映画墨攻から春秋戦国時代を先取りした思想家・墨子を語るスレ
http://tv10.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1158127372/
こっちは墨子について語るか。
キリスト以前のキリストだね
墨子と老子
と、最近思うようになってきた
知ってますか?
あの女性の存在いらないかと思った。
>あの女性の存在いらないかと思った。
ビンビンが出てなかったら、
女性客が寄りつかなくなるよ。
カチコミ!ドラゴンゲートみたいな有様に…
もかくや、という位のきつい軍律で縛られたそうです。日本で言ったら「戦国時代の島津軍法」「新撰組の隊規」
のような「違反者はタヒ罪」というような。実際どれだけ「部外者」に強制したかははっきりしないようですが、
守城に失敗した墨者一派が集団自○したり、雇われた国の国法よりも墨子教団内の内規(こっちのほうがキツい)
の方を重視して違反墨者を処刑したりしてます。なので、一般の人たちからは「ありがたい人たちだけど、とてもついていけない」
と思われたことが墨子教団が消えた主な理由では。
論語は礼で名声を得た孔子が聖人になりきって政治に口出ししていく様とその没落を記した書物。
本心は邪魔な三桓氏を下剋上したいが成らず。いわゆるカルトの教祖様の伝記。
孟子は真似好きな男が聖人になりきって政治に口出ししていき失敗して最後は孔子にはまる様を記した書物。
いわゆるカルト信者の詭弁使いの高祖様の伝記。
という訳で儒教はカルト。どこまでも理想主義。
儒教の原型である道教もやはりカルト。
みんなそろって現実主義者・管仲が嫌い。
儒学の影響を受けた墨子もやはりカルト。日本で言うなら日蓮宗。
武力行使と結びついて破壊的カルト化する。
独裁者・始皇帝が韓非子にはまり、カルトである儒学者を排除しようと考えたのは当然。
カルト弾圧により、根っこの同じ墨家も併せて消滅する。
しかし、韓非子なんかのせいで秦は民衆の支持も失ってしまった。
漢代には、民衆をまきこんで、国家ごとカルト化する。
江戸幕府の朱子学を経て、論語をいまだに教科書に入れてる日本は、カルトが支配する国。
孔子は旅先で農民にぼろくそに言われて相手にされない。
民衆からは嫌われていたらしい。礼は貴族趣味か。特に下級の。
天子ごっこ教えるより現状を何とかしろ。みたいな。
貧乏をたのしむ、と本人は言っているが、事業は軌道に乗っていて、旅費も充分捻出可能。
ケチケチ主義だったにすぎない。
金や宝石より実用品がいい。家畜がほしい。飼育は得意。
特に何も言ってないということは困らない程度に持っていたはず。
得意な物は何かと聞かれたら、本人は武人のつもりで答えている。実像は文人ではない。
教えは間抜けだった。楽しみにつくすのはいいなあとか主君に尽くせみたいなことを遠まわしや直接に言う。
愛弟子二人、惨めにタヒんだ。教えた通りだった。失望してタヒんだ。
論語を読めば容易に推察できそうなものだが日本では何故か誰も書かない。
論語は天子ごっことかそういう物じゃないぞ
元々土着の葬祭に関わる儀式、倫理をまとめただけで
実際には貴族趣味とか関係ない
そもそも貴族が生まれたのは六朝時代
管子を読め。正攻法で行け。たくさんある思想書の中で、カルト登場前の貴重な書。
事業をやっていて、金があり、孔子を援助していたのは確か弟子の子由。
孔子自身は何の事業もやっていない。弟子の援助で食えてただけ。
あ、礼法の教師か。
でも、孔子は良い人だったと思うよ。まあ、お人好しだったと言ってもよかろう。
現実を変革する力は何も持ってなかろうけど。
ただの庶民的なおっさんが宗教の開祖であってもまあ良いじゃないか。
あんな病的に食い物にうるさい元祖遊山が庶民的は無いわ
カルトになったのは漢代
それ以前はどっちかというとその辺にある十把一絡げの思想
ここでも滅多打ちにあって三戦に行くと予想w
当時は城壁が発達しており、並大抵のことでは城市を落とすことは不可能だったが、
戦国末期になると大規模な攻城兵器の出現と、それを可能にする交通手段の発達により
攻める側が守る側よりも有利になって墨子教団は衰退したと言われていた。
(「墨攻」における秦との癒着などもこの説に拠っている)
しかし最近では攻城兵器の出現よりも早い段階で墨子教団が姿を消していることが
指摘されており、単純に諸侯の巨大化・統治力の強化により確たる地理的基盤を持たない
墨子教団は解散に追い込まれたとする説が有力。
墨家は独自に武装勢力養ってたり、自分たちだけの法律作って勝手に
内部で処刑まで行ってたりした、かなりカルト的な教団だったから、
国家権力が伸長したら生き残れなくなるのは当然。
王様が許すと言ってるのに墨家の法があると言って、身内の犯罪者を独自に処分した
事案が呂氏春秋に見える。
守城戦に失敗したら集団自決した事件が同じ呂氏春秋に記録されてるけど、かなり強い
教団員への思想統制がなけりゃ、そんなことは無理でしょ。
おまけに末期には三派に分かれて内ゲバやってたようだし、衰退は当然。これは韓非子
に見える。
何か現代の新興宗教やコミュニストなんかを彷彿とさせる。
刑罰で家族も処刑したって聞いて一瞬で幻滅した覚えがある。
ジブリは無いな。
だって、小さな女の子が出てこないでしょ?
固く守る事を意味する『墨守』の語源になったのは確かだが、一度も落とされた事が無いかどうかは判らない。
墨家が道教になったと以前のレスを見て調べてみた。
中国の学説では、墨家は秦代には統治階級に排除されて
庶民には浸透していたが武帝の時には衰退し、後漢では廃れてしまったらしい。
しかし、墨子の思想は後漢末の道教の経典である「太平経」の中で宗教思想に置き換えられているらしい。
「太平経」は「太平清領書」の引き写しが多いらしいから、墨家は太平道の思想に生まれ変わったってことだろ。
もっとも、太平道はすぐに廃れるし
「太平経」は重要な経典であったといえ、社会的影響力は限定的なものであったと思われるけど。
また、墨家が遊侠になったと説は
墨家と遊侠の思想に関連性が認められることと、墨家の支持者基盤が戦国時代の武を専門とする「士」とあると考えられることから
墨家の没落後、支持者がある意味堕落し、ある意味現実的になって遊侠となった説があるようだ。
これは魯迅や聞一多も主張しているから、なかなか有力。
個人的に活躍時期がほぼ交代するように出ているし、組織力の大きな墨家が末端まで滅亡するとは考えにくいからこちらの方が納得できる。
前漢代の遊侠は墨家に近い風格があるし。
墨家は自分から攻勢に出たとはいえ、肝心の墨子が仕えていた宋が滅亡するから、
戦争を止めるのは無理ってのは分かるし、支配者階級には支持されない
秦に墨家が多かったってのも思想と矛盾するんだが、秦なら攻められないから
防衛のため命を捨てることはないって言い訳していたかもしれんし、
統一の手助けをして思想を換骨奪胎して生き残ろうとしていたかもしれん
どちらにせよ、
戦争は多くを犠牲にするから無駄→戦争をする秦ばかり勝ち、統一に向かっている
悪いことはすると天の意志に反し、鬼が罰するからやめよう→虎狼の国、秦に天罰がない
もう、思想的に完全に敗北
負けたら自○して優秀な人材を失うし、キン肉マンの完璧超人並に危うい思想
こんな感じだから、焚書坑儒の時に気骨ある人材はタヒぬか、
守城技術を提供するだけの秦の犬に成り下がった仲間に失望して去ってしまったんだろう
もっとも、「非攻」と「明鬼」がなければ支配階級のバックアップはないし、商業を否定しているから
現代的に見ればまともに思えても、どちらにせよ統一に向かう上で消える運命だったのだろう
十世期頃かかれたとされる角力記にはこうかいてある
儒家が七に墨家が三の思想になった と
思想も尚賢や兼愛、非攻など賛同できるものが多いし、非儒と公孟の箇所は読んでいると痛快だ。
貴義と魯問には役立つ格言が集められているし、非命を読むとまた頑張ろうという気持ちになる。
だから個人的には、墨子が一番好きだな。
一
”天下の害”を除いて、”天下の利”を追求する事、これが仁者の使命である。”天下の害”のうち、一番目に余るものは何か。
大国が小国を攻める、大氏族が小氏族を痛めつける、強者が弱者をいじめる、多数が少数をないがしろにする、えせ君子が人民を誤魔化す
、貴族が平民をさげずむ、等々である。また君主が横暴であること、臣下が不忠であること、親が愛情に欠けること、子が孝養を尽くさぬ
こと、これも”天下の害”である。まだある。武器を手にし、毒薬を仕込み、水攻め火攻めで、手段をえらばず○戮しあうこと、これも”
天下の害”である。
こういうおびただしい”害”はどこから生ずるのか。それは我々が人を愛し、人に利益を与えたために生ずるのか。無論、そうではない。
人を憎み、人に不利益を与えたために生ずるのである。人を憎み、人に不利益を与える行為、それは”人には平等に対するべし”とする考
え、つまり「兼愛」から生ずるのか。それとも”人には差別を設けるべし”とする考え、つまり「別愛」から生ずるのか。いうまでもなく
後者である。してみれば、この「別愛」こそ、”天下の害”をもたらす根源である。私が「別愛」に反対する理由はここにある。
二
しかし我々は一つの見方に反対する以上、それに代わる別の見方を示さねばならない。もし相手の見方に反対するだけでそれに代わる別の
見方を示せぬとしたら、それは水を用いて水を救い、火を用いて火を救うようなものだ。このような論法は正しくはないだろう。従って、
私は「別愛」に代わって「兼愛」を主張する。
「別愛」に代えて「兼愛」を主張するのはなぜか。もし諸侯が自国同様に他国のために尽くすならば、戦争がおこるはずがない。なぜなら
相手を我が身同様にみなすのだから。もし領主が自分の領地同様に他人の領地のために尽くすならば、内乱はおこるはずがない。なぜなら
相手を我が身同様にみなすのだから。もし卿大夫が自分の一族に対するのと同様に他の氏族のために尽くすならば、紛争はおこるはずがな
い。なぜなら相手は我が身同然なのだから。
戦争や内乱がおこらぬ状態、それは天下の”利”であるか、”害”であるか。いうまでもなく”天下の利”である。こういうおびただしい
”利”はどこから生ずるのか。それは人を憎み人に不利益を与えたために生ずるのか。無論そうではない。人を愛し人に利益を与えたため
に生ずるのである。人を愛し人に利益を与える行為、それは「別愛」から生ずるのか。それとも「兼愛」から生ずるのか。いうまでもなく
後者である。してみればこの「兼愛」こそ、”天下の利”をもたらす根源である。私が「兼愛」は正しいと主張する理由はここにある。
”天下の害”を除いて”天下の利”を追求すること、これが仁者の使命であると私は言った。そして今、我々は”天下の利”をもたらす根
源は「兼愛」にあること、”天下の害”をもたらす根源は「別愛」にあることがわかった。すなわち「別愛」は間違った見方であり、「兼
愛」こそ正しい見方であるとする私の主張は道理に合っているわけである。
もし我々が”天下の利”を追求しようとするなら、ただ「兼愛」の道あるのみである。「兼愛」に従えば人々の協力を得ることができる。
よい目とよい耳とが協力し合ってこそ、ものの本当の姿がつかめるのだ。強い手と強い足とが協力し合ってこそ、正しい行動がとれるのだ
。道に目覚めた人々が互いに協力し合ってこそ、人々を導くことができるのだ。そればかりではない。「兼愛」に従えば、身寄りのない老
人も救いの手が差し伸べられて寿命を全うし、孤児も保護され成人することができる。「兼愛」のもたらす利益はこれほどまでに大きい。
それなのに天下の士は、「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
三
「兼愛」を非難する意見はあとを絶たない。彼らはこう主張する。
「なるほど、立派な考えである。しかし実行できるわけがない。」
実行できないのであれば私とて主張はしない。しかし、立派な考えであるのに実行できないなどということがあるだろうか。
「兼愛」と「別愛」とを比べてみよう。ここに二人の男がいる。一方は「別愛」の立場、他方は「兼愛」の立場である。「別愛」の男の意
見はこうである。
「友人だからといって、我が身のようにみなせるだろうか。友人の親だからといって、我が親のようにみなせるだろうか。」
そして実際、友人が飢えにせまられていても食べ物を工面しようとせず、寒さに震えていても着るものを世話しようとしない。病気にせま
られていても看病しようとせず、タヒんだ時も葬ろうとしない。これが、「別愛」の立場をとる男の意見と行動である。これに対して「兼愛
」の立場をとる男の意見はこうである。
「高潔の士は友人を我が身同様に思う。友人の親に対しても、我が親に対するのと同じ態度をとる。そうでなければ高潔の士と呼ばれる資
格はない。」
そして実際、友人が飢えにせまられていたら食べ物を工面するし、寒さに震えていれば着るものを世話する。病気になれば看病するし、タヒ
んだ時には手厚く葬る。これが「兼愛」の立場をとる男の意見と行動である。この二人は意見も行動も正反対である。
では、この二人が出鱈目を言っているのではなく、意見と行動が完全に一致し、言ったことは必ず実行するものとして、具体的な例を考え
てみよう。この二人に友人がおり、戦争が起こって戦士として出陣することになったとする。生きて帰れるかどうかわからない。あるいは
また、君命を受けて外国へ使者として旅立つことになったとする。無事に使命を終えて帰れるかどうかわからない。さて、こういう事態に
直面したとして、あとに残してゆく両親や妻子の世話を頼もうとする場合、かれは二人の友人の内、どちらを選ぶだろうか。いかに愚かな
者でも、たとえ「別愛」に反対する者であっても、きっと「兼愛」の立場をとる友人を選ぶに違いない。
つまり、この男は口では「兼愛」に反対しておきながら、いざ両親や妻子を託すとなると「兼愛」の立場をとる友人を選ぶのである。かれ
の言行は矛盾することになるのではないか。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
四
しかしなお、「兼愛」を非難する意見があとを絶たない。彼らはこうも主張する。
「なるほど、友人を選ぶ場合はそのとおりだとしても、君主を選ぶ場合はそうはいかぬのではないか。」
ではもう一度、「兼愛」と「別愛」とを比べてみよう。ここに二人の君主がいる。一方は「別愛」の立場、他方は「兼愛」の立場である。
「別愛」の立場をとる君主の意見はこうである。
「人民を我が身同様に見なせようか。そんな考えは人の情に反する。人生は短いのだ。四頭立ての馬車が塀の隙間をあっというまに過ぎ去
るようなものだ。人民よりは我が身が先だ。」
そして実際、人民が飢えに苦しんでいても穀物を放出しようとせず、寒さにふるえていても着るものを心配しようとしない。人民の間に疫
病がはやっていても対策をたてようとはせず、タヒ者が出たときにも葬ろうともしない。これが「別愛」の立場をとる君主の意見と行動であ
る。一方、「兼愛」の立場をとる君主の意見はこうである。
「名君はまず人民のことを考え、我が身のことを後回しにする。そうでなければ名君といわれる資格はない。」
そして実際、人民が飢えに苦しんでいれば穀物を放出し、寒さに震えていれば着るものを心配する。疫病がはやれば対策をたて、タヒ者が出
たときには手厚く葬る。これが「兼愛」の立場をとる君主の意見と行動である。この二人は意見も行動も正反対である。
では、この二人が出鱈目を言っているのではなく、意見と行動が完全に一致し、言ったことは必ず実行するものとして、具体的な例を考え
てみよう。ある年に疫病がはやり、たくさんの人民が飢えと寒さに苦しみ、行き倒れが続出したとする。こういう事態に直面すれば、人民
はどの君主にしたがうであろうか。いかに愚かな者でも、たとえ「別愛」に反対する者であっても、きっと「兼愛」の立場をとる君主を選
ぶに違いない。つまり、口では「兼愛」に反対しておきながら、いざしたがうとなると、「兼愛」の立場をとる君主にしたがうのである。
かれの言行は矛盾することになるのではないか。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
五
しかしなお、「兼愛」を非難する意見があとを絶たない。彼らはこうも主張する。
「「兼愛」の立場は親の利益をそこなうものであって、孝養を尽くす妨げになるのではないか。」
息子が親に尽くそうとする気持ちを考えてみよう。いったい、親を大切にする息子は、他人に我が親を大切に扱ってもらいたいと望むだろ
うか。それとも、手荒く扱ってもらいたいのだろうか。かれの気持ちからして、当然前者である。他人からも大切に扱ってもらうためには
どうしたらよいか。他人からも我が親を大切に扱ってもらいたければ、まず私自身が人の親を大切にしたほうがよいか。それとも、手荒く
扱ったほうがよいか。いうまでもなく、前者である。まず自分自身が人の親を大切にして、初めて人からも同様のことが期待できるのであ
る。してみると、親に尽くすためにはどうしてもまず人の親を大切にしなければならないのだ。
親に尽くす場合はそのとおりだが、それは稀な事例であって、万事に当てはめることはできないというかもしれない。それでは、先王の書
に根拠を求めてみよう。「大雅」(『詩経』の篇名)にはこううたわれている。
「言葉には言葉を。徳には徳を。人が桃をくれたなら私は李を与えよう。」
つまり、人を愛すれば必ず人からも愛されるし、人を憎めば必ず人からも憎まれるのだ。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難
する。なぜなのだろうか。
『墨子』「兼愛」より
一
墨子は弟子たちを前にして語った。
「いくら義の実践がうまくいかないからといって、義を棄ててはいけない。大工をみるがいい。木材をまっすぐに削れないからといって、
墨縄を棄てたりするだろうか。」
二
当今の君子は矛盾している。豚一頭を差し出して料理しろとえば、できないときはできないといって辞退する。それなのに、大臣になって
くれといえば、できなくても平気で引き受ける。実に矛盾している。
三
目の見えない人がこう言ったとする。
「ダイヤは白い。炭は黒い。」
目の見える人でも、これには反対しようがない。しかし、白いものを黒いものと並べて選ばせれば、目の見えない人はより分けることがで
きない。つまり、”目の見えない人は色がわからない”というのは、目の見えない人が色の名を知らないということではなく、実際に色を
よりわけられないからである。
これは当今の君子にも当てはまる。もし仁について語らせれば、湯王であっても、その考えには反対しようがないだろう。しかし、仁と不
仁をいっしょにして実際に選ばせたら、当今の君子はよりわけることができない。
私がかれらを指して仁を知らないというのも、仁という言葉を知らないという意味ではなく、実際に仁と不仁とをよりわけることができな
いという意味である。
四
世俗の君子は、義のために奔走する人を粟をかつぐ人よりも低く見ている。ここに粟をかつぐ人がいて、道端に休んでいたが荷が重くて起
き上がれなかったとする。それを見れば、君子はだれでも助け起してやる。なぜか。そうすることが義であるからだ。ところが、義のため
に働く人が先王の道を説いたとする。当世の君子は進んで義を実行しないばかりか、よってたかってこういう人の足をひっぱる。つまり、
義のために働く人を粟をかつぐ人よりも低く見ているのだ。
五
私の主義は実行するだけの価値がある。私の主義を棄てて別の主義を採るのは、取入れをやめて落穂を拾うようなものだ。別の主義で私を
攻撃したところで、それは卵を石にぶつけるようなものだ。天下の卵を全部ぶつけても、石は割れはしない。
『墨子』「貴義」より
勉強になるよ。そして墨子の石の様に硬く流されない頑固さは、あらゆるものが流され、変節
や掌がえしが当たり前の現代に、真に必要なのかもしれない。
慶応の学生です。
大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。
今回の三宅洋平の得票に戻るが0時00分現在で東京都合計で18万8千票である。
区部合計では、13万票 そのうち千代田区では、たったの1千票。
港区では5千500票 新宿区では6千500票、文京区では4千票 台東区では3,500票 墨田区では4千票 品川区では7,569票 目黒区では10,000票
大田区では12,000票 世田谷区では20,000票 渋谷区では8,000票 中野区では8千票 杉並区では1万7千票、北区では4,500票 板橋区では1500票
練馬区では1万2千票 葛飾区では500票、江戸川区では5,000票 八王子市では6,000票、立川市では2500票 武蔵野市では3,500票 三鷹市では4,500票 と続く。
豊島区ではなんとゼロ票 中央区ではゼロ票。江東区ではゼロ票、荒川区ではゼロ票 足立区ではゼロ票 通常、こんなことは考えられない。
墨子は述べた。
「世俗の君子は貧乏なのに金持ちだと言われれば怒る。そのくせ、義など持ち合わせていない
のに義を大切にしていると言われれば喜ぶ。実に矛盾した話ではないか。」
『墨子』耕柱より
墨子が魯陽(楚の地名)の文君に説いた。
「大国が小国を攻めるのは、子供が馬遊びに夢中になるのと同じです。夢中になっているう
ちに、子供の足はヘトヘトに疲れてしまいます。もし大国が小国を攻めれば、守る国では農
夫は畑仕事ができず婦人は機織り仕事ができず、ただ防戦に追われるのは勿論ですが、攻め
る側でも、やはり農夫は仕事ができず婦人は機織り仕事ができません。攻めることで手一杯
です。大国が小国を攻めるのは、馬遊びに夢中になるのと変わりありません。いかに大国で
あろうと、結局自分もヘトヘトに疲れてしまいます。」
『墨子』耕柱より。
現代の戦争好きな為政者は、墨子のこの発言を声を出して数十回は読むべき。
キリスト教は国教化で栄えたんだよね。対する墨家は滅んだ。
兼愛なんて支配者にすりゃ都合がよくないだろうし
上に従え敬え絶対だの忠孝の儒家が採用されるのは分かる。
でもキリスト教も博愛だのローマ皇帝を神として礼拝しないだの都合は凄く悪い。
結局数の力とすると墨家も天下取れる可能性はあったね
それが事実なら墨子の意思を受け継いだとは思えない
家族を否定するならそれによる利益も損害も受けるのはおかしい
というかそもそも墨者の家族は墨家教団と何の関係もないので処罰などできるはずがない。
逆に息子に学問させて栄達することを期待してたのに墨家の理想のためにタヒんでしまった
責任を親から問われたりしてる。
それが事実ならこいつらは墨子の遺志を継いでいないと感じた
博愛を否定したのならあくまで家族制度は否定すべきだ
家族制度を否定したわけでも無い。
家族と同じように他人も愛せと言っただけ。
墨子の教えは私の人生の指針だ。就職活動において31連続不採用になった時、‘’非命‘’の教え
を胸に「宿命論なんかくそ食らえ」と努力したら、最終的に正社員になれた。職場においても
‘’尚賢‘’の教えで同僚の能力を正当に評価し、‘’兼愛‘’の教えで他人と接していたら、周りや
部下、そして社長に信頼されるようになった。
墨子の教えは、本当に素晴らしい!
○人鬼・池田大作タヒね
○人鬼のキ○ガイカルト創価学会
○人鬼の集まりが政治活動・公明党
キ○ガイカルト創価学会・公明党
だから適当に近代っぽくアレンジするとつまみ食い好きの左巻きに受けた。
「墨攻」の事なら面白くない。漫画版は多分面白い。俺は小説が一番好きだが。
小説は最後にすごくあっさりと○されちゃうところがとても好き。
ありがとうございます
漫画は読んだんですが結構グロかったですね
そうですか。実は俺は漫画は途中までしか読んでません。だから多分と書きました。
映画版はある意味普通に面白いかもしれません。ただし小説版のいいところが全くないので
見る価値があるかどうか。
給料も上がった!『墨子』、ありがとう!
『墨子』の教えを職場で実行したら、評価されて、前回に比べてボーナスが上がった!
『墨子』、ありがとう!
【米国:ポリコレ】子供たちが「親友」を作ることを排他的だとして、学校が禁止を検討
https://www.newshonyaku.com/usa/llife/20180113
>USニューズ&ワールド・レポート誌の記事によると、
>アメリカとヨーロッパの一部の学校で「子供たちが親友を作るという
>発想自体を禁止することを真剣に検討している」そうだ。
>なぜなら、親友を作ることはその他の子供に対する差別であり、子供たちを傷つけるからだ。
>「親友を選ぶという考えは私たちの文化に深く根差しています」と、
>児童・家族心理学者のバーバラ・グリーンバーグ博士は
>『学校は子供たちが親友を作ることを禁止するべきか?』と題した論文で述べる。
墨子「親友を作るという発想は差別的な愛であり、全ての人を平等に愛する兼愛思想こそ正しいのです」
墨子の主張は兼愛だ。兼愛とは全ての人を我身同様に愛することであり、自分自身が基準である。
博愛と兼愛がどう違うのかは難しくて俺も掴みきれてないけど。
兼愛とは自己と他者とを区別せずに兼ね愛させることである。そこで兼ねる当事者の一方は、
常に自己でなければならない。
したがって、自己が他者Aと他者Bとの間に区別を設けず愛するとの関係は、元々墨子の主張か
ら外れている。よく墨子の兼愛を無差別平等愛とする解説を見かけるが、これは誤解を招きや
すい表現である。この場合、無差別平等愛なる表現が、自己と他者との間に差別を設けず自他
を平等に愛するとの意味で使用されているのであれば問題はない。だがもしそれが、自己から
見て他者であるもの同士を差別せず両者を平等に愛するとの意味であれば、墨子の意図を逸脱
した理解となる。
もっとも、自己と他者Aを同等に愛し、かつ一方で自己と他者Bを同等に愛せば、結果的には
自己が他者Aと他者Bとを差別せずに同等に愛したことになる。ただしこれは、あくまで最終的
な現象としてはそうなるというに留まり、他者Aと他者Bとの間に直接橋は架けられていないか
ら、それ自体が兼愛の本旨にはならない。
孟子は兼愛論を、自分の父と他人の父、または、自国と他国、を同等に愛せと要求してくる
危険思想だと批判する。しかし孟子の批判は兼愛論の真意からすると外れており、孟子の敵意
による誇張を含んでいる。
つまり、自分≠他人ではあるけど、他人A=他人B=他人C…… になっていれば博愛ではあるが兼愛ではない。
自分=他人Aかつ自分=他人Bかつ自分=他人C(以下略)というのが兼愛の本質で、
結果として(自分=)他人A=他人B=他人C(以下略)にもなるから博愛にも該当する、ということで良いのか
そうですね。博愛は博く愛するけどその程度については基準がない。広く浅くということもあり得る。
兼愛は我が身を愛するようにが基準だからはっきりしている。
墨家の指導者を鉅子といい、墨子の後を継いだ禽滑釐、三代目 孟勝と受け継がれたのを知らないの?
特に禽滑釐は墨子の弟子として墨子のテキストにしばしば出てくるので知らないということは読んでないことになる。
そいつらのやっていることから受け継いでいないと感じる
講談社学術文庫
ちくま学芸文庫
どっちが初心者向け?
俺は講談社の方しか読んでないけど良かったと書いておく。
>>141
分かりました。
まず講談社を注文してみます。
小口研磨されていたら嫌だなぁ。。。
墨子の意思を受け継いだとは思えない
他の者はそれに追従したのであって、誰も強要した訳ではないのよ?
いざとなったら逃げるんじゃないのという疑惑の目にさらされている。命をかけているという信頼を失ったら
やって行けない。それを証明するためには実際にタヒぬしかない訳だ。
儒教の博愛を否定したくせにと思った
どんなに支持されようともぼっかじゃない
それと儒教は博愛じゃなくて偏愛。身内しか近しい人しか愛さないから。
自分が作ったのでもない奴の犯した罪で何で罰せられなきゃならないのか
「女を容姿と年齢で差別するな!」と主張した30代女性に投げかけられた、友人たちの反応とは
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190305-00010001-telling-life&p=1
墨子『そもそも誰かを選んで結婚するというのが差別。全ての人を自分自身と同様に愛しなさい』
墨家の目指してたのの完成形じゃん
あの頃の秦の戦力考えたら異常ですが・・・
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170415494/
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