途絶え、支えている共同幻想が磨り減ってしまう。
因習の多くはそれによって周囲から隔離され、内部の絆を強めてきた。
絆はなお人類も文化も支えてゆく。
民俗学でも共同体の維持に役立つと説明されている
だからこそ、世界中にあり、かつ何千年も続いてきたのだろう
いいねえ
生贄には是非>>187さんになっていただこう
北海道で人柱を行ってはいけないのは、「ホワイトアロー」で立証されている。
「ホワイトアロー」自体は風速の早い吹雪から取ったんだろうけど、
和訳すれば人柱を選ぶ「白羽の矢」になり、最近もその吹雪でタヒ者が出ている。
それにアイヌの伝承では、人柱を行うこと自体が禁忌で、その部族は祟られる。
まあ、富岡八幡宮も「白羽の矢」が立った所に建立されたというが、
財に穢れて宮司一家に○人が起きるというのは、アイヌ社会と変わらんな。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません