西南戦争(西南の役)という西郷どんを盟主にして起こった士族による武力反乱について教えろください
いろんな説を教えて欲しい
伝説 : 西郷「皆タヒせ」
史実 : 西郷の息子が負傷すると一人だけ政府軍の病院に送らせ、救命する
伝説 : 西郷「おいの体をあげもそ」
史実 : 西郷一人だけ助命嘆願
伝説 : 西郷「もうここらでよか」
史実 : 西郷一人だけ投降を試みるが桐野利秋に見つかり強制玉砕
>>2
大むねあってる
俺は除名→山縣「常識で内乱やって維新英雄無罪は無理だから切腹とかしてくれよ」→除名だめでタヒ体を隠す必要があったから、西南幹部が処刑しタヒ体をバラバラに
史実はこんなもん。あの巨体がみつからないのはおかしいんで、おそらく○して埋めた
以前は薩摩に国を滅ぼされた会津藩士が中心だったと聞いていたが
ネタだったか。
薩軍の実質的な頭って篠原だったんじゃないの
篠原:
タヒぬのが怖いのか?とか糞煽り入れて開戦に導いた阿呆の一人
高瀨の会戦では弾薬欠乏を理由に無断撤退を行い見事敗北、
田原坂では裏地が赤のマントを来て前線に出てきて狙撃されてタヒ亡(彼は薩軍副将である)
とんでもない無責任野郎である
桐野:
篠原に乗っかって戦争を煽る
熊本鎮台に「整列して出迎えろ」(篠原かも) 「百姓兵の熊本城など青竹一本で足りる」と豪語するも全く城に取り付けず敗退
そもそも桐野個人の武勇・立ち回りはともかくとして、戦場で優秀な指揮官であった事等皆無であり、小隊長クラスの人物である。
熊本市内を焼き払い、西郷札を乱発し宮崎経済を破壊した屑野郎である
最後は辺見辺りからもうざかられてたと思うw
永山:
薩軍の中でも1.2を争うほど現実が見えていたといっても過言ではない。
また実績も大したもので薩軍の中でも随一の勇者である。
最後まで出兵に反対し、出兵策と決まっても出兵に応じなかったが、桐野の説得に折れて出兵。
常に優勢な敵と対峙し敗退を続け、敗北の責任をとり自害。
村田:
西郷を首相にしたいとかいう夢見がちな漢。
周囲の期待も高く、大久保等の著名人も認める有能な人物だったのだが、メンヘラだったかもしれない。
評定では黙ってたチキン野郎。
彼の指揮した人吉の戦い、都城の戦いの敗戦は致命的を通り越して薩軍の敗退を決定的なものとした。
もっとも誰がやっても負けていただろうが、彼の戦闘指揮は最期まで精彩をかいていた。
アコーディオンやフロックコート、シルクハットが絵になるので、映像化されると出番は多い。
あと田原坂の詩に出てくる美少年は村田の息子らしい。
別府:
戦争を煽った一人、西郷のお気に入りである。
朝鮮視察を行い二三個中隊で勝てると考えたあふぉで全く見る目がない。
(いくらなんでもそれは無理だ)
戦争序盤で脚を負傷して殆ど出番はない。
それでも動き回るから西郷の籠と別府の籠と薩軍は大変である。
最後に西郷を介錯する役を得る。
「ゆるしゃたもんせ」なのか「御免なったもんし」なのかはっきりして欲しい。
辺見:
女で失敗して心を入れ替えた男
西南戦争の薩軍で一番活躍したのは彼かもしれない。
何度か命の危機にも陥ったが、なんとか城山まで生き残る。
これだけ無茶をして生き残っているのだから篠原の無責任さが際立つ。
しかし前線では逃げる味方を切り○したり、逃亡者を味方に喰わせたりする薩摩マンでもある。
また陣地を奪われて悔し泣きするなど人間味のある男だ(辺見十郎太の涙松)
城山戦前、桐野が居ない間に西郷助命に動くなど、ある意味現実が見えていなかった。
辺見自身も言っていたが精鋭を辺見が率いていればもう少し頑張れたかもね。
野村
こいつの作った尋問書(調書)が戦争の引き金を弾いた訳だが、出兵には割とドライな対応だった。
献策はこと如く退けられるも命令を着実にこなして行く。敗北続きの中の薩軍幹部の中では割と頑張った方。
城山の戦いではまさかの降伏。幹部クラスの降伏だったが、タヒ罪となる事はなかった。
熊本協同隊:宮崎八郎
九州のルソー(笑)西郷に味方して西郷を勝たせた後に乗っ取るという野心を持つ
しかし敗北を繰り返す薩軍を見てタヒを覚悟し、辺見を逃がす為に軍旗を奪い殿を務めタヒ亡
タヒ体から民約論の本が出てきて宮崎と判明
翔ぶが如くではなぜか矢崎という名前のオリジナルキャラとして時代に振り回される若者として登場
具体的に何をしたとかってエピソードってあんま聞かないよな
こいつ本当に有能だったの?
>>14
一応幕末の西郷の名代と言えば村田新八って感じなので、西郷の手柄の数割は村田の功績もあるのでは?
それを上層部は知ってるから高い評価を受けてるんでしょ
あと薩軍は脳筋の狂人揃いだから村田を格好よく描くしかないよね(*´ ∨`)
西郷の最後の言葉は「首を斬ってくりゃれ」と。
熊本城篭城戦
政府軍の防衛成功により薩軍の敗北
薩軍の攻城はあまりにも幼稚であり、強襲により士気の高い私学校兵の多くを失った
また余りの幼稚な作戦に熊本士族の一部はやる気をなくして早くも一部が解散
政府軍の南進を受けて薩摩主力が植木方面に移動すると包囲もお粗末なものになり、熊本城を落とすのは到底不可能とものとなる
第一次高瀬の戦い
薩軍の後退により政府軍の勝利
第二次高瀬の戦い
政府軍が薩軍の防衛線を突破し政府軍の勝利
第三次高瀬の戦い
薩軍の攻勢に政府軍が押される場面もあったが政府軍の勝利(篠原の無断撤退が疑われるのがこの戦い)
田原坂に隠れがちの戦いだが政府軍と薩軍の本格的な会戦である
熊本城での躓きと初戦をいきなり落とした事で薩軍に暗雲立ちこめる
西郷小兵衛戦タヒ、西郷菊次郎重症
田原坂の戦い・吉次峠の戦い
☆薩軍の防衛線が崩壊し、政府軍の田原坂突破。政府軍の勝利
政府が清正の遺産熊本城を使えば薩軍も清正が北の守りに整備した田原坂を使う事となった
薩軍の抵抗は激しかったが物資量と武器の差が勝敗を分けた
敗れた薩軍はすぐさま防衛線を再構築し、潰走までには至らなかった。
両軍多くのタヒ傷者を出したが、私学校の士気・練度の高い小隊長を多く失った薩軍にとってこの人的消耗は取り返しのつかない致命傷となる
薩軍副将:篠原国幹戦タヒ
馬上の美少年:村田岩熊戦タヒ(村田新八の長男)
政府軍八代上陸
熊本県南部の八代に官軍が上陸、鹿児島との連絡線を遮断するとともに薩軍の背面を脅かす
続々と政府の援軍が八代に上陸北上し、北上を阻止せんとする薩軍と対峙し、新たな戦線が構築される
薩軍の八代強襲
☆薩軍の攻勢失敗、政府軍の勝利
政府軍の八代上陸を受けて、薩摩で新たに編成した部隊を使い、政府軍を熊本鹿児島間で挟撃するという無謀な作戦
薩軍の狂信的な突出攻撃により政府軍は混乱して、八代市内への突入を許す寸前にまで行くが攻勢はそこまでが限界であり、
最後は政府軍に包囲殲滅され、薩軍は球磨川に叩き落とされた。薩軍司令辺見は命からがら敗走した。
熊本共同隊代表:宮崎八郎戦タヒ
熊本で南北中央全ての戦いで敗北した薩軍はよもや熊本で敗退するとは露ほども考えておらず、
弾薬の不足、人員の不足が顕著となり>>18の八代強襲を行った部隊の拠点の人吉に向けて総退却を開始
大分、宮崎を攻略し長期的に戦える体制作りを始める。(薩軍の延岡占領)
球磨盆地に籠る薩軍を政府は警戒しながらも、着々と増援補給を受けて攻略を開始する
また、この時海上から鹿児島市が制圧された。
緑川の戦い
☆政府軍が薩軍を破り川尻に到達、薩軍の南部戦線崩壊
八代に上陸した政府軍は八代強襲軍を破り本格的な北上を開始
熊本市南部にある緑川で薩軍と激突
三倍の兵力を持つ政府軍の北上を止める事は出来ず緑川の戦線は脆くも崩壊
政府軍は川尻に到達し、薩軍の熊本南部戦線は完全に崩壊し熊本城は開放された。
これで福岡から南下する政府軍と八代から上陸し北上する政府軍と挟み撃ちに合う事となる。
薩軍司令永山弥一郎戦タヒ
城東会戦
☆政府軍の全線総攻撃、薩軍の敗走
熊本南部戦線の崩壊、熊本城の解放を受けて、熊本北部を守備する意義を失った薩軍は熊本平野に移動し、戦線を再構築
政府軍も続々と熊本城周辺に集結し部隊を再編し出撃。
関ヶ原以来の大規模な会戦が開始された
(薩軍8,000対政府軍30,000)
薩軍は奮闘するも数に劣るため、一部戦線を突破されるとそれが崩壊のトリガーとなりやすく、結局2日で薩軍は敗走を開始する
薩軍鹿児島奪還作戦
薩軍大敗、政府軍の圧勝
鹿児島市奪還を狙い鹿児島市に侵攻するも薩軍は大敗
また同時期に行われた熊本最南部(水俣、佐敷、芦北)の戦いでも薩軍は敗北
薩軍前線部隊が政府軍に投降するなど、熊本で士気の高い兵士・小隊長を大量に失った後遺症が早くも出てくる
人吉に向けて進撃する球磨川沿いの政府軍にも薩軍から投降者が相次ぐ
この時期薩軍の作戦が上手くいったのは政府軍の主力の配置されていない、大分宮崎方面くらいで、投降者が相次ぐ等、徐々に崩壊を始めている
熊本最南部の戦いに敗れ政府軍の人吉の半包囲が完成し、鹿児島市奪還も失敗した薩軍は球磨盆地で孤立する
また西郷が宮崎に移動、護衛に2,000人付けた事もあり、人吉の防衛能力は更に低下した
人吉攻防戦
政府軍人吉攻略
熊本最南部の攻略と球磨川沿いを南下した政府軍による人吉総攻撃
薩軍は人吉城下で激しく抵抗するも、全線で敗退、人吉は陥落した。
宮崎方面に向けて敗走するも政府軍の激しい追撃を受けて各隊ちりじりとなる
薩軍各隊は各地で抵抗するも物量に勝る政府軍が各地で圧勝
逸見十郎太が「私学校精鋭さえいれば勝てた」
と悔し泣きしたのはこの頃である
守備に適した球磨盆地で大敗を喫し、戦局の好転は一段と苦しくなった。
また一連の戦役で政府軍の鹿児島熊本福岡の連絡線が繋がった。
戦タヒ: 淵辺群平
都城攻防戦
政府軍が都城を攻略、薩軍の戦局好転は絶望的となる
人吉を攻略した政府軍は薩軍が再集結している都城へ侵攻を開始、また鹿児島市を制圧した政府軍も北上
都城も人吉と同じく盆地であり守備に適した地形である
この地形を活かし薩軍は各所で激しく抵抗するも、戦力の整っている政府軍の全面攻勢を止める事は不可能であり
政府軍は薩軍の防衛線を各所で突破し都城に突入、薩軍は宮崎市に向けて敗走を開始する
退却時迅速に兵員を回収し、退路を適切に確保した為、激しい追撃はなんとか免れたが、
都城の陥落は薩軍の敗北を決定づけるものであり、最早この戦いで薩軍が勝つ事は不可能となってしまった。
政府軍の宮崎侵攻
政府軍宮崎各所を制圧
この頃になると最早薩軍の士気は崩壊寸前であり、各地で薩軍の投降が相次ぎ、投降者の多さに政府が頭を痛める事となる。
薩軍は各地で敗北し、宮崎北部に敗走
和田越の戦い
政府軍が野戦で勝利
政府軍山縣と薩軍西郷が直接指揮をとる戦い
弾薬が不足し、士気が下がっていた薩軍だが、西郷の登場で士気が向上
桐野隊の斬り込み等で政府軍が押される場面もあったが艦砲射撃等物量で結局政府軍の圧勝
薩軍はとうとう全面包囲され、解散令を出すに至る
城山籠城戦
政府軍が城山攻略、薩軍壊滅、幹部の大半がタヒ亡
和田越えの戦い後、山岳地帯を踏破し薩軍は帰薩し、鹿児島市内に突入
私学校と城山を占領
鹿児島市民も薩軍を歓迎し、鹿児島市内を制圧する勢いもあった
城山に鹵獲した大砲を上げて籠城の準備を進める
政府軍は城山を完全包囲し、威力偵察を何度か行う。この威力偵察にすら薩軍は完敗し、軍事組織としての機能がほぼない事が露呈する。
7万対3百の戦いである。
政府軍の総攻撃で投降した野村達以外は行方不明か戦タヒ、自決した。
弾がない!斬り込むぞ!
→なんとか政府軍を撃退するもタヒ傷者多数(小隊長も負傷・戦タヒ)
→どんどん戦力が低下して戦線を支えきれなくなる
→政府軍は基本大軍を活かした包囲陣形なので、戦線抜かれると直ぐに敗走
田原坂以降はずっと上の繰り返し
田原坂が決戦みたいに言われるけど、
実際には高瀬で勝負は決まっていて、後は掃討戦みたいなもんだよね
高瀬の会戦で三連敗して政府軍つえーって認識改めればまだなんとかなったかもしれん
いずれは負けるだろうな
>>29
最序盤にして最後の攻勢である高瀬の戦いで薩軍が三連敗した意義はとてつもなくでかい
小倉長崎進撃どころか熊本北部すら突破出来ない、正面決戦で征討軍の南下を止めるのが厳しい事が露呈してしまった
田原坂防衛線で防御に徹しても物量攻撃の前にはどうしようもなく敗れる
衝背軍の八代占領、鹿児島占領でコールド負け
政府軍・薩軍のタヒ傷者は殆ど変わらない
薩軍は旧式の武器で頑張った
とはいうが、殆ど政府軍が攻める側で守勢の薩軍並にタヒ傷者が出るのは当たり前
やっぱり薩軍はくそ、はっきりわかんだね
と常に沈着に思考したと言われた池上四郎
この御方はあんま話題に挙がらんよねぇ
どんなタヒに方したですか?
鹿児島に置いといて兵站担当にしとけばよかった
鹿児島にまで脳筋ばっかり置いてて鹿児島取られましたって話にならない
まずは熊本城!九州の真ん中だし落とせば状況見ながら動ける様になるから是が非でも欲しい!
鎮台はろくに訓練してない農民兵揃いだろ?楽勝だろw
兵站は熊本城を落として考えようwここを兵站の中心にせなんし急いで前線に物資送らんでええで!
現実
鎮台はマジで戦する気か?しかも熊本城にとりつけないの?マジ?
は?征討軍が南下?早すぎん?(佐賀の乱の教訓を無視)
どうしよう…強行か?長囲か?
鹿児島市が制圧された?貯めてた約一年分の物資は?全部駄目?\(^o^)/
かくなる上は弾は現地民を戦場に送り込んで使用済の弾を拾わせるぞ←最悪
第一次高瀬の戦い
菊池川の渡河を準備していた征討軍に薩軍が仕掛けた戦い
待ち構えていた征討軍に散々銃撃されて撤退する
第二次高瀬の戦い
菊池川を渡河した征討軍が薩軍を強襲、薩軍は敗退
勢いに乗った征討軍一部は田原坂まで進出するが突出を嫌って田原坂を制圧せず
後にこの判断が裏目に出る
第三次高瀬の戦い
薩軍主力(村田、篠原、別府、桐野)と征討軍の主力会戦
薩軍は各所で善戦するも杜撰な動員と連携の失敗で結局敗退する
中央隊の篠原の弾薬不足による撤退が敗因と言われているが、弾薬不足のソースは非常に疑わしい
とは言え連携の失敗は確かで、桐野の率いていた兵数の少なさなど、明らかに失策が目立つ
この戦いで薩軍は熊本城の短期攻略の失敗、征討軍の南下阻止の失敗、
更に攻勢に出で農民兵(徴兵)に負けるという最悪の展開に陥った
簡単な流れ
高瀬:薩軍の敗北、薩軍最初で最後の大攻勢
副将格・桐野、篠原 参謀格村田、別府が参加
田原坂:薩軍の敗北、副将格の篠原戦タヒ
八代:薩軍の敗北、薩軍熊本で南北敵に挟まれる
緑川:薩軍の敗北、この結果薩軍は熊本平野で半包囲される、薩軍の良心、永山戦タヒ
熊本城に一部政府軍部隊が入城
城東:薩軍の敗北、薩軍熊本平野から総退却、熊本城解放
薩軍は自給自足、長期戦体制の構築に戦略変更。人吉に兵力を集中し、日向・豊後に侵攻開始
鹿児島:薩軍の敗北、薩軍鹿児島市を喪失、多数の弾薬を政府軍に接収され、只でさえ脆弱な兵站は完全に崩壊
人吉:薩軍の敗北、防御に適した人吉を失い戦局の挽回は苦しい状況となった
また前後の戦いで薩軍からの投降者が出始める
政府軍は鹿児島-人吉-熊本-福岡の連絡線が整った。
都城:薩軍の敗北、防御に適した都城まで失い最早戦争の勝敗は決した
捕虜数が増え始めて、捕虜の扱いに難儀する様になる
宮崎:薩軍はこの頃になるとなんとか軍隊の体裁は整えてはいるが士気も低く一方的に負ける
政府軍は急激に捕虜が増えた為、別働第三旅団を解散して捕虜の対応にあたらせる
和田越:西郷隆盛が指揮し士気は大いにあがったが政府軍の火力の前に粉砕された、薩軍は解散し、薩摩へむけて逃亡開始
城山:政府軍を避けながら鹿児島市までなんとか帰ってきた薩軍残党は私学校と城山を強襲し占拠
九州各地の政府軍が城山に集結し、城山を完全に包囲し総攻撃
薩軍残党玉砕、大半の幹部がタヒ亡
気概ばっかり一丁前で戦略が疎かな無知蒙昧の指揮官桐野篠原別府じゃなく
永山弥一郎村田新八池上四郎野村忍介が大隊の隊長務めて戦略担当してたら圧倒的な兵站、徴兵による豊富な兵員を誇る政府軍に対し
結果は恐らく敗戦は免れなかったろうがもっと善戦してたのかな?
野村の豊後延岡に割拠し全国に檄を飛ばし各地の不平士族と呼応する案
土佐士族と合流していたら………
歴史にたら・ればは無意味だが
>>40
薩英戦争経験してるのに海上警戒がガバガバ(っというか割く戦力がない)
結果日奈久上陸、鹿児島上陸でTHEEND
鹿児島に戦力置けば足らない戦力が更に不足(軍艦相手に戦える戦力をそもそも後方に置くことは可能か?)
さて、君ならどうするね?
挙兵しない
糸冬
村田と永山は(西南戦争が回避されたらの仮定)存命してたらば明治新政府の下どんな仕事為し遂げたのかな
いろいろ妄想するのが楽しみだ
任侠気質で脳筋の篠原桐野はどーでもいい
畳の上でタヒねなかったろう終末は想像つく
返すがえすも惜しい、永山、村田の戦タヒ
>>45
村田「西郷先生が日本の首領になるのがベスト!無論それは武力を使わない方法でな!」(真顔)
だから正直先を見通す能力は低そうやな
政治は伊藤以下、軍事は山縣以下の両者の中間くらいかね
村田は政府に残っていたら大久保タヒ後は黒田とか差し置いて確実に薩摩閥の筆頭になったろ
伊藤と村田で明治政府をきりもりしていったに違いない
山縣などそうなると筆頭元老などになってあれほど君臨することもなかったifが考えられる
村田の下とかで思うようにやらせれば出世しそう
ある意味では最大の危険人物っぽいんだよな
私学校党のような肉体派低学歴集団の中における高学歴者の身の処し方としては、村田新八は誤っていないよ。
黙っているしかないんだ。黙って自分の能力だけを提供するしかない。
野村忍介のように多数派である低学歴者を差し置いて献策なんかしていると、
最後には「お前さァは、蒲生城を守れ」と置き捨てにされてしまう。
司馬の翔ぶが如く作中で緑川の闘いに破れ責任を取って永山があばら屋の持ち主老婆に現金渡して立ち退かせて火をかけて自刃したって史実かね?
あまりに潔く散る姿をカッコ良く描き過ぎてるきらいがあるような読後感
司馬の空想の産物だったりして
男の中の男だよね事実だとしたら
>>52
・大怪我を負っている永山の周りにはそこそこ側近がいた可能性が高い
・幕僚達は永山に促されて本営に帰っている
・永山の性格
以上を考えればこれに近い事があった…とみてもおかしくない
税所左一郎が介錯したという説もある。
『翔ぶが如く』では、税所在一郎と書かれている輜重隊長。
村田はヨーロッパから帰国後直ぐに帰郷し私学校党に加わった。
西洋列強と肩を並べるために西郷を首相にしたいと考えていた。
村田は出兵案に消極的反対で業を煮やした篠原に「タヒぬのが怖いのか?」と煽られた模様。
永山は西郷辞職で帰郷した訳でもなく、私学校にも属して居なかった。
曰く「政府は日々進歩している」
「お前は政府のしている事を知っているのか?我々の思っている事が正しいとは限らぬぞ?」
と過激な私学校生徒を論じていた。
出兵案に断固反対で最後まで反対を貫き出兵に付き合うつもりも無かった。
このような状況下でも永山を批判する私学校生は誰もいなかった。
勇敢で功績抜群、女子供から敬愛されており、人望の厚い永山をどうしても出兵させたかった。
肉体派低学歴集団は、大久保・川路・野村のような「仕事のできる人」に劣等感をもっていて、好きになれないのよ。
三沢元雄だけでなく、浅井仁庵という軍医試補もいたことになっている。
浅井仁庵は佐渡出身で、浅井家は代々佐渡奉行所典医の家柄である。
この仁庵の兄弟に浅井貞吉がいる。この貞吉が倉本聰の母方の祖父にあたる。
薩英戦争1863年→戊辰戦争1868年→西南戦争1877年
(薩英戦争時の年齢)
村田新八27歳(慎重派)
篠原国幹26歳(強硬派)
桐野利秋25歳(強硬派)
永山弥一郎25歳(反対派)
淵辺群平23歳(強硬派)
池上四郎21歳(強硬派)
池上忍介17歳(反対派)
別府晋介16歳(強硬派)
辺見十郎太14歳(強硬派)
西郷小兵衛14歳(慎重派)
口だけは達者なトーシローばかりよく揃えたもんですなぁ。まったくお笑いだ。
大村益次郎がいたら、奴も笑うでしょう
先に進むごとにボロクソにけなされているのが笑える
薩摩びいきの長州嫌いだった司馬遼太郎ですらこいつらは擁護不可能だった模様
*薩軍は密室に閉じ込められたといってよく、古今東西の戦史上、こういう滑稽で愚劣な位置にみずから入りこんでしまった軍隊はない。
西郷が見込んだ桐野利秋という男が、いかに戦略能力において本質的な欠陥者だったかということが、この一事でもわかる。
【二】日向山中での逃走劇の最中、桐野が西郷の金時計を欲しがったことに関する司馬の桐野評
*桐野は痛快なほどに無内容な男だっただけに、外観を飾ることに、子供か未開人のように関心が強かった。
*桐野はこの期に及んでもなお絶望感を持たなかったのではないかとも思え、気味悪くさえある。
別府や辺見みたいな戦しらずのくそ若造が「絶対勝つ!」「躊躇うと負ける!」とか騒ぎ立てて本来抑えるべき桐野や篠原がそれに乗っかってるから救いようがなあ
>>67
篠原は最初から若手と戦争煽っていたけど、桐野については
若手の暴走を食い止める気はあったフシはあるんだよね
火薬庫襲撃について否定的だったし。
ただ周りが戦争一色になってからは、先頭に立って煽りまくっている
薩摩の快男児みたいに言われているけど、
現実の桐野ってよくいるキョロ充
たまたま薩摩にいたから巻き込まれただけの永山は不憫でならん
しかも参加を渋る永山を情に訴えかけて参加させたんやろ
あれで勝てるとよく思ったな
主力を北へ向かわせず悠長に熊本城を攻め続けているのがそもそもマチガイ
海外政略に関しては斉彬・西郷・桐野の系譜の人で、北京談判のときも大久保に批判的だった。
西南の役当時熊本鎮台の参謀長の樺山資紀が、まさか薩軍と戦うとは、西郷らは思っていなかったに違いない。
文久の久光上洛と同様に、戦うことなくして東京まで行けると思っていたんじゃないかな。
川村純義「西郷の親戚の俺が鹿児島見に行くんご」
私学校「軍艦がきた!奪い取れ!」
川村「なんやこいつら三(((((´ω`;)キモッ!駄目だこりゃ」
薩軍「西郷大将のお通りや!鎮台は整列して出迎えろ!飯も準備するんやぞ!」
鎮台兵「司令官!武装した集団が押しかけてきました!」
谷「こんな無法者達は絶対に通す訳には行かん!」
薩軍「鎮台が撃ってきた!俺達は戦いたくないのに撃ってきた!戦を仕掛けてきたのは政府だ!(笑)」
西郷「許せん!宮の軍隊が上方から来ても蹴散らしてやるは!わはははは(笑)」
城山前
河野「政府が仕掛けた戦争だー!西郷先生をを助けろー!」
川村「俺が鹿児島行った時軍艦奪おうとしたし文句あるなら法に従って訴えればよかったやん、はい論破!」
1000名以下になるってあまりにも惨めで無能だよね
さも薩軍が善戦したって言われるが最初で最後の攻勢の高瀬では敗れ、有利な防衛戦でもぼろ負け
主要な会戦は全敗、守るべき拠点(人吉)から兵を引き抜き西郷の護衛に回し、あっさり人吉を取られる始末
何が何だかわからない
これに関しちゃ人吉の複雑な事情ってのがある
基本的に人吉藩の相楽家ってのは優秀な当主が多かったんだけど、とにかく幕末は悲運に見舞われまくりで藩政崖っぷち&民心はバラバラの状態
そのまま明治維新後の混乱期を迎え、新政府恭順派と反政府不満士族が混在する状況に・・・八代芦北から後退して陣を構えた薩軍としても、誰が味方で誰が敵かわからないままの防衛戦となった
んだもんで疑心暗鬼に陥った薩軍による悲惨な事件も起きたりで、民心掌握どころか総力を投じての防衛線維持とかも難しくなってたんだわな
しかも人吉の隣は、旧薩領とは言え必ずしも西郷や私学校党に傾倒してるとは言い難い伊佐大口地域だったりする
まぁ精強を誇るも微妙な立ち位置にいた伊佐士族だが、いざ故郷の危機となると薩摩士族の魂に火が付いちまい、もはや絶望的となった抵抗戦に次々参戦しちまう結果になるわけだが
最初で最後の薩軍の攻勢が三戦やって全部負けるって衝撃的すぎるやろ
しかもこの戦いが最序盤って流石に笑うしかないやろ
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません