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徳富蘇峰という明治から昭和を生きた平民主義を唱えた男

1: 2014/06/22(日) 21:29:10.71
立てられるか。色々読んでるが面白い。やっぱり大した人物だわ。

2: 2014/06/22(日) 21:31:08.68
読んで飽きない文章だしな。
一部で勘違いされてるが蘇峰は元々洋才だ。当時の日本で一番洋書を読んでる書き手だったのではないか。
23: 2015/03/18(水) 03:26:48.34
>>2
どう読んでも「名文家」ではないけどな。
4: 2014/06/23(月) 19:49:55.05
史家として有名だが、ラスキンを結構速い時点で紹介してるんだよなあ蘇峰は。
5: 2014/06/24(火) 21:54:18.79
徳富蘇峰だが歴史を語ってたかと思うとうまく英文学の話を入れてくるな。西郷を語ってて、バーナード・ショーの名前を出すのなどこの人ぐらいなものだろう。
7: 2014/06/28(土) 19:16:06.22
367 :マグナ ◆vI4NRkhGyA :2014/06/28(土) 17:38:01.24
今は近代デジタルライブラリーで徳富猪一郎の「土佐の勤王」読み終わって「進歩乎退歩乎」読んでる。
いずれも100ページちょっとの小冊子だから直ぐ読める。

368 :マグナ ◆vI4NRkhGyA :2014/06/28(土) 17:39:15.54
徳富蘇峰はまあ読んでおいた方がいいぞ。司馬と比較されてるが丸谷才一も影響受けてるな。外にも影響を受けた文学者は多いだろう。
近世日本国民史は細々とした本をある程度読めてから手を付けようと思ってるが。

370 :マグナ ◆vI4NRkhGyA :2014/06/28(土) 17:55:30.99
口演が上手い。速記を本にしたものがいくらもあるな。
何ともユーモラスな表現を使って、話に引き込んでいく。

372 :マグナ ◆vI4NRkhGyA :2014/06/28(土) 19:15:12.00
蘇峰は典型的な東洋回帰の人だ。西洋に倣えと何度も言ってたにもかかわらず、晩年になると東洋の方に重点を置き始める。
ある意味日本の文人の一典型であろうなあ。ただ本質的には政治嫌いの日本文壇では特異な存在扱いされてた側面も見えるか。

20: 2014/07/10(木) 03:04:52.62
>>7
>西洋に倣えと何度も言ってたにもかかわらず、晩年になると東洋の方に重点を置き始める。
こうは書いたが、若い頃は東洋に関心がなかったか、というとそうでもないな。その辺りのバランスはとれてると思う。
8: 2014/07/01(火) 03:22:17.24
『寸鉄集』読了。
9: 2014/07/01(火) 23:34:31.84
【ズバリ!文化批評】徳富蘇峰から見た日本のジャーナリズムの今[桜H26/2/7]
http://www.youtube.com/watch?v=9e_PUYGpHQk
12: 2014/07/02(水) 18:41:18.46
徳富蘇峰記念館
http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/
14: 2014/07/04(金) 02:07:03.67
そういえば中江兆民の形見の本を受け取った幸徳秋水が処刑される前に、蘇峰が幸徳から本を受け取ったというような事を書いており、それは気になった。
21: 2014/08/04(月) 09:50:09.01
たしか谷沢永一さんは、時代小説の作家はみんな蘇峰を参考にして書いてゐるくせいに誰もそのことを口にしない、と慨嘆してゐた。
さらに菊池寛は、蘇峰を招いての「文藝春秋」座談会で、『近世日本国民史』ほど近時の文壇に影響を与へた著作はほかにないなどと賛辞を呈してゐた。『人形のBWH』
24: 2016/01/26(火) 11:00:39.04
近藤ようこ
徳富蘇峰は戦犯にもならなかったので(大川周明がなっているのに!)、
「暗黒日記」を読むまで戦時中の代表的イデオローグだったとは知らなかった。
彼の読売新聞の社説などを読むと笑ってしまうが、たぶん当時の庶民もそうだったろう。清沢は三日に一回くらいの割合で蘇峰を激烈に罵っている。
2013年2月24日

早川タダノリ
徳富猪一郎(蘇峰)の『皇道日本の世界化』(昭和13年)がGoogle booksで読めるとは!
しかし、これも着想は面白いんだが、ひどく退屈な叙述が続くんだよなあ。提供したのは慶応大学か。
2012年3月14日

本日の朝日新聞朝刊読書面、七つ森書館の広告に藤沢俊昭著『戦中と戦後の責任 : 徳富蘇峰と加藤完治の場合』が出ていた。
目次を見ると加藤の『日本農村教育』に触れつつ論を立てるもののようだ。ただ蘇峰と加藤完治がこの頁数で相並ぶのは微妙。
2014年11月23日

徳富蘇峰もやってた『日本を知れ』的商売。東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、昭和16年12月刊。
二千六百年史から日独伊三国同盟、国際情勢までを語った講演を文字起こししたもので、
作り方の雑さも、最近の量産型「日本スゴイ」本に似ている。

http://pbs.twimg.com/media/CZbEBx2UUAAdfju.jpg
2016年1月23日

25: 2016/06/06(月) 13:36:31.09
黒田清輝 生誕150年 日本近代洋画の巨匠 黒田記念館
2016年4月15日
http://www.franchise-ken.co.jp/wp/beauty/2016/04/

そして彼が帰国したのは、日清戦争を経て、明治市民が「冷笑と反動」(徳富蘇峰の言葉)の長い期間を経て、
ようやく彼方に夜明けを見た時であった。
黒田がフランスに着いた頃は、フランスは普仏戦争の敗北とパリ・コンミューンの混乱を経て、
第三共和政が成立し、ようやく安定にむかおうとしており、その中心地パリも近代的な都市に変貌しようとしていた。
黒田が入門した頃のラファエル・コランはサロンに入選を重ね、アカデミズムの中の新進画家として評価が高まった時期であった。
時代的には、印象派全盛の時代であったが、
黒田はコランの印象派の明るい外光表現とアカデミックで堅実な描写に新しさを感じ、受け入れたのであろう。
また黒田は画業の始まり頃からバルビゾン派の画家ジャン・フランソッワ・ミレーに惹かれ、ミレーに傾倒した時期があった。

26: 2016/11/16(水) 20:52:04.36 ID:5R5P2LH4
一方、小説『永遠の0(ゼロ)』の第九章「カミカゼアタック」では、新聞記者の高山に対して、
「夜郎自大とはこのことだ――。貴様は正義の味方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」
と決めつけた主要な登場人物の一人で元社長の武田は、話題を太平洋戦争から日露戦争の終了時へと一転して、こう続けていました。

以下、近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』、
第二部第三章〈「巧みな『物語』制作者」徳富蘇峰と「忠君愛国」の思想〉より引用します。

*   *   *

「講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った」ことから
「国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった」。

そして、『国民新聞』が焼き討ちされたことを例に挙げて、「私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺(ぶんすいれい)だと思っている。
この事件以降、国民の多くは戦争讃美へと進んでいった」と断言したのである。

徳富蘇峰の『国民新聞』だけが唯一、講和条件に賛成の立場を表明していたのはたしかだが、
ここには戦時中と同じような「情報の隠蔽」がある。
なぜならば、日本政治思想史の研究者・米原謙が指摘しているように、
「戦争に際して、『国民新聞』は政府のスポークスマンの役割を果たし」ており、
「具体的には、国内世論を戦争遂行に向けて誘導し、対外的には日本の戦争行為の正当性を宣伝」していたのである

つまり、思想家・徳富蘇峰の『国民新聞』が焼き討ちされたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、
最初は戦争を煽りながら戦争の厳しい状況を「政府の内部情報」で知った後では一転して
「講和」を支持するという政府の「御用新聞」的な性格に対して民衆の怒りが爆発したためであった。
http://www.stakaha.com/?p=6487

27: 2017/02/02(木) 17:03:35.63 ID:SqCJNfBh
oburo
全国図書祭(知識の父・文化の母)11月1日 この日、図書を神と崇めてお祭りいたしませう。
…..この日、蔵書・書棚を整理し、本の破れをつくろひませう。第一回図書祭は昭和8年に実施されたとのこと。
徳富蘇峰、新居格、長谷川如是閑等の書物エッセイの他「吾輩は書物である」等々…..

http://pbs.twimg.com/media/C3oYexVUMAATL4s.jpg
2017年2月1日
28: 2017/02/12(日) 12:51:36.63 ID:4ULmgxH6
『必勝国民読本』毎日新聞社、1944年。

「日本国を知る第一義は日本の神国たる事を知る事である。 日本の神国た
る所以は、万世一系の皇室が日本を統治し給う為である。即ち日本は神に
よりて建てられた国である」

29: 2017/03/15(水) 18:32:20.64 ID:q3A5EpAJ
明治国家形成期における井上毅の事績
~福澤諭吉の時代から井上毅の時代へ~
大久保啓次郎

「明治 14 年の政変」以降、福澤諭吉は、時の政府に対して(伊藤博文に対し
ても)教育方針の変更がもたらす日本国および日本国民の損失を訴え、再変更
を求めたが、明治 23 年に発布された(井上毅起草の)「教育勅語」は、第二次
世界大戦終了時点(昭和 20 年)まで国民教育の礎として長期間(明治・大正・
昭和)存続したのである。この政変で井上毅が果たした役割は甚大であった。
極端な言い方をすれば、福澤諭吉の国家及び国民への影響力は、「明治 14 年
の政変」の時点で終わったのである。そして再び福澤諭吉が見直されるのは、
昭和 20 年以降となる。そういう観点から捉えると、「明治 14 年の政変」は、
当時の日本の進路を決定した重大な事件であった。

総理大臣山県有朋は、明治 23 年 5 月、文部大臣芳川顕正に命じて、元田永
孚と井上毅の協力を求め、教育勅語作成の事業を開始させた。

渡辺俊一は著書『井上毅と福澤諭吉』(日本図書センター)で次にように言っ
ている。
「井上毅がここで撲滅しようとしているのは、政変の原因となった大隈陰謀の
首謀者としての福澤に留まることではない事である。・・・幕末の『西洋事情』、
『学問のすゝめ』以来の福澤の言論活動の影響力全てを否定すべき政策の目標
としていたのである。即ち、福澤の著作が現れる以前の、人民が長上の権威に
従順していた状態に復帰することこそ井上毅の最終目標であった。」

昭和 31 年に行われた近代日本史研究会主催の「大隈研究」座談会(聞き手:
渡辺幾治郎、話し手:徳富蘇峰)で、徳富蘇峰は次のように語っている。
「この政変における争いの主なる一人は井上毅であろうと思う。元来井上の
考は福澤の政治主義とは根本的に異なっており、福澤の政治主義は日本の政治
には良くない、何とかして福澤の政治思想を叩き直さねばならないと云うので
ある。先達『明治文化史論集』において大久保利謙さんが、「井上毅文書」に
よって詳細に紹介されました。」

30: 2017/10/15(日) 22:20:18.33 ID:yuK2tKDD
苑田 健
俺は司馬の小説をあらかた読んだファンの端くれだが、ある程度歴史の理解が深まるにつれ、そのアンフェアさが鼻につく様になった。
「小説家と歴史家」の仮面を使い分けるズルさに。『噂の真相』が私生活を曝露したときも、なるほど司馬らしい話だと思ったものだ。
そして本書の著者である磯田道史は、司馬を頼山陽や徳富蘇峰の系譜につらなる、「文学的な歴史家」として評価する。
見立てがおもしろく、非常に期待させる。
だが本書の実質は「シロウト評論家による文藝評論のマネゴト」にすぎず、司馬遼太郎とゆう二面性の妖怪を取り逃がしている。
2017/06/10
31: 2018/03/29(木) 20:19:52.64 ID:qWvnYIs/
キツネヅカ
笹岡恒子さんの写真展は昭和20年代の記録的側面が強かったけれど、肖像写真も良かった。
棋士の升田幸三と徳富蘇峰、幸田露伴の写真は特に。
こうして撮られたら満足だろうなというくらいに見えた反面、どうやったらこう撮れるんだろうという深い疑問も。
やっぱり徹底したコミットなんだろうなあ。
2010年9月29日

タカラカニ・エンゼッツ
明治期の集成社という出版社はなかなか色々な本を出している。
1886中江兆民『理学鉤玄』、1887徳富蘇峰『新日本之青年』1888福沢諭吉『尊王論』など。
明治の半ばから昭和の初め頃まで活動していたのだろうか。西暦に直すと1885-1925といったあたり。
2011年10月22日

上符達紀
蔵書の整理をしていたら『富永有隣伝』が出てきたけどいつどこで入手したか記憶にない。
これ今でも入手可能なのだろうか。
昭和初期に存在したらしい「富永有隣先生事蹟顕彰会」の賛助員の一人には徳富蘇峰がいる。
2018年2月13日

32: 2018/05/04(金) 21:05:48.47 ID:4m0dTWUm
徳富蘇峰と大日本言論報国会 (日本史リブレット)
赤澤史朗 (著)
出版社: 山川出版社 (2017/4/27)

《十五年戦争期の徳富蘇峰の政治観の特徴……第一点は、反共こそ正義という考え方である。
……中国共産党がリードする抗日の動きを撃破することは、
日本政府からみると、各列強の共通の利益であり、国際正義の立場にほかならない。

日本政府にとってコミンテルンの動きを封じ込める防共は、
ドイツ・イタリアのみならず、英米などの諸国とも一致できる点と考えられていた。/
しかしこういった考え方は、同じ反共的立場といっても、
米英のいだく反共思想と日本の反共主義とでは大きな違いがあったことを見落とすものである。

米英のそれは、のちの冷戦型思考につながる論理に立つもので、
自由や民主主義を守るために全体主義を排撃するという理論に基づいていた。
これに対してその当時の日本政府や徳富蘇峰は、
自由主義・個人主義などの米英思想こそが共産主義の温床という考え方に立っており、
抗日の中国をリードする

共産党も米英の支援を受けて抵抗する国民党も、同根の思想的そのものであった。》

33: 2019/06/11(火) 15:33:03.10 ID:WpvRJy20
徳富 蘇峰(青空文庫での公開中作品:3点)
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1369.html
徳冨 蘆花(同11点)
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person280.html
35: 2019/12/07(土) 20:16:38.85 ID:AiblZzAs
双極凝固鑷子
(昨日になるが)8月30日の歴史:1910年8月30日、「韓国併合」後、朝鮮総督府は『大韓毎日甲報』を『毎日甲報』に変更した。

総督府は併合後以前から存在していた多様な新聞雑誌を全て廃刊した後、
『京城日報』と『(大韓)毎日甲報』という総督府機関紙だけを残すという厳しい言論統制政策を実施し、
統治イデオロギーの徹底した宣伝、刷り込み、それを通じた植民統治の定着を図った。

社是の一つ「毎日申報の新聞紙として存在する理由は我が天皇陛下至仁至愛日鮮人一視同仁の思召を奉戴し
之を朝鮮人に宣伝するにあり」から、どのような紙面であったか想像出来る。

「朝鮮の「二千余万の同胞」が「帰向」するところは「帝国の忠良なる国民」であり、
そうなったとき「悠々無窮の幸福を享有」できるということである。『毎日申報』にとって、
当時の朝鮮人にそのことを知悉させ」ることが「新聞紙として存在する理由」であり「大目的」であった」。

その主導的役割を果たしたのが、徳富蘇峰であった。 [1910年代朝鮮総督府機関紙と徳富蘇峰]
2014年8月30日

引用元: https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1403440150/

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