本能寺の変後の柴田勝家直筆の書状が見つかる
「本能寺の変」後の柴田勝家直筆の書状見つかる
2018年11月16日 12時24分
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181116/k10011712961000.html
明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」の8日後に、信長の重臣として知られる柴田勝家が織田方に宛てた直筆の書状が新潟県新発田市で見つかりました。光秀の討伐に出遅れた勝家が、当時、京都から大阪に展開していた光秀の居場所を正確に把握できていなかったことがうかがえる内容で、専門家は「本能寺の変直後の勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ」と指摘しています。
今回見つかった書状は、本能寺の変の8日後の天正10年6月10日、今の福井市の居城にいた柴田勝家が、織田方の武将、溝口半左衛門に宛てて書いたものです。
郷土史に詳しい新潟大学の冨澤信明名誉教授が新発田市の溝口家に残る歴史資料の中から見つけました。
書状の冒頭には、「天下の形勢は致し方ないことで言語に絶するばかりだ」と、本能寺の変について勝家の驚きのことばが記されています。そして明智光秀が、拠点としていた江州、今の滋賀県にいるとみて、当時の大坂にいた織田方の重臣、丹羽長秀と連携して光秀を討伐する計画を明らかにしています。
調査にあたった専門家によると、本能寺の変のあと勝家が光秀の居場所に言及したものが見つかったのは初めてで、光秀討伐に出遅れた勝家が当時、京都から大阪に展開していた光秀の動きを把握できていなかったことがうかがえます。
調査にあたった三重大学の藤田達生教授は「本能寺の変のあとの勝家の情報収集の水準がわかる貴重な記録だ。今後は、そうした状況のなかでなぜ、豊臣秀吉が光秀討伐に素早く動けたのかという点に関心が高まるのではないか」と話しています。
光秀を唆したのが秀吉だったから大返しが可能だった
すごい花押だなぁ…
>>1
すごく大事なことは、
こういう貴重なものが日本中でたくさんゴミ扱いされてきたこと。
「書誌学」とか勉強した古文書読めるひと、資料の重要性を認識してるひとが村々にいればいいけど、
現実はそうじゃない。
放送大学に書誌学の放送授業があったりする。知的で健康に余裕ある高齢者にそういう科目勉強してもらって、
文化財保護に取り組んで欲しいもんだ。(売却益目当てでも構わない)
>>323
公家などと言うのは恩義を大切にする連中ではない。
これからのことしか考えない。
信長が天下を平定したことには評価をしても、朝廷の専権事項である
暦の制定にまで口出ししてきた時点で、「これは今のうちになんとかしないと」と
考える公家が出てきたのは当然の成り行きだ。近衛前久がそれを言い出したと
言われている。
模造じゃねえの?
なんだかわからないまま残ってるものもたくさんあるんだよ
まだ個人所有のものや手付かずの史料が山のようにあるんだよ。
模造って事は実物があるって事じゃんw
子孫は面倒くさくて蔵の中身なんて放置なんだろうね
しょうじき捏造も多い
専門家だって実際はわからない
秀吉黒幕説に一歩近づいたな。
秀吉黒幕ではなくあ、秀吉は本能寺の変を利用したと考えるべきだな
本能寺の始まる直前に明智の行動は解かっていた可能性はあるな
それも無理
明智軍が京都に向かうこと自体は中国に行くルートの1つなのでおかしくもなんともない
それだと二条城にいた信忠がノーマークだったのが解せなくなる
信忠が生き残っていれば秀吉の天下乗っ取りとか無理だから
秀吉は常に信長の動向に気にかけていただけだろ
柴田は譜代筆頭(一応庶子の流れだが男系では織田一族でもある)
なのでそこまで気にしてなかっただろうよ
別に見つけてから言ったわけではなく
姫路→尼崎→山崎と進軍して行ったら向こうから出てきただけの話だろ
現地の武将ともどんどん合流してるし
北陸に居座ったまま動かなかった勝家がドンガメなだけ
山崎の合戦は、秀吉方についた難波の武将が
中心になって明智軍と戦った。
秀吉本隊は後詰め。光秀に関する情報は難波の武将が教えてくれた。
あの時に毛利に持ってく書状を
俺が道を間違えて秀吉の陣に迷いこまなければ…
どんまい
お前のせいで明智のとっつぁんは………
当時は電話も新幹線もないしな。秀吉は怪しすぎる。
秀吉新幹線説か
きっと新倉敷ではなくて岡山から山陽新幹線乗ったんだよ
どこで降りたんだろう
良くもそんな古い書状が残ってるもんだ
>>21
古いと言っても近世の文章だし。
正倉院文書
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%89%E9%A2%E6%87%E6%9B%B8
>写経所文書は、天平期を含む8世紀の約50年間(727年-776年、神亀4年-宝亀7年)に、
>東大寺写経所で作成された帳簿類である。
凄い発見だな。
ただ、改めて秀吉の中国大返しに疑念が出てくるね。大博打を打っただけなのか、黒幕か…
これだから歴史は面白い
本能寺の変で一番得してんの秀吉だもんな。
なんで疑念なんて出てくるかね
秀吉は本領を光秀に奪われることは間違いなく、妻や実母は安否不明。
最前線に居て孤立したら、我が身も危ない。
いつまでも在陣してる場合じゃない。
普通に考えれば、一刻も早く退却して光秀側に回っていない織田勢と合流するのが道理だろう。
退却に気付かれれば追い打ちをかけられるのだし、タヒにものぐるいで戻るのは至極当たり前なんだが。
中国大返しが速すぎるって言う人がいるが
賤ヶ岳でも同じような超スピード進軍しとるし
羽柴軍は相当な補給体制ができてたんやろな
羽柴軍だけでなく全体的に当時の軍の動き速いよね
輝元も関ヶ原の時軍船使って一日とちょっとで大坂に毛利軍入れてる
これは幕末でも和船ではこんなスピードで行軍出来なかったらしい
これ超えるのなんて南北朝の
北畠顕家ぐらいだな
違うのは北畠軍は掠奪しながらやってきたが秀吉は補給の仕組みを使ったことだな
まあ秀吉の場合自分の領地だからなw
早いもクソも歩いて数日の近距離だしな
中国やモンゴル中央アジアの遊牧民と舞台の広さが違う
若狭国の大飯高浜のあの辺りを治める城主格だった
越前北ノ庄に居た勝家が京に近い高浜城主の溝口氏に
情報提供を求めたものだろうね
賤ヶ岳の戦いでも、勝家の動きは
とろっこい。加齢のせいだろうな。
お市の方に柴田勝家の嫁になるように勧めたのは秀吉みたいだけどね
何が狙いだったのかは不明だけど
そもそも「市が秀吉を嫌っていた」「秀吉は市に憧れていた」も歴史を語る上では「?」な俗説っぽいよな
俺も「秀吉が柴田勝家と市の縁談を推した」説の方を聞いたし(勝家の記した書状が残っているとか)
北ノ庄城の落城の際には市が直接秀吉宛に「娘たちよろ」って書状をしたためたって記録あるんだし
嫌いなヤツに娘任せるかい
どうせ徳川が秀吉の評価を下げるために流したんだろ
それか江戸時代のやつが面白半分で話をつくったか
江戸時代の人って下品だから義経が建礼門院と寝たとかなんとか歴史上の人物について下品な話創作しまくってるし
明智についたと判断していたんだろうか?
対して明智長宗我部の情報は羽柴三好十河に筒抜けだったのか?
十河って九州でタヒんだあとも厚遇されたっけ?
改易
大名として存続できたの丹羽だけだな
藤吉郎の嫁方は存続してるよ
ならなかったの?
徳川家康や伊達や島津や長曾我部や毛利や上杉ですら
秀吉の部下になったのに
こいつらの方がすごいわ
そこはまあ元ライバル会社の社長が成り上がった財閥のトップに頭を下げるのと
同じ会社の重役がバ○にしていた目下の社員に頭を下げるのとの違いじゃないかね
滝川さんはタヒぬまで秀吉にこき使われています
手当たり次第ったって、どこかの旧家の文書を見せてもらうにも、現当主の許可がいるわけじゃん
その家で調査させてもらうにしても、持ち出しを許可するにしても結構面倒な話で、当主が許可をくれない場合もある
無理矢理見たら窃盗や家宅侵入罪で通報される
あと、蔵を片付けたら出てきた、市に寄贈したいというお宅があって文書一切を市に寄贈してくれたとしても予算もないから整理もされなかったり
整理したとしてもバイトの史学部の学生が機械的に整理をしていて重要な文書だと気付かない場合もあるし(自分の研究していること以外には疎いやつは多い)
まあそんなこんなで明確な研究目的を持って調査に当たる人物が現れた時に価値を認められ「発見」される文書は今でもある
磯田道史がテレビに出まくってるのも
旧家の文書を見せてもらう許可を取りやすくするためらしいね
TVによく出てる人だとすぐに信頼して特別に見せてくれるそうだ
なるほど
うまい手だねw
現当主が歴史に興味がないことって結構あるんだよね
そういう時に「テレビに出ている有名な先生」になら調査を任せてもいいだろうと思う人もいるだろうね
読売新聞に磯田は連載枠を持ってるけど古本屋をあちこち回っていろいろ発見してるみたいだ
古文書読める人の人数と古文書の数が圧倒的に違いがある
古文読むのにはかなりの勉強がいるわけで、素人は誤訳するから任せられない
古文書は山のように存在してるが、解読が追い付かないから
ある日こうしてパッと出てくる
明智光秀と柴田勝家と津田信澄が共謀して信長を○したらしい
頭の悪いデタラメが勝家の手紙で丸バレだな
充分あり得るね
信澄は勝家の城で養育されてたし後に光秀の娘と結婚して本能寺の変では明智方についてたし
明智方には付いてないよ
箝口令が敷かれていて信長がタヒんだことは信澄は知らなかった
隔離されて攻め○されたんだよ
信孝が信澄を○したのは光秀との共謀を疑ったからというのは建前であって
本当は後継者レースのライバルを蹴落とすためだったなんて説もあるしな
大河ドラマで「江」やるまで
柴田勝家祭る柴田神社なんて
繁華街の外れの立ちしょんポイントみたいな
うら寂しい神社だったんだぜ
直ぐ真横にソー○徳川とかあるし…
今は多少観光スポットとして整備されたんだろうか
同時代の資料にも周りの武将にもそれを疑ってる気配すら無いし
秀吉は幕下に官兵衛おるから情報戦最強で明智の動き筒抜けだっただけだろう
そんな噂があったなら、秀吉の敵対勢力が大義名分で出してたやろね
秀吉黒幕説は何か強引な解釈なんよね
いかにも秀吉嫌いの朝鮮人と、それに釣られてるア○な日本人の戯言やろ
本能寺の変で一番得してるの家康だもんな、秀吉や長宗我部じゃなく
秀吉は情報通だから黒幕ってよりは光秀周りが不穏なの察知してたってくらいだろうな
それにしては10日後に明智倒すって早すぎ
信長を本能寺に呼び出したのも秀吉
出来すぎてる
本能寺にいたのは公家向けの会合
呼び出したのは毛利討伐へな
中国地方に行くまでに信長がどんな行動するかなんてしったこっちゃないよw
秀吉も勝家も主導権争いしてる余裕も無くなってたかな
大丈夫
堤防の堰を切って毛利軍が追い打ちできないように
手を打ってるし
宇喜多も殿がりで残ってるし無理
https://www.youtube.com/watch?v=y3tOmuobBf8
裏切り者の前田利家を責めなかった所からも、あの時代を生き抜くには人が良すぎた
秀吉が黒幕ではないだろ
ただ秀吉は明智に不穏な動きがあるのを知りながら放置した可能性はある
歴史好きの俺からしたら
もし柴田勝家が先に明智と対峙してたら柴田勝家は明智光秀に勝てたかは気になる
信長と信忠の動きなんて本人以外誰にもわからんのよ
手勢しかいない状態、光秀は合法的に大軍を集結させていて、周りには大軍がゼロとかこんなもん偶然発生した状況だよ
この状況みて光秀は身近な側近にすら知らせずに決断したから情報が漏れずにクーデターが成功した
陰謀説が成り立つ余地は全くない
そのifは秀吉が毛利との和睦ができず
柴田はかなりゆっくりとした進軍だったので、本能寺から結構経った時期での決戦になるはず
時間があればあるほど明智軍は増えてるだろう
美濃や大阪も制圧してるだろうし、細川や筒井も積極的に参陣してるかも
明智軍の方が軍勢は多いかもしれない
戦場は近江か越前か
本能寺から1~2ヶ月ぐらい経った時期だろうか?
夏前なので雪の心配はない
信長信忠を京都に呼んだのは秀吉
秀吉が信長信忠を京都と本能寺に呼ばなかったら2人はタヒんでない
信長信忠が京都に宿泊してたのは公家とのお茶会のためだぞ
秀吉は中国制圧の功績を独り占めしないために
信長信忠の功績にするべく呼んだが
京都でお茶会してから来てくださいなんて言っていない
悲惨な末路だよね
天国から一気に地獄に向かって行った
明智は秀吉に
出世争いで負けて
やらかしたのか?
長曾我部の調略も進んでたのにね
昔、心理学者と精神科医が信長と光秀の関係を
現存する手紙などから分析してみるって番組やってたけど面白かった
当初は上司と部下という関係で適度に距離を保てていたのに途中から共依存関係になり
特に信長の方が明智に対する心理的依存が強く
「明智は何も言わなくても分かってくれる」って心理状態になったあと
どのあたりだったか忘れたが「なんで自分の気持ちを分かってくれないんだ」
っていう心理状態に変化していったらしいとか
信長と明智の関係が破たんするのは二人の関係が最高に良かったとき
極度の共依存関係になってしまった時点でもう決まっていたようなものだったとか
明智の方は共依存関係が破たんしたあとは何をやっても信長の信頼を得られない状態で
精神的にはきつかったはずだっていう結論だった
そら秀吉が勝ち残ったからだ
勝ち残った者にしたら同格の人間は処分しないとまずいだろ
旧織田家臣で生き残ったのは丹羽以外はみんな秀吉よりから格下の連中
丹羽だって120万石から長秀タヒんだら100万石以上取り上げられてる
丹羽だって120万石から長秀タヒんだら100万石以上取り上げられてる
まじで?
利家はラッキーだよね 柴田の与力だったのに
前田は賤ヶ岳の時に裏崩れをして勝家軍が崩壊するきっかけを作ったから勲功第一なんだよ
関ヶ原の小早川みたいなもん
前田だって秀吉が元気に長生きしてたらどうなったか分からん
秀吉は生前大領地をすんなり相続させたことは殆どないからな
なんで長曾我部と島津は秀吉と戦っても
命とある程度領土保証されたけど
北条は命も領土も保証されたの?
籠城して粘ったから?
戦争は戦いが長引けばすごい金かかるらしいね
すぐに降伏したら命は助けてもらって
ある程度領土は保証されるの?
>>171
長宗我部は対島津戦、島津は対明戦のため残したんじゃないかな?
次なる大敵が残ってる状況で、ここを完全潰すより利用しようと
島津は当初薩摩だけ安堵で、大隅を長宗我部にと思ったが
息子のタヒ去でア○になった元親が辞退、日向の理由は忘れた結局3国安堵
北条も大人しくすぐ降伏してたら相模伊豆ぐらいは安堵してもらえたと思う
しかし島津長宗我部のような利用価値は少なかったからだろうし
たぶんそうだろうね
家康を左遷したのは力弱めるためか?
徳川家康の250万石は?
秀吉は家康の腹黒さを最後まで見抜けなかったのか?
潰すにはデカすぎて強すぎた。
「秀頼をお頼みします」 としか言えないでしょ。
長手小牧で勝てなかったからか?
長手小牧の後に秀吉は20万ぐらいの大軍勢で家康征伐する気満々だったけど大地震で
秀吉方の城がほとんど潰れてそれどこでなくなったから
政治的に勝負して母親を差し出して臣下の礼取らしたんだよ
家康も運がいい
あの時点で秀次生きてたろ
秀次生きてたら家康が250万石程度で敵うわけないじゃん
250万石で全国敵にまわしたらどうなるか北条が示してくれたばかりだろw
秀吉政権が終わったのは秀次を潰したからだよ
やってたのかね?
>>114
さあ。
子供は出来なかったし、婚姻自体が反秀吉同盟のようなものだったから。
森とか平手とか災難だったよね。
勝家ってお市の事が
好きだったの?
秀吉もお市が好きだったの?
>>142
知らんよ。
お市は激しく秀吉を憎んでいた形跡がある。
・浅井長政とお市の嫡男「まんぷく丸」を助けると言って秀吉は保護したが、
織田信長は「秀吉が串刺しにしろ」だった。
・小谷城を破壊、沿岸に秀吉は自らの長浜城を建てて国持武将になった。
まんぷくはお市の子じゃねーぞ
それは異説。
実際のところは不明。
魚津城の兵を皆○しにしなければ
勝家も上杉と和睦して大返し出来たかもだがな
溝口半左衛門という重臣がいるらしいが、
子孫なんだろうか。
名前は受け継ぐからそうかもね
血が繋がってるかどうかはわからないが
絶対裏切らないと思ってた
利家が裏切って
みんな戦意喪失したね
普通に考えたら一気に勝負を決める大チャンスやんあの時
その時点で、柴田側与力の前田利家が突然、戦場から離脱したんだよ。
しかもな
前田軍は柴田軍の後方に位置していたからな
裏崩れと言って後方の軍が崩れたら軍隊は持たない
利家は信長の命で勝家を見張るために勝家の与力になっただけ。
秀吉と勝家を天秤にかけたら、そりゃもともと仲の良い秀吉が勝つわな。
勝家に対しては何の恩義も無いわけだし。
利家が嫉妬のあまり、信長の可愛い坊主を斬ったときに命を救ったのは勝家
大恩人だぞ
信長の戦略である。「情報収集」「機動性」などの重要性をまったく理解できなかった。
そこが、秀吉との決定的な違いだな。
秀吉は信長から「戦いにおける情報の重要性」と「戦力的に劣っていても機動性と意外性」で
相手に勝てるということを学んだ。
柴田勝家はひたすら忠誠心だけで信長に仕えた。まあ、愛すべき人物ではあるが
戦国時代を生き延びるには無理があったな。
交通の整備された現在と違って、当時の北陸はとんでもない僻地。
すぐに動けるわけないだろが。
>>230
北陸は京都のすぐ上だし主要街道なんてそれほど大差ないだろ。
情報活動への力の入れ方の差だろう。
一度、京都~福井を一般道で移動してみろよ。
峠の連続で戦国時代の移動の過酷さが解るぞ。
柴田政権とかどんな政治するかイメージ湧かないもん
文書が残ってたら、専門家に鑑定して貰えよwww
柴田は頑張ったよな。佐久間や佐々なんかに比べればよほど有能
太平洋戦争の空襲でかなり焼けてしまった
どちらを向いて進軍するか大違いだが、
羽柴秀吉は岡山にいたから、とって返して明智光秀を討とうとすれば
明智光秀が滋賀県にいても京都にいても大阪に向かって進軍していても同じことじゃないか?
>>405
明智光秀は本能寺の変から山崎の戦いまでずっと京都にいて京都から動いていないよ
光秀は京都にいて朝廷に睨みを利かし相応の位(征夷大将軍?)を受けるべく交渉
滋賀の安土城制圧は娘婿の明智満秀に行かせ、坂本城に財宝を運ばせている
柴田勝家は明智光秀が滋賀にいようが京都にいようが
福井から滋賀経由で京都へ向かうだけで方向は同じ
ただし越前一向一揆と抗争中で動けずのろのろしてた
秀吉だって毛利と抗争中だったのにこっちはさっさと和睦で大返し
まず全軍率いて長浜に進むか坂本を落とすかすれば良かったんだよ
状況的に明智が京を捨てて北陸へ反撃するなんてことはあり得ないわけだから
近ければ情報の精度もスピードも上がる
全軍てw上杉はどうするんだよwこのゲーム脳が
和睦すればよし、最悪北陸放棄でも良し
それくらいの状況だろ
事実秀吉はそうやって大返ししてるし
滝川一益も関東放棄して撤退してる(撤退失敗で酷い目に合ってる)
和睦ってなそう簡単に出来ないんだよw
外交の窓口はあるのかい?
秀吉の場合は安国寺がいたから出来たこと
これだからゲーム脳は
魚津を謀略で滅ぼしたので
上杉景勝はマジギレ
講話とか無理
絶対に背後突かれて壊滅
側近に黒田や竹中のような狡い知将がいたら天下をとれたかもしれん
まぁでも柴田の最後は柴田らしくていいな
>>412
佐久間信盛、佐々成政、前田利家程度だからな
みな勇猛でも頭はちょっとって武将だし
信忠が天下取れるとして
次が秀信(秀吉の偏諱だから名前違うだろうが)
教育係とか側近を天下人にふさわしいメンツで固めるだろうから
人間変わる可能性はあるがw
上昇志向の塊のような秀吉の差だな
どちらかといえば、現地軍の光秀有利の中で完勝したのだから
そりゃあ、秀吉の発言力も高まるわと
秀吉が一番得をした説は、結果と原因が逆転してるんだよな
丹羽は一番いい位置にいたのにね
軍の統制が取れなくてモタモタしてるうちに秀吉に追いつかれて全部持っていかれた
8日で越前福井にまで戻ってたのか
柴田も結構、迅速に動いてるじゃないか
秀吉はそれ以上に速かったが
前田利家の撤退は 最初から秀吉と約束してたことでしょ
| |
_|_|_ 辞世の句 しかと聞き届けた
(ミ゙∧,,∧
∧,,∧ (^(ω・´ )
(-ω-´) `[_ノ )
━0ニフx と) ノノ l、ヽ、
(ノノハ_l_l) 〈_ノノヽヽ>
>>540
優秀なの沢山おるから
秀吉の早い行動が怪しいと唱える人は多い。
実は秀吉はそれとなく光秀と内通、襲撃も事前通告。
時期政権バックアップ約束してたとかね。
するすると京都迄上れたのも、味方として来てくれたと歓迎してたとかね。
諸説入り乱れだな。
羽柴軍は姫路城を拠点に前線に常時輜重隊を送り込んでたのよ。あのサル実は兵站の鬼だから
当時加入したばかりで前線には出さず、姫路の警備を担当してた日向伊東家の伊東祐兵がいたのが幸運だった
異変を知った秀吉は祐兵に情報収集と陣立てを命じた。武具は姫路城に補給用を備えていたのでそれを用意
祐兵の家臣には情報収集に長けた河崎祐長という人物がいたので、恐らく彼が間者を放って明智光秀の動向を調べたのだろう
秀吉が光秀と示し合わせてたというのは無理があるかと
毛利の大軍を前に安全に退却できる保証がない
しかも、秀吉の中国攻めの軍の大半は信長からの預かりもの
織田家家臣ナンバーワンの柴田勝家が戻るか、織田信忠が生きてるかすれば、彼らが「軍を返せ」と言えば終わってしまう
息子の信勝、信孝、丹羽、柴田あたりがモタモタしていたなんてたまたまだもんね
上記4人の誰か一人でも将器があり主導権を発揮してれば
秀吉は早めに参じた家臣の一人でしかなかった
丹羽と信孝が1番トロい
津田信澄○すヒマあったらさっさと現場急行しろと
部隊の一部はすでに四国に渡海してたり、兵が逃散したり
大混乱だったらしいから無理だろ。
相手が悪かったとしか言いようが無い
織田氏本貫地である越前国の統治を命じられた意味をもっと重く見るべき。
難がありそうな者を多く勝家に預けたのは、勝家の忠実で公正な人柄を評価してのこと。
城持ちは丹羽長秀(佐和山城)明智光秀(坂本城)が先で
柴田が初なのは国持ち(越前)じゃね
信長の最初期に信頼されてたのは、森可成だよ
可成が討ちタヒにしたあと勝家が台頭して来る
お市なんてほっとけばよかったんや
10日に北ノ庄にいた勝家が光秀は近江にいると考えていたとしてもそれほどおかしくはないが
秀吉より近い位置にいながら情報収集力に劣っていたのは確かか
上でだれか書いていたけど秀吉は一度播磨国衆や荒木に裏切られて包囲されるという酷い目に遭っているからね
それに懲りて畿内との間に豊富な情報網を張り巡らせていたんだろう
光秀が変後摂津ガラ空きにして近江に進軍したのがどうも不可解
摂津・大坂方面に向かっていれば秀吉がやすやすと山崎まで来ることは無かった
近江って信長の本拠地で80万石くらいある飛び抜けてでかい国だぞ
今なら東京と神奈川合わせたくらいの価値がある
今の滋賀県をイメージしたらダメだ
真っ先に押さえに行くのは当然だよ
摂津河内和泉のほうが石高は上だよ
秀吉の進軍考えたら摂津抑えてなかったのはありえない
秀吉と密約があったのか疑うレベル
摂津河内和泉合わせたら74万石
近江は77.5万石
琵琶湖という日本海から京への補給ルートを押さえるとこでもありまだ大坂が開発され切っていない当時としては摂津河内和泉より価値は上だよ
秀吉は摂河泉の重要性に気付いてただろ
光秀は気付いてなかっただけで
摂津より近江の方が重要なんだよ
近江を抑えないと北陸の柴田と美濃尾張の織田勢力が合流しちゃうからね
そうではない
将来性ではなく当時の現状は近江の方が価値が高いんだよ戦時なんだからその時点で価値が高いとこから押さえて行くのは当たり前だ
秀吉だって当時の光秀の立場なら真っ先に近江を押さえる
光秀を討ったあと、清洲会議で
織田家の領地を重臣たちの間で分配するのだが、
秀吉は自分の城もある近江長浜城を、勝家にあげちゃったよね。
安土は信長の居城無視して信長の子の誰かに抑えられたら最悪だぞ
自分の妻子のいる坂本もあるし近江を外すなんてとんでもない
あ、レス先間違った
ごめんなさい
>>696
安土は混乱して勝手に崩壊してるから
京を抑えつつ大坂に進軍してれば良かったのでは
毛利や長宗我部と手を結べば秀吉は周りが敵に囲まれて姫路から出られない
光秀の立場からすれば一番恐れるべきはやっぱり勝家のはずで
それ考えると近江を放置して大坂や姫路に進出するのはかなり無謀だろう
近江制圧のついでに秀吉の本城の長浜も抑えたわけだし
たとえ結果的にはそれが最善だったとしても
>>673
ガラ空きっていうか摂津は高山中川池田というれっきとした武将が両国にしてて
光秀より秀吉に近い
こいつらにも細川筒井と同じく懐柔工作をしていたが相手にされなかっただけ
いや池田はともかく中川高山は光秀に近いよ
だから秀吉は真っ先に慎重に調略した
>>684
>こいつらにも細川筒井と同じく懐柔工作をしていたが相手にされなかっただけ
この時点で既に謀反は失敗では?
大阪湾を抑えないでどうやって毛利や長宗我部と結託するつもりだったのか
失敗だからといって
今更後戻りはきかんだろうし
>>648
>秀吉より近い位置にいながら
秀吉が攻囲していた備中高松城と、勝家が攻囲していた魚津城では、勝家の方が遠い。
しかも魚津城は上杉氏の本拠地・春日山城に近いので追撃される危険は、勝家軍の方が大きい。
信長は謀反を起こした松永久秀とかも一回許している
能力がある奴は認めている
林や佐久間はよほど無能だったんだろう
信長は当時としては激甘な人間よ。何回かは許すとか他じゃあり得ないし
最終的にも切腹命じた例は少なく、流したり出家させたりで助命してることも多い
織田包囲網の黒幕だった足利義昭も京都からの追放処分だけだしな
家康の長男は?
今時、信康タヒ亡が信長のせいとか言ってるのは
家康信者だけ
家中の派閥争いって研究が出てる
その結論は確定事項なの
揺るがない根拠あんの?
冷静に考えてごらん
まず、揺るがない根拠と言ってはいるけど
その、信康○害を信長が命令ってのは
なんかの創作小説に載ってただけでしょ
違うの?
価値が高い史料だと信長は家康の信康粛清の申し出を了承しただけだからな
信長の娘を婿にしてんだから
そりゃ良いですかと聞きにいくよ
まさか対等同盟とか思ってないよね?
現在でも東三河と西三河に分かれてるし、仲が悪いのは明らか。
>本能寺の変の8日後の天正10年6月10日
いつも思うけどこういうのって西暦も表記すべきだわ
1582だっけ。イチゴパンツ(1582)の本能寺の恋
今じゃ琵琶湖とかいう汚い湖と寂れた町が周辺にあるだけだから
現代人に価値がわからないのは仕方ない
近江八景とか落語では常識なようだな
なぜ信長は使い続けたのか?
>>766
> 柴田勝家って無能なのに
むしろ有能だよ。清廉で実直な侍としてだが。
柴田勝家は野心を持った政治家として振舞うことは最後までなかった。
上杉景勝も柴田佐々前田の北陸、信濃の森、上越の新発田
完全包囲であと1月あったら滅亡してたのに
ほぼ滅亡、詰み状態から信長信忠タヒ亡で息吹き返したからな
信忠生きてたらあそこまで崩壊しなかったろうなあ
逆に言えば、信長と信忠を○害出来ないなら
光秀も実行しなかったかもしれんけどね
光秀の信忠に対する包囲の緩さからすると、信忠は光秀のターゲットじゃなかったと思うよ
本能寺から逃げ延びた奴は皆無だけど、信忠の部下は脱出に成功して生き残ってるからね
信濃甲斐は信忠に与えられたものだからね
信忠が配下に分配したから領有の根拠は信忠にある
その信忠がタヒんだから実質所有者が消えた状態になったのがね
こうなると鬼武蔵のような鬼畜でもとりあえず引き揚げるしかなかった
まあ鬼武蔵は撤退の際も相変わらず基地外だったけどなw
賤ヶ岳の戦いの前、敵であるもの、中立のもの、味方のものが柴田、羽柴にいた。
柴田勝家は中立のものへだけ。味方になるように手紙を出した。
羽柴秀吉は敵であるもの、中立のもの、味方のものへ、まんべんなく味方になるように、裏切らないようにと手紙を出した。
結果は推して知るべし。
柴田家も豊臣家も滅亡。
徳川家と婚姻関係を結んだが・・。
江戸時代は外様大名じゃなくて実際は
将軍の親族。
前田は関ケ原でも大坂の陣でも徳川方
豊臣方として戦った訳じゃない
そんなこと知ってますがな。
利家を重用したが役立たずだったってことだ。
というか、利家は関ケ原前年に病没
関ケ原は息子の利長が徳川についた
凡庸な二代目じゃ、200万石越えの従二位内大臣・徳川家康には叶わない
秀吉はもらえたのに
長浜まではさっさと進出するべきじゃなかっただろうか
長浜あたりまでなら仮に琵琶湖西岸から北上されても間に合うやろ
もしくは西岸を南下して坂本を攻めるとかね
坂本を攻められたら光秀も東岸から北上するのは諦めるのでは
もし坂本まで進出すれば京都の情勢は手に取るように分かるだろうし
本能寺の変から8日後となれば、
現地の溝口家に問い合わせするよりも
とっくに先遣隊を現地に到着するぐらいは
やってもいいと思うが、勝家の動きは遅いね。
機敏な秀吉の方が2枚ぐらいうわ手。
勝家と秀吉の中の悪さは有名。勝家の配下に秀吉がなったことは
あるが戦場離脱してしまって処罰されるありさま
兵といってもふだんは田んぼつくっている農民が主力だろうけど、
春先の大事で多忙な時期に動員なんかかけられては、兵たちは帰りたくて仕方なかっただろう。
実際に、秀吉軍がさらに大軍となるや、勝家の兵士らは逃走する者が大続出しまくり。
まあ秀吉の判断力と行動力の速さがすごすぎるのかもしれんが
>光秀討伐に距離的に一番近かったのが勝家だったのにな
丹羽「」
そりゃ柴田が兵まとめて南下したら
羽柴より全然早いし織田方もみんなすぐ味方するしで
光秀即タヒだし
柴田の情報収集能力というよりは光秀の情報封鎖能力が凄かった
とりあえず中身は全然新しい発見ではないわな
>>944
越前に領地をもらって住んだこと自体負け試合
獣害をもたらすヤマタノ汚ロチの棲家
織田信長に媚び売った身内に裏切られ朝倉義景は自○に追い込まれ
タヒんだ後も朝倉の遺体から頭蓋骨を取って酒飲み器にされるわ
徳川家康から我が子なのに異常に毛嫌いされ子孫も絶えた松平秀康
越前って50万石で日本海海運の要衝でもあり当時は尾張より京に近い分重要な国とされてたんだけどね
今の福井県で判断するなよw
当時の海運は日本海海運は瀬戸内海運に並ぶ重要な海運だぞ
当時は大坂がまだ未整備だったから越前若狭あたりから琵琶湖経由で京へ物資運び込むルートの方が栄えてただんぞ
しかも背後の加賀能登越中という大穀倉地帯も勝家の管轄
勝家は150万石近い支配領域持ってたんだぞ
>>966
平安時代でも大国扱いでしたからね越前は。
ただし雪国だから冬は身動きとれない
150万石近い支配領域ということは、
軍勢は3万人ぐらい出せたことになる。
武田の領地と同じぐらいだからな。
でも賤ヶ岳の戦いでは3万も出ておらず、
総軍あわせてせいぜい2万ぐらいなので、
100万石かそれ以下ぐらいか。
上杉がいるから全軍は出せない
毛利と組んでる秀吉と大違い
対上杉、対一向一揆の抑えとして鬼柴田に期待したんだよ、信長は
わからんね
じいさん等が古物商に騙されて買った偽物が亡くなって遺族から出された可能性もあるし
>>958
整理されてない資料が多すぎるのよ。
図書館や博物館に寄託や寄贈されたのはいいが整理する人がいないなら何十年も眠ったままになる。民家にあるなら見つかるまで気づかない。
西太后の出生も清朝の行政文書の整理がここ二十年間で進んで判明してる
タイムマシンでも出来たら光秀さんに動機のインタビューしてみたいわ
動きが早かった人たちは何かしら
怪しさあるね。今後また新事実が
出てくるのかもしれない。
柴田勝家は愚直キャラだったんだろな…。
「信長様が?!」と喚いて事実確認を…
なんてやってる間に秀吉、家康は
もう行動して結果を得ていた。
裏での備えとスピード感、現代の色んな
急変時であっても教訓たるな。
柴田勝家は、織田家に代わって自らが指図する
なんて思ってもいない管理職思考だからな。
配下の佐久間盛政は切れ者。
秀吉は良くも悪くも機転が利いて動きが早いわ
引用元: http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1542339867/
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