【会津若松戊辰戦争150周年】戊辰戦争は終わっていなかった
【会津若松戊辰戦争150周年】戊辰戦争は終わっていなかった crying blood
・泣血氈(きゅうけつせん)crying blood rug
2019/11/20
大君の義、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以って自ら処するべからずー
これは会津松平家初代藩主保科正之が定めた会津藩の精神的柱である「家訓15ヶ条」の第一条です。九代藩主松平容保は、この”徳川将軍家には絶対に忠誠を尽くさなければならない”という信義を重んじ京都守護職に就きました。しかし、変革期の激動の渦に巻き込まれ、「大政奉還」で幕府が政権を朝廷に返した後、旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が勃発。会津藩は、「信義」の精神から始まり、「正義」貫くための戦いだったのです。
「賊軍」の汚名を着せられ、白虎隊の自刃をはじめとする数々の悲劇を生み、一ヶ月に及ぶ籠城戦の末1868年9月22日に降伏することとなりました。
・賊軍とは、「官軍」の対語で、日本史上その軍の正当性を否定する言葉。天皇の意思にそぐわないとされた側の軍のこと。
http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/
文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を行った。
後世への影響
近年でも以下のようなエピソードがあり、現在でも福島県会津地方の人々が、遺恨や因縁の例として上げられる事が多い。観光史学も参照。
西南戦争では、多くの会津人が薩摩の巨魁である西郷隆盛への恨みを晴らすために、政府軍に志願したといわれる。また会津藩出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など、薩摩藩出身政治家の非業のタヒに対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている[14]。
会津地方では、親から「長州の男との結婚だけは絶対に許さん」と言われ続けて育った子供がおり[15]、国道49号についても「明治時代に制定された会津を通る国道が縁起の悪い「49」にされたのは長州の嫌がらせだ」と真顔で述べる住人がいる(なお、会津に国道が制定されたのは明治ではなく昭和であり、国道49号が誕生したのも1963年である)[16]。
1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は『まだ120年しか経っていない』と、これを拒絶した。
2007年(平成19年)山口県の衆議院議員で山口県第4区選出の安倍晋三は、内閣総理大臣として会津若松市を訪問した際に「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った[16]。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災において、会津若松市は萩市から義援金や福島第一原子力発電所事故避難者用の救援物資の提供を受け[17]、会津若松市長が萩市をお礼の意味で訪問したが[18]、会津若松市長菅家一郎は「和解とか仲直りという話ではない」と述べた[16]。また、福島第一原子力発電所事故に於ける放射性物質の除染作業に、自衛隊の山口県の部隊が携わった際には、部隊長が福島県知事に直々に作業報告に出向いた。
2013年(平成25年)に放送された、NHK大河ドラマ「八重の桜」では、幕末の会津藩が舞台となっており、会津戦争のシーンでは、実際の歴史ではほとんど参戦していなかったはずの長州藩が鬼の如く会津に攻め入ったかのように描かれていた為、山口県民からは不評を買っていた[20]。
(抜粋記事により全文はこちらへお願いします。)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B4%A5%E6%A6%E4%BA%89
朝:朝のマラソン、朝の歌、あいづっこ宣言
昼:放送飯野企画した放送
で行っています。4月の朝の歌は「校歌」と「散歩」です。放送に合わせて各教室から元気な声が響いています。続いて綾瀬はるかさんの声で「あいづっこ宣言」が流れます。昨年からずっと復唱しているので、二年生以上はしっかり唱和できます。
https://youtu.be/mGZ3BlGk-Lo
https://aizuwakamatsu.fcs.ed.jp/blogs/blog_entries/view/591/e46be55e8e864ecc31100d6b1fb162d1?frame_id=307
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引用元: ・【会津若松戊辰戦争150周年】戊辰戦争は終わっていなかった crying blood
数年前にテレビ番組で和解とか言って無かったか?
そうそう、池田屋事件の時は配下の新撰組が天皇からも褒美貰ってる。
孝明天皇はもともと佐幕寄りの公武合体派。
>>20
会津はそこを勘違いしとるのよね
天皇個人の意思を尊重し過ぎ、明治前までは御所に出る事さえない人の意見
江戸時代行幸は3回ぐらいしか無かったらしい、その2つは孝明天皇だけど
天皇は人であって人でない、それを理解し上手く活用した人が歴史の勝利者となった
後白河法皇、後鳥羽上皇、後醍醐天皇
天皇個人が暴走すると朝廷が弱体化する結果となった
今現在のような個人の意見を言わない天皇こそ、理想的な天皇なんだろう
大政奉還後に京を離れ大阪城へ行き、天皇を手放した時に戦ってはダメだったんだ
第二次長州征伐以外、自軍に天皇がいない軍は負けた
蛤御門の長州、戊辰戦争、西南戦争などの各地の武士の反乱
第二次の長州は決して自ら攻めて行かず、攻められたので防衛した
小倉や石見方面へは攻めて行ったが
あくまで防御という姿勢を取り、無用の戦を仕掛けられたとアピール
長州征伐と東北戊申戦争は、明暗分ける結果となったが、そうなる違いは結構あったと思う
孝明天皇は禁門の変で長洲藩や公家の尊皇攘夷派を追放して
蛤御門の変までは会津と薩摩に御所を守らせたりしていたけど
その後の薩長同盟から潮目が変わって
明治天皇は薩長の言いなりだったから
こう言った地域対立煽りって、今の地元民何とも思ってないのに外野が囃し立てるんだよな
地元民の迷惑考えろっての
地域対立なんかここだけじゃないし、この手の物は永遠に解消されないだろ。
津軽対南部、前橋対高崎、南信対北信・・・
歴史に由縁する恨みつらみは、人が住んでる限り永遠に続くよ。
激しく同意
一番怖いのは強い敵ではなく
信用出来ない弱い味方だしなぁw
三春藩の事ですね分かります
新発田藩の事ですね、わかります
>>25
秋田県民歌は3番のこの歌詞↓
錦旗を護りし 戊辰の栄は
矢留の城頭 花とぞ薫る
↑が久保田藩限定の事情なので歌われなくなったという
現在の秋田県には、南部藩と亀田藩だった地域も含まれているから
ttps://machi-log.net/?p=33290
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%B0%E7%9C%8C%E6%B0%E6%AD%8C
津軽、久保田、三春藩の事か?この三藩は列藩同盟の中核藩と犬猿の仲だから
自業自得錆とも言えるが。
大正デモクラシーやモダニズムが栄えていたハイカラだったし
東北への忖度抜きで事実を簡単に書くと
金に困ったバ○殿が京都守護職の役料に目がくらみ
海外から圧力かけられている日本をなんとかしようとしていた長州藩を後ろから攻撃して成り上がるが
長州藩が幕府を返り討ちにした後に
被害妄想こじらせて挙兵して袋叩きにされただけの話
長州藩を持ち上げすぎ。
早タヒにした世代はともかく、その下の明治元勲世代なんか汚職まみれもいいとこだろw
たとえ汚職しても国を発展させた功績のほうが遥かに大きい
江戸幕府の無能どもに井上馨の代わりが勤まるとは思えないがな
これって政府の参議に大隈、
大久保、西郷等ついても、その中で
派閥ができてて、対立派閥を朝鮮に兵士を
送るかどうかを巡って、野に降らせて
軍隊を送って滅ぼすとか内紛やってるよね
>>52
長州閥にも政治主導で伊藤博文と軍部主導の山縣有朋とその中間の井上馨の派閥があって
伊藤は芸者遊びで借金抱えて持ち家を手放さざるを得なくなり税金で公邸を用意させるような人間だし
後ろ二人は汚職に事欠かないという性格面には大きな問題があった
しかし各人国を良い方向に導いてくれた
>>57
結果的に彦根が持ち逃げしたので会津藩は大赤字になったというだけで
バ○殿は彦根藩が解任された京都守護の役料や南山御蔵入領をあてにして京都守護の任を引き受けている
松平容保という男はもともと彦根の井伊直弼には後見人をつとめてもらうほど生前目をかけてもらっていたにもかかわらず
彦根が田を収穫後に明け渡したことに腹を立てて一会桑政権下で彦根に報復するような人だった
神仏習合は共にスメラギイヤサカをおこなっていて
幕末当時の宗教勢力には皇室や武士道を異文化として活動しているところから、危険視していたんだろうね
いたくらいだ。大部分は維新後去ったしな。何で今の会津市民が怒ってんだかよく分かんねえぞw
重税に苦しんでたから降伏した松平容保が江戸に送られても見送りするやつは皆無だった
1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は『まだ120年しか経っていない』と、これを拒絶した。
↑これなんだけどさ
萩は観光振興の為に会津に声かけてきたんだよ
そら会津人は怒るわな
その後は何に対する義なのか
朝廷は新政府軍に錦の御旗を許して、
徳川慶喜は戊辰戦争では戦場放棄して自ら謹慎、恭順の意思を示してるたというのに
維新派の武士を拷問したりしていたから、
報復されると思って捕まらないように必タヒだった
どう考えても無能な上司のせいで負けたのに
これだから腐れ儒教はダメなんだ
その通りなんだよな。農業以外にろくな産業が無いから、観光のためならなりふり構わないのが現状だ。
会津出身で都会暮らしだけど、故郷を離れていると嫌なところばかりが目についてしまう。自分が会津出身だと分かると「今でも長州とは仲が悪いんだって」と聞かれることが多い。
こっちは恥ずかしいから、顔を赤くしながら観光のため観光のため…と否定するのが常になってる。
光市の事件を忘れたとはいうまい。
官軍が乗り込んだ時は会津や周辺各藩の民百姓が喜んで手引きをしたのは有名な話だな
土着農民の子孫が被害者ヅラするのはおかしな話なんだよ
地域に根差す恨みというのは、そう簡単には風化しないのが当たり前。
地域社会を完膚無きまでに破壊するほどの戦禍が、その地域の文化に影響を与えない訳がないんだから。
それをわざわざ朝鮮人扱いしてる奴は、世間知らずなだけなんだよ。
戦場になった場所や敗退経路にいる邪魔者を排除するのも目的のひとつ
この手の話が信じられなくて、知人の福島県人会の方に話聞いたらガチだった。
で、念のため他県の福島県人会の方に話聞いたらもっと酷かった。
友達の山口の奴に聞いたら「会津?何それ美味しいの?」って返事だったw
やられた方は絶対忘れないって事だな。
だってなソビエトのベルリン突入と同じ
長洲は会津で略奪 凌辱の限り尽くした
まるで長洲は韓国人のように
まるでベトナム戦争の韓国人のように
特に戦後の権力者のほぼ全員処罰は権力構造の混乱と経済の立ち遅れで、戦後日本の近代化に完全に取り残されて致命的だった
今みんなが持ってる東北の田舎イメージって戦後そのままなんだけど、誰も疑問に思わない
戦争は勝ったものが歴史を作るっつって第二次大戦から未だ日本は枢軸国扱いだけど、国内でも同じことしてるんだよ
むしろ東北と沖縄の優遇が目に余るのだが・・・
発展していないのは国の支援不足ではなく住民の努力不足によるところが大きい
その現実が受け入れられないから外に原因を作ろうとする
冷遇と言う捉え方もあるが、東北は寒冷地で南北に長ったらしいゆえに
東北の各県、各地域ごとに合った農業技術の開発普及は永らく難しかった
(欧米伝来技術に明治政府が振り回されてしまったせいもある)
だから戦前は東北で貧農がやたら多く、多くが義務教育止まり、
産業化に必要な人材が全然育たない、となって遅れた面も強い
会津藩は、新撰組の親玉としても有名ですな゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○プハー
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『宰相桂太郎』(光人社NS文庫渡部)
■1848-1913。長州藩百石取家に生まれた。日露戦争時の首相。首相在籍2886日最も長い。
■鳥羽伏見の戦いではライフル銃隊中隊長。
幕府軍の銃は射程100m、長州藩は500mで勝負にならず。
■戊辰戦争は全体で9000人ほど人命損失があったがその7割以上が東北での戦い。
桂はこれに参加。
そういうことにした方が被害者としての悲劇性が強調され、
その悲劇の歴史が会津の観光資源となってるから、
会津の連中は今でも忘れないってことにしてるだけ
本当は長州のことなんて何とも思っちゃいない
会津藩がボロ負けした時には領民は泣いて喜んだという話だし。
板垣退助は、会津領民が官軍の道案内や荷物持ちして駄賃を貰ってる姿を見て
軍人でなく政治家を志向したとか。
赤穂の論争も未だ続いててる
松平容保の首を差し出せと強硬だった世良修蔵は長州だぞ
ただ世良は幕末には有名だった秀才でドラマで描かれるような粗野な男ではなかったようだが
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