【考古学】吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で新発見、邪馬台国時代の石棺墓か
◆「線刻」と呼ばれる多数の記号
吉野ヶ里遺跡で先月末に見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの「石棺墓」です。吉野ヶ里遺跡には長年、神社があり発掘調査ができていなかったいわゆる「謎のエリア」がありました。石棺墓は、去年5月に始まったこのエリアの調査の一環で見つかったもので、表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号があります。一般の石棺墓より規模が大きく、見晴らしの良い場所にあります。
◆来月に石棺墓の入り口を開ける
邪馬台国があったとされる時期と重なっていることから、王など有力者の墓の可能性もあります。佐賀県は、来月5日にこの石棺墓の入り口を開け、1週間ほどかけて副葬品などを調べる方針です。
2023/05/29 15:31
https://rkb.jp/contents/202305/202305296186/
■ニュース映像はこちら
https://youtu.be/-8z6E5ff-5k
伊都国(現在の糸島市)と奴国(現在の福岡市)よりショボいのに
邪馬台国とは何の関係もなかろう・・・
同時期に伊都国と奴国はさらに強大な邪馬台国に従ってた訳だが
九州のドコにそんな勢力が有ったんだよ(´・ω・)
八女あたり
何も出てこなかったらどうすんだろうな
同じ程度の規模は、東なら安永田遺跡や平塚川添遺跡。
西なら惣座遺跡、小城遺跡がある。
それくらいの遺跡が10キロ程度離れて
点在している。国邑ともいう。
それが当時の小国であり、郡の基本単位になっている。
神崎櫛田神社がある。
吉野ケ里にも近く、
吉野ヶ里の国の一部だったと思われる。
(の一部の三根郡)を合わせても
千人の下女を雇うのは難しいだろうな。
それと別に相応の兵士も
持ってないといけないし。
某古墳の発掘でも残っていた歯を台無しにしてしまった前科がある。
マックスプランク研究所なら遺体の下側の土をプラスチックを含浸させて
保存してからDNA分析をするぐらい進んでいる。
今回は佐賀県が神社の所有者と交渉を行い、佐賀県負担で移転してもらって発掘をおこなったってある
佐賀県やるきまんまんだな
佐賀県最大の観光地でもあるから
予算は出しやすいだろうな
さすが佐賀やなあ
烏賊と牛とバルーンもあるだろ
ヤマトとミナトか
これらの名称自体は固有名詞とかでも無い程度には全国にある
ミナト→港
88 日本@名無史さん[] 2023/06/03(土) 15:43:42.06 ID:
>>85
祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北に隣接する筑紫平野しかないですね。
そして3世紀中頃の築造で、同時期(甕棺墓)の殉葬者66体(うち2体は刺し違え)が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑紫国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論するために、陳寿が中国大陸側の行程を倭国に転用した方便(嘘)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで呆気ないものですね( *´艸`)
998 新規スレ立て人募集 社説+の募集スレまで[sage] 2023/06/03(土) 12:02:34.26 ID:ZaoBl4Ve0
古墳時代成立の鍵となるのは鉄ではなく威信財や祭祀
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3037
九州北部の鉄の量は尋常ではありませんでした。これは倭国乱後も変わりません。つまり、鉄の中心が
西から東に移るという現象は、観察されていないのです。戦乱前と同様に、九州北部の鉄の保有量は
圧倒的で、鉄をめぐる優位性は変わっていません。
それに対して、明らかに分布の中心が西から東に移るものがあります。それは、鏡です。鉄は、武器であり
農耕具であり、すなわち利器、実用品です。一方、鏡や玉は、それを持っているからといって戦いに勝てるわけで
はなく、土地の開発が進むわけでもありません。ただ、それを持っていることによって、自分の威信が高まります。
その意味で、「威信財」と呼ばれています。この威信財の中心は、西から東に移る傾向が見られています。
その移動を示しているのがこちらの図です。これは紀元前1世紀から紀元後の2世紀まで、中国で作られた鏡が
どのような状況で日本の遺跡から出土するかを示したものです。
九州北部では弥生時代にもらったものは、もらった人の墓にすぐに副葬するのですが、近畿ではそれが200年から
250年後に造られた古墳から出てくるようになります。つまり、近畿では副葬されるまでどこかで保管されていたのです。
卑弥呼が登場すると、三角縁神獣鏡という魏の鏡が大きな役割を持つようになり、全国の首長たちに
配られるようになります。つまり、当時の倭国の大部分の地域では、鏡を持つことが自分の地位の高さを
示す威信財として、非常に高く位置付けられていた、という段階にありました。
しかし、九州北部の王たちの間では、そうした段階は紀元前後にはすでに終わっており、より実用的な利器に価値を見いだす
という段階に入っていたのではないかと考えられます。つまり、当時の九州北部地方と近畿地…
三角神獣鏡は中国で一枚も出土せず、鏡のサイズも日本独自で、魏とは一切の関係がない国産鏡なことが既に明らかになってる。成分分析の結果も、中国南部の銅鉱山由来の材料で、魏があった華北とは何の関係もない。
魏の三角神獣鏡とか言う言葉を使った時点でもはや嘘まみれだよ
昔はその三角縁神獣鏡が重要視されてたけど、その後の調査や研究で邪馬台国云々とは殆ど関連性無しな方向性になったのだよね
んなのに拘ってるってのはアタマの中で時計、カレンダーが止まってるのだろ
古墳が卑弥呼墓ってのは微妙だし、近畿では大陸との交流示す遺物が少ない
邪馬台国は中国大陸政権と貢物したりお返し貰ったり盛んやから、何かしらの大陸系遺物が無いとマズい
古墳の大きさなんて偶然的かもしらん
明日からの石棺開封調査で泥封とか金印、銅鏡など諸々出て来たらオモロイ
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