日本史における武士道の発展と役割について真剣に考えてみよう
戦前の兵卒
戦後の社蓄
21世紀のネトウヨ
武士道で洗脳された平民という点では同じなのに、
なんで一番下は国家に何の貢献もない穀潰しになってしまったのだろう。
おお
こんなに書き込んでくれてありがとう
>>5
彼らに武士道はあるのかな?
「「ネトウヨ」は、朝鮮工作、専門語。」
↓のような事情から考えても、『葉隠』なんかが書かれた江戸時代よりずっと前から
「武士道と云ふはタヒぬ事と見付けたり。
二つ二つの場にて、早くタヒぬかたに片付くばかり也。」
的な考えは有ったのではないかと。
12 :日本@名無史さん:2014/05/18(日) 07:57:22.48
>>5みたいな「自○=悪」って考え、
西洋のキリスト教の考えに毒された結果ではないのか。
昔の日本では自害できなかった平宗盛は悪く描かれ、
一方平維盛は生前は平宗盛同様(というかそれ以上に)失態続きだったが
最期の自害(公より私を重んじて離脱した上での自害なのに)で
一躍悲劇の貴公子に格上げされた感がある。
13 :日本@名無史さん:2014/05/18(日) 08:20:24.13
日本は負将が敵の手にかかるのは恥ずかしいという文化があったからね
万が一負将が敵に捕まった場合の処刑方法が残酷だったせいというのもある(市中引き回しなど)
また負けた夫や一族と運命を共にし自害した女性も美化される傾向が強い
しかしそれは江戸時代にかかれた本にあること
それ以前の武士達はどう捕らえていたのだろうね
二つ二つの場にて、早くタヒぬかたに片付くばかり也。
別に子細なし。胸すわつて進む也。
図にあたらぬは犬タヒなどなどと云う事は、上方風の打上りたる武士道なるべし。
(『葉隠』)
>>11
って戦国時代かそれ以前の武士は言っていたけど、
確か葉隠れでは卑怯な価値方は負けるよりたちが悪いといっているんだよね
謎だわな
>>12
そういうのもあるの?
初めて聞いたよ
>>14
そういうことありそーだね
>>15
七度変えては藤堂高虎だよね
戦が無くなっちまって、戦争に憧れてる中二病患者と徳川幕府の支配を確立するための儒教がまじりあったのが武士道
戦争を知らない平和な時代の奴がかっこつけてるだけ
つまり戦国以前の武士には武士道はなかったと?
でも確かに武士道という言葉は、戦国末期で使われたし、
武士道という概念は江戸時代や幕末に定義されたね
とかいうのをやっていた。東大の先生が石沢とかいうアナの質問に答える
という形式で進行するんだが、鎌倉時代初期は武士が血を血で洗う争いが最も
激し時代だったらしく、農民は武士からさんざん痛めつけられ、収奪も日常茶飯で、
だれかれとなく武士が気にいらないと○していたそうな。まるで今の
北朝鮮そっくりなんだけど、朝鮮人と違うのはそんななかで北条時頼が出てきて
武士に対してものすごいきびしい規則を定め、農民を守る撫農民というのを
やったおかげで、それからの時代がうまくまわり始めたというように言ってた
お前さん詳しいな体験者か?俺は今の北朝鮮なんか知らんわ
江戸時代は天国だよ?
ただその意味は時代や人によって違う。
まあある程度の傾向はあるけど。
実在した事が日本にとっては宝
すでに源平合戦の頃に坂東武者が言っている。
主への忠誠とみっともないタヒに方を嫌う価値観。
存在したのだ。武士道を忘れてから日本はおかしくなった。
>>29
おおソース教えてください
>>30
それは明治時代に作られた偽武士道では
>>33
俺もそう思う
けど自分の領土を守るために武装した農民が始まりとも言うよね
>>34
でも戦国時代は裏切りめっちゃあったよね
武士は主君を七度変えないと武士じゃないとか言い切った大名もいたし
>>33
スメラ系が天皇陛下、貴族、常民。
アスカ系が聖徳太子、武士、山人。
のちに大化の改新以降、
アスカ系は征夷大将軍。
ちゃうちゃう
主君の為にタヒぬってアイヌ語だよ
平然と命を投げ出す人。
儒学劣化コピーの朝鮮武士道だからな
>>37
いるいる、こういうおっさん。
年齢相応のキャリアを築けずに同世代に対して抱いたコンプレックスを、
若い世代に八つ当たりして憂さ晴らしするためのダシとして武士道を口実してんの。
戦前戦時中の突撃兵育成、戦後昭和の社畜育成にフル活用された武士道も、
今じゃもうこんな使い道しかなくなってるってことなんだろうな。
新渡戸稲造が言った後にマックス ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神が発表された。
武士は封建領主ですね。
今でいう自民党や民主党とその家臣です。
関白太政大臣、徳川将軍=今の内閣総理大臣。
大名=藩主=上院議員、下院議員=衆議院や参議院、県知事
ここからが、下っぱの武士です臣下=県議会議員
市長、市議会議員
村長、村議会議員
自衛隊、二士、一士
警察官、巡査
会社で例えるなら、平社員が下っぱの武士で、管理職が中級の武士だな。
封建時代はさらに厳しかった。代官などの武士が、 水戸光圀公に会えば、頭を下げてひざまずく。
今は霞ヶ関の官僚が、内閣官房長官に会っても頭を下げてひざまずく事はない。
そういう意味では、昔は合理的がさほどなかく、儀式のようなものにしばられていた。
昔は合理性がさほどなく。
昔の武士の給与が少なかった場合、武士は江戸の町で内職をしていた。
今でいう10万円の給与で、支出が16万円なれば、内職をして副収入を得るしかない。
多くの町人が武士に憧れていたが、武士は武士の世界で厳しかった。
また、武士の世界では暗○や敵討ちなども行われでおり、
武士は、武道を磨き、暗○や敵討ちに備えなければならないので、睡眠をする時も多少は気を張っていた。
町人もそうだが、武士と武士で斬り合いが起きれば、官僚たる代官の武士が、馬に乗りとめにかかる事もあり、江戸時代は江戸時代なりに物騒な世の中であったらしい。
>農家は農民で小規模の紛争のようなものがあり、武家に仕官できなかった浪人も、豪農に雇われて、農家の紛争に参加していたと思います。
この豪農が二本差しを許されて武家になる。
すると、その二本差しの豪農の士気があがり、田舎の封建領主のようになる。
つまり郷士といった武士になる事ができるのです。
ただ、これら郷士やその私兵も、徳川幕府の藩の領土内の人々であり、藩の代官には逆らえなかった。
このように武士にも、郷士や浪人といった人々がおり、
金持ちの農家や商人は武士=郷士という身分を手に入れたいという欲を持つのが、江戸時代の特徴かもしれない。
将校になった昭和の日本軍は弱かった。
違う違う。
明治の司令官・将校は薩長出身で、昭和の司令官・将校は東北人だからだよ。
>>53
東北の軍人は強かったよ
というか名将が多かった気がする
>>54
そういう人もいるだろうね
>>55
なるほど
あなたが一番初めに書いたことを武士道の概念とすれば、
確かにそうなるね
>>57
サラリーマン武士道w
平安士女の生活と鎌倉武士の生活が相異なるから、その現れた事相はもちろん違う。
彼にあっては花鳥風月恋愛等に顕れたものが、これにあっては、軍陣の関係、忠孝の事蹟などに顕れたが、
その外相をおいて、その真生命について見るときには、同じ情韻が溢れているのである。
自分の詠歌を勅撰集に加えたいばかりで、タヒを決して落ち行く旅の路から戻ってきて、夜、和歌の師の門を叩いた平忠度もある。
足柄山の月の夜に笙の秘伝を伝えた新羅三郎もある。
落花に対して風を恨んだ源義家もある。
梅の花を箙に插して敵陣に突進した梶原景季もある。
熊谷直実が平敦盛を逃がそうとしたなども、みな鮮明に鎌倉武士の風尚を示すものである。
これらはむしろあまり鮮明すぎて、鎌倉武士の風尚を浅くするかと思わるる事例に過ぎぬ。
実に鎌倉武士は武健であった。(1/2)
そしてその武勇や忠義に一種の気韻を与えて、花よりも美しからしめるものは、
この「あわれ知る」という気風であったのである。
武士道は決して文字の上の解釈で知られるものでもなく、理屈や教条で組立てられるものでもない。
理屈や条規は、ただその形体である。その真体、精神はただ身証体得するほかには、これを捉える術はないのである。
鎌倉武士のあいだに禅学の流行したのも、その原因はこの辺にあるのである。
このことについては、武士はいつタヒぬか分からぬから宗教によったのだろうとか、
在来の仏教が腐敗したから禅宗が流行ったとか、いろいろの解釈をする人があるけれども、
我は禅の直覚的悟道と武士道の真髄なる物のあわれ、物の心を知るということと同じ趣があると思う。」(堀維孝)『国民道徳に関する講和』稿本。大正二年(2/2)
明治の近代化以降、江戸時代の豪商は武士との競争に敗れて消えて行った。
商人達は、伝統主義に傾向するあまり改革をタブー視していたが
武士は西洋から複式簿記を取り入れ革新的に伝統主義を破壊していった。
武士道とは、やはり支配者側を強固にするための道。
禁欲と、主君に対する義により、武士は己を正し、生活を整え。武士の武術稽古により、肉体や精神を鍛える。
武士は、町人を支配したが、やはり武士は責任が重く、殿様に牙をむくならば切腹になった。
現代に例えばサラリーマンが贅沢をせず、貯蓄をし、紳士的な生活をし、生活を整え、剣道や柔道の稽古をしたり、呼吸法をし、心身を鍛える。
ただし、サラリーマンが殿様たる社長に牙を向けば、切腹=クビになるぞ!という事。
昔は着物だが、今のサラリーマンはスーツにネクタイ締め。
だが大企業の社員さんも、武士道の考えはある。
明治の指揮官は幕末を行きぬいた猛者が多かったから、
薩長側のが強かったかもね
公平を期すために昭和の時代の同じ武器使っても。
何故か戦国時代の武将をそれに基づいて美化しちゃったりとか
アプローチ理論が逆
武士団が天皇大和勢力を滅ぼして、国家統一して日本を建て、社会殖産した。
が正しい歴史で、武士がコアであり、武士団が日本を建国した。
武士とは国家開闢の基礎
なの。影響じゃなくコア。
中世は武士の天下ではなく経済を牛耳る寺社勢力だよ。知識財力ともに
武家勢力とは比較にならない。武士が頼朝以来支配者になったなんていうのは
戦国終了後大名にのし上がった連中が自分たちの支配を正当化するための
方便に過ぎない。
昔の人の写真を見ると顔つきが違うね。
引き締まったというか、常に生タヒが付き纏う生活に身を置いてるからか、○気を感じる。
幕末の武士然り、零戦パイロット然り、男ならああ成りたいもんですな。
寺社は元寇のときにも応仁の乱のときもクソの役にも立たなかったからな。
いざ応仁の乱のような戦乱になれば知識と財力ではどうにもならないことも多い。
比叡山は信長を悩ましたが、逆に言えば悩ましただけ。
今後も多大な妨げになる、軍事的にも危険な存在だと思ったから攻撃したんじゃん
単に悩ます程度の、取るに足りない存在なら焼かれなかっただろ
>>81
クソの役にも立たなかったのは御家人や守護大名も同じだがな。
蒙古襲来では主に戦ったのは寺社の勢力圏である荘園の下司をはじめとする
西日本の非御家人であったため戦後恩賞問題が紛糾し霜月騒動という内ゲバに発展する。
応仁の乱では足軽悪少年たちが中間と呼ばれる下働きの人間たちが京を灰燼させた。
そいて極めつけは石山本願寺や法華宗が財力を持った門徒たちによる宗教戦争である
天文法乱に管領もなすすべがなかった。
信長後も五山が外交顧問として活躍したように寺社勢力の日本史における存在感は無視できんよ。
ただ、ヤクザだって任侠道があるように、
武士だって、ある程度の身分になって社会的地位が向上して、
統治する段階になると、
いつまでもヤクザみたいなことを言っておれなくなるから
仏教なり、中国の古典なり儒教なりから
道徳みたいなものを輸入して、身を整えてきたのだろうて
戦後の日本でも、警察が無力になってヤクザが治安代行をしていた時が
あっただろう?山口組の三代目が一日警察署長をやっていて
あのまま、政府がしっかりしていなかったら、おそらくヤクザの
任侠道が道徳律として定まって、今頃は武士道と任侠道が
ミックスされた体制になっていたと思うぜ。
敗戦後日本のヤクザは朝鮮人。
そんな古い時代じゃあない
今のヤクザの起源は比較的はっきりしているだろう?
旗本奴の時代だろう?
武士が統治者として自覚をしだした時期にあたる。
それ以前の戦国乱世は武士と、農民とヤクザと商人の境目が
あいまいだったからな
アウトローであるはずの893が経済活動で大幅に幅を利かせるようになるのは戦後
もともと警察が朝鮮人の悪事に手を撃てないのを893を使って鎮圧したのがはじまり。
893も時代が変わると朝鮮人が牛耳ったりとかで今この有様。
>>84
戦前は特別高等警察が抑え込んでいた。
現代に必要なのは内務省と特高と治安維持法。
戦後、公職追放された軍部の一部人脈が地下経済に加わった経緯もあるだろ
そいつらも893化したんじゃね? だから地下経済が肥大化したんだと思
>>85
馬○か。
GHQが後ろ盾になったのがヤクザや地下経済組織。
地下経済組織って旧陸軍の退役軍人系のもかなりの大人数だろ
そもそもが身分や職業で分けようとするから間違う。
武士という職業は基本はない。
もし武士という職業が明文化された形で確立していたならそれは室町将軍家や守護家レベルの家系が専属武士というたち位置立ったんだろう。
ただ彼らには武士という概念などないから貴族化した生活をしていた。悪魔で統治者としての自覚は会っても、
自らを武士という職業概念など持ち合わせてなどいない。
そもそも武士とはなに?
富裕農家が地域の名望的意味合いで必然的武装化し始めた概念的武士と、
応仁以降地域基盤が完全崩壊して世の中で、偶発的に武装化し始めた戦国武士層(雑多出自)は、
中世では同じ武士に分類されるが、質や意味合いはまるで違う。
武装富裕農家は武士としての成分は質は高いが、時代の寵児にはならなかった
かた時代かたや世の乱れにより出現した偶発的武装化によった戦国武士層は現代のマフィアに近いだろうが
結果として時代の寵児になった
時代がそれを許してしまった。
が、それらとて大義名分もつ公になればある程度の規律をもつようになる
自覚が芽生えるからだ。
そしてそんな輩こそ武士という不確定的な抽象的、概念的意味合いしかもたない武士というたち位置にこだわる。
なぜなら自らを立証できるたち位置が存在しないからだ。
例えば富裕武装農家は武士的たち位置が失われようとも、存在としての価値は失われない。
何故ならば武装化していること事態に意味合いは存在しなく、
悪魔で手段としての武装武士化、ようは地域貢献の目的のための武士化であるからだ。
かたや戦国以降の武士は武装化していることが存在意義であり、
武士的立場か失われたら、個としての存在価値が皆無になる。何故ならば雑多出自だからだ。
武士というたち位置にこだわらなければ、個として存在しない。
こういった階層こそが武士という概念的区部にこだわり、
また固執してこだわった。
武士とは単なる武器をもつもの程度の意味合いしかない。
例えばお前らが甲冑でフル武装してタイムスリップしたれもう立派な現代的意味合いでの武士だろ。
モチロン当時もそう認識しているはず。
ただなぜフル武装しているのかでたち位置も意味合いも違ってくる。
わかるよな?
フル武装は強奪のためなのか、かたや地域のためなのか。
しかし戦国時代はこんな真逆のたち位置でも同じ武士に分類されてしまった。
何が言いたいのか?
それは武士とたち位置に意味など存在しない。
武装してりゃ戦国以降は誰でも武士
武士であることに価値など一ミクロンも存在しない。
ここを現代人は勘違いしてんのよ
しかしただの武装した農民と、神社で毎年流鏑馬や野馬追いするような武家の子孫の武士は意識も生活習慣もだいぶ違うよな。
農民や商人がただ見よう見まねで武装しても、騎射のやり方はわからない。
手柄を立てた足軽を馬に乗せたらすぐ乗馬ができるというものでもない。
もちろん誰かに習えばできるようになるが、その場合の武士道は従来のものから学んだもので、ただの武装した農民の意識とは違う。
>>91
大前提忘れてるが、
そもそも名門足かが幕府が紀伊討伐で伊賀や甲賀にぼろ負けしたのはなぜだ?
その伊賀や甲賀、戦国の雑賀は貧農だらけだぞ
秀吉軍団は精強な生粋の武家出自軍団なんて聞いたこともないが強い
型にはまった流鏑馬程度や剣術程度が戦で通用するなら、室町武家衆はこんなにごとごとく滅ぼされてないはず
今のサラリーマンに甲冑着せても乗馬はできない。
また馬が借り物ではニワカに過ぎない。
足軽鉄砲隊が大勢いれば武田騎馬軍団にも勝てるかもしれないが、それはあくまで苦肉の策。
徒士や足軽はあくまで補助に過ぎない。
裕福なごうのうがなぜ馬ごときがいないと思うのか?
ごうのうは馬はのってるはずがないという固定観念はまさに農民は弱いのが前提というはなしでじょ
普通に豪農屋敷には馬小屋あるんたがな?
戦闘で鍛練されてないというが、なら守護大名たる貴族は今の鍛練などしてない
豪農は馬を持ち、また馬に乗ることも可能
ただ、所詮は騎馬戦闘なんて幻想
騎馬武者も戦闘時は下馬して戦う
憶測や農家への弱者目線がそうさせるのだろう
そもそも軍事鍛練だけを生業にした武士なんて鎌倉以降は楠みたいな一部の武士か、
戦国以降は足軽盗賊か傭兵だろ
>>94
斬り合いは下馬してからが多いんだろうが、騎馬武者の本来の戦いは騎射戦闘だろ
弓折れ矢尽きてのち、斬り合うんじゃん。(もしくは敵を追い詰めてから)
>>96
むしろ、尾張兵の弱兵ぶりの原因じゃないの?
尾張の弱兵って有名だったらしいしな(ホントカヨ
禅と儒教を取り入れたことはかなり注目されても
良いとは思うのだが、
なんせ雑多は武士以外食えるみちないからな
しかも一攫千金ありだし
逃げ道がない雑多はそら強いでしょ
奴等は豪農でもあり、ざいち領主でもあり、商人でもあり、武士でもあり、
奴等こそマルチプレーヤーなんだけどな
日本全国を統一的に網羅する公平で均等な警察も、法律も
裁判所もない状態だからな、
完全自立救済主義、自分の権利は自分で守るしかないわけで、
それこそ自分で警察から裁判所まで網羅しないといけないから
だよね?
で彼らは武士という概念的部分にそんなこだわりあったとかんがえてますか?
領主としての意識はあるが、武士専属となんておもってないですよ
防人など一般警備専門は下層がやるものだし
オソレスだけど
徳川時代以前の武士は、綜合警備保障の社員みたいな感覚だった
ではないかな?
幹部クラスは、デモ及び集会の管理マニュアルとか、誘導マニュアルとか
研究して、警備員の配置とか色々と気を使うことができるし、
暴動を起こさせないような研究も色々とやっているだろうけど、
下っ端の警備員クラスはアルバイトでまかなえと言った感じで
ただ、平安時代から徳川時代までの日本は警察と言うのが実質的に
なくなっていたから、綜合警備保障が治安を維持していただけで、
室町武家衆は晩年の今川義元みたいに眉毛抜いておしろい塗って蹴鞠するような公家化した武士だろ。
駿河の今川や大内、朝倉でも一瞬で公家化する。
織田軍団は確かに秀吉みたいなリアル農民足軽上がりも大勢いるが、幹部は斯波氏に仕えた武士、城主が中心だ。
徳川・松平もそうだ。
戦国時代の最終勝利者は秀吉ではなく、家康だが、
足軽農民武将の限界を証明したのが小牧長久手の戦い。
秀吉得意の水攻め、水軍攻撃も通用せず、
武田相手に鍛えられた騎馬、使い武者、馬廻りを駆使した複雑な機動戦の前に秀吉も屈した。
>>106
信雄を助けようと出向く家康を尾張以東で押しとどめつつ、
本命の信雄を全力で叩きに行って勢力削りまくって、
信雄が耐えきれなくなって講和(という形式の屈服)するように仕向けた戦いだから、
戦術面では家康が勝ったとはいえ、戦略面では家康のほうが惨敗じゃん
そんなんで家康が秀吉に勝ったとか、寝言みたいなもん
長柄とか鉄砲は、乗馬に比べると習得しやすい。普段から馬飼う必要ない。
だから無理して平時から準備しなくていいともいえる。
しかし馬飼って、乗馬習って、早馬したり、馬廻りするのはすぐにはできない。
今でも金や時間がかかる。
騎馬は特権階級の証だからな。
モンゴルみたいな特殊環境は別だけど、穀倉地帯で馬を飼うのは
人口の一部しか無理だから、必然的にそうなる。
おめーらよ
貧農あがりの雑賀、根来にその徳川豊臣を包括する織田軍団は何回駆逐されてんだたこ
石山本願寺に信長はいっさいかててねえだろたこ
しかも斯波に使えた武士て普通に在地地侍が大半墮ぼけが
地侍とは富裕武装農家だぞたこ
しかも島原の欄では幕府軍団ソウダイショウ板倉は討ちタヒにされてんちゃうんけ
挙げ句は幕府の旗本は幕末、長州の奇平隊に一日でボコラレてんちゃーんけ?
107
その馬上技術なんぞ費用対効果が壊滅的だから幕末なんぞ騎兵隊なんていねんだばか
戦国時代でも農業国なのにどこに騎馬戦できる場所があんだよたこ
俺が戦国時代にいても、騎馬隊なんて真っ先に解体するわ
日本は軽装歩兵が最大限の効力はっきする
小牧長久手は、複雑な機動野戦で家康に完敗した秀吉が交渉で家康を妥協させたに過ぎない。
関が原の戦いも石田三成のような商人番頭武将の限界を証明した野戦といえる。
石田三成は手紙書きまくって武将を煽ることはできるが、自分で野戦の指揮をすることはできない。
家康のように酒井・本多・榊原・井伊のような「リアル武士」がいるのは絶対的な強みだ。
>>119
家康中心史観って江戸時代限定の特殊視点だろ
もともと織田家の継承問題がこじれての内訌であって家康は門外漢だったのが、
当事者たる信雄からの支援要請があったから家康が関与することになった
信雄を支援できなかったことで戦略目標を達成できなかった家康は、戦場では勝ったが戦略では負けてるぞ
戦術的勝利では戦略上の劣勢を覆せないって形かな?
>>121
それはない
三成とかは官僚的武将であって商人的武将じゃ無いぞ
そもそも朝鮮出兵から商人武将の限界が見えていた。
三成のようなただの商人武将では福島正則や加藤清正のような武将を統制できない。
仮に石田三成が関が原で家康に勝利していたら、
近江商人や、堺商人、博多商人が日本の社会道徳の中心になっていただろう。
商人でも金次第で大名にまでなれる商工農士の身分制度になっていたかもしれない。
大名の子弟は幼いころから読み書き算盤を学び、井原西鶴を読んで道徳を学ぶ。
藩で一番偉いのは勘定奉行。仇討ちは軽蔑される。
城の中には住吉神社があって、歴代藩主の夢は金を貯めて銀二貫を奉納すること。
なんでそんな中途半端にネタを織り込んでいるんだ
秀吉が信雄との交渉で切り崩しを図ったのは、別に最初からそれを意図していたわけではない。
最初は簡単に勝てると思っていたが野戦ではどうやっても勝てなかった。
つまり秀吉の最初の戦略目標は、家康を完全に潰すことだった。しかし秀吉は家康を潰せなかった。
あの時点で秀吉にとっての最優先課題は信雄を屈服させることで、
あわよくば、家康を倒せたらそれに越したことはない、って程度。
後に家康が強くなったという史実を知ってる人間が見たら家康を倒すべきだったと言えるけど、
あの段階では、秀吉が家康を倒すべきだったと考えるのは不可能だ。
家康を潰すことこそホントの目標だったとか言っちゃうのは、結果論敵視点にすぎん。
腕試しに農民を辻斬りとか普通にやってたみたいだし
>>129
斬捨御免って、明治維新信奉派の人からは悪習の代表呼ばわりされてるけど、
「状況によっては一般武士も裁判権・処断権を行使する権限がある」ってだけで、
どういう事情、状況・理由で行ったのか書面で報告する義務があったわけでな。
不当なことだと判定されたら武士の方が処罰されることもある。
腕試しに辻斬りするような武士は取り締まられてるよ
>>137
いや、平安時代の武士なら野戦のプロと言ってもよかっただろ。
そのころには、武士の常識が少なからず人道に抵触していたけどな。
普通の武士はそんな野蛮で下劣な行動は取らない。
切捨てなんかしたらあとあと面倒なんだよ。
狂人認定され、周囲からの信用を無くし、武士としての価値はゼロになる。
辻斬りといえば幕末の薩摩藩士が深夜にコソーリとやってた。
昼間の示現流じゃ江戸の新流流派(神道無念流、直心影流等)には太刀打ち出来ないので、町人相手に深夜にズバッとお見舞いしてた。
武士道のない日本社会とは応仁の乱前後を見ればいい。
一度日本では武士道という倫理は失われ、将軍夫人が金融業をする無秩序な世界になったのだ。
しかしそこからまた秩序を回復するには、朝倉の家訓や家法や備えのような新しい規律が必要だった。
朝倉は一度それでノシて、また公家化して滅びた。
豊臣も農民行商人から武士、武将になって、また公家化して滅びた。
武士道とはむしろ、公家化防止のための手段ともいえる。
自宅を警備するだけなら武装した農民でもいい。
近所に放火するだけなら足利不良少年でもいい。
海戦だけなら武装したそのへんの漁民でもいい。
しかし領地から離れての複雑巧妙な野戦となると、長柄・鉄砲・荷駄・早馬・騎馬武者を駆使する必要がある。
しかも当時の伊賀甲賀は生粋の百姓だが?
元寇をリアル討伐さした当時の越に、平安武士が勝てたと思う理由はなに?
当時西洋はなん十万の三百年に及ぶ西洋国家連合の騎士団を撃退さしたイスラム兵団より野戦が強いとかほざける島猿根性理論はなに?
プロって言葉の基準はそこまでハードルが高いもんじゃないだろ
戦争を職能としていて、その職能を期待して雇い入れる人が存在したんだから、
戦争のプロには違いないわけだが、他地域のプロたちを相手取っても勝てるような「プロ中のプロ」ではない。
プロ中のプロじゃないとは言っても、プロの端くれではあった。それじゃいかんのかね?
それに、日本の武士は集団戦のプロと呼べる状態じゃなかったからなあ。
凄く大雑把に言えば、武士道は「職業軍人のモラル」だと解釈してるな
江戸時代の武士は領地から切り離されて実質給料を貰っているのと同じようなものだったから
それ以前の地主としてのモラル、一所懸命とは違ってきて当たり前
奈良時代の東国防人なんかも淵源の一つと思う。
>>152
弓騎兵戦術や刀は確かに俘囚由来だけど
基本的に武士は独立自衛農民で税金踏み倒してた連中だよw
摂関家や皇族に使えることでその特権を維持してた。
不人気だった大河ドラマ平清盛で武士を犬呼ばわりしてたけど
実際はそんなことはなく白河法皇の男の愛人には武士が多い。
武士道を考えるには貨幣経済について考えるのも重要だな。
平安時代から江戸時代まで日本では貨幣経済は一般的でなかった。貨幣は中国から輸入したものしかなかった。
博多や堺はいざ知らず、地方では金で雇おうにも超デフレ社会で、コインそのものが珍しかった。
田畑や山林、牧場をもらえばコインがなくても生活できた。
>>161
平家が台頭した時宋で宋銭が無くなっただろ
いつの時代の歴史書読んでるんだ図書館行って新しい本も読めやw
>>161
>平安時代から江戸時代まで日本では貨幣経済は一般的でなかった。貨幣は中国から輸入したものしかなかった
自力で貨幣を発行しうるほど、朝廷の経済力が大きくなかっただけ。
貨幣の普及度そのものは高く、荘園から領主への年貢納入が基本的に貨幣って状況になるまでは、まあ早かった。
平安末~鎌倉時代ぐらいになると、京都近郊を除く多くの荘園は、現物ではなく貨幣で年貢を納めていた。
その貨幣の輸送も手間だからと、手形・割符を用いて納入したりもした。(額面、銭10貫文とかが、銭と引き替える証文が多かった)
だいたい室町時代後半から戦国時代にかけて、銭の需要は伸び続けてるのに供給が途絶え、貨幣不足によるデフレが続いたことから、
貨幣流通に深刻な混乱が生じたので、しかたなく年貢の米納が行われるようになったのが戦国末
>>168
日本では永楽銭が使われていて明では馬蹄銀だったから
ほぼ日本向け輸出品だった。
お前いつの時代の歴史書読んでるんだよ。
商品経済の発展がないと織田軍団の強さが理解できないだろw
平安以降、東日本人が近畿周辺に移配され、屠畜や皮細工に関わったと言う
説があるじゃない。
同様に「関東侍」と言うか、○生を専門職とする職能はついに
畿内では発生せず、狩猟民末裔たる東国自衛民から発生したと言う説は
説得力あると思う。
警備員のバイト代が米袋とか田んぼみたいな世界だ。ビットコインの真逆の世界だ。
しかも今のブラジルみたいに警察官がストライキしてる間に商店街が略奪されてる感じ。
いやでも柔道家のプーチンみたいなのに頼るしかない。
西日本の武士は公家に臣従した瀬戸内海・北九州の武装漁民がメインだろ。
藤原純友、清盛もそうだし、毛利とか大内とかもそうだ。
武装漁民、海賊、水軍は別に○生を禁忌としない。
>>165
西遷悪党で武士もどんどん鎌倉から西日本に送られてるが
元寇以降もな。
承久の乱以後は西日本に大量の地頭が送り込まれてるよw
天皇領はあってなきがごとし。
京都に花背別所と言う、山奥の地区がある。
むかしは御所警護の「武士」をたくさん出したと言い伝えられていて、
姓は「佐伯」が多いとか。
このあたり、近畿武士の由来を物語っていると思う。
覚せい剤密売が主流の薬局系とか
売春が主流
飲み屋の用心棒
手形取引・不動産取引に絡むトラブル処理
芸能に手を出す興行系
博打・パチ○コの博徒系
大企業や政治家に絡んでの用心棒系、
土建に絡む土建系等
徳川時代以前の武士も色々とあったのに、
なぜか天皇家・摂関家に絡んできた、寄進系の農業経営者が
武士の主流みたいな歴史観が作られてきたのだな
これは徳川時代の武士の方も、ご先祖様を美化して語りたいの
需要でそういう歴史観が作られたのかな?
平清盛が宋銭主体にもっていって勢力のばしたんだってね
支配者が野戦で全国制覇した徳川だから、武士道のメインが騎馬武者地主が主力の野戦になるのは仕方がない。
関が原で毛利が全国制覇していたら武士道のメインが漁村や水軍になっていたかもしれないがな。
瀬戸内海が中央の毛利幕府だと、軍役の基準もだいぶ変るだろ。
上級武士は安宅船一隻とか。
網野さんがそういった視点で、百姓=農民じゃない
といった本を書いていたけど、
武士=農業経営者=領主だけではない
商売系や漁民系、僧兵や神主上がりの経済利権系の武士だって
たくさんいると言った本は誰か書いていないのかな?
結局最終勝者が百姓上がりの徳川家だったから、武士の起源が
武装農民団ということになってしまったけど、
これが毛利とは言わない、平家とか信長の家だと、経済利権の
資料がもっとたくさん残って、ひょっとしたら武士の起源は
武装商人団ということになっていたかもしれない。
打倒平氏に繋がった歴史があるとかなんとか、、、
徳川軍団が武士道を重視したのは、織田軍団の二の舞にならないため。
外様大名の牙抜くために朱子学を導入したんだよ
まあ貨幣経済では桶狭間の勝利は説明できないよな。
貿易で成功した大内が毛利に負けた理由も説明できん。
大友が島津に負けた理由も説明できない。
平家もどっちかっつーと瀬戸内海の武装漁民&輸入代理店系だったが、
義仲や義経相手の地上の野戦で完敗したからな。
海上戦の経験ばっかりで馬術がヘタクソだと、鹿が通るなら馬も通るみたい障害馬術がわからないで奇襲される。
馬イカダみたいな高等集団馬術もよく知らないからあっさり渡河許す。
弓矢で漕ぎ手を狙うのは卑怯!とか身内ルール言ってるうちに次々航行不能になる。
なぜ日本は明治維新から短期間で世界の一流国に上り詰めたのか?
その背景には武士道があるのではないか?
と妄想してみる。
武士に二言はない。
この言葉の実践は、強烈な自尊心を育て上げる。
武士道から受け継がれた文化である「約束を守ることの美徳」が日本人の精神性と行動力に大きな影響を与えたのではないだろうか。
だからよ、武士道なんて大正時代に広まった創作だろが
明治維新は各藩は借金踏み倒しだらけだわ下士の娘なんて身売りたらけだわ
幕府方諸藩の殆どが簡単に薩摩長州に願えるわ、暗○略奪が横行するわ
どこに武士道があった?
しいて言うと新撰組だな
負け組み連中だな
まあ、どの時代も勝ち組というのは卑怯者だよ。
源平合戦の義経なんか、あの当時の戦争ルールを無視して、
舟のこぎ手を狙い撃ちして勝ったのだろう?
もともと幕末までに、それなりに経済力が高まっていた
商品先物相場(市場、取引)とか信用貨幣のような現代的なシステムが、欧米より先駆けて江戸時代にすでに存在するしな。
また、幕府による開国時の対処方法が、国富の海外流出を最小限に抑えるための、おおむね適切な応対だったことも幸いした
(ただし、小判両替による金地金の海外流出だけは対処できなかったっぽい)
そこに、武士道の介在する余地はない
信用、手形は鎌倉時代からあるがな。金融全盛は日本は中世からで
金貸しがゴロゴロいる時代で闘茶のような高額賞金を絡ませるゲームを
大名が好んでする武士道とは無縁の世界なのは同意だが
船の漕ぎ手を狙うのが卑怯というのはあくまで瀬戸内海限定のローカルルールだ。
そもそも奥州の内陸育ちの義経は海戦とかそれ以前には、やったことない。
別に水軍の大将でもない。
漕ぎ手は狙わないってのが海戦の素人にはわからない暗黙のルールって気がする。
武士道=お家道
祭祀礼節教養(心技体)なり
お家を繁栄させる技なり
お家の名誉を守る意識から発生する様々な礼節なり
家系の繁栄
名家の誕生は
西側諸国が他国に対し一番嫌う風景なり
武士道とは自己犠牲
欧米だと、カトリック修道院の掟が宗教改革を経て
近代市民社会の契約社会の法治国家に発展したのに対して、
日本は道元さんの禅の教えが、儒教の道徳と結びついて
ナンたら道になって、商人道、武士道
あげく剣道、柔らの道、野球の道になったのだからな
武士ingみたいな感じ武士の道を進む
ボクシングとかフェンシングみたいなさ
武士の間の常識がどのようなものだったかを調べたら、
「主君のためにタヒぬ」という概念が普及するのは江戸時代に入ってからだからなあ。
それまでの、黎明期から戦国時代までの長い期間の武士は、「主君のためにタヒぬ」と考えることが少なかった。
>>203
明治じゃなく大正だろ
明治には武士は撲滅すべき者とされてたじゃん
いや、新渡戸稲造が「武士道」を創作したのは明治帝の御代だ
いや武士道って言葉自体は江戸中期に既に葉隠であったぞ
メジャーなものだったかどうかは別として
武士「道」なんて概念は、武士はこうあるべきっていう体制側の都合で武士を勝手に定義づけしただけであって、時代によってその内容は変わってる
結局は当事者以外の連中が「武士はこう振舞え!」って言ってるだけ
当の武士達は日々の生活に手一杯でそんな御託並べてる暇なんてない
0005 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/26 22:49:50
武家の子孫である俺が爺さんから聞いたことを教えてやる。
揉めたら、取り敢えず、相手を斬り○してから、善後策を考える。
それが武士や士族(武士の子孫)の発想。
それでは社会が持たないので、○人による処理に制限をかけるための、武家専用思想。それが武士道。
でも外からみると自制してるみたいで格好いい。
まあ、エヴァにとっての拘束具・外装のようなもの。
0107 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/10/11 23:43:46
まあ、武士の一族は、他人様ぶち○して生き残って、国家権力まで手中に収めた集団だからな。
それを何世代もルーティーンでこなせる割り切りもあるわけで。
ヤクザのような脅しレベルじゃないわけだ。国家権力に虐げられてるヤクザとは戦闘力も戦闘経験も経済力も気概も桁違い。
まず、斬り○してから、考えるとか、もうね。興奮せずに、目の前の石ころでものける感覚で切り捨てちゃうわけね。
そりゃあ、大いに自制してもらわないと社会持たんわw
そんなのの遺伝子もった士族の子孫が日本に数%いること自体に恐れを抱くよ。
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1324374922/
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