昭和時代の「高度経済成長時代」ってどうでした?????
第四次中東戦争のあおりを受けた石油危機(=1973年)くらいまでが高度経済成長時代
―だと思ってました。
人事院勧告でベースアップが勧告されると年末にどかっと差額が入ってきた。。
3年くらいで給与が倍近くになった感じだった。
有難う。
その頃なら、父親が活き活きしていたね。
子供から見てもガンガンやってる、って感じだったよ。
親父を始めオトナが自分のやっていることに自信を持っていて、元気があった。
今ほど豊かで便利でもなかったけれども、確かに昭和30年代、40年代には、
今よりもよい時代になるんだと、信じられる「明るさ」のようなものがあった
ように思います。「定昇」や「ベア」などという言葉もタヒ語ではなかったし。
確か、とある人に聞いたら、7~8%(裏利息として、契約者によっては
10数%もの利息があったとか)は、あったようです。
ちなみに53歳。
人生半分、此れから半分。
しゃくだったなあ。
早く超不景気=再貧困化期待。
それも一理ありますね。
やがてそれが60分のみになり、いっさい廃止。
銀座なんかの裏通りにも無料駐車コーナーがたくさんあった。
あれがみんななくなったのは、自動車を持つ人が増えてから。
私も思います。駐車場ばかりでなく、
それは駅前、商店街に駐輪場を廃止したからだと思います。
土地の上には人が住んでいるというと、
その筋の人をつかうから「とにかく売ってくれ」でした。
あの頃は接待の客の数が半端じゃなかった
いい思いさせてもらったと同時にバブル期に調子に乗って支店とか出さずに蓄えておいて
本当に良かったと今思う。
今はバブルよまた来いみたいな社会情勢だけど俺は醒めた目で見ている。
スナックでも
喫茶店でも
店を出せば
お客さんが
入ったものね
少なくとも1990年の時点ではチャンコロにGDPを抜かされるなんて想像もしなかっただろうな
中小企業(笑)と貧乏人(笑)と生活保護(笑)の巣窟・大阪に住んでみてつくづく思う・・・。
貧乏人どもはアラブ諸国を見習え!!!!
人達だけだったぞ。
実際その前後ではテレビは大騒ぎしとったけど、身の回りの生活は大して
変わらんかった。
時代や情勢なんてそんなもんだよ。
最近の経済情勢見てつくづくそう思う
・ハワイが一生に一度いけるかどうかの夢の国
・パイナップルの缶詰がぜいたく品
・うなぎ、マグロ、牛肉は庶民の口にはめったに入らない。
・お菓子といえば、焼き米、かきもち
・川は公害で真緑色、海は赤潮で赤色。背骨がグネグネの魚が取れる。
・公害病が各地で大発生、交通戦争、受験戦争
・バリアフリーなんかなく、障害者になったら一生病院か蔵の中
・中共の気違いがぼかすか原爆の空間実験をしていたから雨に濡れると頭が禿ると親に叱られた
・人さらいが横行してたから5時過ぎまで外で遊んでると「サーカスに売られてしまうから」という理由で親に殴られた
・どぶ川はメッキ工場の青酸廃液できれいなエメラルド色がデフォ
・ソーセージ工場からは肉の生残滓がものすごい蒸気とともに排出されて即腐敗
・とにかく街中工場排煙とドブ泥、腐敗臭が満ちていた
・クラスに2-3人は小児喘息をかかえた同級生がいた
・ジュースの素はなぜか陽の光に当てると色が消えた
・粉末ジュースは甘くて苦かった
・電車に乗ると超汗臭いオヤジが必ずひとりは乗ってた
・はしけから通っている水上生活者の同級生がいた
・上野不忍池の畔にはぼったくり屋台のおでん屋がいた
・大人もヤクザが怖くて馴染の店以外は夜飲みに行けなかった
・川崎球場はガラスでできた1合瓶が後ろから飛んできて普通のサラリーマンが○し合いのけんかをしていた
・おとなは戦争で人を○した経験があるやつがうようよいたからけんかはいつも○し合いのようだった
日本社会は経済成長をストップさせる為の減税に余念がないんだよね
石川くんを救えとか水平社とか。
殆ど寝てた。
・交通戦争でクラスには車にはねられた経験者が何人かいた
そして、学校の図書館にはタヒんだ児童の親が寄付した本があった
・小学校の修学旅行は近県へ一泊だった
ただし、旅費の無い児童はその二日間、自宅学習だった
・大人たちが酒を飲むと、軍隊時代の階級自慢をしていたが
元将校だった人でも内地しか経験の無い人は低く見られていた
・風邪をひいて寝込み、母親が「何が食べたい?」と聞けば
「桃の缶詰」と答えるのが定番だった
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/cafe50/1074592443/
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