娘の夫と不倫をしたうえに「薬子の変」を起こした平安時代の藤原薬子について
天皇家や藤原氏の内部抗争のキーマンとしても重要か
何のマンガ?
おかざき真理「阿吽」と思われる。
我は悪くない!
大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。
平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。
2003年頃から一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇の変」という表現がなされている。
せっかく、桓武天皇が平安京に遷都したのに、なんと、息子の平城天皇は、もとの平城京に戻すと言い出した。
そこに立ちはだかったのは、平城の弟の嵯峨天皇。
この日本史上最大級の兄弟対決に、嵯峨天皇が勝利した。
平城天皇は、奈良の都に引きこもった。
嵯峨天皇は、上皇になり、後の院政時代を思わせる権力者となった。
嵯峨上皇による院政時代の序章でもある
院政の院号は嵯峨院から始まったのが起源。嵯峨天皇が平安文化の創始者。
「高岳親王航海記」
冬嗣の頃は、まだ嵯峨天皇が権力者だった
冬嗣は、側近政治に過ぎなかった
薬子の変のドサクサ紛れに坂上田村麻呂が大納言に昇進してて印象変わるよね
藤原式家が没落して、藤原北家の時代が始まる
冬嗣の前の実力者は、印象に無い。
冬嗣の父で田村麻呂の舅。
平城側の真夏の父でもあるけど。
内麻呂の室に入ったのは坂上苅田麻呂の娘だから田村麻呂の姉か妹
薬子の変の嵯峨方で対処した右大臣内麻呂と大納言田村麻呂は義兄弟
藤原種継って、種牡馬みたいな名前だな
露骨にタネ馬っぽい
藤原薬子とは、平安時代初期に活躍した女官で、藤原種継の娘であり中納言藤原縄主の妻となった女性です。
残念ながら肖像画は残されておらず、薬子の容姿が記された史料も残されていません。
よって薬子が美人であったかは定かではありませんが、
桓武天皇の息子・安殿親王(後の平城天皇)は妃として薬子の娘を宮中に迎えられたにも関わらず、
薬子の娘ではなく、母親の薬子に恋をしてしまったので、
薬子は年の割には美人であったのではないでしょうか。
父・藤原種継は第50代桓武天皇の片腕として活躍していた人物で長岡京遷都の責任者任されるほどの人物でした。
しかし、長岡京遷都に反対派のものによって○害されてしまいます。
父亡きあと、薬子は同じく藤原氏であった中納言藤原縄主と結婚し、三男二女の子どもを授かります。
798年頃、薬子の子どものうちの、まだ幼い長女が桓武天皇の皇太子安殿親王(後の平城天皇)の妃となりました。
この時、皇太子安殿親王は10代であったと推定されています。
薬子の娘が安殿親王(後の平城天皇)の妃となったため、母である薬子は女官として宮中へ招かれます。
しかし、宮中に行くと、薬子は娘を差し置いて皇太子安殿親王と男女関係となってしまいます。
この時、薬子は40代と推定され、30歳ほど離れた皇太子安殿親王と関係を持ってしまいました。
30歳も年下の男性から気に入られた薬子でしたので、その容姿は年齢の割に美人で現代でいう美魔女であったのでしょう。
薬子と皇太子安殿親王が深い関係となったことを知った皇太子安殿親王の父・桓武天皇は当然激怒し、薬子を宮中から追い出します。
2人関係は終りかと思いきや、延暦25年(806年)桓武天皇が崩御し、皇太子安殿親王が即位となりました。
即位し、平城天皇となると、真っ先に薬子を宮中へと呼び戻しました。
こうして薬子は再び宮中へと戻り天皇のお世話係である尚侍となり、平城天皇との関係性は復活となりました。
薬子の夫は、太宰府に流されました。
常に平城天皇のそばにいた薬子は、政治への介入も行います。
兄の藤原仲成も政治に口出しするようになりました。
>>28
藤原種継と安殿親王が37歳差だから、薬子と安殿親王が
30歳も離れているわけがない。曽祖父の宇合、祖父の清成
は20歳チョイで長男が生まれているから種継も20代で仲成や
薬子を儲けたはずだ。薬子の年齢は夫の縄主とそう離れていない、
1、2歳年上かいくらか年下だろう。17歳ぐらい思春期真っ盛りの
少年が32歳ぐらいの女の色香に迷うことが絶対にないとは言えない。
尊卑分脈では兄の仲成が764年生まれとされるから、薬子が2歳
ほど年下で766年生まれとすると安殿親王とは8歳差になる。父種継のタヒ
の直後20歳で縄主と結婚し最初に長女が生まれたとすると798年には長女が
12、3歳にはなるので幼女を皇太子の妃に入れたというほどではないな。
いにしえから日本唯一の都として奈良大和で極端な高級特権意識を持つ貴族達と
社会に強固な影響力を持つに至った仏教宗派権力上層部のドロドロした癒着を葬り去るために
開けていない土地だった山背盆地に反対勢力の妨害を遷都を決断した天皇にして稀有な改革者だった
桓武天皇が平安京に都を定めてからは、幕末維新まで京都が都だった
それまでは結構コロコロ変わってたのに
桓武は偉い
桓武は長岡京に遷都したのに10年で放棄してるし
平安京遷都当時はここに1000年都を置くなんて構想はなかったよ
薬子の変の頃の平安京は長岡京を廃都した直後、桓武天皇の軍事と造作が停止してすぐだから平城京に戻そうとする事自体は不思議じゃないけどね
朝廷も民も疲弊していて平安京が発展するのは後の時代
駅鈴が平安京にある=嵯峨方が勅命を発動させられるのに、平城京に戻そうとしたのが失敗だっただけ
嵯峨天皇が右近衛大将と兵部卿を兼任してた田村麻呂を大納言にして、挙兵した平城方の対処に官軍として向かわせたのは嵯峨方に駅鈴があったから
仲麻呂の乱も御璽と駅鈴が孝謙上皇に抑えられたから平城京を脱したわけで、仲麻呂も結局は官軍に阻まれてる
平城方も孝謙上皇のように天皇大権を発動できる状態だったら結果が変わったかもしれない
同い年なのは偶然なのか?
元慶の乱では懐柔政策をするために将種に求められた役割は通訳
その後は臣籍降下による源平の台頭と共に私兵として将種が取り込まれた
引用元: http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1549712361/
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