【三国志】司馬懿仲達という諸葛亮最大のライバルで晋朝の礎となった男を語ろう
司馬懿は曹操時代は軍務につかない文官、曹丕以降は将軍であって参謀職に就いたことは無い
今チャンネルNEKOで「三国志司馬懿~軍師同盟(邦題)」というドラマをやっているがその中で曹操が袁紹を滅ぼして喜んでいたら
郭嘉の部下が「軍師殿が危篤でどうしても陛下(当時魏王)にお会いしたいと申しています」と報告して
曹操が慌てて郭嘉のところに行ったら
「陛下をお呼び出しして申し訳ありません。どうしてもタヒぬ前にお伝えしたいことがありまして。
司馬懿の学問も智謀も私の遠く及ぶところではありません。それでも私が目を光らせていれば奴の力を陛下の為に使わせられると思って
この一年間奴に様々な圧力をかけてきました。しかし、私の命もあとわずかです。奴を野に置いておいて劉備や孫権に使えられたら手の施しようがありません。
お願いします。私がタヒんだらすぐに奴を処刑して下さい。」って言うシーンでその回が終わるのはインパクトがあった
ドラマの司馬懿がひたすら官職につくのを避けていたのは父や兄を政争に巻き込みたくなかったからと言う設定だが
他人の話を司馬懿に都合よくすり替えてばかりのドラマで
イライラしたから途中で視聴切ったわ
司馬懿と郭嘉って接点薄くない?
>父や兄を政争に巻き込みたくなかったからと言う設定
意味がわからない
最後までそのへんの意味が曖昧なままなんとなく進む
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%BF
司馬懿司馬懿(179年 – 251年8月5日)は中国三国時代に魏に仕えた武将、軍師、政治家で西晋の礎を築いた人物。
字は仲達(ちゅうたつ)。諡号は高祖・宣帝。
概要
『晋書』「宣帝紀」によると、司馬懿は苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内心、激しい怒りを抱いている時も、
表面では穏やかに振る舞ったという。
河内郡温県孝敬里の名門の出で、『史記』の著者司馬遷の遠縁にあたり、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王(或
いは晋王)・司馬卬(張耳の武将)の12世孫にあたる。代々、司馬氏は尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿
自身、幼い頃から厳格な家風の下に育った。博覧強記、才気煥発で知られ、「司馬八達」で最も優れた人物といわれた。
司馬防の次子。司馬家の八人の男子は字に全て「達」が付くことから前述の「司馬八達」と呼ばれた。兄に司馬朗(伯
達)が、弟に司馬孚(叔達)、司馬馗(季達)、司馬恂(顕達)、司馬進(恵達)、司馬通(雅達)、司馬敏(幼達)らがいる。
正妻は張春華で、司馬師、司馬昭らの父親。兄と同様に魏に出仕した。
司馬懿の才能を聞いた曹操によって度々出仕を命じられる。しかし、司馬懿は曹氏の濁流的な出自や、曹操の気性を厭い、その度に断ってきた。しかし曹操は、捕らえてでも連れてくるように、と命令したため、最後にはやむを得ず出仕した
(『魏略』という書物によると、曹洪に交際を求められた司馬懿は、訪ねて行くのを恥に思い、仮病を使い杖をついた。恨みに思った曹洪は曹操に告げ口した。曹操に出仕を求められると、杖を投げ捨て応じたともいう)。
出仕当初は文官として公子たちに仕えたが、徐々に軍略の献策などで認められるようになる。曹操が漢中を制した際、
その勢いで蜀を平定するように進言したが、曹操は「朧を得て蜀を望む(望蜀)」ことはしない、と言って、この意見を退け
たという。
217年、太子中庶子に任じられる。曹操は鋭敏に過ぎる司馬懿を警戒したが、曹丕は司馬懿と親しく、何かと彼を庇っ
ていた。司馬懿の方も、行いを慎んで陰日なたなく曹丕に仕えたため、絶大な信頼を得るにいたった。この時に、疫病で
兄・司馬朗を失う。
219年、蜀の関羽が荊州から北上して樊城を陥れようとした。この時、首都の許昌以南で関羽に呼応する者が相次ぎ、
曹操すら狼狽し遷都の議も上がった。司馬懿は蒋済と共にそれに反対。呉を巻き込んで関羽を倒す事を献策し、見事に
成功を収めた。
228年、諸葛亮と示し合わせ反乱を起こした孟達を討つ。司馬懿が赴任していた宛から孟達の任地である上庸までは、
通常の行軍で一月はかかった。司馬懿は丁寧な書簡を送って孟達を油断させた上で、昼夜兼行の進軍を強行し、わず
か8日で上庸までたどり着いた。城を包囲された孟達は、同僚や部下に次々と離反され、結局は斬られた。
231年、曹真がタヒぬと、その後任として蜀の諸葛亮と対戦する。蜀軍の食糧不足を見抜いていた司馬懿は、徹底的に
防衛に徹し、諸葛亮を撤退させる事に成功した。三国志演義では「タヒせる諸葛、生ける仲達を走らす」と言われる。
(「タヒせる諸葛~」の言葉は『漢晋春秋』が初出)
遼東では長雨が続いたため、遠征がさらに長引くおそれがあった。廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えたが、曹叡は
「司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。彼に任せておけば間違いはない」と言い、取り合わなかった。
魏の征討に対し、公孫淵は孫権に援軍を求めた。そのとき、孫権はこんな書簡を送っている。「司馬公は用兵に優れ、自
在に使うこと神の如しという。そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ」と。公孫淵はこの後、司馬
懿が下策と評した籠城を行って大敗した。人質を差し出して助命を嘆願しに来た公孫淵の使者へ、司馬懿は興味深い発
言を残している。「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降
るかタヒぬかだ。貴様らは降伏しようともしなかったな。ならば残るはタヒあるのみよ。人質など無用」
こうして司馬懿は公孫淵父子やその高官たちを斬り、遼東の制圧に成功したが、凄まじいのはその後の処置である。中
原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司
馬懿は15歳以上の成年男子を皆○しにし、その首で「首観(観は楼閣の意)」を築いたという。「晉書」では「王朝の始祖た
る人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。
権力独占を狙う曹爽の画策により、一時名誉職の太傅にさせられた。この間の241年、呉の朱然らが樊城を包囲すると、
自ら進み出て軽騎兵を率いて急行し、迎撃した。司馬懿は呉軍に勝利し、243年にも呉の諸葛恪を破った。一方、244年、
曹爽の蜀漢出兵は失敗に終わった。
その後、中央では隠忍自重し、247年には病気を理由に引退したかに見えた。さらに、曹爽に対しては、その一派の李
勝の前で、年老いて衰えたように見せ油断させた。(李勝が言っていることをわざと聴き間違える、薬を飲むときにわざと
こぼす、など)249年に曹爽が洛陽を留守にした機会を見計らってクーデターを起こし、郭太后に令を出させて曹爽一派を
逮捕させた。そして、降伏した曹爽一派を殺害。魏における全権を握り、丞相となった。
251年、王淩らの企てた、楚王曹彪を擁立するクーデターを密告により察知した。司馬懿は証拠を握ると、硬軟両面で王
淩を追い込み、降伏させた。王淩は司馬懿が自分を殺すつもりであることを悟り、自殺した。また、曹彪も自殺を命じられた。
この事件の後、魏の皇族をすべて鄴に軟禁し、互いに連絡を取れないようにした。
こうして全権を握ったものの、司馬懿自身は同年にタヒ去し、遺言に従って首陽山に埋葬された。後に孫の司馬炎が魏よ
り禅譲を受けて皇帝となると、「高祖宣帝」と追号された。
曹氏が漢から簒奪するときとそれほど変わらないだろ
その点、司馬懿は魏の領土拡大に多大な貢献をしたわけでもなく、主に領土防衛や反乱鎮圧で地味だから、かえって簒奪のマイナスイメージが目立つんじゃないの。
曹操は別に王莽みたいに漢朝の領土と統治機構をそっくり奪っていったわけじゃなくて、漢朝の権威を借りただけで殆ど自前で国を創ったりわけだしね。
一概にソウソウとかと対極とは言い切れんわな
マルチなイメージがある
結果的にそのレールを敷いてしまっただけで、息子は真っ黒だけど。
ただ曹丕・曹叡の頃は真面目に忠実な家臣やってる
曹丕は恩人だし友人だしな
曹爽の目を欺くためにボケたふりしたとことか、
王淩を誘き出して自○に追い込んだとことか。
・神格化されていた諸葛亮に勝ってしまった。
・西晋の時代に異民族が暴発してしまった。
こんなことで悪く書かれてているのかな?いや、的を射ていると思うが、
フォローはなかったのかね?
諸葛亮のせいでそうなれないんだよな。
諸葛亮の敵役じゃなかったら、司馬懿なんてもっとマイナーだったろう?
その場合は
司馬懿>>>>>>>>>>>>>楊堅・李淵
になる
演義では対孔明で何度かタヒにかけるんだが
正史ではどうなんだろう
そしたら刺すしかない
仮に仮病でタヒぬまで切り抜けられたとしても、
息子達に未来はない
それもこれも頭数ばかりでとんと能力のない曹一族が悪い
しかも、俺達はお前より能力ないけどお前より偉いから俺達の面子の為にお前没落しろってのが目に見えてる
モロ弱肉強食な意見で恐縮だが、クーデターとどっこいだよ
印象操作の為の後付けのような気もするが
ただ出仕した以上は登り詰めてしまうと自覚して、先を見据えてたのかも知れないな
腹黒いかどうかは別として
ただの聡明なリアリストだよ
演義に頼らずとも、それなりの存在感はあったのでは。
いい意味での曲者だよ
それが司馬懿の魅力だよな
まあ確かに放置できない問題だから手を抜く訳にはいかないな
断るのも立場が悪くなりそうだし
でもまた出世してしまうな
国民的英雄になってしまう
めんどくさいことになるんだろうなあ
そのときはそのときで仕方ないかあ
以上、いい意味での曲者の苦悩でした
ダメダメ公務員みたいだな
なんだそのヤン・ウェンリーw
司馬懿も簒奪しなかったと思われ
その場合、賈充さんや鐘会さん達はどうなったんだろう。
真面目な宮勤めしていたかな。。。
第73集 『祁山闘智』諸葛亮、司馬懿、宿命の知謀戦
第74集 『諸葛妝神』諸葛亮、鬼神を演じ司馬懿を惑わす
恐らく、司馬氏の専横にあれだけ協力したのもマザコン故に曹氏を憎んでいたからだろうしな
性癖がアブノーマルな腐女子として歴史に残っただろうな。
(1)賊・敵などあやしい者。
→魏に対して
(2)一筋縄ではいかない人。ひとくせある人。
(3)油断のならないもの。気の許せないもの。えたいの知れないもの。
(4)なみではない人。
(5)妙手。異能の人。
→そのとおり
(6)ばけもの。怪物。
→首が180度回る
全部当てはまる司馬懿は異常
だがそれもまた司馬懿の魅力
隠そうとしても滲み出て目敏い奴にバレたってんじゃないと魅力を感じない
それが司馬懿なんだよな
ほかにそういう人物中国史でいる?
陳平
陳平は呂后が実権握っちゃったんで、自重してたね。
その辺は唐初期の李勣と武后(則天)に近いかな。
司馬懿のクーデターは幼帝の母后の支持を得てやったわけだけど、母后が司馬懿に政権を任せたのが運命の分かれ道だったのかな。
三国志で誰が一番曲者っぽいかと言われたら司馬懿が一番かな
韓信ははっきり劉邦とかけひきの前科を作ってしまったし
あの宦官は曲者かどうか以前に一気に好機を得た
司馬懿の方が曹操よりは善人なんじゃないの?
魏の鎮圧将軍として
あの程度なら、曹操の徐州虐○に比べれば児戯みたいなもんでしょ。
今、貴様らは逃げることすらもできないのだ。これが五つ目の道だ、タヒね。
↑これ、演義で司馬懿が公孫淵の降服の使者に言ったセリフね。
それ少し違うぞ。
『戦には五つの要点がある。
戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、
守れなければ逃げる。あとは降るかタヒぬかだ。貴様らは降伏しようともしなかったな。
ならば残るはタヒあるのみよ。人質など無用。』
のはずだ。
カッコイイセリフだ
漏れもそう言ってみたいものだ
わしも大した千両役者よ
そもそも表舞台に出たがらなかったんだし
引きずり出されて頼りにされる度に嫌々出世して
その結果警戒されて仕方なく曹家を潰したとかありうる
晋がなければ五胡時代も訪れず・・??と考えると司馬氏てすごい
晋どころか蜀に呑み込まれ・・・
なわきゃないか
でも司馬懿って曹丕にとっては臣下というよりも親友に近い間柄だったと
聞いてる。
誰から聞いたんだ?
曹丕の腹心にでも聞いたような口ぶりだな。
四友のことだろ
司馬懿は、ほんとに曹丕が短命なのが痛いと思ったのかな。
もしかしたら司馬懿が秘密裡に暗○したのかもと思ったりするのだが。
曹叡は袁氏の血筋という話もあるし、アフォぞろいの曹氏を排するには、
これしかなかったとも言えよう。
曹叡の袁氏説は兎も角として、曹丕以外と司馬懿はそう上手く行っていたわけではないし、
師、昭兄弟と曹氏歴代皇帝は言うまでもなく不仲。
少なくとも曹操と曹叡とは司馬懿を煙たがっていた節がある。
曹操は乱暴な手段で部下にしながら、夢占いから曹丕に警戒するよう述べた言葉がある。
曹叡も曹丕に「司馬懿を父と思い、疑ってはならない」と遺言されながらも、
蒋済、孫礼ら親しい臣が司馬氏、劉放・孫資の権力掌握を懸念する上奏の記録が残る。
また曹叡は、一度は曹芳の後見人を近親者で固めようともしている。
これらを踏まえると、司馬懿にとっては曹丕が主君としてベストだったと思われる。
理路整然とした解説サンクス。
司馬懿は曹丕の郭皇后とうまく行っていたようだから、曹叡もおもしろくないよね。
そういえば竹林の七賢の山トウの一族が司馬懿の正妻だけど、
学者関係にも人脈あるの?警察庁長官の一族だよね。
それと、司馬亮とかを生んだ側室って、どういうところから選んだの?
孫権は晩年、側室を政治犯の娘から選んだって書いてあったから、
司馬懿もそんな感じ?牢獄から救い出されて権力者の側室になるのは若い娘
にとっても、そう悪い話でもなさそうだよね。
八達の母が全部同じとも思えない。朗懿フしかメジャーじゃないし。
嘘はいかん
いきなり呼び寄せてから司馬懿を太子筆頭候補だった嫡男に付けるのはどう見ても無警戒
次に曹叡も司馬懿は頼れるおじさん扱いしてる
警戒してたら荊北の責任者→西部戦線の責任者→東北討伐の責任者なんて要職を次々と任せない
警戒するよう上奏有っても罷免されてないってことはそんだけ信頼されてたってことだろ
主君としてはリアリストな曹丕がベストなのは間違いないが他の面々とも上手くやっていけるさ
曹操は曹沖がタヒぬと周不疑を「制御できない」という理由で○してる。
個人的に信頼してるからこそ太子に付けてる、という訳じゃないと思われ。
曹叡については信頼する一方で監視を怠らなかった、という見方も否定できないのでは。
それって別に仲悪いんじゃなくてフツーの君臣関係じゃん
普通の君臣関係=信頼関係でもない。
そらそうだ
ただ>>104は「司馬懿は曹丕以外と上手くいっていなかった」って言ってるからさ
上手くいってないってことは普通の君臣関係より悪いってことだろ?
あと気付いたのだが>>112で周不疑を制御不能だからと○してると言うが
冥婚まで曹沖の為に執り行ってる曹操なんだし殉タヒを強制的に行ったのかもしれんよ
まあ一方的な信頼というよりは、信任しつつもちょっと疑ってる部分もあるって方が正しいかもしれんね
でも>>104のように上手く行ってないってのはどう贔屓目に見ても嘘だろう
殉タヒを強制的に、って…王莽かよw
まぁ、上手く行ってなかったら罷免するわな。
曹丕の時よりも上手く行ってたとは思えないけど。
曹丕時代には司馬懿について部下が諫言する上奏の一つも無いしね。
それは定説
だって最終的には権力掌握に成功したんだから
特に呉質と陳群が。
誰も四人皆で仲良しこよしだったなんて思わんだろ普通
KOEIなんかは真に受けてるから困るんだぜ…
構ってくれた郭嘉がタヒんで、大好きな義理の父荀イクがタヒんで、
新たな友達というか構う相手として呉質を見つけたのではないかと推測。
陳羣も司馬懿も大好きだよ。
孚と懿は一つ違いだから孚の誕生日によっては異母兄弟の可能性がある。
上三人とは結構歳が離れてるっぽいところとか、
晋建国以前はどうにもパッとしないところとか。
(建国以後も、パッとするのは彼らの子や孫だし。)
同時代では荀ユウが似ていると思うことが。
両者、処世術が女性的で似ているなと。
そういえばここで話題の司馬懿の君主との人間関係、
今週読もうとした本のどれかにちらりと書いてありました。
唐時代か、明、清時代の本だと思うのですが、いっぱいあるので
特定できず。特定あいたら、あらすじ書きますが、どうも、後世の
中国人(作者)によると明帝との関係も良好との評価が・・・・・。
思いつかない
ただ曹芳時代になってから野心を剥き出しにした気がする
それが果たして曹操時代から隠してたものが幼帝になって発露したものか
それとも幼帝だから自分が天下を治めるべきと思ったのかは微妙なところ
高堂隆が明帝に司馬懿を警戒するようにと進言している件について
陳矯の方も、「朝廷の望ではありますが、社稷については知りません」とぼかしてるし。
全然違う
だいたい中央の名族の出と自分以外一家全員が餓タヒして
乞食坊主から成り上がった貧民じゃスタートラインが違い杉だな。
農民には慈愛を注いだ朱元璋、貴族門閥重視の司馬懿。
乞食から戦い強豪を下した朱元璋、国を内部乗っ取りの司馬懿。
詩文や書に才能のある朱元璋、詩文に関しては馬○丸出しの司馬懿。
コンプの塊の朱元璋、士大夫としての自負全開の司馬懿。
恐怖政治だが方向逆だし。
司馬懿は王朝の始祖としてはあんま個性あるキャラじゃないな。
師、昭が優秀じゃなかったら西晋成立は司馬懿の生涯単独じゃ
結構厳しかったかも。
別に天下取ってやろうなんて思惑は元々無かったっぽくないか?
曹操に召し出されるまでの経緯とか門閥重視して寒門を軽んじるような傾向から察するに
出自の恵まれっぷりからくるプライドの高さゆえにそれが全てに優先してて、
人には出来ない新しいことをやってやろうとか見返してやろうみたいな、
博打を打つ動機になるようなハングリー精神やら理想はそもそも持って無かったっぽい感じだ。
でも、恩人である曹真の一族皆○しはひどすぎる。
近いって思うのは南朝斉の始祖・蕭道成かな
でも蕭道成の方が人間味がある。
あとは北周を専横した宇文護か。
人物評価は、蕭道成>司馬懿>宇文護って感じかな?
曹操、諸葛亮とは能力的にはともかく、人物的には比べるべくもないと思う
「下品」と評したが、司馬懿の詩については評価の項すら設けてなかったとか。
評価の対象外だったのかねぇ?
司馬懿の詩作自体黒歴史でなかったことに
専攻してる専門家以前に、逆に今は書籍や解釈が進んでるしね。
俺も少しわかるけど、司馬のは当時からすると相当型遅れだね。
俺的な表現だと、メインストリームでギャングスタなHiphop流行ってる
中、演歌や濃いカントリー歌って最新だと思ってるおっさんて感じかな。
当時の文化人なら失笑もんかも。 彼は文化人ってのからは遠いね。
専門は軍属だから彼にとっちゃ不要だけど。
ここら辺の洗練されてないところが情緒さを感じさせない
お前はタヒねと言って使者を切る、虐○を誇る等彼の冷徹な性格を感じるな。
洗練されたオサレなやつらを笑ったものとして、この詩を作ったのかも。
> 俺的な表現だと、メインストリームでギャングスタなHiphop流行ってる
> 中、演歌や濃いカントリー歌って最新だと思ってるおっさんて感じかな。
カントリーなら若い奴でも聞いてるぞ。
三曹や司馬の詩を音で聞いてみたい
それは知ってるけどいいたかったのはそれほど司馬の詩は当時の感覚で
時代遅れだってことさー。
それでも好き嫌いは個人の感性だけど詩自体上手いとは言えないな。
本人もあんまりそういう事には興味なさそうだけど。
そういう奴が三曹を滅ぼすわけだから歴史の因果を感じる。
軍師の職に就いた訳でもなし、曹操の参謀らしい仕事で目立った訳でもない
蜀と戦った時はむしろ軍師の辛ピに掣肘されてる
呉蜀を二虎競食にかけた手柄の一部は司馬懿のものだが?
ライバルが将軍タイプだったら将軍って呼ばれてるだろう
子供は普通母親側につくだろー。
郭ワイんとこもそんなんじゃなかったっけ?
司馬一族が魏の全権を掌握するに至ったのって、曹爽にも多分に原因が
あるだろうし、曹叡の生前にそこまで大それた考えを持っていたとも
思えないな。
>>180
郭淮の妻が王凌の妹だかで、連座しかけた際に息子たちが父親に嘆願し、
結果郭淮が折れて、司馬懿に助命を嘆願して許されたという話だったかな。
「孝」にまつわるエピソードは母親と子どもという話が多いよね。
徐庶しかり、劉曄しかり・・・。
抱き込むって・・・張春華の件はまだ息子が幼いときじゃ?
くだらん夫婦喧嘩だし、もし息子が賢く自立した大人だったら
自分の身まで犠牲にする真似はしないんじゃないかな
たかだか嫉妬婆のために命投げ売る性格じゃないだろ、特に長男
当時はマザコンがデフォだから、長じてからでも何ら不思議じゃない
郭淮の妻のエピソードや、劉曄の母のエピソードなど、基本的にこの頃の
人間の「孝」の考え方としては、父親<<母親という感じなんだよね。
姜維の親を捨てたエピソードというのはかなり異質だし、彼の末路を
考えた時、辛い評価を下したがる人からすれば「さもありなん」
という感じになるんだと思う。
>>185
曹操や劉備はわずかな兵力からスタートし、大勢力に相対して力を
付けていく「国盗り物語」的な面があるけど、司馬懿の場合は、権臣
一族による簒奪劇という面が強いからじゃないか?司馬昭や賈充については、
英雄然とした面よりもエグさばかりが目立っている感じだし。
そうだよな。いくらなんでも戦だってあるのに、大人なら
司馬師が自分の健康をわざと損なうような真似すると思えない
やっぱり子供の頃に脅して食べさせなかったんだよ
あんな児童虐待マジキチ女が司馬懿の妻で、最初知った時ガッカリした
最強とか言ってる奴にとっては狂ってることが強さなんだろうな、それは弱さなのに
ぶっちゃけ張春華って司馬懿と全然釣り合ってない
蔡文姫か王異みたいな人と結婚してほしかった
忠臣として簒奪の批判をかわすためというのも大きいだろうが。
曹操が警戒したのは自分と似たようなものを感じたのか。
それにしても人気がない・・
周瑜にしてもしかり。司馬懿は周瑜に近いってのが妥当なんかね。
やっぱ性格悪いからか
一代でやってる簒奪者が史上には他に結構いるんだし
実績としても、他の「簒奪者」と比べると地味
んじゃ普通の軍人としての実績も地味だし
字も読めない池沼に名指しで批判されたりしてるし結構悲惨
後に劉備が蜀ゲトして戦乱が長引いたことを考えると
難しくても攻めてた方が良かったんじゃないの?
司馬懿「あんな辺境の地いらねっすよ。今熱いのは荊州っす」
劉備入蜀後
司馬懿「やっべやべやべ。諸葛亮あいつ調子乗りすぎだし。シメるべ」
てこと?
司馬懿は恐妻家ではない。ソースはデタラメで有名な晋書だし、
家の中の、家族しか知らない秘密を他人が知ってて
史書に書かれてるのはおかしいから、張春華は○人も断食もしていないと思う
ばばあ氏ねばいいよ、とかも言ってないだろ
曲筆だろあれ。書くネタが無いから創作しただろ
歴史捏造も甚だしい
晋書のガセネタのせいで司馬懿が誤解されてるのが苛々する
晋書を真実だと思ってロクに考察しないゆとりがうざい
あと司馬懿と張春華が相思相愛と思ってるゆとりがいたら即ツッコミ入れてる
仲良い逸話なんか皆無
晋書の捏造記事すら険悪なものだし、側室はいるし、
墓は別々ですが何か?ってな
しかし大戦カードのせいで増えたゆとりに、いちいち
晋書の信憑性の事から記述の矛盾まで教えてツッコミ入れるの疲れたから
ここに本音書いておくわ
司馬懿いなかったら孔明に滅ぼされてたかもな
というかむしろ司馬懿が魏の滅亡の一因では?
もししていても局地的勝利で滅ぶくらいの国力差じゃないよ魏は
大敗が一度や二度あっても揺らがないだろう
数十年三国時代が伸びることになったかもしれない。
西方に振り向けられる兵力が蜀の遠征軍と同程度かそれ以下しかないんだから
これがもし完膚なきまでに殲滅されれば長安が守れなくなり、すなわち司隷が揺らぐよ。
そこから蜀呉の同時攻撃を受けたら、魏は京師固守の賭けに出るか北へ遷都かの選択を強いられる。
部下の将校が「何故これだけの大軍がいるのに攻撃しないのか」と詰め寄った話があるが。
孫権が同じ頃合肥で曹叡が援軍に来ると聞いて退却してしまっている。
魏の力はこの頃、呉と蜀の同時攻撃に十分耐えられるように見える。
逆に、231年では洛陽から急行した司馬懿に対し、手勢を分けて隴東に防備を置くように進言した将の意見を退けて、
「それでは諸葛亮に対抗し得ない」と全軍を隴西に振り向け、それでも張コウが慎重策を主張して決戦を避けている。
234年では蜀呉の同時攻撃に朝廷が動揺し、「あの」満寵が寿春への後退を進言する事態。
明帝は司馬懿に出戦を戒めつつ、親政を強調して動揺を収めている。
慎重策をとって時間差を付けつつ、兵力配分と敵の兵糧切れ狙いで各個に撤退を誘わなければ凌げない時代。
魏による蜀併合が紳士的に行われた ってのがツマランかった。
光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。
(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、
日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、
孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」
「朕若逢高皇、當北面而事之、與韓彭競鞭而爭先耳。
脫遇光武、當並驅于中原、未知鹿タヒ誰手。
大丈夫行事當礌礌落落、
如日月皎然、終不能如曹孟德、司馬仲達父子、
欺他孤兒寡婦、狐媚以取天下也。朕當在二劉之間耳、軒轅豈所擬乎」
「高皇に会ったら、(その部下となり)韓信や彭越と先陣を競うだろう。
光武に会ったなら、互いに中原の鹿を追い(天下を争い)雌雄を決するだろう。
(しかし)大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、
日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳や司馬仲達父子のように、
孤児や寡婦を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」
曹操の子孫は司馬衷や司馬倫よりはましだろ
司馬懿が九品官人法を作った設定とか酷すぎ
引用元: https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/chinahero/1167793942/
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