メロヴィング朝やカロリング朝といった中世フランク王国を語ろう!!!!
初代国王クローヴィス以前のファラモン、メロヴェ、クローディオ、スンノ、メロバウドゥス、Genobaud、Malcomer といった指導者もありです。
不思議だよな。
>クローヴィスの墓は見つかってない
クローヴィスの墓は、最初ジュヌヴィエーヴ修道院に埋葬され、後に
サン=ドニの現在の場所に移葬された、と思っていたのですが、違うのですか?
東フランク、西フランク、ブルグント、プロヴァンス、イタリア。
「分裂」「分国統治」「分割相続」がとにかく混同・混用されるな。
ローマ帝国は「分国統治」
フランク王国は「分割相続」
どちらも分裂というのとは違う。
結果的に分裂に繋がっている。どちらも。
アルプスの北と南の交流もなく、両地域は別の文明世界として発展していたのだろうか?
サターン派ハビル三世は、イギリス王国が少しでも有利に働くように世界中に間者を送り込む事を提案したのが、フランク王国に漏れてしまい、ハビル三世はイギリスが暗○さざるおえなくなった。
その為イギリスはフランク王国に只ならぬ憎しみを抱くようになったのが、本当の話w
自業自得なのに他人のせいになんかするから…悪魔崇拝のトップにまで上がったんだねw
フランスに乗り込んだイギリス人は、早速フランス王国の国王になったんだよな。
南の高フランク語がドイツ語フランケン方言(カール大帝が都置いたアーヘン
あたりの方言)のご先祖様って書かれてたような
フランケンは未来に出てくる生贄の話をイギリスが変えちゃって全く別物。
北部イタリアは、トルコユダヤ、ギリシャ人の混血だというのが正解。
未来のフランス人、特に女性は自堕落な生活を送るしかできなくなるような絵。
黒人が心配してうるさく言ってるが、フランス女性は生返事。
傷を癒す事もないまま、正義を重んじた後遺症だ。
閂
これもそう、自堕落なフランス女性に男性が多分お酒を取り上げた時の絵
生贄もかなり出てきている。
日本とは直接関係のないもの、アフリカが関係してくるもの。
フランス人はイーリスになる事になるだろう。
わかる事はあまりない。
隠れて一生を過ごすか他の国に逃亡するかしか選択肢がない女たち。
上下2冊をあわせても500頁以下、本の厚さ合計2.5cm
1冊にならんもんかね
カール大帝の敗北は1回のみなのか?
やってないな、イギリスのでっち上げ
南フランスは人が少ない田舎で、イギリス人がフランス女を漁りに来ていたから。
ピピンが始祖ならピピニング家とすべき
始祖ピピン3世の父カール・マルテルに因んでカロリング朝。
おかしくない。この時代のゲルマン人は姓が無いのでご先祖様の名前を家名にするわけだ。
フランク人には姓がなくカロリングは宮宰カール・マルテルに因み「カールの」程度の意味しかないらしい
カール・マルテルの父はピピン2世(中ピピン)でその父はアンゼギセル
アンゼギセルの父はメッツ司教のアルヌルフということからカール・マルテル以前はこの一族のことはアルヌルフィング(アルヌルフの)と呼ばれていた
あと現在のドイツで同じくフランクの血統を色濃く残してるのってフランケン大公領だった
ところの人達?
はいそうです
しかしながらカロリング家の血統はLudwig(IV.) das Kind のタヒ(911年)で断絶してしまいます
その東フランク王位を継いだのは同じフランケンのコンラディナー家の Konrd I. です
しかし、彼には嫡男がいなかったのでザクセンのリウドルフィング家の Heinrich(I.) der Vogler を後継者に指名して918年に歿します
このコンラディナーも Konrad I. の弟のエーバーハルト3世が相続しますが、939年に反乱を起こし戦タヒし断絶してしまいます
この件によりフランケン太公位(領)は消滅し、皇帝(ローマ王)の直轄となります
Konrad I. 娘婿、もしくは妹の子がザーリアー家のヴォルムスガウ伯ヴェルナー5世であり、その子孫がザーリアー朝として後にローマ(ドイツ)王およびローマ皇帝を世襲することになります
同じヴィッヒで終わる名前のフランス語形でもルートヴィッヒはルイなのに
メロヴィッヒのほうはメロヴェとなるんだな
当の”フランク語”が現在も続いてたらなあ…とは思った。
ゲルマン起源の名前しか見かけん感じやけど
狼:Loup 発音:ル
8月:Aout 発音:ウ
で思った事
フランス語って綴りとか発音の面で他のラテン系言語とは一線画してる感が
あるけど大きな影響を与えたのはフランク人?ガリア人?
フランク語の末裔の一つといわれるオランダ語もようつべ聴く限りだと
フランス語ほどには綴りと発音が乖離してない感じだし,8月を意味する
語彙の綴りも
オランダ語:Augusutus
フランス語:Aout
って具合にオランダ語のほうが本来の原型をとどめてるような…
オランダ語:Augustus
だったorz
っていうクラインになるんだっけ。
日本では大半の書籍では、フランス語読みの「クロヴィス」でなく、英語ないしドイツ語読みに近いクローヴィス1世の表記が用いられる。
「メロドラマ、芝居(481)がうまいクロービス」と覚える
ベルギー最古の町であり、フランク王国初代のクロヴィス1世が生まれた地であるため、フランス揺籃の地とも言われる。
世界遺産も2件登録されている。フランス国境に近い。
フランク王国の首都をパリに置いた
千年の古都・パリの歴史はここに始まる
カロリング朝は、そうではなかった
シャルルマーニュ大帝は、帝国の中心をライン川沿岸に移した
そらそうだろうよ
カロリング(アルヌルフィング)家の根拠地がアウストラシアなんだから
フランク族を中心とするゲルマン系集団を
今のベルギーの地のトクサンドリアに
帝国の同盟軍として入植させたことにはじまっている。
メロヴィング朝の歴史は彼らがローマ帝国の遺産を背景にして
ガリアを中心に覇権を打ち立てた時代。
カロリング朝の時代は、ガリアを本拠地とするフランク王国が
ゲルマニア方面に前線基地を置いてゲルマニア征服を遂行した時代。
https://www.youtube.com/watch?v=jefaToEtXH4
クロドウィクス、クローヴィス、ルートヴィヒ、ルイ
これらは同義異形の人名なんだよな。
カール大帝がアルクィンを招聘したことと、西フランクから土地をもらった
ヴァイキングの子孫がイングランドを征服して同地にフランクの文化を
もってきた事ぐらいしか知らんかった(´・ω・`)
>>57
ヒトラーの親父の名もこれらと同系だったなんて
そもそも、カール(カルル)って人名そのものが、
アングロサクソン語のケオルル(チェオルル)=「自由身分の男」に由来しているという説もある。
それから、サリー系フランク人の葬送文化に石棺を埋葬するときに行列状に並べる、というものがあるが、
この風俗がイングランドにまで伝播していて、アングロサクソン小国群にフランク王国が大きな影響力を
及ぼしていた証左とされている。
間に生まれた子にシャルル=ジェームズと命名。
(シャルルはルイと並ぶフランス王室の典型的な名前)
↓
シャルル=ジェームズ本人はジェームズと名乗る
(スコットランド王としてはジェームズ6世、イングランド王としてはジェームズ1世)
↓
シャルル=ジェームズは自分の子供にもシャルルと命名
↓
シャルルがイングランド王チャールズ1世として即位しチャールズの名が
英語圏に広まる
という感じで英語圏におけるチャールズという名の歴史が人名関連の書籍で
触れてあったけど,それまではカール,シャルルに相当する名が英語圏では
用いられてなかったとも書かれてた。
>>59氏が挙げてるケオルルがこういう形でイングランドに逆輸入されるなんて…
夏が恋しい(751)カロリングにピピンときた
フランク人のほうは意外とイメージが湧きにくい(´・ω・`)
群小ゲルマン系部族とガロ・ローマ人の混成戦士集団だもん。
集団形成を進めた連中だよね。
ゲルマン系戦士の墓から、良くローマ軍支給のベルトとかスパタが出てくるんだよね。
たまに見かけるけど(ノルマンディー公となったヴァイキングのロロも
Robertと名乗ったっけ),東フランク地域でもポピュラーな名前だったん
やろか?
ローマの市民権&騎士階級所有者だったのな
ここ数年、トイブルクの正確な位置が割り出されて発掘中なんだよねぇ。
つい最近のことですたorz
そういやフランス語はフランク語由来の単語が結構あるみたいですが
ドイツ語やイタリア語はどうなんでしょ
ガリア語由来もあるそうです。
南フランスの言葉は、フランクの影響がほとんどありませんが。
要は中国の首都が北京なのと同じ
今のベルギー辺りなんだよなぁ。
カロリング朝の本拠地は、ライン川の上流・中流
首都はセーヌ川下流ルーアン
誰かいい人いないかしら」
王 「そうか、探しておこう」
王 「妹御の相手、決めたぞ」
王妃「それはよかったわ。で、どなた?」
王 「ん・・・この国第一の騎士だ・・・」
王妃「え?」
という逸話、メロヴィング王朝史話にあるはずなんだが、見つからない
この国第一の騎士ということは、王自身?
正確に言うと騎士はまだいない
重装騎兵部隊が成立してくるのがカロリング朝期、
封建制で養われる騎士身分が成立してくるのが10世紀くらい、
だったっけ。
確かそうです。
スコラだったかそんな名前です。
したとこでしたっけ>ルーアン
のちにイギリスから土地を奪ってイギリス人が中心の国になったフランス
「この国第一の男を夫にしてやったぞ」
じゃなかったかな。
いや、もっと後世のキルペリクとかそこら辺の話じゃなかったっけ。
負けたフランス人は聞くしかなかったが反発するとイギリス人は拷問し○す事を楽しみにしていたヒトモドキ。
西フランクはカロリングが絶えても現代までずっとフランクの名を保ち続けてるのか
ガリア系の名にすればよかったのに
西フランクはメロヴィング朝以来のフランク王国の本土。
東フランクはフランク王国によって軍事占領されたゲルマン系諸部族の部族大公の地。
カール大帝の帝国は「フランク王」と「ローマ皇帝」を一人の君主が兼ねる体制だったが、
そのうちフランク王国本土たる西フランクでは君主がフランク王位を継承。
一方、フランク王国による被征服地で部族大公の寄り合い所帯だった東フランクでは、
この寄り合い所帯の盟主を部族大公たちが持ち回る体制が確立されていき、
その盟主がローマ皇帝位を継承した。
こういう下地があるので、西フランク>フランス王国ではカロリング朝の断絶後の
地方分権化をカペー家の歴代の王たちが中央集権の回収に向かい、
東フランク>神聖ローマ帝国では分権化が温存され、
部族大公>領邦君主の連合政権としての方向性が強化されていくことになる。
ザクセン戦争で征服された新しいヨーロッパ部分では
相当文明度に差がありそう
実際、文明度、人口、経済活動密度ともに
ネーデルラント>ラインラント>スイス>北イタリア
という土地の連鎖、いわゆる「ロタリンギア」地帯が
フランク王国旧領のなかで隔絶した地位を保ち続けるんだよね。
産業革命より前の段階で、この地域の人口密度は
旧西フランク、旧東フランクの主要部分より
ひとケタ高かったらしい。
結局、フランク王国分割後の歴史を大雑把に言うと、
西フランク>フランス王国と東フランク>神聖ローマ帝国が
ロタリンギアの領有、覇権を奪い合う歴史になったと言ってもいい。
それが、ポストモンゴル時代、ルネサンス時代に金融制度が
革命的に進歩すると、このロタリンギア地帯が独自の政治勢力として
台頭してくる。
最初は北イタリアの諸都市で、次いでネーデルラントで高度な産業社会が勃興、
両地域を結ぶスイスの峠道の関税利権が重要度を増す。
この流れで起きたのが、スイスとネーデルラントの独立闘争。
21世紀の今でも「ブルーバナナ」と言われていて、「長兄の国」エリアの経済・人口的中枢っぷりは健在だよね。
だが不思議なのは、このエリアが一貫して、エスニシティの境界地域であり続けたこと。
そもそもフランク王国3分割の段階で、ラテンとゲルマンの言語境界線は、現在とそれほど変わっていなかったはず。
ラテン圏もゲルマン圏も、よりによって端っこが一番発展していたことになる。
だから、後に「独自の勢力ガー」といっても、どうしてもここを中心にまとまらない。
無理に国を作ると、ベルギーのように宗教を揃えても言語的な分断国家になって政府が長期崩壊する事態になる。
結局、ロタリンギアで政治的独自性を樹立できたのは、
アルプスの峠道を押さえたスイス連邦と、北ネーデルラントから台頭したオランダだけだったんだよね。
特にオランダは近世ヨーロッパ初代の「ヘゲモニー国家」となり、投資、アウトソーシングによって
スウェーデン、ロシア帝国のみならず、大英帝国、アメリカ合衆国という次世代「ヘゲモニー国家」を生み出していくことになる。
日本で「万世一系の天皇」とよく言われるけど、フランス王室のほうがよほど一貫性は高い
カペー朝からヴァロア朝、ブルボン朝と王朝が交代したとされてるが、あれは本家の跡継ぎがいなくて分家から跡継ぎが出ただけであり、日本だったら特に問題とされないところだろう
そうですが、オランダやベルギーでフランク人としてのアイデンティティが
高まっていた時期はあったんでせうか
その点、ロシアでは、リューリク朝と血のつながりがない、単なる外戚でしかないロマノフ朝が王朝を建てた
結果的にそれが諸侯の独立性を高めて、神聖ローマ崩壊につながったからねぇ。民主的ではあるけど、あの当時だと争いネタだから。
それが西ゴートの後継者を名乗るのはおかしい
アラゴンはバスク(ナバーラ)だけでなくカタルーニャも包含していったからな
確かフランスのブルボン王朝の諸王はナバラ王国の国王であった訳だがどういう経緯でナバラ王位を継承したんだったっけ?
確か、フランスのカペー王家のブルボン家がナバラ女王に婿入りして、
それでナバラ王位を継承している。
むしろアラゴン王国はナバラの分家。
バスクは先住民族の中のエリート。
レコンキスタの初期の担い手もバスク。
ヒャッハーなゲルマン人の子孫だったから?
キリスト教の考えでしょ。異教徒に対する。
インディオは、スペイン人に虐○された人口より、彼らが持ち込んだ伝染病でタヒんだ人口が多かった
案外バスク人の比率が高いんだよなぁ。
バスク人は「山岳民族」という印象が強いが、実はビスケー湾を舞台に活躍した
海洋民族という側面がある。
中世にはバスク人によるビスケー湾捕鯨が盛んだったし、
北西ヨーロッパ人がカナダを「発見」する前からその沖合にバスク人漁師が
タラ漁に来ていた。
違うスペイン人だと思う。
バスクってちあきなおみの喝采の歌に出てくるスペインの事を歌った歌のようなんだけど、なぜか一致してないんだよな。
間違いないのに一致してない。
喝采の二番はスペインのある蔦の生えてる小さな教会。
名前をど忘れしちゃったけど、分かりやすい。
まぁ、14世紀後半から19世紀半ばにかけて、絶賛「小氷期」ただなかだからねぇ。
結果(バスク系だった)王や貴族もラテン語話者になってしまった
ほどほどでやめときゃよかった
九世紀末ごろの時点ですでにアストゥリアス王国内ではラテン系が多数派になったという
イスラム圏に長く入ってたおかげで、アラビア語からの語彙が多くなったけどね。
西ゴートもアリウス派の消滅とともにゴート語は消滅したし、
アストゥリアス王国やカスティーリャ王国では王や貴族はバスク語からラテン語に乗り換えていった
一方、ローマ人やアラブ人は先住民に自分達の言葉をしゃべらせていった
文明度の違いか。
アルプスを挟んで北のロタリンギアと南のイタリア。
上の方でも述べてるけど、当時、というより産業革命以前の歴代の時代を通じて、
この地域こそが、西ヨーロッパ社会で人口密度も産業活動密度もけた違いに大きい、
もっとも豊かで繁栄した地域だったんだ。
ライン川の沿岸から、北イタリアの平野にかけての細長い領域
そこは「黄金のバナナ」とも呼ばれる、ヨーロッパで最良の地
ビンゴ!
ロタールの国=ロタリンギア(ラテン語)=ロートリンゲン(ドイツ語)=ロレーヌ(フランス語)
貴重な財源の一つでもあったんかな?
発達した水運網もある。
黄金のバナナは、ドンキーコングだよ
その「ブルーバナナ」の南北ユニットを結ぶ交通の要衝がスイス。
ハプスブルク家がスイスを出発点に発展し、
ハプスブルク家が留守にしたスイスが独立するぐらいに力をつけたのも、
「ブルーバナナ」におけるスイスのポジションに秘密がある。
皇帝マクシミリアンがインスブルックに首都を置いたのも、それだな
領地を没収された「グントラム金満公」と同一人物と考えられている。グントラム金満公はアルザスを支配した
大貴族エティション家の傍系とされている。エティション家の起源はフランク族ともブルグント族とも西ゴート族とも
言われている。ざっくり言うと「みなされている」「考えられている」だらけではっきりと言えることは何もない。
ありがとう。ゲルマン系のいずれかなんだね。
関係ないけどYouTubeで「ケルト系音楽」とか検索して聞くと、中2病みたいな連中がケルト大好き!とか書き込んでるんだよ。
でも、笑えることにケルトについて全く知識が無いんだよな。
ケルト音楽ファンだからと言ってケルト民族に詳しい必要がどうしてあるのかね。
ハワイアンをうたってる人だって、ハワイイ人の悲しい歴史にはほとんど興味ない。
ケルティックもそうだけど、ゴシックも相当意味やイメージの一人歩きが激しいね
建築のゴシックの時点でゴート族とほぼ無関係だけど、その後の小説や絵画や音楽やファッション等のあれこれはゴート風とは一体何なのかという思いを呼ぶ
フォントのゴシック体は現代では簡素、対称的な部類の字体でゴシック建築とは正反対
ゴスロリファッションの人にゴート族の事聞いても何言ってんだこいつと思われるだけだろうな
どっちも”名高き戦士”って意味なんだな
彼の個人史にページを割いている日本語の書籍あれば教えてください。
ドイツ語の文献ならある
Andreas Fischer
Karl Martell
Der Beginn karolingischer Herrschaft
アンドレアス・フィッシャー著 「カール・カルテル~カロリング朝支配の始まり」
単独の評伝等はないが日本語で読めるものなら「あだ名で読む中世史~ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる」(岡地稔著、八坂書房)でカール・マルテルの「マルテル」はどういった意味かについて言及されている
図書館で借りて読んでみては?
ラテン系言語、東フランク王は古高ドイツ語で自国の兵士に演説してたそうですが,
高フランク語と,東フランクの住民が話してた古高ドイツ語との関係がわかりにくいような…
「両王はラテン語でも自国の言語でもなく、お互いに相手国の言語を用いて兵の前で宣言し、両国の兵は
それぞれ自国の言語で誓いを行った。これは、この頃までにカロリング朝フランク王国が東西に分裂した証拠と
考えられてきた。」
それぞれの王は相手国の言語で両国の兵に宣言した。東フランク王国の住民はもともと使ってた古高ドイツ語を
使った。のちのフランスに当たるガリアではゲール語が使われていたが、古代ローマに征服されて俗ラテン語が
広まってガロ・ロマンス語が成立した。ガロはガリアの事。ガロ・ロマンス語はラテン語の方言だったが、古フランク語の
影響で大きく変化して古フランス語が成立した。古フランク語はフランク族が使っていたであろうと考えられる
ゲルマン系の言語。
以上のことから古フランク語と古高ドイツ語とは関係ないようだ。
カール大帝やクローヴィスに因んでのことだったん?
↑のと違ってロタール系統の名前はドイツ語圏ぐらいでしか
見かけんような・・・
そして在命中に息子を分王国の王として任命。
王位継承の安定化を図ったが、この構造は学習者には覚えにくい。
キリスト教の聖人名が用いられる事例ってあったんやろか。
後者の場合はたいていゲルマン系言語由来の名前だと思うけどあえて。
メロヴィング朝時代については、文献も遺跡も極めて限定されていて残念
私も中世初期の史跡を訪ねてヨーロッパに出かけますが、西ゴートやカロリング期の建物はあっても、メロビング期のものはなかなかないですね。どこかご存じのところがあれば、教えてください。
創建がメロヴィング朝時代なのは、トゥールのサンマルティン教会、サンドニ、サンジェルマンデプレ(パリ)だけど残っておらず、
比較的残ってるのは、ヴィエンヌのサン・ピエール教会のようです。
厳密にいえば創建は西ローマ時代(5c中ごろ)だけども、
一部にメロヴィング時代の建築技術が反映されているようです。
ラテン系地域ではフランク語由来のBlanc系統が
用いられてるという・・・
まあイベリア半島のほうはゲルマン祖語まで遡れば
Blancと同源なゴート語に由来してるかもしれんけどw
Albひっくりかえしたんじゃね?
読み比べた人いる?
多すぎ
どちらもフランス読みのルイに
相当する名のフランク王なのに、
この人はフランス王のルイ○世に
カウントされて、
メロウィングのクローヴィス4人は
カウントされないのはどうして?
太陽王はルイ18世、ルネッサーンスの
漫才師は山田ルイ57世にはならんのか?
サムソンとデリラね
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7b/Solomon_J_Solomon_-_Samson_-_Google_Art_Project.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=elFDxrPTQrI
>>189
仏独伊に中立なら
ラテン語風に、ルドウィコでいいかな
霊威の象徴として王様だけが長髪で、
最後の王様がお払い箱になるときも
髪を切られたとのことだが、
カロリングのシャルル2世みたいに
王様が禿げたらどうすることに
なってたのやろか?
それって、旧約サムソンの故事からか
やはり禿頭王って名前がつくんじゃない?w
いや、禿げたら霊威もなくなった扱いになって廃位や退位すべしとされてたんやろか?てこと
カール・マルテル (Karl Martell) のMartellは
Latin語「鉄鎚」の意でよいの?
しかしカール・マルテルの侵略戦争により、古代的な姿は完全に
払拭されてしまった
人物を片っ端から○して成り上がっていったんだよな
481年にサリ族の王に即位し、その後リブアリ、上フランクの両部族を統合
500年にはブルグンド王国を制圧、507年には西ゴートを撃退した
498年にはランス司教レミギウスの手により国王として塗油を受けた
ブルグント王の血は全く引いてなさそうだな
怪獣と交わって生まれたとされる
日本神話でも、天皇家には海のサメの血が流れているとされていなかったっけ?
ワニですね
超自然的力を備えるものと信じられた
手をかざすと傷が癒えるとされたのも、そのためである
よって10人もの王のタヒの責任を負わされ、駱駝に結び付けられ、
四つ裂きの刑に処された
この時代はまだまだ野蛮だよな
ライバルのフレデグンドのほうが多くの暗○の裏で手を引いてたのにもかかわらず、
かの女は天寿を全うしたんだよな。
全く皮肉なことだな。
モデルになったとされる。つまりブルンヒルドが居なかったらワグナーが「ニーゲルングの指輪」を
作ることもなかったかもしれない。
一夫多妻を行っていた
クロタール1世とおそらくダゴベルトが同時に複数の王妃を持っていたし、
宮宰ピピン2世はプレクトルディスと離婚することなく、アルパイダを娶って、
彼女との間にカールをもうけただけでなく、別の妾も持っていた
ローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema, 1836年1月8日 – 1912年6月25日)は、イギリス、ヴィクトリア朝時代の画家。
古代ローマ、古代ギリシア、古代エジプトなどの歴史をテーマにした写実的な絵を数多く残し、
ハリウッド映画の初期歴史映画などに多大な影響を与えたと言われる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/Alma-Tadema_The_Education_of_the_Children_of_Clovis.jpg
『クロービスの子供の教育』(1861年)
王国を統治しているのだというタテマエになっていたのだよな
メロヴィング諸王が発給した国王文書の書体や形式は、皇帝府のそれではなく、
ローマ時代の地方属州政庁のそれを採用している
司教や修道院長がおおぜいいたとか
彼らは軍事遠征があれば喜んで武器を携えて出軍した
引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1518177516/
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