三国志の後の時代、両晋の英雄について語る
そのどちらにも語るに値する英雄が多くいました。
そんな人達について語りましょう
西晋の方は、三国志の余りという感じでイマイチ。
王導や謝安のおかげかな
一度は中央に権力が集中しつつあった魏はその権力を臣下が握ると簡単に簒奪されてる
母猿は百里余りも追いかけた後でタヒんだ。腹を割いてみると悲しみの余り腸がねじ切
れていた。桓温は怒ってこの兵士を罷免した。これが、断腸という言葉の語源である
とされている。
東晋を簒奪せんとする野心の強い人ではあるけれど
なんか憎めないところがある人物
面倒見がよかったりしたのだろうか
育ちが良いが故の教養が今ひとつ悪役になれない足かせになってるかんじだな
曹操と似たようなもんぁ
英雄と呼べるのでしょうか?
桓温の頃の東晋は、三国時代の呉・蜀+αの勢力があったのに
何で華北を回復できなかったんだろう?
洛陽を足がかりにして、華北支配するっていうのは無謀だったのかな?
よくわかる。ほんとに朱元璋は天才だな。
前燕と前秦の対決がかなり熱い展開、個人的ベストバウト(桓温が若干かませ犬扱いになってしまうが)
何というか、前秦って官僚的でシステマチックな印象が強いんだよなあ
それだけ集権化されていて、非常に効率的な体制を作り上げていたことの裏返しであるんだろうけど
胡族政権といよりは、本家中国人以上に、ずぅっとシニフィケイションされた国家だと思う
苻堅の(苻氏全体に言えることだが)胡人であったがゆえの一種のコンプレックスのために、漢人以上にドラスティックな
中華復興を試みたのではないのだろうか?
これが後趙(石勒時代)、前燕(慕容皇、儁時代)あたりだとかなり毛色が違う
人的結合による統治、情に流される政権運営と言ったところか、乱暴に表現すれば
逆に前秦は理、理念、理想といった思想で成り立っている国であったと思う
情に拠った国は、政権中心メンバー間の結束が堅いときには爆発的な強さを発揮するが
一度結束が崩れれば驚くほどに脆く、感情的な行動に走りやすくなる
逆に合理性を追求した体制は、度重なる不測事態や蹉跌に見舞われようとも決して疲れを知らず、
目標を達成することに邁進し、驚異的な粘り強さを発揮するタイプの国家、集団
当然、国家には情も理もともに備えあわさなければならないものなのであろうが、
かたや燕は、各個人の情、愛憎に振り回されて国を傾け、こなた秦は君主の理念先行の統治のせいで
一族の離反をたびたび招き、最後は断末魔の長き苦しみの中で滅亡するに至った
いや、何が言いたいんだか、自分でもよくわからんが
慕容恪と慕容垂兄弟のツープラトンは向かうところ敵なしの最凶タッグじゃないかと
両晋時代の人物ベストテンでも勝手にやってみるか
戦術面
1 劉裕(北伐、海賊退治、僚友と骨肉のタヒ闘といずれの局面においても勝利を収めている)
2 陶侃(地味な役回りながら、彼が江南を確保しなければ東晋は間違いなく短命政権に終わっただろう)
3 桓温(征蜀に成功し、北伐を何度も敢行した時代を代表する名門軍人にして政治家)
4 羊?(討呉計画の立案者であり、杜豫、王濬らの功績も羊?に由来するところが大である)
5 祖逖(弱者の戦術で、強大な後趙に孤独な戦いを挑んだ硬骨漢)
6 王濬(討呉戦の立役者、現場出身の叩上げは中央の貴族連中には使いにくかっただろうな)
7 希β鑒(北府軍の事実上の創立者、王敦、蘇峻の叛乱の鎮圧戦で活躍した)
8 苟晞(屠伯の綽名は伊達じゃない、石勒と拮抗した数少ない晋将)
9 劉牢之(劉裕の上司、北府軍の実力者でシ肥水の戦いでは最前線で奮闘し、勝利に貢献した)
10 謝艾(前涼の一武将、軍略に秀で後趙の大軍を幾度となく撃退した)
魏晋革命以降で、五胡は含まないようにしたが、小粒ぞろいになるかと思いきや
結構ずっしりした面子がそろったな
やはりと言うか、意外と言うか、叩上げの将軍が結構多い
あと、あんまり部下に持ちたくない曲者ぞろいだ、特に桓温、劉裕、劉牢之あたりは
彼の部下に王猛の孫である王鎮悪って人物がいますけど
劉裕はあまり王鎮悪のことを信用してなかったてのは本当なんでしょうか?
曹操とか劉備なんかとは格が違うよな。
空気読まずにチラシ裏
戦略面でのトップテン
1 該当者なし、ずば抜けて功績を残した軍司令官はいない(強いて挙げれば王導)
2 王導(徐州にチ鑒、荊州に陶侃を配置し、後の北府-西府による東晋の防衛体制の雛形を形成)
3 劉裕(東晋延命、禅譲のお膳立てのために戦略立案→概ね成功したが北伐は画竜点睛を欠いた)
4 羊【示古】(討呉プランの立案と実施時期、国力差の見積もりは見事、実施者たりえなかった点が残念)
5 桓温(禅譲・名望のための北伐という観点で評価すれば十二分に成功、その志に疑問符がつくが)
6 王浚(早い段階で胡族の軍事力の組織化に目をつけ、婚姻政策等で強大な勢力を築き上げた
八王の乱の終結、王彌・石勒討伐とその成果は評価されるべき、後にコケたけど)
7 張軌(端っこから領土経営していけば、多少面作戦しなくていいんじゃねえ?を実践した人)
8 杜預(羊【示古】の計画を引継ぎ、討呉を粘り強く主張し、見事に呉の平定を成し遂げた)
9 衛カン(征蜀戦の後始末?、拓跋部の弱体化、皇位継承に関する諫言等、政戦両面に秀でた謀略家)
10 謝安(シ肥水の戦い前後の人事、調整能力は王導に勝るとも劣らない手腕)
いかに適確な目標を確立し、配下の諸将に任務を付与し、戦う時期・場所を選定し、
友軍の軍備を整えさせ、敵軍の軍備を衰えさせるか、という観点で評価
ワースト勢にはこと欠かないんだけどね(八王の乱の時期の司令官はみんな該当するな)
劉牢之は北伐で連戦連敗して(それも失地回復に絶好の混乱期)、正直
内弁慶なイメージがある。
味方の晋軍相手なら無敵って点は、蘇峻に近い気がするぞ。
謝玄は桓温の麾下にいた頃から軍功を立ててたのだし、それで謝安が謝玄を
起用したときにも反論が出なかったのだから、劉牢之よりはふさわしいと
考えるのだが…。
>>35
対案出すのは全然構わない、どんどん批評していこう
謝玄は戦略面でも、北府軍の充実やヒ水の前哨戦の仕込み具合等で非凡な才能を発揮しているし、
戦術面では、やはりヒ水の戦いの立役者だからトップテンに名前を連ねても問題はないと思う
劉牢之はまさしく現場レベルの戦術という意味で推薦した
謝安(政略)-謝玄(戦略)-劉牢之(戦術)というラインで自分は認識していたので
しかし、謝安や王導の外交・調整能力はかなり面白い
政治的な中央集権を敢えて回避して、内部の結束力を高めるという奇策?
外敵が強大であればあるほど、脆弱な国内の派閥が結束する仕組み
東晋という時代だからこそできた離れ業だろうな
>>36
>劉牢之はまさしく現場レベルの戦術という意味で推薦した
ははあ、そういう意味で…納得。
あと、個人的には、二位と三位は逆でもいい気がするなあ。桓温の相手が
慕容恪・慕容垂・慕容徳や苻氏一族だったことを加味して。
桓温の戦術家としての能力は、劉裕と比較してもさほど見劣りしないと
思うのですよ。
劉裕の相手が、内紛でボロボロの後秦や駄目な二代目の慕容超ではなく、
全盛時の彼らであればどうだったろう、と考えることもある。
枋頭の戦いも、部下の補給の失敗に気づいて即退却を決定、ところが
察知した慕容垂・慕容徳に追撃・捕捉されて…という内容なわけで。
この前哨戦である林渚の戦いでは、慕容垂八万の軍を撃破してもいますし、
桓温の指揮能力は陶侃より上でもいいかな、と。
あと、戦術家というより軍政官とすべきべきかもしれませんが、劉弘の
評価がどの辺か知りたいかなあ。八王の乱時に荊州の安定を保ったこと、
その精兵が陶侃に後継者として譲られたことを加味して。
しかし余談ですが、陶侃と周訪のエピソードはひどいですねえ。
陶侃、
「一番良いあの場所に親を埋葬すれば宰相に、二番目に良いあの場所に
親を埋葬すれば代々将軍を輩出するであろう」
と言われて、親友のはずの周訪に二番目をやるあたりが特に。
予言のおかげかはともかく、以後の周氏は周訪・周撫と名将を輩出して
功績をあげましたが…。
しかし、王導の権力の源泉はどこにあったのか不思議ですねえ。
王敦の乱とかピンチがあったにしても、明帝の顧命の臣になっているのが
わからない。いや、明帝が一度廃嫡されかけたときに、長幼の序を説いて
元帝を思いとどまらせてはいますが。
軍事力の裏付けがあったのか、と私兵を多く抱える江南の豪族を調べて
みても、孔氏とかの有力どころと王導は断絶してますし。
正直、王導の政治力は魔力めいて見えるのですよ、今のところは…。
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Googleでは両漢の方が多かった。
ちなみに周、宋だと
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両宋 の検索結果のうち 日本語のページ 約 815 件中 1 – 100 件目 (0.46 秒)
正に名前が表すように(琅邪)王を(江南)に導いた功績は計り知れないほど大きい
長沙王乂の時点で八王の乱が終結していたら、時代もかなり変わったと思うんだけど
彼の人となりを考えれば、専権を振るったであろう可能性はかなり低いし、
それ以上に、匈奴参戦の大乱戦はギリギリで避けられたんじゃなかろうか?
(成都王が没落すると仮定した場合での話だが)
いや、王浚が新たな火種に成り得るか、それじゃあ
政務面でのトップテン(この方向には若干疎いが)
1 杜預(泰始律令制定時の有力メンバー、杜武庫と称えられほどの実務能力の持ち主
学問分野でも優れた実績を残しており、文官の頂点と言っても過言ではない)
2 張軌(戦乱渦巻く華北において、唯一人民と領土をまともに統治し続けた地方官
張軌の地盤固めあればこそ、前涼は十六国最長70年の命脈を保てたのである)
3 劉弘(荊州勢力、ひいては西府軍創設の源流、軍務でも優秀だが本分は内政
特に相次ぐ戦乱で荒廃した荊州の諸城を復興し、蜂起した諸勢力を最後まで
抑えきった領土経営は見事、張軌一家とは甲乙つけがたい名地方官一族)
4 司馬炎(晩年の大ポカには目を瞑れば、天下統一、占田・課田制、戸調式の発令、
軍縮政策、泰始律令制定等、目の付け所は悪くない、どこか歯車が狂ってた)
5 桓温(庚戌土断により、東晋の国力を改善……既得権益の破壊って結構
難しいことだと思う、劉裕は政務面に関してはあくまで桓温のフォロワーにしか過ぎない)
6 王導(人材の発掘、育成、登用、適材適所への配置、さらには細部調整能力
上位陣とは毛色が異なるが、人事・人間心理に関しては怪物的な才能の持ち主)
7 賈充(晋朝成立の功臣第一であるが、特に法律の運用に明るく、泰始律令制定
の長に任じられている、実務より政治力の面で秀でている)
8 謝安(王導と評価項目は同じ、国家の危機的状況を何度もくぐりぬけてる点でも
同等、調整型の政治家だが、度胸・決断力は十二分にある)
9 張華(文人として有名だが、賈后の専横した時期に朝廷をよく治め、また人材
登用にも明るく、元康の安寧を築いた名望家……もっと評価されても良いよな?)
10 陶侃
チ鑒
祖逖(3名ほぼ同列、塢主の2名に関しては、流民集団を民政軍政集団に変換
させた手腕を特に評価……)
正直言って、最後の3人はちょっと厳しいかも
もっと政治的に有名な人物いないかね?
娘がアレだからか賈充って評価低いよな
人格はもうどうしようもない奴だったに違いない
それでも司馬昭司馬炎が使い続けたのは性格の悪さを上回る能力があったんだろうと予測
妻って、郭淮の姪だよね。
権謀術数、策略面でのトップテン
1 王導
江南諸豪族間の微妙な温度差を見抜き、そこにつけこんで分断を図り、まんまと主導権
を獲得した手腕を評価して(その後の政権中枢内においての不倒翁っぷりも加味)
陳敏、周馥を利用するだけ利用して、後にボロ雑巾のように使い捨てにした江南豪族連
合を向こうに回しての、冴え渡る知略の応酬はさすが王導と言わざるを得ない
2 衛カン(字伯玉)
征蜀の締めくくり、鮮卑拓跋部弱体化工作、後継者争い、その全てにおいて卓越した
献策、謀略を見せつけた、晋朝きっての謀略家(策士の最期はああでなければならん)
3 賈充
衛カンと双璧を成す、西晋初期を代表する謀臣、朝廷の権勢を一挙に掌握し、娘を
恵帝、斉王攸に嫁がすなど朝政を恣にした(恵帝の嫁争いを衛カンとしてるなあ)
4 謝安
巧みな政界遊泳術、桓温の簒奪をギリギリで阻止するという大博打を打った老獪さと
クソ度胸を評価して、下駄の逸話といい生まれながらのタヌキ親父なのだろうか
5 賈南風
外戚楊氏の族滅、愍懐太子の謀○、賈氏一党による政治の壟断など、謀略の限りを
尽くして、政治闘争に明け暮れた賈充の娘にして恵帝の皇后
6 桓温
殷浩失脚~北府圧倒までの権力掌握の過程はお美事、しっかり成果を後の北伐に
生かせてる点が素晴らしい、策略と軍事が見事に噛合っている
7 劉裕
劉毅攻略や対桓玄クーデターとか、割かしペテンが利く方だけど(劉牢之が桓玄に降るのも
制止しているし)、謀略の人という印象が薄い、いや簒奪劇はしっかりやってるけどさ
8 東海王司馬越
軍事は二流以下だが、地道な外交調略と果断な状況判断によって、何とか八王の乱を
終結させた八王最後の一人、そのタヒ後の西晋の崩壊っぷりを見れば、晋に残ってたのが
この程度の人物でしかなかったという事実に愕然とさせられる程、八王の乱の被害は甚大
だったわけで・・・・(この程度というのは、人間性や軍事的才能の面での評価)
9 顧栄
江南豪族の筆頭格、顧栄らの協力がなければ王導、司馬睿も東晋を成立させれなんだろう
ことは想像に難くないが、恩を売ったつもりが相手が悪すぎたと言うべきか、しかし要所要所での
判断はかなり的確だと思われる、特に酔っ払って左遷のくだりとか、相当強かな人物かと
10 桓玄
劉牢之を謀○したり、速攻で禅譲劇を強行したりと父親譲りの謀略家
あるいは劉裕さえいなかったら、もっと高い評価を受けていたかも
八王の乱の時に湧いて出てきたような寒門出身の謀臣とか、確かに知恵はあるんだろうが
その謀略が全くその後の政策戦略に生かしきれていないから、はっきり言って評価できないな
清談家とか老荘思想かぶれは問題外
しかし、頭良くても杜預とか政界遊泳に疎い奴もいるしなあ、勿体無い
衛カンはやっぱ嫌いな奴多いんだろうか?
個人的には、「この座が惜しゅうござりますな」の後継者選定時の諫言とか好きなんだが
鄧艾暗○も史書では酷い言われようだが、実際問題、鄧艾の功績がこれ以上
積み重なることになったら、遅かれ早かれ破滅は時間の問題だったろう
時機を見計らった、衛カン最高の「仕事」だったと考えれなくもないのでは?
鍾会って衛カンより若かったんだな、そう言えば
自立を企ててなかったなら一体どうなったことやら
>>50
>鍾会って衛瓘より若かったんだな、そう言えば
>自立を企ててなかったなら一体どうなったことやら
衛瓘の如く賈后に消されていたか、あるいは賈后に上手く取り入っても
その後趙王倫に○されていたか、はたまた劉寔のように政界の荒波を
見事泳ぎきったか……。
もしかしたら、子や族子なんかとつるんで八王の乱を散々引っ掻き回し、
まるで盧志と劉弘と王浚と張軌を足して4で割らないような、とんでもねぇ
タマになってた可能性も、この男なら全く否定できないのが怖いところ。
なにかと只者じゃない感じはする。
桓玄は管理能力はあるが詰めが甘いホリエモンタイプか。
桓沖は大納言秀長のようなシブくて頼りになる弟
チ超は桓温が軍事政略両面でブレーンとして重用していた人物で
禅譲論者だったため史書などでは謝安の引き立て役のように書かれているが
能力はかなりあったんじゃないだろうか
謝氏一族では名将謝玄の叔父の謝石のイメージがよくつかめない
謝玄の補佐役として武功があったらしいが、乱暴で貪欲と記されている
謝氏一族にもいろいろいたということか
苻堅侵攻の際、謝安が謝玄を起用して「一族を起用するとは」と批判が
起こったとき、対立者でありながら「いや、謝玄は成功する」と謝安の差配に
賛成だったし。
「謝安の引き立て役」みたいに見えるのは、「簒奪者の味方だし悪く書いちゃえ」的な
部分もあったんじゃないかな。
なんていうか、晋書って実務能力の高い人をあまりよく書かない傾向があるように思う。
実務能力が低くても、清談ができれば名臣扱いされるというか。
あの北伐に失敗した殷浩でさえ、清談ができたおかげで同情的に書かれてるからw
寒門のやっこさんじゃ宮廷遊泳力は……
衛カンは功績云々より仕返しが怖いから鄧艾を○したらしいよ
まあそうなんだけど、鄧艾もちと調子乗りすぎた感がある
桓温は「竹馬の友」や「断腸」の語源に関連する人物だからね
なんかタイプ的には曹操に似てるような気がする
皇帝になる気まんまんの曹操みたいな
気前がいいかんじがする。
こういう社長の会社で働いてみたいな
西晋の馬隆ってかなり奇策を弄するのに長けてたの?
それと諸葛亮の兵法も学んでいたとも聞いたのだけどそれは事実なんですか?
『晋書』巻57列伝27の馬隆伝に「隆依八陣圖作偏箱車」ってあるから、そこからの連想じゃないの?
直接に諸葛亮は出てこないけどさ。
桓玄が、正式に荊州諸軍事に任命されるのってかなり後になってからだと
思ったけど、桓沖のタヒ後、桓家の西府軍への影響力ってどうやって
保持されていたんだろうね?
ちなみに謝玄も若い頃政府軍の幕僚を経験しているんだね。
けっこう東晋の人間関係って、複雑でイメージがつかみにくい。
友達のような顔して、○し合いするみたいなところがあるよね。
創業者としてこれほど魅力のある人物もそうはいまい。
実は腐ってるのは桓温側ではなく、東晋政府の方なんだよねぇ。
東晋政府→名門勢族が官職独占、家格が少しでも劣ると下働きで一生を終える
西府→名門のみならず、実務能力のある寒族も登用。中央よりよほど公平
なわけで。謝安を名宰相と呼ぶのも、少し抵抗があるなぁ。
やってることは、悪い言い方をすれば既得権益の保持だから。
贅沢をやって人の非難を受けたエピソードを見ても、人情の機微に
通じていたとは考えにくい…。
孫恩・盧循の乱が、どうして中央政府のある揚州では猖獗を極めたのに、
西府のある荊州では飛び火してもすぐに鎮静化したのか、そういう点を
考えると、桓温に簒奪されてた方がマシだったと思う。
でもその場合は、
すぐに桓温タヒ去→桓玄が幼いため後継者争い勃発→前秦侵攻→苻堅ウマー
になるんだろうねw
>>71
>なわけで。謝安を名宰相と呼ぶのも、少し抵抗があるなぁ。
>やってることは、悪い言い方をすれば既得権益の保持だから。
でも、謝安以前の陳郡謝氏って、ほとんど寒門みたいなもんだよ?
陳郡謝氏が超一流の貴族扱いされるようになるのは、謝安登場以降。
でも、「桓温に簒奪されてた方がマシだったかも」というのには同意。
「楚の文帝(桓玄)の北伐」とか、ちょっと見てみたい気もする。
まさか後に謝安によって王朝簒奪の夢を阻止されることになろうとは思いもしなかったんだろうな。
かなり歴史上画期的な、例えば南北統一を達成したりとか、
そういう業績を残す王朝になっていた予感。
桓温が晋を簒奪しなかった真相
桓温が晩年の時に、突然一人の尼僧が遠方から来て、桓温に旦那となってもらい、屋敷に逗留した。
この尼僧は学才も挙動も常人とは違っていたので、桓温は鄭重にあつかい、屋敷内に住まわせた。
ところが尼僧は、入浴の時にはいつもきまって長い時間をかける。
桓温が不審に思って、覗いてみると、尼僧は裸になって刀を持ち、腹を裂いてはらわたを取り出し、
首を切り落として手足を細かくきざんでいた。桓温はあっと驚いて引き返したが、部屋に帰ったころ、
尼僧は浴室から出て来た。姿はもとのとおりになっていた。
桓温が正直に見たままを話すと、尼僧は答えた。
「お上(晋朝)に取って代わろうなどとする者は、きっとあんな姿になってしまいますよ」。
ちょうどこの時、桓温は帝位を奪おうと企んでいたところだったので、尼僧の言葉を聞いて意気消沈した。
この為に行動を慎み、臣下の本分を最後まで守り通したのであった。
尼僧の教えを信じた桓温は幸いに身を全うしたが、その子の桓玄は謀叛を企てて、彼女の予言通りに亡ぼされた。
小説的には、その噂を流した犯人は誰?ってことになると思う
見るにはいいけど上司や友達にはしたくないというか
真面目マシンだよな
夏でも姿勢崩さず勤勉に政務したり博打は豚飼がする遊びだとか言って川に投げたりとか
でも晋で一番かっこいい軍人のひとりなのは間違いないね
コーエーの杜撰な評価のせいで、
ゲームから知った(ゲームでしか知らない)層が
この時代の人物を誤解してるんではないかと思われる節はある。
杜預はあれでもまだましな方だけど、
陳騫や張華なんかは悲惨なことになってるからなあ。
以前、晋代の人物評価スレがあったけど
そこではそれなりに分析評価されてたな。
張華とか、光栄三国志だと政治が80ぐらいだったけど、彼の
西晋代の事跡を知ってれば、絶対に90は点けるよなぁ、普通。
後に晋書読んだんだが、270年代に河西鮮卑討伐で活躍した
文俶って同一人物なんだよね?
「勇は三軍に冠する」猛将が指揮官としても大成したのかと思うと
感慨深いものがあったなあ。用兵の面でも評価してあげたい。
最期は東安王に謀○されちゃったし、波乱に満ちた生涯だったね。
東安公が○した理由が「祖父の仇」ってのがドラマだよな
そもそも俶が諱。
>俺も演義と柴錬で文鴦を知ったクチ
俺なんか今ここで段部の文鴦とは違う人の話題なんだと気付いたクチ
段文鴦がんがれ
それぞれ一定の成果を挙げたようだけど、恒久的な支配には至らなかったのかな。
別の方面からも調べてみる必要がありそうだな…
東晋の時代のうちなら、まだ西晋の方が上だったんじゃないかな。
信徒からは神様扱いになったのかな?
逃走中に捕らえられるのを恐れて、自ら身を投げたという説もある。
反乱軍自体は、孫恩タヒ後も活動を続けていたから、
精神的な柱にはなっていたかもね。
桓温って、そんなに酷い悪党かなぁ…。
成漢の李勢を○さずに諸侯として扱ったりとか、かなり寛大だと思うけど。
これが劉裕の場合、
慕容超→処刑
姚泓→処刑
劉毅・諸葛長民→敗亡
なわけで、「逆らう奴はブッ○す」だもんなぁ。
もし簒奪に成功していなかったら、「董卓以上に残忍」だの
「戦いを喜び○すことを好んだ」だの、大悪党として書かれたのは
間違いないだろうねぇ…。
桓温は司馬奕も○さなかったからなあ。
ただ五胡や南北朝は敵は○すのが当たり前っていう
風潮だし特に劉裕が残忍とは言えないのでは?
むしろ桓温が特に寛容だったんだと思う。
劉裕は簒奪後に前皇帝を○すという悪例を作ってしまったのがまずい。
曹丕も司馬炎も前皇帝を○したりはしなかったのに。
劉裕自身が桓玄を倒して先帝(安帝)を復位させたから,
同じことをされないように先手を打ったのだろう。
劉裕だったら間違いなく、殷浩は○してただろうね。
桓温から再登用の話が来て返事を送ろうとした時、殷浩は間違って空箱を送っちゃって
桓温は激怒して二度と登用しなかったっていう話があるけど、荀彧と曹操の例があるように
相手に空箱送るっていうのは相当な意味があるんだろうね。
これさえわかれば東晋までの繋がりがすっきりしそう
趙王司馬倫の簒奪以降は
ギョウ、長安、許昌を根拠とする三王による三つ巴の洛陽争奪戦が延々と続いて
最後の勝者は司馬越
甘やかされて育った皇族で、あの年齢で、大軍を敵に回して、あの活躍。
結構、優秀な部類では?
劉宋は60年足らずで滅びたしな
>>143
少なくとも司馬保にはその余裕はないだろ
劉曜の関中侵攻作戦の標的になっちまってるんだから
まあ、司馬睿も311年の石勒に攻められていた時期は結構やばい感じだわな
江南の多湿な気候と地形にだいぶ助けられて撃退できたけど
西方の晋側の勢力に推されてはいるが、守勢一辺倒という感じで長安の救援にも熱心ではないようだし‥
前涼にも受け入れを事実上拒否されていて、外交的な能力にも欠けていたのではないか?
天下を取ったのが魏でも呉でも蜀でもなく
ぽっと出の晋
仕舞には内輪揉めと異民族の蜂起でアボーンという最悪の幕引き
【今日は何の日】三国志の魏が滅亡。司馬炎が晋を建国(泰始2年=266年3月10日)
歴史人 1月17日(金)11時42分配信
【今日は何の日? 歴史人カレンダー】
1748年前の今日(旧暦)、曹丕(そうひ)が建国したことで知られる「魏」が滅亡。司馬炎(しばえん)が曹奐(そうかん)から帝位を奪い、晋を建国した。
※後世の晋と区別するため、司馬炎の晋は『西晋』と呼ばれる。
三国時代で最強の勢力を誇った魏は、曹操(そうそう)がその礎を築き、息子の曹丕が後漢の皇帝(献帝)から帝位を奪って220年に建国した。
その後、2代目・曹叡(そうえい)、3代・曹芳(そうほう)と続いたが、曹芳の時代になると将軍の司馬懿(しばい)が魏国内で権力を強め、
しだいに曹一族を圧迫するようになる。
4代・曹髦(そうぼう)は、司馬懿の子である司馬昭の完全なる傀儡(かいらい)と化した。
260年、曹髦は司馬昭の専横に憤り、司馬昭を取り除こうとしたが、逆に○害されてしまう。
その後継として即位したのが5代目の曹奐(そうかん)だったが、これもまた司馬昭の傀儡に過ぎなかった。
265年、司馬昭はタヒ去するが、その権力を引き継いだ司馬炎(しばえん)により曹奐は禅譲を強要される。曹奐は従うほかなく、
これによってわずか45年で魏は滅びたのである。
司馬炎は新たに「晋」を建て、280年に呉を征服し、三国時代を終わらせた。
曹奐は賓客として陳留王に封じられ、天寿を全うしたが、八王の乱の最中の太安元年(303年)に58歳でタヒ去する。
一方、司馬炎は天下を取るまでは英君だったが、その後は政治への興味を失い、女色に溺れるなどして堕落していく。
曹奐より早い290年にタヒ去し、西晋も316年、4代・愍帝(びんてい)の代に北方民族に攻撃され滅亡する。
中国は『五胡十六国』に入り、589年に文帝が隋を建国されるまで混乱状態が続くのであった。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140117-00010001-rekishi-life
石勒曰く、
「朕若逢高皇、當北面而事之、與韓彭競鞭而爭先耳。
脫遇光武、當並驅于中原、未知鹿タヒ誰手。
大丈夫行事當礌礌落落、
如日月皎然、終不能如曹孟德、司馬仲達父子、
欺他孤兒寡婦、狐媚以取天下也。朕當在二劉之間耳、軒轅豈所擬乎」
「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。
光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。
(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、
日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、
孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161705804/
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