【考古学】「甲を着た古墳人」火山の下から覚醒、渡来系の特徴、正体は?「専門的な技術者集団の村があり、そこの長だったのでは」
古墳人が身につけていた甲(よろい)=群馬県渋川市北橘町、県埋蔵文化財調査センター発掘情報館、柳沼広幸撮影
火山と共に暮らす群馬を象徴するような発見だった。榛名山のふもとの渋川市金井の金井東裏遺跡で8年前、古墳時代の人骨が甲(よろい)をまとった姿で見つかった。「甲を着た古墳人」の発掘は日本初。噴火による火砕流の犠牲者が1500年の永い眠りから目を覚ました。
甲は、小さな鉄の板(小札(こざね))1800枚を絹糸の組みひもでつなぎ合わせた当時の最新技術だった。人骨の下には冑(かぶと)も。別の甲も巻いた状態で見つかった。中にあった鹿の角で作られた小札の発見も国内初。銀と鹿角(ろっかく)で飾った矛(ほこ)も発掘。人骨は40代の男性で身長は164センチと推定された。渡来系の特徴があった。
男性は榛名山の方に向かってひざをつき、うつぶせに倒れていた。「山の神に祈っていたのか、戦いを挑む姿をみせて邪(じゃ)を払おうとしていたのか」。発掘調査した県埋蔵文化財調査事業団の杉山秀宏・上席調査研究員は、発掘状況や遺物から、災厄を避ける儀式を行おうとしていた可能性があるとみている。
甲や冑、武器は装飾的で、実用というより権力の象徴とみられる。近くでは朝鮮半島から伝わった馬が育てられ、鉄器や鹿角器が作られていた。「専門的な技術者集団の村があり、そこの長(おさ)だったのでは」と杉山さん。首飾りと一緒に見つかった女性「首飾りの古墳人」や、5歳前後の幼児、乳児の人骨も発掘された。人の足跡や馬のひづめ跡、祭祀(さいし)跡からは大量の土器。火砕流で人々の営みが一気に埋まり、当時の生活ぶりを今に伝えている。(柳沼広幸)
6/13(土) 16:55配信
https://www.asahi.com/articles/ASN6D7FHJN6BUHNB018.html
古墳人てなんだよんならおれらは令和人か
>>1
こういう古墳中期以降に増加した朝鮮半島からの漂着難民や戦利捕虜は
その歴史の中で朝廷によって様々な場所に移配され現代に至っている。
この古墳時代に多数あった朝鮮半島からの半島遺民は、もちろん稲作弥生人とは
何の関係もない。
弥生人は、縄文人と交易活動をしていた最新の学術発表で海の民と言われる水稲弥生人のこと。
縄文天皇家と親和しながら日本の国造りをしていき、平和な縄文を要素が根底に流れる日本列島国が完成していった。
悪鬼のような北方エベンキに侵略された半島の大量の難民が古墳時代に日本に押し寄せて、
これには天皇家を頂点とする大和朝廷も苦慮しながら日本の在豪族の私有民を認めながら部落単位で
管理居住させていた。
>>1
日本列島では3種類がわかりやすい
縄文系で熱帯ジャポニカを少数取り入れながら堅果と漁労と栽培を選んだ集団
縄文と融合しながら縄文同様に川や海にも強く熱帯ジャポニカを選んだもの、
または運んできた越や中国南部の集団
紀元前千年に伝播の温帯ジャポニカをエネルギー源の主要部として選んだ集団だが
精力を拡大したがその縄文系の温帯ジャポニカから皇室が生まれた
その頃に民族浄化が徐々に始まっていた朝鮮半島から中央や皇室にまつろわぬ
エベンキ系の扶余系穢人の民が少数ずつ日本に漂着し山住人の目にふれない
山棲みを始めた
古墳時代、飛鳥奈良時代を中心にだいたいは制圧された
つまり古代から海の防人だけではなくて、そこをすり抜けて漂着して山奥まで
入り込んだ扶余系族と皇室の縄文系の支配層の戦いが土蜘蛛や鬼と記述されて
残ったわけであるが、その鬼たちは天ヒボコなどと同じく強敵ぞろいであった
ちなみに皇室と同じD系の縄文で、元々は奈良盆地の南東で皇室の先祖と協調関係で政治に加わり
国歌の黎明期を支えたが崇神帝から仲哀帝の時代に別れて北関東から東北に入り、
最後まで朝廷軍と抵抗したのがエミシである阿弖流為だが、奥州安倍の古代物部系や
古代のアビ彦の後裔たち
>>51
大体その通りだな
成務天皇の時代には支配層は縄文と弥生の混合完成の日本人の元型になっていただろな
昨年に縄文と弥生の混合完成の日本人が出来上がっていた発表があった
なにせ今でいう県知事配置に際して縄文色の強い後方墳の地域にも派遣しているから
そうとうに苦労しただろう
それぞれの地域をみて、より縄文弥生の混合バランスを考えてるが
朝廷も頭を悩ませたのだろ
またの倭国大乱は避けたいからな
結局は物部氏系の者ばかりを東海を始めとして配置している
一番バランスの取れた縄文・弥生の混合氏族だからなのだが
この地にトライ文化が伝わった証拠だと言って世界記憶遺産だったかに登録したのも群馬だったな
おかえりなさいませ 旦那様
鎧は防護服
例 御嶽山
うおぉぉぉりゃゃああぁぁぁ!と
火砕流に向かって天将奔烈をぶちかますラオウを想像してしまう…
あそこも榛名山の噴火で泥流に飲み込まれた遺跡の紹介とか
渡来系の沓だったっけ、とかあったと記憶
ちょっと地理わからないんだけど、そこの近く?
はにわの里博物館は高崎市
県埋蔵文化財調査センター発掘情報館は渋川市
出土した、近畿地方に来たのは中国南部では無く中国北部(北朝鮮付近)
と言う事になる。
のオンドル跡は弥生時代では無くて五世紀(古墳時代)だった、訂正する
古墳時代には日本の中心地は奈良になっているから、朝鮮半島から大勢の渡来人が
押し寄せた訳だよ
>>119
?
オンドルってモンゴルでもあるし、
福井にあるのは当たり前だ
あと奈良にも多数来てるのも本当だ
てか発想を転換しないといけない。
日本において、朝鮮系渡来人、
新羅、百済、高句麗、渤海が来てない地域なんてない
あるとしたらそこは日本ではない。
来たとしても4世紀の話で、当時のヤマト王権の半島進出によって連れて来られた工人たちだろう
朝鮮系の土器の広がりと呼応しているし
この人たちは、少し後になると、あちらこちらで須恵器を作らされるからな
武将達の奇抜な兜のデザインが大陸の様々な民族の帽子と似てるらしい
群馬と山梨方面に分かれて行った形跡があるこれは大和朝廷が馬の飼育の為に
新羅人を呼び寄せたのとは別の話で渡来人は高句麗人だったようだ
要するに関東地方にはかなり昔から朝鮮半島からの渡来人が住み着いた事になる
そのききには三貴紳は筑紫生まれだと書いてある。朝鮮人とは書いてない。
ただ、火山の噴火や地震など災害も多く、一旦衰退しちゃうんだよね。
歴史的空白期ともいえる文献等が少ない時期が存在する。
始めから好き好んで棚田を作ったりはしないだろう
この武者が強い責任感と勇気をもった渡来人の可能性があるということは伺える
火砕流に巻き込まれ幼い命まで奪われた無念さに悼みます…。
史実などこじつけで何とでも変えられる
学問的には整合性のある根拠、論理的説明が必須だから、こじつけるのは不可能だけどね
人間同士が議論する学問だから、他の学者を納得させられないと駄目だからね
Youtubeに主張を載せているような素人はいくらでもこじつけているし、変えてもいるけれども
我々の祖先も確実にその時代を生きていた訳で
火砕流から逃れたのかあるいは他の地域で豪族たちの攻撃から避難していたか海辺や山奥でひっそりと暮らしていたか…
時代は違っても仲間を失った怒りや悲しみは変わらないと思います
犠牲になった方に哀悼の意を表します…。
ふと疑問に思ったけど
その甲冑着た武者はすでに○されていて生け贄にされて火山の方に向けて座らされたとかはないのかなぁ
渡来人ってことで差別されて奧さんと子供は離れるに離れられなくてそのまま火砕流に飲み込まれたとか
村人とかみんなで山の怒りを鎮めるために結託してやったなんてことは考えられないのかなぁ
一瞬といってもそのままの姿勢で絶命するまでには多少は熱さ苦しさで崩れると思うんですが
かなり不自然なタヒに方ですよね
北部九州で発生したが銅鐸は近畿で盛んに作られたが3世紀頃には消滅した
この頃に神武東征があったと考えるのが正しい
後継者の壹與、その子供、孫、この孫(神武天皇)の頃に北部九州から東征をして
大和朝廷を建国したと言う事だ、作ったばかりの銅鐸を壊したり、村はずれの崖に
埋め込んだり大騒動した様子が見受けられる
三世紀初めだったら卑弥呼生きてるじゃん
>>215
銅鐸を作っていたのは出雲族。出雲族の都は奈良にあった。おそらく卑弥呼に奈良を譲り出雲へ隠居したのであろう。
その時に、全国の武器を集め荒神谷遺跡へ封印した。
荒神谷遺跡の銅剣
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/84/ff9311663ceb1269f9eb1425e3084a13.jpg
そして出雲大社を建てた。
作ったばかりの銅鐸を壊したりとか何だそれは?
銅鐸は西日本の西部に稲作が行き渡る時期の弥生中期から
古墳期の最初に重なるように大地祭祀として機能していたのだがな
>>215
正史に目を通さないとな
天照大神の弥生水稲祭祀が中心の顕レ御魂の認識のために娘の水耕姫を託けて
従来の祭祀には娘の翡翠姫を託けている
当時の祭祀の編み直しの三諸山の統合神にはわざわざ葛城剣根の地からの大直禰子を託けて
当時の大気候不順の解決策を知ろうと努力したのが崇神天皇
追い出した?
崇神帝の御世で祭器変更が自然に起こった
鏡の最適の祭祀地を先ずは止由気神の故地にも訪ね
自分の娘と倭姫のシャーマン力を使って探し求めた
それが最終的に伊勢志摩の海人族の祭祀地に落ち着いた
あるいはその前で、3世紀初めには近畿が邪馬台国の言うことを聞いてくれる状態にまで統制されていないと銅鐸を破棄させることはできない
ということは東征は少なくとも2世紀以前という事になる。
伊勢遺跡の頃には各豪族の中心が畿内に移っているから東遷があったとしたらこれより前だろう
日本は長い間、反新羅で外交をしてきたけど
天武天皇は古代の朝廷から百済人を排除したね
百済は日本にとっては厄介な弱小国で
王族は闘うこともせずに日本に逃げ込んで
大量の百済遺民の難民とともに日本に帰化
した。
いちおう天智天皇はゆるく対応したが日本にとっては
古代も現代も変わらず厄介な印象しかない
それでも楽浪郡辺りで虎の威借りて暴れてたモンゴルの手下の
高句麗や新羅ほど狂暴さだけはマシだったというだけ
新羅は唐に頼んで百済を攻め滅ぼしたが、現在まで続く完全に
相互の憎悪関係
新羅を滅ぼした高句麗はモンゴルとか中国東北部特有の狂暴性だけは
あの時代には強みだったろう
日本と朝鮮人は古来から全くの異族の別物とうことが文献資料で分かる
>>313
戦前は記紀を全肯定、戦後は戦前の反動から全否定。
戦後の呪縛からも解き放たれ、頭ごなしの全肯定でも全否定でもなく、ありのままに観れる時代が来ている。
引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1592213901/
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