歴史学の功績「鶯張りは嘘です」「敵に塩を贈るは嘘です」「織田信長は保守的です」
武装した坊主とか保守的な人間からしたら許せないだろ
どんだけ勧告して考え直せって言ったと思ってる
残すべきものは残して変えるべきものは変えると言う合理主義者なだけであの時代にしては人情に厚いタイプだぞ
そんな思想性とかないよ
戦国時代に力を持っていたのは各地方の領主
つまり、守護・地頭にルーツをもつ地方豪族
あるいは荘園経営で巨大化した寺院
高野山や比叡山ってのは言ってみりゃ1つの国
覇権と土地をかけて国と国が争っただけの話よ
マジで織田の味方をしてくれなかったというだけの理由で比叡山焼いちゃったの?
味方じゃなければ敵じゃん
とりあえず敵対しないからといってスルーしてその先にいる敵と戦ってるところに後ろから挟まれたらやってられないじゃん
浅井長政が裏切らなかったら焼かれなかった可能性もあったのかな
言った、やった証拠がないのではなく
のちの時代の軍記物の内容が
あたかも史実であるかのように語れるから
五百年くらいしたら現代の漫画の内容が史実かのように語られてたりしてな
いつまた引っ繰り返るかわからん
それは必然的にそうなるんよ
現代人は現代の価値観で歴史を見るしかない
当時の価値観で当時の歴史を見るなんて不可能だからね
信長の虐○の規模って割と日本史有数だけどな
いつひっくり返ってもおかしくない
タイムマシンでも開発されない限り
証明なんて無理ゲーだよな
だから新文献が見つかると学説が補強されたり覆されたりする
これに対して、発掘調査によって当時の遺物を研究するのが考古学
歴史学分野での研究を裏付けたり、あるいは物的にありえなかったことなどを否定したりする
歴史学に対して考古学のほうが歩みが緩やかなぶん、現代みつかる新発見はほぼ考古学分野での功績
それによってスレタイのようなかつての定説を覆すことも起こる
関ヶ原の戦いは西軍は瞬○されてます
真田幸村より毛利勝永のが何倍も凄いです悲しい
考古学によって真実と明らかにされることもある
例えば出雲大社の大社の巨大さとかね
こんなでかいの当時作れるわけないじゃんって言ってたのが、その遺構みつかってごめんなさいすることになる
それでもあったことの証明にはならんけどね
土台だけだったのかもしれんし
なかったことが証明されない限り
文献的にも痕跡的にも存在が根拠付けされてることになる
なかったことの証明は不可能
基本的な科学哲学すら理解してないじゃねーかw
例えば比叡山の焼き討ちが歴史学で言われてたほど大規模ではなかったことなんかは
比叡山の考古学調査で明らかになったことあったであろうことを、なかったことを証明できなければ、なかったと言い張る学説が主流にならないだけ
「証明」って言葉の使い方があれだな
「より有力な資料」って云う方が無難じゃね?
まぁそうだな
証明って言葉に敏感に反応しちゃう人には本意が伝わらなくなる
>刺激的な一冊。「楽市楽座=信長」というイメージを廃し、織豊系以外の大名の「楽市」も考察する。大名ごとに様々な目的で出され、恣意的に運用される「楽市」は「自由な商取引」という言葉だけでは説明がつかず、また商人側も「諸役免除」に拘り、それが「楽市」に伴うものかどうかは重視しない。さらに衝撃は「楽座」で、それが役銭の減免を願う座側の申し出であり、「座の特権廃止」とは全く異なるということ。常識が揺さぶられるエッジの立った内容で、大変勉強になりました。
楽市楽座はあったのか (中世から近世へ)
https://bookmeter.com/books/13447652
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
朝倉氏の滅亡後、その庇護下にあった座を信長が安堵した書状も残る。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させ、当地の関税に伊達家の使者が不満を記した日記も残る。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
皇国史観や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料
(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する後北条氏の百姓総動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の主な仕事は普請等で直接戦闘に参加する事は少なかった。
・信長による比叡山焼き討ちは信長が上洛以降、畿内の比叡山の荘園(山門料)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図りこれを朝廷に訴え、朝廷は山門領の返還を求める。しかし信長側はこれを無視し占領を続ける。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。
・「比叡山に女子供がいたのはおかしい」⇒「境内都市」を知らないニワカ。比叡山の麓の坂本は物流の要衝として商業が盛んで僧侶以外の町民も多く住んでいたが、織田軍の虐○の中心地となり灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐○で知られる本願寺派(一向一揆)との戦いも、元は信長による大坂への侵略が発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の軍事費(矢銭)も支払い平和を望んでいた。(ちなみに同様の矢銭を拒否した尼崎の街は織田軍に焼き討ちされている)
・越前平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる。
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は信長の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている

http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ElauVpeU0AU2VEr.jpg
これは生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと見られ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に「贋作」であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、信長の肖像画を基にイメージしたモンタージュの類いだろう。
反証可能性こそ科学なんだから
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