文永・弘安の役における元寇の日本防衛戦を考察してみる
日本防衛戦争を考察するスレ
もう少し抽象的に考えれば予想外の事態の影響は、局面に大きく影響する。
という所?
戦力は絶対ではない、運の影響は少なくない。という事なのでしょう。
直接の原因は、武士の奮戦だよ。
なんで、2ヶ月も海上にいたか考えた事はないの?
上陸した後、元軍は海に叩き落されて海上をうろうろしていたからだよ。
台風は予想外の事態でも運の影響でもないよ。
弘安の役でモンゴル軍は6月初めに博多湾上陸を試みて撃退され、それから台風に遭う7月末までの2ヶ月間
日本軍の猛攻から九州近海を逃げ回っていたんだから。
2ヶ月間も海上にいれば台風に遭うのは必然で、その結果をもたらしたのは日本軍の実力以外の何物でもない。
夜中に首狩りに来たり、モンゴルにとっちゃキ○ガイ族蛮みたく映ったかも
>>6
鎮西の武士たちは、そんな神風攻撃みたいなことはしてないよ。
勝てるから手柄を狙って斬り込んだのであって
いや、北条政子に限らず鎌倉時代の女性は気性が激しいよ。
後妻打ち
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A6%BB%E6%93%E3%A1
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、
刀は長くて極めて犀なる(するどい)ものを製り、洞物に銃し、過。
但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、タヒをみることを畏れず」
鄭思肖『心史』
「倭人は狠、タヒを懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみなタヒぬまで戦う。戦タヒしなければ、
帰ってもまた倭王の手によって○される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、
戦守の計を為すべし」
面白い資料ありがとうございます。
ネットで見れるソースがもしあったら教え下さい。
wikiで「元寇」の脚注見れば関連資料はほぼ揃ってるよ
ちゅーか、資料に関しては学術書より充実してる
夜中に敵船に攻撃をかけたり、そんなネチネチした攻撃なんて武士の真骨頂じゃない。
元側の資料『元史』『高麗史』などを見れば、大軍と大軍の衝突による大規模な集団戦が
日本軍と元軍との間で行われ、東路軍の総司令官の洪茶丘が武士に追い掛け回されたという
記録があるのに、『八幡愚童訓』が武士が少人数で奇襲をかけたことばかり強調してるから
元寇における武士=ゲリラ戦法みたいな変なイメージがついてしまってる。
学者さんたちって今まで徹底的に軍事問題について考えることを避けてきたから、「ゲリラ戦法」についても
よく理解してないんだよね。
ゲリラ戦法って敵軍と正面からの決戦を避ける戦法だから、それによって例えば文永の役のように
博多湾から上陸した元軍を1日で撤退に追い込んだり、弘安の役のように2ヶ月間も上陸を阻止したり
出来る性質の戦法じゃないのに。
攻撃を仕掛けてきて、日を以って夜をついで戦い尽くした。明け方、日本軍は引き上げていった」
と言ってるように日本軍は「集結して」、元軍船団の正面から攻撃を仕掛けて「日を以って夜をついで」
戦闘するなど、明らかに夜中にこそこそ少人数が切り込んできたゲリラ戦法なんかでは無いな。
怖いな((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
でも、当時のスペインなんて北条時宗が勝ったモンゴル帝国に比べれば全然大したことない。
無敵艦隊は130艘程度だけど、弘安の役のモンゴル艦隊は4400艘。
無敵艦隊は兵員2万人程度だけど、弘安の役のモンゴル軍は14万人。
エリザベス1世よりも北条時宗の方が遥かに偉大な功績残してるのにね。
まあ、欧米人にとって東アジアの戦史になじみが薄いのは仕方あるめえ
そろそろ欧米中心から日本に移す必要がある
みたいな滅茶苦茶なこと言い出す奴が最近増えてきた気がする。
モンゴルは世界中のすべての国を征服する気だったのに。
何で元寇ってこんな嘘だらけなんだろ?
史料のほうを中心に見ればいいしね
それくらいあそこは充実してるな
朝日新聞がモンゴル留学生連れてきて記事にしてた。
普通に元寇と言えば何の問題も無いのに朝日はア○だな
歴史的に長く使われて来た、蒙古と言う言葉を使用出来なくすることで歴史資料の利用を難しくして
知識、記憶の伝承を断ち切り歴史の連続性、過去と今の自国が同一の国だと言う認識を失わせて、
歴史を断絶させるのが目的としか思えないんだよな。この手の左翼の行動って
歴史が細切れになってしまえば、国が入れ替わったりする事への抵抗も少なくなるし革命(w も、やりやすくなると思ってるのかな。
蒙古もだけど鮮卑も大概酷い
だな
日露戦争の勝利を、露に脅威する国々が感謝したように
モンゴル撃退での日本を、西側諸国も感謝していい。
全世界を放牧場にしようとしていたのだから
いるか。
紹介できなくなっているのかな・・・?
絶対に化けて出て呪い○してやる!!
「夜討ち朝駆け」の語源は保元の乱だとも言われてるし
源平合戦の、頼朝の挙兵からまず夜襲、義仲・義経もゲリラ戦や奇襲が得意
少なくとも、決闘用の「やあやあ我こそは」なんかでなく
集団戦・奇襲・夜襲、なんでもありで戦うのが武士の戦争だろ
×高麗はモンゴルに30年に渡り、根強く抵抗し最終的に講話→王族が国民放置して逃げ出して、モンゴルに荒らされまくっただけ
×元の使者切り捨てた鎌倉幕府は国際感覚が欠如→使者切り捨てたのは文永の後。ついでに言うと他にも使者○した国は多い。
×三別抄見捨てた鎌倉幕府は(ry→幕府に支援求めてきたときは既にタヒに体だったし、しかもこいつら裏で元に媚びへつらってた
×武士達は1人ずつ名乗りを上げてフルボッコに→当時の記録にそんな記述はドコにもない。普通に元が負けました。
×神風のおかげ→神風は撤退途中に吹いた。
×和弓はモンゴル弓に大きく劣る→性能面ではほぼ互角。
×殆どが高麗人→主力部隊は蒙漢人という華北の連中。遼とか金の主力だった奴ら。
×元軍率いた武将は無能→高麗の武将は無能だったが、元の武将は南宋遠征や三別抄討伐で功績がある。
×二回目の遠征の目的は旧南宋兵の棄民→他地域では用済みの住民や兵は、基本的に
直接皆○しにしてたモンゴルがそんなまどろっこしい真似するわけがない。
×モンゴル人が主力じゃなかったから元は本気じゃなかった→モンゴル人は元々人口少ないから征服民が主力なのは当たり前。
×台風のおかげで二度目も助かった→台風来る前に勝負はついていた。
×高麗の妨害工作やベトナムの反乱のおかげ→高麗はノリノリで対馬で大虐○しました。ベトナムが反乱起こしたのは弘安の役の後
三井資長、蒙古兵を撃退する
http://blog-imgs-35.fc2.com/3/k/s/3kstyle/201002061140293e7.jpg
三井資長の弓は凄いな・・・
日本の重装弓騎兵の強さが当時の記録に残ってるし、順当に実力で圧勝
もともと戦略でも戦術でも日本優位
2度もボコられて壊滅したのが元寇。
火力も装甲も機動力もパイロットの能力も全てが違いすぎた。
モンゴルは陸軍国としては精鋭でも海軍国としては素人の集まりだったんだよ。
陸軍国としても日本より弱い
博多の街がモンゴル軍に占領されて焼失したなんてのは嘘だからな
博多の街が被害を受けた証拠もモンゴル軍が赤坂以東に侵攻した史料も一切ない
実際は全く逆で今津まで10キロ近く日本軍に押し込まれて撤退に追い込まれたんだからな
ユーラシア大陸で敵無しだったモンゴル軍も鎌倉武士には野戦で全く歯が立たなかった
今津なんて洪茶丘軍が上陸したという記録が一つあるだけ。
最後の戦場は赤坂だよ。
洪茶丘の記録は今津に上陸したんじゃなく「元帥忽敦と共に今津を抜いた」だ。
それに『益斎乱藁』には金方慶も「元帥忽敦と共に今津を破った」と書いてある。
で、『高麗史』によれば忽敦は全軍を率いて洪茶丘、金方慶と合流し、軍議で撤退を決めた
と書いてあるわけで、最終的に元軍が集結したのは今津だろ。
つまり博多方面の戦闘は日本軍の圧勝だった。
それは日本側に記録とも一致してる。
元軍は赤坂で菊池に蹴散らされる。
「武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。小勢は別府の塚原へ退く」
『蒙古襲来絵詞詞書』
その後で百道原で少弐に惨敗。
「爰ニ三郎左衛門尉景資彳ヘタル処ニ、蒙古大将軍ト思シキカ、長七尺計ノ大男、髮腮ノ邊マテ
生ヒ下リタルカ葦毛ノ馬ニ乗十四五騎、カチ走七八十人カ程具シテ、ヲメキ呼テ追懸タリ、
其時旗之上ニ鳩翔舞ケレハ、誠八幡大菩薩ノ御影向トソ憑敷テ、究竟ノ兵共成シカハ、
一鞭打テ馳延テ踏留テ、吉引テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男之真中射テ馬ヨリ下へ逆ニ落ニケル、
郎等共是ヲカゝケテヒシメキケル、粉ニ景資此方へ引返ル、葦毛ノ馬ニ金造之鞍置タルカ走廻リケルヲ取テ、
後ニ尋ハ、蒙古ノ一方大将軍ニ流将公カ馬也卜、生取タル蒙古申ケリ」
『八幡大菩薩愚童訓筑紫本』
元軍は武士に負けて逃げ回ってただけね。
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