「源平の合戦」明暗を分けたのは「食」!? 鎌倉武士の質素倹約とは
政子を演じる小池栄子(右)と頼朝役の大泉洋(c)NHK
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が話題だ。武士の歴史というと何かと華々しい場面が印象に残るが、実際の当時の生活は、かなり地味だったようだ。
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鎌倉武士の生活は質素だった。その理由は「方丈記」にも書かれているとおり、大地震や飢饉が相次いだことにある。京の都は荒れ果て、遺体が放置されたまま。そんな時代背景で、東国に活路を開いた開拓農民である鎌倉武士は質素倹約が身についていた。
歴史作家の加来耕三氏は「源平争乱期の主食は1日黒米(玄米)5合で、これを蒸して強飯(こわいい)にして、一汁一菜を添える程度。1日2食が一般的でした。将軍頼朝もそれは同じで、臣下らにも粗食を奨励していました。彼らが多少のぜいたくをするのは、正月と夏祭りのときくらいのものでした」と言う。
加来氏はその一例として、「吾妻鏡」に描かれている椀飯を挙げる。椀飯とは正月に臣下のものが将軍を家に招いて饗応することだが、幕府の重鎮・千葉常胤が頼朝に献じたのはコイの一品料理だった。
コイ料理は公家社会でも喜ばれたが、サケは「かく怪しきもの」(「徒然草」)として賤(いや)しまれていた。しかし、頼朝はサケを喜んで食べ、それを歌に詠んだという。
戦の際には「干飯(ほしいい)」を戻して食し、「武士たちは野草でも山菜でも木皮でも何でも食べた。足りないたんぱく源として、戦場でシカやムササビ、タヌキを狩って食べ、ハチノコや昆虫のさなぎも食べていました。平家が敗れたのは貴族が好んだ精進料理ばかりを食べ、力が出なかったからという説もあるくらいです」(加来氏)。
特に質素倹約が際立っていたのは5代執権・北条時頼だ。「徒然草」には、時頼が連署(執権の補佐役)の北条宣時と酒を飲んだ際、宣時が台所から味噌を見つけてくると、時頼は「事足りなん」と喜んだと書かれている。時の首相と大臣ともいえる2人のツマミとしてはあまりにも質素だろう。加来氏は「この時代の調味料はせいぜい、塩、酒、蓼酢(たです)、醤(ひしお)。味噌があれば十分でしょう」と言う。
「食」だけでなく「住」も「衣」も質素だった。
「住居はわらぶき屋根。男たちが自分で建てました。服も奥さんが機織りから作ったものを着るのが当たり前でした」(同)
明恵上人の伝記によると、時頼の祖父・泰時は畳も古いものを取り換えず、衣装も新しいものは求めず、烏帽子(えぼし)は破れたものを着用していたという。たくましい時代だった。(本誌・鈴木裕也)
※週刊朝日 2022年5月27日号
これだけ日本海側に面していて、博多湾だけ。
んな嘘言うなよw
今でも北朝鮮の小船が着いたりするのはどこかね?
そう顔に自信があるわけじゃないが、、まあ、皇室はあからさまなチョン顔。
だが、納得できる話だろ?
日本の東と西では全然国民性も違う。
東は貧しかったと推察するな。
だから今でも西日本には野菜畑も果樹園もあり、お茶の文化も
ちゃんと残っている。
だが、東北や北陸関東一円はあんまり食べ物の種類も少ないだろう?
納豆やら食文化も東には無い。
大仏も鎌倉のは貧乏臭く小さい。
正田英二郎は満洲の小麦を満洲開発でやっていたわけで
まあかなり大陸系だな直近ですら。
平安に都があった時代には牛車もあり、その後は存在しない。
という事は道を整備する事すらなかったんだろうな源氏後は。
牛若丸とかキャラクターを作っているが、現実の源氏側のモデルなった
人間の格好は逆だったと思うぞw
その後の文化後退を見るとな。
西日本を虐待してるわけだ。
東は。
小船でも着いてる場所って東日本の日本海側だろ?
対馬は対馬でかなり対抗はあった形跡もあるが、、。
大日本帝国の戦い方も占領地域で現地調達。
まあに過ぎだなw
大陸の北側にあった馬賊に火薬が持ち込まれて源氏側と共同した破壊行為が行われて
方や今の中国南方と貿易があった平氏が真っ向からぶつかった。
と考えるなら、、、。
まあ辻褄は合うわな、
今も同じだろ??
日本の企業群はこの20年ロシアに肩入れして、プーチンは自信満々で
ウクライナに侵攻。
鎖国なんてプロパガンダの嘘を信じる前に。
だからロシアなんかと結託してるのは
今でもお前らだろ?
天皇側の人間。
それを証拠に宮内庁は医療で
国民を奴隷化して
シコタマ儲けている事実を隠す
が
嘘は隠せない
覆い隠す。
だろ?家畜
薬の中に練り込む。
お前ら天皇側がやってる事だろう
お花畑
東北の田舎には果樹園だのないが
九州や山口の田舎には必ず
金柑やらみかんやら
朝倉市に出来るらしいし行ってみればいい
耳なし芳一の伝説の残る地
平和ボケした奥州はさらに弱い
重忠ら坂東軍は、木曽勢や平家を撃破してきたばかりの歴戦の武者であった。実戦を知らない東北軍を攻めるなど、赤子の手を捻るようなものであったかもしれない。
それにしても、鎌倉勢の目に勇者の戦いとしてうつったのは金剛別当の子で僅か13歳の下須房太郎秀方の防戦だけであって、高楯黒と呼ばれる駿馬に乗った国衡でさえ、馳射の伝統はどこへやら、義盛に応射もせず逃げるのみであった。
最後はその名馬が柴田郡で深田に踏み込み動きが取れないということになるのである。豪勇という印象のある国衡さえこの有様であった。
(新野直吉秋田大学長、文学博士)
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